母の帰還
その存在に気付いて、何日が経過したのか。
ようやく、シーパルは女性の元へ辿り着いた。
長い緑色の髪に、青白い肌をした女。
まるで、宙吊りにされているかのように浮かんでいる。
シーパルの顔の高さに、女性の腹部はあった。
見下ろされているのだが、嫌な感じはしない。
慈愛に満ちた、優しい眼差しだった。
「あなたは……」
何者なのか、問おうとした。
口も、緩慢にしか動かない。
質問の途中で、女性は口を開いた。
「ヨゥロ……」
闇の中、ずっとシーパルを呼んでいた声と同一である。
「わたしは……ヨゥロ……」
(ヨゥロ族……)
緑色の頭髪。青白い肌。
ヨゥロ族の身体的特徴だった。
だが、彼女のような女性が、一族にいただろうか。
シーパルは、ヨゥロ族族長の甥だった。
一族の大半の者と、少なからず関わってきた。
ほぼ全員と、一度や二度は顔を合わせたことがあるのではないのか。
女性は、整った顔立ちをしていた。
忘れることは、少し難しいだろう。
だが、シーパルは彼女に見覚えがなかった。
「違う……」
女性の話し方も、またゆっくりだった。
女性も、緩慢な流れの中にいるのかもしれない。
「わたしは……ヨゥロ族ではない……」
シーパルの心の声を聞いたかのように、女性は言った。
「わたしは……ヨゥロ……」
「……?」
ヨゥロという名前。
緑色の頭髪。青白い肌。
それなのに、ヨゥロ族ではないと主張する。
「あなたは……」
同じ質問。
同じ答えが返ってくるだけだった。
「それでは……」
女性の正体について、まともな返答はないと判断して、シーパルは辺りを見回した。
他にも、知りたいことはいくらでもある。
「ここは……」
闇の中。
ここは、どこなのか。
「『ルインクロード』……」
「……ルイ……ン……?」
「ここは……『ルインクロード』の内側……」
「……」
なにを、この女性は言っているのだろう。
眼差しが変わった。
憂いを帯びた眼差しに。
「そして……わたしは……ヨゥロ……。『ルインクロードの天使』……」
女性は嘆いているのだと、シーパルは気付いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ザイアムが去った小屋で、今度はサミーが地図を睨み付けた。
ルーアをおびき寄せろ。簡単に命令を出してくれる。
そう思い通りに事は進まないだろう。
ルーアたちもリンダ・オースターも、オースター孤児院に集まる。
倒すだけなら、そこを叩けば良いのではないか。
こちらは、百を超える兵士たちに、九人の魔法使い、二人の『天使憑き』。
向こうのまともな戦力は、六人だけだろう。
圧倒的な人数差である。
だが、戦力差はあるのか。
彼らは、これまでも人数の差を跳ね返してきた。
正攻法では、相応の犠牲を覚悟せねばならぬだろう。
そして、ルーアを殺してしまっていいのか。
ザイアムは、おびき寄せろと言った。
殺すためだとも言ったが、鵜呑みにはしていない。
これまでも、ザイアムの言動には腑に落ちない点があった。
裏がある。
もしルーアを殺したらどうなるか。
もしかしたらザイアムは、怒り狂うかもしれない。
感情の変化を余り見せない男だけに、見てみたい気もする。
だが、やはり危険だろう。
ここは、やはり意に沿うように動くべきだ。
どうやっておびき寄せるか。
「『地図』、か……」
欠点がある。
そこを衝けば、いきなりロウズの村の中央に踊り出ることができる。
不意を衝けるということだ。
それを利用して、ルーアをおびき出せないか。
しばらく考えたが、上手くまとまらなかった。
(他の、方法は……)
「彼らは……」
独りごちる。
小屋には、誰もいない。
誰にも聞かれることはない。
「強い。誰かのために、力を振り絞る。だが……」
ぶつぶつと呟く。
声に出す方が、考えは纏まった。
「……その本質は、攻めの人間だ」
特に、ルーアやテラント・エセンツ、デリフィス・デュラムはそうだろう。
他者を守ってはきたが、それは敵を倒し、殺してだ。
彼らの本質は、攻めにある。
敵に対して、逃亡や防御よりも、まず攻撃を考える。
それを利用できないか。
「オースター孤児院は、城でも砦でもない……」
建物自体が、多少の魔法は弾く。
ドラウ・パーターが、壁の内部に対魔の紋様を施したのだ。
だが、それだけではいかにも心許ないだろう。
そんな場所に、彼らが立て篭もるか。
オースター孤児院を、遠巻きに包囲したとする。
多くの足手纏いがいる状態で、彼らはオースター孤児院にて待ち構えたりはしないだろう。
おそらくは、討って出る。
こちらの居場所は、リンダ・オースターの『地図』により知れるのだ。
オースター孤児院からは、引き離せる。
それから、ザイアムの居場所までルーアをおびき寄せられるかは、わからない。
恵まれなければならないだろう。
流れや、運に。
それでも、考えるのだ。
どれが最善の手か。
サミー・ロジャーには、平凡な力しかないのだから。
達人たちを相手にするには、考え抜くことだ。
「私は、失敗作だ……」
自嘲気味に呟く。
優秀な魔法使いが誕生するはずだった。
だが生まれたのは、平凡な魔力があるだけの者だった。
サミーの後に生まれた、彼とそっくりな外見の八人もそうである。
今動かせる兵士たちも、失敗作ばかりである。
挙動が、明らかに鈍い。
『天使憑き』であるサムとダワンダの二人も、失敗作と言えなくもない。
正確には、試作段階だった。
『悪魔憑き』と比べると、全てにおいて明らかに一段劣る。
「失敗作ばかりだな……」
そう、失敗作ばかり。
ザイアムも、失敗作であるはずだった。
それなのに、最強でもある。
それが、いささか腹立たしい。
黒い感情を押し殺し、サミーは地図を眺め考え続けた。
運任せな部分もある作戦。
考えることに、それ程意味はないのかもしれない。
それでも、考えるのをやめる気にはならなかった。
『ガイケル、ドリ、シャルル、ランワゴ、アリノリ、ジャック、ガンジャメ、アルベルト……』
やがて、サミーは自分と似た姿をした者たちの名前を呟いていった。
唯一、と言ってもいいかもしれない。
サミーと、彼と同一に近い者たちにある、特徴。能力。
ある程度離れた場所にあっても、意思の疎通ができる。
クロイツに施された人体実験により、得た能力だった。
ズィニア・スティマなどが受けた改造に比べると、可愛いものである。
他の者たちは、『地図』の効果範囲外、ロウズの村を囲むように、それぞれに兵士たちと待機させていた。
『配置を決めた。これより伝える。各人、速やかに移動せよ。サムとダワンダにも、連絡を』
腹は括った。
ぶつかるのは、夕刻以降になるだろう。
長い夜になりそうだ、とサミーは思った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
唇を突き出し抱き着こうとする、なんとかという妹を放り投げるティアを見て、ルーアは溜息をついた。
「なんだかなぁ……」
オースター孤児院に来て、三日目の昼下がり。
幼い子供たちは、相変わらず喧しい。
平穏だと勘違いしてしまいそうな、腑抜けた空気。
今でもどこかで、リンダ・オースターは戦っているのだろう。
こうして、暖炉の前のソファーで寛いでいていいのかと思ってしまう。
外を見ると、いくらか天候が崩れ始めていた。
窓を雪が叩いている。
雪山での捜索が如何に危険か、想像に難くない。
リンダ・オースターは、この辺りの山々を庭のように熟知しているという。
下手に捜し回るよりは、待つべきなのだろうが。
「ルーア兄ちゃん」
くぐもったように聞こえる幼い声に、ルーアは足下へと眼をやった。
「……お前の兄ちゃんになった記憶はないが、なんだ、チャーリー?」
「なんだかなぁ、とは俺の台詞かと」
俯せの状態でルーアの足の裏に踏み付けにされ、チャーリーは呻く。
「児童虐待はどうかと思う」
「……スキンシップだろ」
なぜかこの子供は、ルーアにちょっかいを出してくる。
最初は鬱陶しかったが、今ではそうでもない。
投げ飛ばしても泣き喚いたりしないし、ティアやシュアに怒られることもない。
多分チャーリーは、七、八歳くらいだろう。
自分がその年齢の時、こんなにも幼稚だったのだろうかと思う。
重い物音がした。
屋根から雪が滑り落ちたのか。
風が強くなっている。
さて、いつまでデリフィスは外の見張りをやってくれるか。
悲鳴が聞こえた。
(いや……)
奇声、か。
女の、気を吐く声。
もう一つ、珍しいデリフィスの切羽詰まった声。
聞き取った時には、ルーアは玄関から外に飛び出していた。
女がいた。
四十代に見える、黒いボディスーツに中肉中背の身を包んだ、中年の女。
ティアと同じ、茶色の頭髪。
顔の作りなども、どことなくティアに似ている。
二十年後、三十年後、この女性のような雰囲気になるのではないか、と思ってしまうくらいに。
ティアの母親代わり、そして、オースター孤児院で育った者たちの母親である、リンダ・オースターなのだろう。
ティアとリンダは遠い親戚でもあると、聞いたことがある。
似ているところがあっても、不思議ではない。
風のためか、帰還に気付けなかった。
デリフィスの制止の声。
振り切り、断言していいだろう、リンダが踏み出す。
速い。
固められた拳を、突き出す。
さすがに剣を抜かず、手甲を装備したリンダの腕を払いつつ、横に回避するデリフィス。
(おいおい……)
強張ったデリフィスの横顔。
(一杯一杯じゃねえか……)
あの、デリフィスが。
体の向きを変えようとしたリンダの膝から、かくりと力が抜ける。
それは疲労か、あるいは負傷でもしているのか。
「母さん!?」
複数の、女の声。
ティアに、シュアに、あとはミンミだったか。
慌てて玄関から出てくる。
「ティア……?」
どこか呆然と、リンダが呟く。
「その人は、あたしの、仲間なの……」
それを聞いたリンダから、ふっと気のようなものが抜けるのを、ルーアは感じた。
よろめき、孤児院の外壁にもたれる。
「ああ……そうかい……紛らわしい……」
つまり、デリフィスを敵側の人間だと勘違いして、襲い掛かったということか。
デリフィスは、憮然とした表情をしている。
「母さん!」
駆け寄る娘たちを、リンダは睨み付ける。
「シュア、なんでティアがいるんだい」
「止めたのよ、わたしは。エスさんも」
リンダの、舌打ちが聞こえた。
「ティア、あんた今すぐに……」
「やだ」
単語で返すティアに、ルーアは苦笑した。
孤児院に来る前にも思ったが、落ち込まれるよりはずっといい。
玄関から、ぞろぞろ出てきた。
テラントとユファレート、二人に付き纏う子供たち。
リンダは、ボディスーツのポケットから、折り畳まれた紙を取り出した。
紙を拡げながら、問う。
「ティア、あんたが連れてきたのは、六人かい?」
「……うん、そうだけど」
「なんだい……そうなのかい……。てっきり、占拠されたもんかと……。慌てて戻って、損したね……」
ぶつぶつ呟くリンダの手から、はらりと紙が落ちる。
(……うん?)
ロウズ村の周辺地図のようではあるが、あちこちに赤い点が付いている。
特に、村の中央に何十、あるいはそれ以上の赤い点。
孤児院の位置にも、六つ付いていた。
なんの印なのか。
リンダが、ずり落ちるように座り込む。
女性陣が、息を呑む。
黒いボディスーツのためわかりにくかったが、リンダは出血をしていた。
壁に血が付着している。
「リンダおばさん!?」
駆け寄ったユファレートが、悲鳴混じりの声を上げる。
「大変! 怪我してる! 今、治しますね、リンダおばさん!」
リンダの片眉が、ぴくんと上がった。
「気をしっかり、リンダおばさん!」
するり、とリンダの手が伸び、治療のため身を低くしたユファレートの顔面を鷲掴みにする。
ミシペキパキと小気味良い音が響いた。
「んああああっ!? いやああああっ!」
足をばたつかせながら、ユファレートが今度は純粋に悲鳴を上げる。
「……なんだって、ユファレートちゃん……?」
「間違えましたぁ! ごめんなさいごめんなさいっ! 『リンダさん』! 『リンダさん』ですぅ!」
そこまで喚いたところで、ようやくユファレートは解放された。
おたおたと自分の顔面を摩っている。
「あれ!? わたしの顔、どこに行った!? ちゃんと付いてる!?」
錯乱するほどの衝撃的な痛みだったらしい。
「……思ったよりも平気そうだし、取り敢えずは中に入らねえか?」
なんだかなぁ、と思いつつ、ルーアは提案した。
◇◆◇◆◇◆◇◆
リンダを、彼女の寝室まで運んだ。
出血をしていたが、傷自体は浅いもので、ルーアとユファレートの二人掛かりで、簡単に塞ぐことができた。
ただ、衰弱が酷い。
もう三ヶ月以上、リンダは山中で戦闘を繰り返しては、たまに孤児院へ戻ってくるという生活を送っていたらしい。
世の中には、まだまだ化け物染みた連中がいる。
治療を終え寝台に横にさせると、リンダはすぐに眠りに落ちた。
部屋には、おかしな匂いが満ちている。
パナが、煮立てた薬湯を持ってきたのだ。
臭みのある独特な香りだが、不快にはならない。
リンダは、口にする前に眠ってしまったが。
部屋にいるのは、ルーアたち五人にパナ、リンダとミンミだった。
外は、少し騒がしい。
負傷した母親の姿にパニックを起こし、幼い子供たちが泣き喚いていたのだ。
それも、シュアや他の年長者の努力の甲斐もあり、落ち着きつつある。
リンダが持っていた地図を、ルーアは卓上に拡げた。
「……じゃあ、オースター孤児院の位置にあるこの赤い点は、俺たちを示しているんだな?」
ユファレートやミンミの説明によると、そうなる。
ただの地図のように見えたが、魔法道具だった。
ユファレートの祖父ドラウ・パーターが、リンダ・オースターに譲った物だという。
村人以外がロウズの村やその周辺を訪れると、『地図』に印がつくらしい。
オースター孤児院にある印は六つ。
ここにいる村人以外の人間は、ルーア、ユファレート、テラント、デリフィス、シーパル、パナ。
確かに、数は合う。
「……なんか、納得いかねえんだけど」
ルーアは、眉根を寄せた。
「なんで、村人は表示されない?」
「だから、説明したでしょ」
ユファレートが、不機嫌そうにわずかに眼を細める。
「この『地図』は、特定の地域の侵入者に備える物であって、村人とかは対象外に……」
「いや、そういうことじゃなくて」
再度、滔々と説明しようとするユファレートを、ルーアは遮った。
「俺が聞きたいのは、どうやって俺たちと村人の区別をつけているのかってことで」
「それは……村人は、『地図』に登録されているからよ」
「登録? 俺たちは登録されないのか? 村人たちとなにが違うんだよ? 同じ人間だろ?」
「……うるさいわよ」
ユファレートの表情が、陰る。
「わからないわよ。魔法道具の細かい仕組みなんて。悪かったわね、勉強不足で。これでいいかしら?」
いくらか早口になっている。
本格的に不機嫌にさせてしまった。
「いや、別に責めてる訳でも、文句がある訳でもないんだ……」
どうやら、魔法オタクである彼女にとって、魔法や魔法道具に関することで答えられない質問をされることは、癪に障ることらしい。
「えっと……それじゃ、これは?」
ルーアは、村の中央、何十と赤い点が集まった場所を指した。
「そこは、『ヒロンの霊薬』の製造工場ですね」
迷惑そうな顔のティアに腕を絡めている、ミンミが言った。
「今の時期は、あちこちの街から出稼ぎ労働者の方々が来ていますから」
「ああ、なるほど……」
工場で働き寝泊まりしている出稼ぎの従業員たちも、ルーアたちと同じく村人以外となるのか。
「……西の街道は封鎖されているな」
西へ向かえば王都であり、唯一といっていいまともな街道だった。
途中に、四十ほどの赤い点がある。
オースター孤児院の現状からして、『コミュニティ』の者だと推測するのが妥当だろう。
幼い子供たちを連れて、突破できるとは思えない。
敵の実力次第では、ルーアたちだけでも危険な人数だった。
村の西以外の方角は険しい山に包まれており、子供の足で越えるのは困難だろう。
ロウズの村からの脱出は、厳しい。
「おい、それよりも」
テラントに言われなくても、わかっている。
デリフィスも、無言で頷いていた。
北と南の二方向から、赤い点が三十くらいずつ、オースター孤児院に向かってきていた。
先行する二十人ほどの部隊に、後詰めが十人。
両方とも、同じ陣形だった。
「片方は、俺が潰す」
剣の位置を気にしながら、デリフィスが言った。
冷えた金属が掌に張り付くため、柄には獣の皮が巻かれている。
「迎撃に出るか?」
危険だった。敵の人数が多過ぎる。
「こんな所で、篭城戦などできるか」
「……まあ、そうだよな」
オースター孤児院は、少し大きなだけの普通の家だった。
ドラウ・パーターの細工により、多少は魔法攻撃への耐性はあるらしいが、気休めにしかならない。
高い城壁がある訳でも、深い濠がある訳でもない。
食料の備蓄が何ヶ月分もあるとは思えないし、どこかからか救援が来る訳でもない。
大半は、戦えない者である。
立て篭もるには、不向き過ぎる。
リンダ・オースターが、単独でも外の戦闘を選んできたのは、当然のことだった。
「……孤児院に近付かれる前に、両方とも潰すしかねえか」
「俺は、南に行く」
地図を睨み、デリフィスは宣言した。
わずかに、南からの部隊の方が、近くまで来ている。
先にぶつかるということだった。
デリフィスが南を選んだのは、ただそれだけの理由だろう。
ルーアは、ユファレートとテラントを見遣った。
ティアを省いて考えると、剣士が二人、魔法使いが一人、魔法も剣も使う者が一人。
「……俺は、北に行く」
テラントだった。
バランスを考慮してのことだろう。
テラントやデリフィスのような剣士に前衛を務めてもらえれば、魔法使いは力を奮いやすい。
「……じゃあ、俺も北かな」
ルーアは言った。
テラントとデリフィスの技量は、ほぼ互角だとルーアは思っていた。
ただテラントは、まだズィニア・スティマとの戦闘で受けたダメージが、根深く残っているようだった。
歩き方やフォークの持ち方、細かい動作の乱れで、ルーアにはそれがわかる。
テラントがどこまで壁役を熟せるかわからない。
剣も遣えるルーアが、彼と組むべきだろう。
「わたしは南ね」
シーパルが目覚めない今、魔法使いはルーアとユファレートの二人だけだった。
当然、彼女とは分かれなければならない。
「えっと、あたしは……」
ティアが、こちらへと視線を注ぐ。
どうするべきか、決めて欲しいようだ。
「……好きにしろよ」
安全な所にいろ、と言ったところで、どうせ無駄だった。
安全な場所があるのかも、わからない。
オースター孤児院に残りみんなを守るという選択もあるが、『地図』に表示される近辺の敵は、北と南の部隊だけである。
『地図』は魔法道具、つまりは、現在の人類よりもずっと高度な文明を持っていた、旧人類の技術の結集といえた。
信憑性はある。
両方の部隊を止めれば、当面の間はオースター孤児院は安全だった。
やはり待つという選択はないのか、ティアはルーアたちとユファレートたちの顔を見比べ。
「じゃあ、北にする。なんか危なっかしいし」
小声で言う。
(……お前が言うな)
と思うが、気持ちはわからなくもない。
デリフィスは、激しい戦い方をする割りに、余り怪我をしない。
対して、テラントなどは毎度のように負傷し危機に陥っている。
しかも、おそらく今は不調でもある。
ティアなりに、気を遣ったのだろう。
ルーアとティアに気遣われたことになるが、テラントは気にした様子は見せなかった。
現状を受け入れるだけの度量は、あるということか。
あるいは、ルーアたちが思っている以上に、体の調子が悪いのかもしれない。
「ええ!? ティアちゃあも行く気?」
「うん」
躊躇わず頷くティアに、ミンミは表情を曇らせ、ルーアたちに視線を向けてきた。
止めないのか、と責めているかのような眼だった。
次いでティアに視線を戻し、瞳に諦めの色を浮かべる。
ティアが言い出したら聞かないことを、ルーアたち以上に知っているだろう。
「そう……じゃあ、いってらっしゃい。留守は、わたしたちでなんとかするから」
溜息を一つして、言う。
「うん。お願いね、ミンミ」
北へ向かうのはルーアとテラントとティア、南へ向かうのは、デリフィスとユファレートとなる。
敵は、三十人ずつ。先行部隊に二十人、後詰めに十人。
デリフィスたちは、最悪、一人で十五人と戦うことになる。
「……無理はするなよ。先行部隊を乱すだけで、充分足止めにはなる。充分な戦果だ」
「先行部隊を一撃で砕き、後詰めが合流する前に速やかに離脱。それが、理想だけどな」
ルーアとテラントの言葉に、全員が頷く。
自分の台詞に、ルーアは内心苦笑していた。
(無理はするな、か)
一人で十人、十五人と争わなければならないのに。
いつものことながら、人数が不足している。
退室の際に、ルーアは机上の『地図』を一瞥した。
ロウズの村の南東に、ぽつんと一つだけ赤い点がついている。
それが、ふと気になった。
南の部隊とも孤児院とも、掛け離れた位置である。
通りすがりの旅人かなにかだろう。
ルーアは、そう思った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
オースター孤児院をルーアたちが出た時、すでに辺りは暗くなっていた。
山の夜は、闇が深い。
ここで暮らしてきたティアによると、ロウズの村の周辺にはいくつか集落があるという。
そこへ向かうための道を、敵は利用しているようだった。
雪は、足首まである。
道を外れて向かってきてはいないだろう。
すぐに膝まで埋まるほど、雪が積もっているのだ。
そんな状態で、まともに移動できる訳がない。
ルーアたちは、慎重に道を北へと進んだ。
敵と行き違いになってしまっては、目も当てられない。
急ぎ過ぎては、体力を消耗してしまう。
雪で滑って転び、怪我をすることもあるだろう。
雪道にルーアやテラントよりも慣れているはずのティアも、足を取られることがある。
それが、なにか可笑しい。
慣れていようと、滑るものは滑る。
敵の姿を確認したのは、夜も更けてからだった。
日付けは、まだ変わっていないだろう。
午後十一時くらいか。
二十ほどの、防寒着で身を固めた者たち。
どうせ、『コミュニティ』の兵士なのだろう。
戦闘開始と向かおうとしたが、敵はなぜか退いた。
ルーアたちが近付く以上に、後退していく。
「……どういうことだ?」
何度か、テラントに聞いた。
後退するということは、敵だと認識はされているということである。
なぜ、戦おうとしない。
後詰めの到着を、待っているのだろうか。
最初から、消極的である。
「敵の陣形は、こうだ」
テラントが、剣の先で雪に線を描く。
翼を拡げた鳥のように、横に伸びた陣形だった。
木や岩などの障害物がある。
夜で、視界も利かない。
敵の全員を確認できたはずもないが、それでもテラントには敵の陣形がわかるらしい。
さすがに、長らく戦陣で生きてきただけはある。
「左が薄い。そこから、攻めるぞ」
テラントの指示通りに動く。
敵は、また退くだけだった。
後詰めが合流したようだが、攻め寄せてはこない。
ルーアたちを避けて、オースター孤児院へ回り込もうとする別動隊もないようだ。
「戦う気が、ない……?」
「あたしたちを、引き付けようとしているのかな? 罠を仕掛けている所まで、誘いたいとか」
有り得ることだった。
ならば、このまま追うのは危険である。
「……一旦、退こう」
しばらく黙って考えていたテラントが、そう言った。
「……退くのか?」
「このままだと、無駄に疲れるだけだろ」
雪で歩きにくい。
厚い防寒着で、動きにくくもある。
「追撃されるかもよ」
退却する相手に追撃を掛けるのは、常套である。
「それはそれで構わんだろ。来ると予測される追撃に、対応できない俺たちじゃないだろ?」
にやりと、テラントは笑う。
「敵がどう動くかで、狙いもいくらか読める」
戦う意志があるのならば、追撃はあるだろう。
罠に嵌めるつもりだったという公算が高い。
戦う意志が薄ければ、追撃はないかもしれない。
ルーアたちを引き付けることが、目的だったと考えられる。
だとしたら、主力は南に集められた可能性が高い。
デリフィスたちが、危険だった。
退いた。
敵に、動きはない。
雪道を、戻っていく。
追撃らしい追撃は、孤児院に帰り着くまで、一切なかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
道案内は、ユファレートに任せるつもりだった。
彼女は以前、この村でしばらく過ごしたことがあるという。
だが、孤児院を出て少し進んだところで、デリフィスは驚愕した。
いつも夕日が沈む方角を指差し、あっちが東だから、とユファレートが真顔で呟いたのである。
方向音痴だとは知っていたが、まさかそこまで酷いとは。
ユファレートには、頼ることはできない。
南への山道を、デリフィスは進んでいった。
数日前に一泊した、名もない村へ続く道である。
道の外れは、降り積もった雪により、とても人が歩けない状態になっていた。
敵も、まずこの道を通り北上するはずだ。
風が強い。
夜の暗闇の中、雪が舞っている。
雪が積もる山道を歩くことは、デリフィスの予想よりも遥かに困難なことだった。
氷の塊を懐に入れているかのように、体の芯まで冷えている。
手足が痺れ、耳が痛い。
風邪を引いてもいないのに、鼻が垂れる。
デリフィスは、ザッファー王国出身だった。
大陸東にある国で、ここまで冷え込むことは滅多にない。
感覚が、色々と狂っていたのだろう。
敵に気付いたのは、かなり接近されてからだった。
木や岩の陰に身を隠しながら、徐々に近付いて来る。
二十人くらいか。
「ユファレート、雪が邪魔だな」
「わかった」
ユファレートが、杖を高々と翳す。
「ヴァル・エクスプロード!」
生まれた大火球が、地面で破裂して雪を蒸発させる。
雪崩などを警戒しているのか、威力はかなり押さえているようだ。
撒き散る炎は、蒸気によってか、すぐ消えた。
あるいは、山火事などを起こさないように、ユファレートが制御しているのかもしれない。
さらに、ユファレートが杖を振る。
「バルムス・ウィンド!」
暴風が、蒸気を吹き散らす。
視界が開けた。
離れていては魔法の餌食になるだけと悟ったか、物陰から男たちが飛び出してくる。
やはり、『コミュニティ』の兵士。
夜陰に溶け込む、黒い防寒着。
近接してきた兵士に、デリフィスは剣を振るった。
一人は胴体が、一人は脇の下から肩まで、真っ二つになる。
ユファレートが、デリフィスの後ろから一団に杖を向ける。
「ファイアー・ボール!」
火球に、四人ほどが吹き飛ぶ。
デリフィスの剣に、兵士の体が撥ね上がる。
槍。左腕で払いのけた。
リンダ・オースターの突きに比べたら、欠伸が出てしまうような遅さだ。
腹を蹴り上げ、悶絶したところで頭蓋に剣を振り下ろす。
今のところ、相手は雑魚ばかり。
それでも、久しぶりの闘争に血が滾るのを、デリフィスは感じていた。
半数近くを倒されて、兵士たちの突進が止まった。
残った者たちで、陣形を組み直す。
デリフィスは、はっとした。
夜。寒気。強風。
やはり、感覚に狂いが生じていたのだろう。
注意力が散漫になっていたか。
木々に挟まれた道だった。
左手の木立の向こう、岩肌が見える。
ここは、崖下の狭隘な道だ。
自分が敵の立場だったら、そして軍と軍の衝突だったら、どうするか。
間違いなく敵の前後を塞ぎ、崖から岩や木を落とす。
ここで戦うのは、まずい。
「ユファレート、退くぞ」
「え?」
これまで優勢に戦いを進めておいて、なぜ、とユファレートが疑問符を浮かべる。
「早くしろ」
言いながら、デリフィスも迷いを感じていた。
警戒し過ぎではないのか。
この地で衝突すると、敵に推測した者がいるのか。
想定外のことではないのか。
少なくとも、背後は開いている。
ぶつかり始めて、さほど経っていない。
罠を仕掛ける暇など、ないだろう。
地鳴りのようなものが聞こえて、デリフィスは頭上を見上げた。
血の気が引く。
降り注ぐ岩や枯れ木。
すぐ側に、岩が突き刺さる。
足場が崩れるのを、デリフィスは感じた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
偵察に出した兵士からの報告によると、こちらに向かっているのは、デリフィス・デュラムとユファレート・パーターらしい。
サミーは苦笑した。
オースター孤児院からおびき出すことは成功したが、肝心のルーアがこちらに向かってきていない。
なかなか、思う通りに事は進まない。
北へ配置した部隊の指揮を採るガイケルに、念話で連絡を取った。
できるだけ戦闘を避けろ、と指示を出す。
ルーアは、北へ迎撃に出ただろう。
そこからザイアムがいる場所まで導くのは、困難だった。
作戦を組み直す必要がある。
無理にぶつかり戦力を損耗することは、回避したい。
ただ、デリフィス・デュラムとユファレート・パーター。
彼らは消せるかもしれない。
北風が吹きすさぶ。
風下からだとはいえ、彼らは偵察の兵士に気付けなかった。
普段のデリフィス・デュラムならば、気取られていたはずだ。
この辺りの気候に慣れているのは、北国出身のティア・オースターとユファレート・パーターくらいのものだろう。
慣れない環境が、デリフィス・デュラムの勘を鈍らせているようだ。
地形も良い。
対リンダ・オースターのために、あちこちに罠を仕掛けてある。
だが、逆に彼女に利用される有様だった。
長年この地に暮らしてきた『鉄の女』に、罠など通用しなかった。
だが、今はリンダ・オースターはいない。
この山中で三ヶ月生きた分、地の利はこちらにある。
兵士を待機させ、サミーは崖を登った。
道は、当然ながら事前に切り開いてある。
崖の上には、大量の岩と枯れ木を集めてあった。
何度か魔法の爆音を聞いた後、サミーは罠を支える縄を切った。
岩と枯れ木が転がり落ちていく。
崖を降りながら、兵士からの報告を聞いた。
ユファレート・パーターは、無事なようだ。
魔法で、落石を回避したのだろう。
だが、デリフィス・デュラムの姿はないという。
サミーはほくそ笑んだ。
策が、一つ嵌まったのだ。
ガイケルから連絡があった。
北へ迎撃に出たのは、ルーアとティア・オースター、そしてテラント・エセンツらしい。
つまり、ユファレート・パーターは孤立したということだった。
クロイツの顔が、思い浮かんだ。
ユファレート・パーター。
ハウザートに影響を与えすぎる、クロイツが最も消したがっていた存在。
クロイツへの、良い点数稼ぎになる。
ここで、消す。
だが、焦るな。
資料によると、ユファレート・パーターは飛行や瞬間移動の魔法を自在に扱う。
長距離転移の魔法まで使えるという。
下手に仕掛けても、逃げられてしまうかもしれない。
先程の戦闘で生き残った兵士たちを、集合させた。
十一人。ぶつかり合いは束の間だったが、八人が倒された。
ユファレート・パーターは、デリフィス・デュラムを捜し回っているようだ。
(いいぞ……)
この寒風吹きすさぶ雪山では、ただ歩き回るだけでも疲労する。
仲間の身を案じながらでは、尚更だろう。
明かりの魔法を使用しているようだ。
寒さを凌ぐため、周囲の空気の温度を上げる魔法を使っているかもしれない。
時間の経過と共に、ユファレート・パーターは体力も魔力も失っていく。
ルーアたちは、北へ向かった。
ここまで来るには、三時間は掛かる。
焦る必要はない。
じっくりと料理してやる。
弱り切れば、天才的な魔法使いでも倒せる。
サミーは、後続部隊を指揮するアルベルトと念話で連絡を取った。