北の大地へ
ここは、どこなのだろう。
そもそも、自分は誰なのか。
暗い。
真っ暗闇の中、彼は立っていた。
両の足で立っているのに、どこまでも落ち続けているような感覚がある。
死んだのだろうか。
まだ、生きているのだろうか。
なぜ、生死など気にする。
死んでもおかしくないような目に遭ったというのか。
(……僕は……)
シーパル。
ヨゥロ族の、シーパル・ヨゥロ。
それを、ようやく思い出した。
暗い暗い闇の中にいる。
深い山中で自然に溶け込むような生き方をしているヨゥロ族は、人里で生活する人々と比べ、視力が良く夜目も効く。
だが、闇を見通すことはできなかった。
闇の先にあるものも、また闇である。
(ここは……)
どこなのだろう。
わからない。
思考が、緩慢だった。
思考だけでなく、呼吸や鼓動まで緩慢である。
緩慢な流れの中に、シーパルはいた。
声が聞こえたような気がした。
女性のものだろうか。呼んでいるようだ。
どの方向から聞こえてきたか、どれだけの距離から呼びかけられたのか、わからない。
おおよその見当をつけた訳ではなく、適当な方向に、ただなんとなくシーパルは進もうとした。
足が、思うように前に出ない。
体全体が、思い通り動かないのか。
やはり、緩慢な流れの中にいる。
まるで、普段の一秒を一分くらいに間延びさせたような。
三十秒ほど経過しただろうか。
それだけの時間を掛けて、シーパルは一歩進んだ。
それに、なんの意味があるのかもわからない。
声は、ずっと聞こえている。
闇の中、緩慢な流れの中、ゆっくりと進んでいく。
辿り着いた先に、なにがあるのか。
なにもないかもしれない。
手だけが、なぜか温かい。
まるで、誰かに手を引かれているかのようだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
一日だけ待つよう、ラグマ王国執務官ジェイク・ギャメには言われた。
ルーアたちが北へ向かうために、快速船を手配してくれようとしているのだが、手続きが色々と必要なようだ。
それはそうだろう。
軍船だという。
そしてルーアたちは、ただの一般の旅人である。
本来ならば、手続きに数日かかることだろう。
ジェイク・ギャメは、ラグマ政府内でもかなりの力を持っているようだ。
一日は、旅の準備に当てることにした。
といっても、みんな旅慣れている。
準備を終えたティアは、ルーアたちが宿泊させてもらっているテラントの両親の館を、うろちょろとしている。
ユファレートは、シーパルの側にいることが多いようだ。
その手を握り締めて、なにかに祈っているようでもある。
シーパルは、未だ眠り続けている。
今朝になって、ようやくテラントが目覚めた。
意識はしっかりしているようだが、ずっとぼんやりとしている。
ズィニア・スティマは、倒したはずだ。
妻の仇を討つという目的を果たしたはずだが、それにしては達成感など感じさせない。
なにか、虚無感に包まれているようでもある。
パナは、まだルーアたちの旅についてくるつもりのようだ。
シーパルの知人であり、容態が気になるのだろう。
パナがいてくれる方が、都合はいいのかもしれない。
ヨゥロ族同士、理解できることもあるかもしれない。
正直、どういう仕組みでシーパルがまだ生きているのか、さっぱりわからなかった。
一分間に一度だけの呼吸と脈拍。
それだけで、シーパルは数日を過ごしている。
パナの話では、これを二、三ヶ月続けられるらしい。
ドーラは、ヤンリの村に戻ることになった。
ロデンゼラーに来た理由の一つが、薬師の資格を取ることだったらしいが、見事に合格したという。
シーパルのことは気になるが、ヤンリの村でパナの薬に助けられてきた人々のことも、放ってはおけないらしい。
夫婦で話し合って、決めたことのようだ。
シーパルが会おうとしていた、リパラー・ヨゥロという男が、不審な死を遂げている。
リパラーの家で世話になっていたパナたちにも、なにか危険があるかもしれない。
そういう意味で、ドーラにも同道しないかと言った。
見える範囲にいてくれれば、大抵の危険からは守れる。
だが、ドーラは村に戻ると決めたようだ。
薬を必要としている人々のため、という二人の考え方が、ただ快い。
シーパルもヤンリの村の人々も、二人にとっては隔てなく助けるべき存在なのだろう。
『ヒロンの霊薬』を独占する、ラグマ政府への抗議デモに参加する予定もあったらしいが、ここ数日の騒動で立ち消えとなっている。
話があると、デリフィスに外に誘われた。
珍しいことである。
近くの空地で、周囲に誰もいないことを確かめると、デリフィスは話し始めた。
「……テラントの嫁さんを殺したのは、ズィニアではない。それどころか、まだ生きてるってことか?」
デリフィスが、エスやズィニアと交わした会話を端的にまとめると、そうなる。
デリフィスは、鷹揚に頷いた。
「二人は、そう考えたのだろうな」
テラントから、彼の妻マリィ・エセンツが殺された状況は聞いたことがある。
普通に考えれば、マリィ・エセンツはズィニアに殺されたとしか思えない。
だが、当のズィニアと、あのエスの会話である。
「……このこと、テラントには?」
「言ってないな」
賢明な判断かもしれない。
もし事実だとしたら、テラントにとっては天地がひっくり返るようなものだろう。
正確なことがわかるまでは、安易に伝えないほうがいい。
なにか、感づいてはいるのかもしれないが。
ぼんやりとしていたテラントの様子を、ルーアは思い出していた。
(……いや、いいことなんだよな……)
愛する妻が、実は生きていたとしたら。
テラントにとっては、いいことであるはずなのだ。
だがそうだとしたら、なぜマリィ・エセンツは、テラントの前から姿を消した。
まだまだ、裏があるのかもしれない。
「デリフィス、あんたはどう思う?」
「わからん。俺の頭で考えられることを、超えている」
デリフィスは、自分の首に手を当てた。
鈍く、関節が鳴る音が響く。
考え過ぎて首や肩が凝った、と言いたいのかもしれない。
「俺ができることは、眼の前の敵を倒すことだけだ。細かいことを考えるのは、お前の方が得意だろう? はっきり言って、面倒なことはお前に全部丸投げにして、押し付けてしまいたい」
「うん。ぶっちゃけ過ぎだ、この野郎」
真顔のデリフィスに、ルーアは笑顔で返した。
◇◆◇◆◇◆◇◆
二日間ほど、意識がなかったらしい。
テラントが目覚めたのは、両親の館だった。
同じ部屋には寝台がもう一つあり、シーパルが横になっている。
ずっと治療をしてくれていたのか、疲れきった表情でほっとするユファレートがいた。
体が、動かない。
ユファレートに頼んで、上体を起こすのを手伝ってもらった。
横になっているようユファレートは言ったが、まだ眠ったままのシーパルを見ると、それは許されないような気がした。
食事は体が受け付けなかったが、水だけは飲めた。
尿瓶などが用意されていたが、使用するつもりはない。
催した時は館の執事を呼んで、トイレまで連れていかせた。
寝台の上で、考える。
マリィを殺したのは、ズィニアではなかった。
誰が、マリィを殺したのか。
ズィニアを追い続け、必死に戦い殺し、だが、マリィの仇を討った訳ではない。
シーパルにしてくれたことへの、借りは返せたのかもしれない。
なぜ、生き延びることができたのか。
死んで当然の負傷をしたはずだ。
テラントを発見したのは、城外演習中のロデンゼラーの一部隊だったという。
この館へ運ばれた時には、すでに応急処置がされていたらしい。
誰が、行ったのか。
ズィニアとの戦闘の後、意識を失う直前、誰かの足音を聞いたような気がする。
気のせいかもしれない。
意識がない間に、次の目的地が決まっていた。
ホルン王国北部にある、ロウズの村である。
ティアの故郷であり、ヒロンが栽培されているという。
到着しさえすれば、シーパルを救えるのではないか。
かなり遠方だが、テラントは反対しなかった。
ここ数日、『ヒロンの霊薬』が手に入らないかと全員で情報を求めたが、有意義なものはなかった。
動くこともできなかったのである。
例えどれだけ遠方でも、どれだけ可能性が低くても、動くきっかけを得たといえる。
ただし、その旅についてはいけない。
キュイの助命と交換条件に、軍へ復帰する約束をしていた。
だが、ジェイク・ギャメが館を訪れた。
少しは知っている男だ。
確か、キュイと同郷だったか。
まだテラントが軍属だった時は、文官に将来有望な者がいると噂になっていた。
順調に出世したらしく、今は執務官である。
このまま旅を続けるように。陛下のお言葉です。
そう、耳打ちされた。
どういうことなのか。
キュイへの処分が変更されたりはしないようだ。
訝しく思うが、旅を続けられるのは望むところだ。
まだ、マリィの仇を討っていない。
旅立ちの朝、デリフィスとルーアの肩を借りて、船へと向かった。
ロウズの村は遠い。
到着する頃には、体も動くようになっているだろう、とテラントは思った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
快速船は、普通の船よりも船底が尖っていて、水をよく切るらしい。
櫂の数も多く、帆や船尾の櫓の形も、通常と異なるとかなんとか。
ティアには細かいことがよくわからなかったが、とにかく速く航海できるという。
その分、揺れるようだ。
船酔いで、気持ちが悪くなった。
一日目だけだ。
体が慣れてしまったのか、翌日からは平気だった。
みんな、似たようなもののようだ。
ただ一人、例外を除いて。
トイレの扉が勢いよく開き、赤毛の男が廊下に倒れ込む。
低く、地の底から響くように呻き声が聞こえた。
スカートの裾を押さえながら、見下ろす。
「……ルーア、なんか軽くホラーなんだけど」
「うるせえ……」
「あと、なんか酸っぱい」
「だから……うるせえって……」
呻きは、弱々しい。
そう、以前フレンデルからヴァトムへ向かった時もそうだった。
馬車などの乗り物は平気なのに、なぜかこの男は船にだけ酔う。
快速船で揺れるためか、前の船旅よりも酷く、度々トイレに篭っては嘔吐している。
「そろそろ戻らないと。お昼ご飯の時間よ」
「あんまし食べたくないんだけどな……」
「お粥でも作ってあげようか?」
「絶対いらん!」
身を起こし、すぐにへなへなと崩れる。
「あー……力入らん……」
「……今のルーアなら、片手でも勝てそう」
「お前な……」
「とにかく、戻りなさいよ」
「動きたくねー……」
「……」
廊下の床にべったりと顔をつけているルーアに、ティアは咳払いをした。
「……戻りなさいって」
「……あん?」
ルーアが顔を上げて、ティアの顔を見遣った。
次いで、トイレの方へと眼をやる。
「ああ、ションベンか……」
「うっさいわね!」
三十人ほどが乗れる中型の軍船である。
女性が乗船するなど考慮されておらず、非常に困ったことに、トイレが一箇所にしかない。
「あー、うん、あれだ。俺に特殊な性癖はないから、なんも聞こえない振りしてやるぞ」
マジ最低だ、こいつ。
どれだけデリカシーがないのだ。
「あんたがどっか行けばいいだけの話でしょうが!」
寝転がるルーアを、ティアは全力で蹴り飛ばした。
昼食を食べ終え甲板に出ると、先に席を立っていたパナがいた。
手摺りにもたれ、遠い眼で海を眺めている。
顔の傷はやはり見られたくないのか、フードを被りマスクとマフラーを着用していた。
「パーナさん」
寂し気に見えて、ティアは声を掛けた。
考えごとでもしていたのか、パナがちょっと驚いた顔をする。
「あ、ああ……あんたかい」
強気で堂々としている印象をパナに持っていたが、乗船する前からどこか落ち着きを失っていた。
「ちょっと風に当たろうと思ってね」
聞いてもないのに、そんなことを言ってくる。
「あたしゃ船に乗るのは初めてだけど、風が気持ちいいもんなんだね。なんか、肌がベタついてくるけど」
「ドーラさんなら、大丈夫ですよ」
ドーラは、ヤンリの村に戻っている。
夫が側にいない。
それが、パナが落ち着きを失った原因だろう。
ティアよりは年上だろうが、そわそわしているパナはどこか可愛く見えた。
「そうかねえ……」
「大丈夫ですって。護衛の方も付いていますし」
ジェイク・ギャメが気を効かせてくれた。
『コミュニティ』に狙われることを考え、護衛をドーラに同行させたのだ。
村に着いても、しばらく様子を見るために滞在させるという。
「まあ、それも心配なんだけど」
「?」
「ほら、ドーラって、あんなかっこいいじゃない?」
「……え?」
ドーラの、熊のような外見が脳裏に浮かび、一瞬凍り付く。
「……あ、ああ、うん、かっこいいですよねー……はは……」
「あたしが側にいないことで、村の女たちが言い寄ってくるんじゃないかと……」
「そりゃそうだろうけど、あんたはあいつの恋人だろ?」
「……へ?」
いきなりな台詞に、きょとんとしてしまう。
「へっ……て、あんた、前にヤンリの村で、言ったじゃないか。シーパルの恋人だって」
「……あたし、そんなこと言いましたっけ……?」
まったく記憶にない。
「えーっと、はは……」
「……冗談だったのかい。まあ、いいけどさ」
言いながら、また海を眺め出す。
もしかしたら、気を悪くしたのかもしれない。
「……ああ、それにしても、パナさんが来てくれて、ほんと助かりました。あたしたちだけじゃ、細かいとこまで気が回りませんし」
シーパルのために、床擦れの塗り薬を調達してくれたのは、パナだった。
薬師の彼女の知識は、今後もシーパルの助けになるだろう。
「……褒めたって、なんも出ないよ」
そっぽを向くが、少し顔を赤らめたような気がする。
照れているのかもしれない。
顔を覗き込もうとすると、パナはフードを深く被り直した。
◇◆◇◆◇◆◇◆
政治的なやり取りがあるのだろう。
船長は、ホルン王国の海域へ入る前に、使者を乗せた小船を送り出し、一日停船させた。
ヴァトムの街並みが見えたところで、再び使者を出す。
『ヴァトムの塔』は、街並みよりも先に見えていた。
小船には、争う意志がないことを伝えるためか、白旗が掲げられていた。
ヴァトムからも、使者が来た。
船長やラグマの兵と、なにやらやり取りをしている。
それで、また一日経過した。
夜の闇の中でも、『ヴァトムの塔』は深紅に輝いていた。
ロデンゼラーを発ってから、すでに一月以上が過ぎ去っている。
ティアたちが乗る快速船が入港できたのは、翌日だった。
「ああ……揺れない足下、母なる大地……あなたを俺は愛しています」
船から降りることができたのが余程嬉しいのか、拷問から解放された囚人を思わせる表情で、ルーアがそんなことを言う。
シーパルは、担架でラグマの兵に運び出されている。
まだまともに歩けないテラントと、船酔いでふらふらしているルーアに肩を貸しているデリフィスは、いつも以上に憮然としていた。
ヴァトムの兵に、取り囲まれている。
馬上のリトイ・ハーリペットの姿も見えて、ティアは緊張した。
この街で騒動があったのは、春先である。
もう、半年以上前の出来事になるのか。
ティアたちは、それに充分過ぎるほど関わった。
リトイ・ハーリペットは、知人と言ってもいいかもしれない。
そして、完全な敵ではないだろうが、味方とも言えない。
今度は、船長とリトイ・ハーリペットのやり取りが始まる。
距離があるため、会話の内容は聞き取れない。
ティアは、焦れていた。
シーパルに、あとどれだけの時間が残されているのかわからないのだ。
だが、癇癪を起こしても、事態が好転することはないだろう。
最も我慢強さが足りないかもしれないルーアも、じっと耐えている。
単純に、船酔いの影響でそれどころではないだけかもしれないが。
今するべきことは、解放された時に要領よく動けるように、段取りを考えておくことか。
馬車と、馬を購入する。
そして、北へ向かう。
これから、寒い季節になる。
防寒着なども購入した方がいいかもしれない。
考えていると、ヴァトムの兵の一団が近付いてきていた。
「事情は伺っております。こちらへ。すぐに出立できるよう、馬車を準備させております」
みんなで、顔を見合わせた。
ティアたちのために、リトイ・ハーリペットやヴァトムの軍が、わざわざ馬車の用意をしてくれたというのか。
案内された場所にあった馬車は、立派な造りの物だった。
それに、四頭立ての四輪馬車だった。
ティアたち全員が横になれるだけのスペースが、充分にある。
馬の見立てはよくわからないが、駿馬なのだろう。
いい馬だ、とデリフィスが呟くのが聞こえた。
ティアたちが乗り込むと、すぐに馬車は動き出した。
人通りはない。
ヴァトムの兵が、市民の通行を規制しているようだ。
わざわざ、ティアたちのために。
街の門まで、止まることなく馬車は進んだ。
街の外の光景に、息を呑む。
街道にも、人通りはなかった。
街道の両脇に、ヴァトムの兵たちが一列に並んでいた。
それは、地平線まで続くようであった。
敬礼する兵たちの間を、馬車は猛烈な勢いで駆けていく。
「ちょっ……」
舌を噛みそうになりながら、ティアは身を乗り出した。
路面を叩く馬蹄の響きと、車輪が回る音がうるさい。
声量を上げなければ、御者台にいる兵たちに、声は届かないだろう。
「こんなペースじゃ、ロウズの村まで……!」
とても、馬が持つとは思えない。
「心配無用であります!」
兵も、声を張り上げる。
「次の街で、替え馬の用意をさせております! その次の街でも! それは、ロウズの村まで続きます!」
「え……?」
「私たちには、『ヒロンの霊薬』を用立てることはできませんでした! ですからせめて、あなた方を無事に、ロウズの村までお送りします! ヴァトムの兵の誇りにかけて! 一分でも、一秒でも早く!」
「なんで……」
なんで、そこまでしてくれるのだ。
「あなた方は、ヴァトムの街を救ってくれました! ですが、リトイ・ハーリペットは、この街に、ヴァトムの民に必要な領主です!」
それは、以前ヴァトムの市民と触れ合ったことのあるティアには、よくわかることだった。
リトイ・ハーリペットの存在が、どれだけ彼らの支えになっているか。
「ですから、あなた方のことを、あの事件の真実を、公にすることはできない!」
『コミュニティ』という組織を抜きに、真実は語れない。
そして、リトイ・ハーリペットは『コミュニティ』の一員である。
それが世間に広まれば、リトイ・ハーリペットはヴァトムの領主ではいられなくなるだろう。
知る必要のない真実というものが、世の中にはある。
「あなた方の戦いを歴史として残すことも、記録に記すこともできない! ですが、我々ヴァトムの兵は、生涯忘れません! あなた方が、街のために、民のために、領主のために戦ってくださったことを!」
兵の列から、喚声が上がった。
どこまでも、地平までも響いているかのように、ティアには感じられた。
「……あんたらがあちこちで色々しているのは、よくわかったよ」
笑いながら、パナが言った。
ローブの膝の辺りを掴んでいるユファレートの手が、震えている。
テラントとデリフィスは、頻りに遠くを見ていた。
「あたしたちがしてきたことって、無駄じゃないんだね……」
精一杯頑張って、懸命に努力して、それが必ずしも報われるとは限らない。
だけどきっと、完全に無駄になったり、無意味になったりはしない。
ロデンゼラーの兵とは、敵対に近い関係にまでなった。
それでも、ジェイク・ギャメやロデンゼラーの兵たちは、力を貸してくれた。
今、リトイ・ハーリペットやヴァトムの兵たちが、力を貸してくれている。
シーパルを助けたいという、ティアたちのために。
船酔いの影響がまだ抜けていないのか、ルーアは寝転がっていた。
頭から濡れたタオルを被り、表情はよく見えない。
「……なんて言うか、暑苦しい連中だな、まったく」
皮肉気にそんなことを言いながらも、微かに見える口許は、笑みを浮かべているようだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
掌底が、兵士の顎を打ち抜く。
頚椎がねじ折れる感触が、確かにリンダに伝わってきた。
山中での戦闘だった。
相手は、『コミュニティ』の構成員たち。
「ル・ク・ウィスプ!」
魔法を叫ぶ声がして、リンダは木の幹に身を隠した。
地面や木立に光弾が突き刺さる音が響く。
(あと、三人……!)
兵士たちは十人ほどいたが、それは全員倒した。
残る相手は、動き出した死人ではなく、人間である。
意を決して、リンダは木の陰から飛び出した。
右に、魔法使いと剣士。
左に、投擲用の短剣を構えた男。
逡巡せずに、リンダは右に向かった。
横手から、短剣が飛んでくる。
この攻撃が、最も鋭い。
手甲で弾き、魔法使いの前に出た剣士に接近する。
この剣士が、最も未熟であるようだった。
わずかに積もった雪に、足を取られている。
下段からの大剣の一振りを、半身をずらしてかわし、リンダは剣士の懐に潜り込んだ。
脇の下の急所に、肘を突き立てる。
悶絶したところで、すかさず膝を蹴りつけた。
リンダが履くブーツには、底には鉄板が、踵には刃が仕込まれており、骨程度なら簡単に砕ける。
たまらず転ぶ剣士の顎を、踏み砕く。
「フォトン・ブレイザー!」
また、魔法を叫ぶ声。
飛び退ったリンダがいた空間を、光線が貫く。
木立が薙ぎ倒される音を聞きながら、リンダは魔法使いへ向かい前進しようとした。
だが、投擲された短剣に遮られる。
魔法使いの掌。
「ル・ク・ウィスプ!」
なかなかの魔法の発動速度。
無数の光弾を、全てはかわせない。
観念して、リンダは歯を喰いしばった。
かわしきれなかった光弾が、右肩と脇腹に着弾する。
リンダが着る黒いボディスーツは、ドラウ・パーターに貰ったものであり、材質はよくわからないが多少の魔法は弾く。
多少はだ。
肩と脇腹が痺れるのを感じながら、リンダは前進した。
左から投げ付けられる短剣。
頭部と、膝を狙ったものだ。
左手を一振りして、リンダはそれを防いだ。
一本は叩き落とし、一本は掴み取っている。
左手を一閃させ、魔法使いに短剣を投擲する。
魔法使いは咄嗟に反応したが、短剣はその首筋を深く斬り裂いていた。
掌の先に集束していた光が、霧散する。
リンダが放った前蹴りが、魔法使いの体の中央を貫いた。
(あと一人……!)
短剣使い。
まだ若いが、なかなかの腕前だ。
だが、相手が悪かった。
ストラーム・レイルの女なのだ。
殺すには、あと五十年は修業が足りない。
投擲が通用しないと悟ったか、若い『コミュニティ』の構成員は、腰から細剣を抜き放った。
突き出してくる。
手甲の表面を擦らすようにして逸らし、リンダは男に近接した。
「フッ!」
息吹。掌底。
リンダの掌が、男の眼窩の下を砕いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ジェノラー隊が全滅。
ザイアムがその報告を受けたのは、ロウズの村の南方にある山に建てた、小屋の中でだった。
駆ければ、一日と掛からずロウズの村に着ける。
すぐに、オースター孤児院に戦闘を仕掛けられる位置といえた。
「五十人ですぞ……それを、三日と掛からずに……たった一人で……」
報告に来たサミー・ロジャーの表情は、強張っていた。
額が広い以外は、余り特徴のない男にザイアムには見えた。
この地域一帯にいる、『コミュニティ』の構成員を取り仕切っている男である。
魔法使いであるが、強靭な魔力は有していない。
戦闘員ではなく、研究者として『コミュニティ』に属している男なのだ。
それは、クロイツとの繋がりが強いということである。
「……この三ヶ月の間の犠牲は、これで四百を超えました……」
「そうか」
素っ気なく、ザイアムは頷いた。
別に、驚くことではない。
相手は、あの『鉄の女』と呼ばれている、リンダ・オースターなのである。
ストラーム・レイルに味方する者の中でも、その戦闘能力はトップクラスだろう。
近接の戦闘ならば、死んだランディ・ウェルズにも伍する実力の持ち主。
正面から掛かれば、五十人だろうと返り討ちにされるだけだ。
遠距離からの魔法攻撃も、通用しにくい。
彼女の装備やオースター孤児院の建物自体が、ドラウ・パーターの細工により魔法を防ぐのだ。
だが実際のところ、リンダ・オースターを殺すのはそれほど難しくない。
彼女には、オースター孤児院で暮らす子供たちが大勢いる。
何人かはそれなりに戦えるようだが、リンダ・オースターにとっては足手纏いにしかならないだろう。
五十人で孤児院に襲撃をかければ、子供たちを守りながらリンダ・オースターは死ぬ。
「次は、どういたしましょう?」
「さあ、どうするかな……」
この地域一帯の『コミュニティ』の構成員に命令を出す権利が、サミー・ロジャーにはある。
だがザイアムが来ると、彼は指揮権の全てをザイアムに委ねた。
そんなものはいらないと突っぱねたが、サミーは認めなかった。
ザイアムは、『コミュニティ』のトップの一人である。
指揮権を委ねるのは、当然と言えば当然だった。
ザイアムにとっては、ひたすらに面倒なだけだったが。
仕方ないから、命令を出した。
リンダ・オースターを殺さず、彼女の子供たちを殺さず、だがリンダ・オースターに襲撃をかけ続けろ。
人選は、サミーに任せた。
一応、命令通りにリンダ・オースターも彼女の子供たちも死んではいない。
そして、リンダは疲弊していく。
『鉄の女』といえども、疲れ切れば容易く折れるだろう。
なぜ殺さないのか、サミーは当然疑問だろう。
疑問をそのまま口にしない習性でも、あるのかもしれない。
ザイアムのことを、観察しているような雰囲気はある。
そこまで深い理由はなかった。
オースター孤児院が落ちれば、ティアやルーアは来ないのではないか、と思っただけだ。
わざわざ、こちらから向かうのも面倒である。
彼らもそろそろ、自身の力を自覚してもいい頃だ。
「ルーアたちは、今どこだ?」
「数日のうちに、ロウズの村に到着します」
「そうか」
思ったよりも、ずっと早い。
到着するのは、どれだけ急いでも年が明けてからだと思っていた。
まだ、十二月である。
「何人ほど、動かせる?」
「今すぐに、とおっしゃるのならば、兵士は、百人強というところでしょうか。ただし、失敗作のため、動きは悪いでしょう」
兵士の全てが、まともに動く訳ではない。
なにしろ、死体なのだ。
不良である兵士は、人体実験などに回される。
「私の助手たちが、八人。今も外にいますが、会われますか?」
「……一応、顔を合わせておこうか」
八人が入ってくるには、小屋は狭すぎる。
ザイアムは、外に出た。
サミーの指示に従い、寒風が吹きすさぶ中、八人が並ぶ。
「端から順に、ガイケル、ドリ、シャルル、ランワゴ、アリノリ、ジャック、ガンジャメ、アルベルトとなります。全員が、魔法使いです」
「……そうか」
二人目の時点で、覚えるのは諦めた。
「……よろしく頼む」
おざなりの挨拶をして、小屋に戻る。
サミーだけが、ついてきた。
「……お前の、兄弟かなにかか?」
「事情を知らない者には、兄弟や親戚と紹介しております」
八人は、よくサミーと似ていた。
兄弟のように、ではない。
サミー当人とほぼ同じ顔の者が、八人並んでいたのである。
だが、微妙に違う。
それは、眼の大きさであったり、鼻の高さだったり、耳の形だったりする。
「……クロイツの実験体か?」
「その、失敗作でありますな。私たち九人は」
特に卑下することもなく、自分たちのことを失敗作と言う。
「あと、クロイツが是非作戦に参加させてくれと、二人寄越しています」
「……誰だ?」
「サムとダワンダの兄弟です」
「知らんな……」
正直に、ザイアムは言った。
サミーの、口が割れる。
笑ったのだと、ザイアムは気付いた。
「『天使憑き』ですよ」
「……」
舌打ちしそうになる。
クロイツの目的が、微かに見える。
彼は、どこまでザイアムの思惑を見抜いているのか。
「とても、全員覚えきらん。お前たち九人の、見分けもつかん。今後とも、お前に指示を出す。定期的に私の所へこい。他の者には、お前が伝えるのだ」
苛立ちを隠しながら、ザイアムは言った。
サミーは、まるで忠実な部下であるかのように、丁寧に頭を下げた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
馬車での移動となり、一週間ほど経過してからか。
パナが、体調を崩した。
冷や汗をかくようになり、吐き気がするらしい。
普通の乗り物酔いとは、やや症状が異なるのかもしれない。
血色が悪く、手足が痺れるようだ。
翌日からは、ティアにも同様の症状が出るようになった。
環境の変化が原因だろう、とルーアは思った。
ほぼ一日中、激しく揺れる馬車の上なのだ。
食事なども、車上で済ます。
眠る時も、馬車は走り続けている。
止まるとしたら、街や村で馬を替える時と、排泄行為の時くらいか。
ティアも体調を崩した翌日からは、馬車の速度を落としてもらった。
一刻も早くロウズの村へ向かいたいが、そのために誰かが重大な病などになっては、本末転倒である。
三時間に一度、休憩時間を取るようにした。
また、パナがなにやら薬を調合した。
それ以来、体調を崩す者はいない。
ルーアは、乗り物酔いなど起こさなかった。
これまでの人生でも、船以外の乗り物で酔ったことはない。
ただ、ストレスが溜まった。
元々の六人に、パナと交代の御者。
さすがに、馬車の中は狭かった。
それに、毎日毎日ほぼ二十四時間誰かが側にいるのである。
彼らのことを、嫌ってはいない。
好きか嫌いかで分けるなら、間違いなく全員が好きな分類になる。
それでも、一人の時間がないのはストレスが溜まった。
些細なことで苛立ち、爆発しそうになる。
そんな時は、眠るシーパルの顔を見た。
ルーアだけでなく、みんなが少なからず堪えているはず。
自分だけが苛々としている訳ではないのだ。
北国出身のティアとユファレートの薦めで、まだ涼しいうちから防寒着を購入した。
急激に冷え込む時期になるという。
ルーアは、『バーダ』という部隊に所属していた。
半分警察、半分軍隊というような組織である。
真冬に、何日も外で張り込みをしたこともあった。
寒さには強いつもりだったが、甘かった。
十一月の後半になると、急に寒さの質が変わった。
今まで経験したことのない寒さである。
寒さが痛さに変わり、やがて感覚を失う。
体の芯まで冷えているのが、よくわかった。
ほんの少し前まで、南国ラグマにいたのだ。
真夏から真冬に叩き落とされたような気分だった。
ラグマ出身のテラントなど、口を開こうともしない。
ティアやユファレートは、わりと平然としている。
道は、除雪されていた。
道の端にどけられた雪は、ルーアの肩の高さまである。
ティアたちの話によると、年が明けると、今以上の降雪量となるらしい。
まだ、十二月である。
ロウズの村には、あと数日で到着するだろう。
ロデンゼラーを出発してから、三ヶ月が過ぎた。
たった、三ヶ月しか過ぎていない。
半年以上かかるはずだった。
半分の日数である。
ロデンゼラーの人々、ヴァトムの人々、多くの協力があった。
恩がある、とラグマ王国執務官ジェイク・ギャメは言った。
リトイ・ハーリペットやヴァトムの兵が力を貸してくれるのも、似たような理由だろう。
それほどのことをしただろうか、と思ってしまう。
頼んでもいないのに、彼らは協力してくれている。
仲間、というものをしばしば考えた。
もし、ルーアが独りだったら。
独りで誰かを助けようと必死になったとして、こんなにも協力してくれる者が現れるだろうか。
独りの旅だったはずだ。
独りじゃないと気付かされたのは、いつからだろう。
記憶を辿っていく。
もしかしたら、あの時かもしれない。
独りで戦い続け、傷付き、敗れ、ティアに胸倉を掴まれた時。
仲間だと言われた時。
ティアの顔を、盗み見た。
寒さのためか、鼻や頬が赤い。
視線に気付いたのか、ティアが見返してくる。
なんとなく、ルーアは視線を外した。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ロウズの村の南に、名もない村がある。
雪に埋もれるような、山間の小さな村である。
十二月も後半となっている。
ティアたちがその村に到着したのは、日が沈んでからだった。
ロウズの村まであと一日というところだが、無理はできない。
雪は、止むことなく降り続いている。
その日は、村に一軒だけある宿に泊まることにした。
一階は、食堂となっている。
夕食中の来訪者に、ティアは立ち上がった。
「シュア姉ちゃん!」
同じオースター孤児院で育った、ティアにとっては姉となる人である。
孤児院の中では母であるリンダに次いでの年長であるため、子供たち全員の姉だった。
「シュアさん!?」
ユファレートも、驚いた様子を見せる。
以前、ロウズの村は盗賊団に狙われたことがある。
助けてくれたのは、ユファレートや彼女の祖父であるドラウ・パーター、そしてハウザードだった。
その時に、ユファレートたちはオースター孤児院に宿泊している。
家族とは顔なじみなのだ。
シュアが、ティアの名前を呼びながら、近付いてくる。
その背後で宿の扉を閉めている男性は、ホルン王国の軍服を着ていた。
「ティア、久しぶりね。ユファレートちゃんも」
肩の雪を払い、厚手のコートを脱ぐ。
でけえ、とルーアが呟くのが聞こえた。
シュアは、実に女らしい体つきをしている。
「みなさん、初めまして。妹がいつも世話になっています」
そう言うシュアに返答するテラントやデリフィスの視線も、シュアの首と腹の間をうろうろしている。
男なんて、死んだ妻一筋と宣う者も、いくらクールに振る舞う者も、どいつもこいつも結局そうなのだ。
ユファレートに、肩を叩かれた。
「どんまいティア!」
どういう意味だ。
「シュア姉ちゃん、どうして……」
「これを……」
脱いだコートのポケットから、取り出す。
衝撃吸収材の代わりか、ハンカチで包んだ小瓶。
小瓶の中には、エメラルドグリーン色をした液体。
「『ヒロンの霊薬』!?」
「急いでるんでしょ?」
馬や御者の準備のため、ヴァトムの兵がティアたちより一日先行していた。
シュアの背後に控える軍服の男性が、それだろう。
ロウズの村まで窮状を伝えてくれたのか。
それで、シュアが『ヒロンの霊薬』を持ってきてくれた。
ヴァトムの兵に渡してくれるだけでも良かったような気もするが。
『ヒロンの霊薬』を受け取った手が、震える。
「パナさん、これを……」
「うん……うん、わかってる」
さらにティアから手渡されたパナも、動転している。
やっと、やっと手に入ったのだ。
念願の『ヒロンの霊薬』が。
二階にあるシーパルを寝かせてある部屋に、みんなで駆け込んだ。
注射器に『ヒロンの霊薬』を移すパナの手も、震えている。
「……パナさん」
「ああ、わかってるって」
一旦、パナは深呼吸をした。
そして、シーパルの腕に注射を打つ。
「……どうだ?」
誰かが、呟いた。
みんなで、シーパルの顔を見つめる。
「……おい、起きねえぞ」
十数秒経過したか、ルーアが呻く。
ティアは、パナの袖を掴んだ。
「パナさん……」
「あたしにもわかんないよ……」
この眠りは、ヨゥロ族でもごく一部の者だけができるという特別な眠りである。
その仕組みを理解できている者は、いない。
シーパルも、わかっているのかどうか。
話によると、二、三ヶ月眠り続けるという。
そして、三ヶ月以上が過ぎていた。
「叩き起こすか?」
短絡的に言うルーアを、テラントが止めた。
「まあ、待て。毒を分解している最中かもしれん」
さすがに年長者らしく、落ち着きを取り戻していた。
「『ヒロンの霊薬』は打ったんだ。しばらく、様子を見よう」
テラントの提案に、デリフィスも無言で頷く。
それで決まりだった。
「ありがと、シュア姉ちゃん」
シュアは、遠慮がちに部屋の入り口近くにいた。
「……大丈夫なの、あの人は」
「大丈夫だよ、絶対……」
大勢の人々が協力してくれた。シュアも。
シーパルは、必ず助かる。
「彼が眼を覚ますまで、待ってね。そしたら、村に顔を出すから」
「あら、駄目よ」
「え……?」
意外な言葉に、ティアは戸惑った。
シュアは、昔からのおっとりとした喋り方で続ける。
「『ヒロンの霊薬』はその人に打ったんだし、もう村に用事はないでしょ?」
「えと、いやでも、ここまで来たんだし……」
先程微かに感じた疑問が、頭を過ぎった。
わざわざシュアが来なくても、ヴァトムの兵に『ヒロンの霊薬』を渡せば良かったではないか。
この村まで来たのは、ティアに告げるためなのではないのか。
「ティアは、ユファレートちゃんのお兄さんを捜す旅の途中なんでしょ?」
「うん、だけど……」
「だったら、旅を再開して、早くハウザードさんを見付けなきゃね。ユファレートちゃんのためにも。ね?」
「シュア姉ちゃん……?」
なにかおかしい。
噛み合わない。
ロウズ村は、もうすぐそこなのだ。
村へ立ち寄り孤児院に顔を出すことは、当然だとティアは考えていた。
そして、シュアも孤児院のみんなもそれを望んでくれているはず。
むしろ、二年も帰省していなかったことを、怒られるのではないかと思っていた。
そして、無理矢理にでも村へ連れていかれるはずだった。
廊下に出たシュアが、窓に眼をやる。
吹雪始めているようだ。
「……今日は、ロウズ村まで帰れそうにないわね。今晩は、ここに泊めてもらうとするわ。部屋、空いてるといいけど」
「待ってよ、シュア姉ちゃん!」
立ち去ろうとするシュアの腕を、ティアは掴んだ。
「あの……なんで……? なんか変よ! ……もしかして、怒ってる? あたし、二年も帰らなかったから……」
「……そんなことないわよ」
「だって……」
尚も喰い下がると、シュアは溜息をついた。
「……ティア、あなた、レボベル山脈で古代遺跡を発見したでしょ?」
「……え。……うん」
いきなり古い話題を持ち出されて、ティアはまた戸惑った。
随分と昔の話である。
まだ、ルーアたちと出会う前、ユファレートとの二人旅だった時。
レボベル山脈で偶然発見した古代遺跡。
その時に得た財産が、現在のティアとユファレートの旅の資金源となっている。
「それで、孤児院にもお金を入れてくれた」
「……うん」
「だけど、新聞にまで載ったのはまずかったわね」
「え……?」
「それからね、何度か孤児院が泥棒や強盗に狙われたの。幸い、怪我人とかなかったけど」
「あ……」
絶句する。
確かにティアたちも、何度か襲われた。
剣を遣わなければ、撃退できないこともあった。
孤児院も、危険な目に遭っていたのか。
「最近ようやく、そういうこともなくなったの。でも、ティアが孤児院に戻ったら……わかるでしょ?」
「……」
シュアの表情は、穏やかだった。
言葉が出てこない。
ティアの背後にいたルーアやユファレートに頭を下げて、シュアは立ち去った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
絶対に、なにかがおかしい。
少しずつ平静を取り戻したティアは、まずそう思った。
浅はかな行動をしたかもしれない。
孤児院に、たくさんの迷惑をかけたかもしれない。
でも、そうだとしても、ティアの帰省を拒むなんて真似を、オースター孤児院のみんなはしないはずだ。
シュアも、あんな言い方はしない。
もっと言葉を選ぶ。
なにかを隠している。
なにか理由があって、ティアをロウズの村から遠ざけようとしている。
「シュア姉ちゃん!」
シュアは、宿の受付で部屋を取っているところだった。
ティアに向けて、うるさそうな表情をする。
部屋の鍵を受け取り、階段を上がっていく。
ティアは、それを追い掛けた。
「絶対、なにか隠してる! ちゃんと話してよ! なにがあったの!?」
「……別に、なにも隠してないわ」
「嘘! 絶っ対に嘘!」
廊下で溜息をつき、それからシュアは部屋へ入っていった。
扉を閉ざされる前に、ティアは体を滑り込ませた。
「シュア姉ちゃん!」
シュアはまた溜息をつき、ティアの手を取った。
部屋にある椅子に、ティアを座らせる。
そして、再び溜息。
「……だから、無理だって言ったじゃないですか」
「……え?」
ティアがきょとんとすると、シュアの隣の空間が揺らめいた。
白い人影が、ぼんやりと現れる。
「ふむ……」
「ちょっ……!?」
椅子から、転げ落ちそうになった。
「エ、エ、エスさん!?」
そう、突如部屋に現れたのは、全身が真っ白なエスだった。
「なんっ……え!? なんで!?」
「落ち着きたまえ、ティア・オースター」
いつもの口調。
「説明してあげよう。オースター孤児院でなにが起きているのか。君が知らない、リンダ・オースターの真実を」
エスの横で、シュアは溜息をついていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
その日、ティアは初めて知った。
母であるリンダが、ルーアの師でもある英雄ストラーム・レイルの仲間であったことを。
若い頃は、共に旅をしていたのだと。
ずっと、『コミュニティ』と戦っていたのだと。
「現在も、『コミュニティ』と交戦中だ」
「だったら……!」
ティアは、思わず立ち上がっていた。
「あたしたちも、一緒に戦います! それで……」
「だから、駄目なのよ……」
シュアが、眉間を押さえながら溜息をつく。
「リンダ・オースターが相手をしている者たちの背後で指揮を執っているのは、ザイアムだよ」
「……ザイアム?」
初めて聞く名前だ。
それなのに、エスが口にしたその名に、不吉なものを感じた。
「彼は、『コミュニティ』の最高幹部の一人だ。ボスが死んだ現在では、実質上のトップだな。彼の戦闘能力は、私でも測りきれない」
「……でも、どんなに強くても、みんなで力を合わせれば……」
「力を合わせれば、か……」
呟くエスの言葉には、憐れむような響きがあった。
「君は、彼と同じ立場である、ソフィアと会っているね?」
「はい……」
ソフィアと会ったのは、ここホルン王国の、ヴァトムの街だった。
まざまざと思い出す。
美しい表情。
妖艶な微笑み。
圧倒的な戦闘能力。
巨大な禍々しい鎌。
ルーアの左腕を破壊し、一蹴したのだった。
デリフィスが助けにこなかったら、ルーアもティアも、殺されていただろう。
「違うな。ルーアとデリフィス・デュラムの二人が相手だったから、ソフィアは引いたのではない」
ティアの思考を、エスは読んだのかもしれない。
「ただ彼女は、君たちを殺すつもりがなかった、それだけだ。もしテラント・エセンツやシーパル・ヨゥロ、ユファレート・パーターがいても、彼女がその気になっていたら、全員殺されていたよ」
「そんなこと……」
否定しようとした。
だが、想像できなかった。
軽くルーアを捻り、駆け付けたデリフィスにも動じることのなかったソフィアを、倒すことが。
「ザイアムには、ソフィアの『邪眼』のような特色能力はない。魔法も使えない。だが、地力だけならソフィアよりも上だ」
「……!?」
「君たちが力を合わせ、知恵を持ち合い巧妙な策略を巡らし、全力を振り絞り幸運にも恵まれたとしてもだ、ザイアムには傷一つつけられないだろうよ。ハウザードやズィニア・スティマも、彼に比べたらかわいいものだ」
淡々と、エスは言葉を紡いでいく。
薄暗い部屋で、エスの白い姿は鈍く輝いて見えた。
「対抗できるとしたら、ストラーム・レイルくらいなものだろうな。君は知らなかっただろうが、私たちと『コミュニティ』は、絶妙なバランスで戦力を拮抗させていた」
ベッドが軋む音がした。
黙って聞いていたシュアが、腰を降ろしたのだ。
「私が『コミュニティ』の頭脳を牽制し、ストラームやドラウ、そしてランディやリンダが、ソフィアを筆頭とした『コミュニティ』の戦力を押さえていた」
母の名前に、ティアは顔を上げた。
いつの間にか、俯き加減になっていた。
「押さえることができていた。均衡の中で、私が最も恐れていたのは、ザイアムが動き出すことだった。彼は、争いに無関心だった。彼が動かないことで、かろうじて均衡は保たれていた」
「……」
「これは、最悪なことだよ。均衡は、一気に崩れる」
「……勝てないって言いたいことは、よくわかりました。でも、まだ母さんたちは戦ってるんですよね? だったら、避難させるだけでも……」
「まだ、わかっていないようだね」
エスが、溜息をつく。
ベッドの上で、シュアが何度目かの溜息をつくのも見えた。
「ザイアムがそのつもりになっていれば、リンダ・オースターはとっくに殺されている。オースター孤児院も潰されていただろう。なぜ、それをしないか。君たちをおびき寄せるためだろう」
「あっ……!」
「君たちが向かうことで、ザイアムは躊躇うことなく行動を起こせる訳だ」
リンダや孤児院のみんなを、死なせることになる。
エスは、そう言いたいようだ。
「君たちがロウズの村に向かわなければ、リンダ・オースターはまだ殺されないかもしれない。時間を稼げるということだ。なにか、手を打てるかもしれないな」
「あたしたちは、なにをすれば……」
「なにもするな。ロウズの村にも近付くな。それが、君の家族のためだ」
断言されて、ティアは視界が眩むのを感じた。
それなのに、エスの姿だけははっきり認識できる。
「……時間を稼いで……手を打つって……当ては、ありますか?」
「ない。リンダ・オースターを見捨てる公算が高い」
「そんなっ!?」
ティアは、また立ち上がっていた。
勢いで、椅子が後ろに倒れる。
「嫌です! そんなのって、納得できない! あたしは、村に行きます! それで、母さんもみんなも助けて……!」
「君にとって、仲間がそんなに軽い存在だとは思わなかったよ」
「……え?」
「君が家族を救いたいと願い、ロウズの村に向かう。君の仲間たちは、どうするか……考えるまでもないだろう?」
「……」
一緒に来てくれる。きっと、いや、絶対に。
「さて、相手はザイアムだ。ストラーム・レイルの無数にある化け物染みた伝説は、いくらでも聞いたことがあるだろう? 彼に匹敵する、ザイアムが敵だよ。ただ、死体が六つ増えるだけだ。ああ、今はパナという者もいたね。もしかしたら、七つかな」
エスが近付き、ティアの肩に手を置いた。
「家族も仲間も死なせるか、それとも仲間は死なせずにすませるか。君は、どちらを選ぶかね、ティア・オースター?」
◇◆◇◆◇◆◇◆
ティアの様子がおかしい。
姉だというシュアと話してからだ。
宿の個室に閉じ籠もり、誰とも顔を合わせない。
ユファレートが呼び掛けても、返事がない。
ルーアは、放っておくことにした。
これまでも、そうだった。
誰にだって、プライベートな事情はある。
以前シーパルがヨゥロ族のことで悩んでいた時も、無理に聞き出そうとはしなかった。
テラントは父親と上手くいっていないようだったが、それに関わることはしなかった。
ティアには、ユファレートがいる。
落ち着いたら、そして誰かに話す必要があるのなら、彼女に言うはずだ。
それまで、待てばいい。
翌朝、吹雪は治まっていた。
雪は、深々と降り続けている。
シュアは、ルーアが目覚める前にロウズの村に戻ったようだ。
ティアが、部屋を出てきた。
心配するユファレートに、微笑み返している。
シーパルは、未だに目覚めない。
気付いたのは、昼食後だ。
ティアが、いなくなった。
宿にも、村のどこにもいない。
ルーアは舌打ちをして、適当な木に蹴りを入れた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
なにをどうすればいいのか、わからない。
それでもティアは、ロウズの村に向かっていた。
家族を見捨てるなんて、できない。
だからといって、きっと力になんてなれない。
家族を助け、守りたい。
だけどきっと、独りでは余りにも無力で。
頼めば、きっとみんなは力を貸してくれる。
みんな、ティアよりもずっと強い。
それは知っている。
でも、敗れたことがあることも知っている。
今度の相手は、彼らを敗った者たちよりも、強敵だという。
(……どうすれば……いいんだろ……?)
家族を助けたい。
だけどそのために、仲間たちを巻き込めない。
独りで、ロウズの村に向かっていた。
みんなには、なにも告げていない。
ついて来ないよう言ったところで、納得しないだろう。
ちょっと出掛けてくるなどと嘘をついても、彼らが騙される訳がない。
書き置きや伝言も、意味がないだろう。
だから、なにも言わずに宿を出た。
今頃、みんな捜してくれているだろうか。
もう、ティアの行き先に気付いたかもしれない。
彼らに追い付かれたら、どうすればいいのか。
どうすれば追い返せるのか。
それ以前に、どう接すればいいのか。
それすらも、わからない。
背後から、風を切る音がした。
舌打ちも、聞こえたような気がする。
だから、ユファレートではない。
ユファレートは、舌打ちなんてしない。
わざわざ飛行の魔法を使って追ってきたのか。
こんなに寒いのに。
飛行の魔法は、とても疲れるらしいのに。
「……早過ぎるのよ、バカ」
思わず、ティアは呟いていた。
まだ、なにを言えばいいのか、纏まっていないのに。
どんな顔をして接すればいいのか、わかっていないのに。
長い赤毛をたなびかせ、先回りをしたルーアが着地する。
不機嫌そうな表情で。
「あー、くそっ! 寒い! くそっ! 顔痛え! 耳痛え!」
一頻り喚くと、ティアを睨みつけてきた。
「馬鹿。おい、馬鹿。弱っちいくせに、なに一人でうろちょろしてんだ、馬鹿」
苛立っている。
当然かもしれない。
逆の立場だったら、ティアも腹を立てる。
腹を立てられていることが、嬉しくもあり辛くもある。
優しい言葉をかけられても、嬉しくて辛かっただろう。
「……」
上手く、喋れなかった。
なんと言えばいいのか、まだわかっていなかったのだから。
ティアが進んでいた方向を、ルーアは一瞥した。
「こっちは、ロウズの村の方だよな? ロウズの村に行くんだな? わかった。一緒に行ってやるよ。いいな?」
「……駄目」
ようやく出せた声は、自分でも驚いてしまうほど弱々しかった。
「あたし一人で行くから、ルーアたちは来ないで……」
「わかった。納得できる理由があるなら、そうする」
そう言うと、ルーアは一歩近付いてきた。
「なにがあったか、話せよ。嘘はつくなよ。嘘をついたら、ひっぱたく。マジで」
やっぱり、怒っている。
「……昨日ね、お姉ちゃんと話していたら、エスさんが来たの」
「……エスが?」
「母さんね、ストラームさんの仲間だったんだって。ずっと、『コミュニティ』と戦ってたんだって。今も……」
「わかった」
ルーアが、頷いた。
「『コミュニティ』が相手なんだな、わかった。なんだ、いつも通りじゃねえか。いつも通り、ぶっ潰せばいいんだな? わかったよ」
「駄目だよ……」
「なにが駄目だ?」
「凄く、強い人みたいだよ。あのソフィアって人よりも、強いかもって。ストラームさんくらい、強いって。あたしたちじゃ、絶対勝てないって」
「ほー。そりゃきついな。けどまあ、なんとかするさ」
「……なんとかって?」
「知るか。なんとかはなんとかだ」
「……」
やっぱり、駄目だ。
根拠もなく、強がっているだけだ。
巻き込めない。
「……あたしだけで行くから」
「お前だけで行って、なにができんだよ? 俺も行ってやるっつってんだ」
唇を、噛んでいた。
「あたしだけで行くから……」
「……要するに、お前はあれか。俺たちのことが、信用できない訳だ。エスの野郎の言うことを、信じる訳だ」
「……あたしは、巻き込みたくないの……」
ルーアが、手を上げた。
叩かれるのかと、思った。
「……あー、糞ムカつく! マジムカつく!」
勘違いだった。
ルーアは、乱暴に苛々と自分の頭を掻きむしっている。
「お前なぁ! お前……お前が言ったんだぞ!」
「……え?」
「お前……ああ、ヴァトムでだ! お前が……俺のことを仲間だって言ったんだぞ! あれは、嘘なのかよ!?」
「……嘘じゃないわよ……」
「だったら……仲間だってんなら、巻き込めよ!」
「だって……」
「だって、じゃねえ! いいか!? 俺も、お前のこと、仲間だって思ってるから……」
そこまで言って、急にルーアは頬を引き攣らせた。
顔を赤らめていく。
「くっそ……! こんなこと言わせんなよ! キャラじゃねえんだよ! 最悪だ! 人生の汚点だ! 黒歴史だ!」
「……なに言ってんのよ」
「いいか!?」
こちらの顔に、指を突き付けてくる。
「お前の家族も、お前も、絶対に守ってやる。当然、俺たちの誰も死なない」
ふっと、ルーアの表情に陰が差す。
「……シーナにも、似たようなことを言った」
「……」
「あんな失敗は、もう二度としないから。なにがなんでも、なんとかしてやるから。それに……」
顎をしゃくる。
ティアの背後を示しているようだ。
「あいつらも、手伝うってよ」
馬車が、向かってきていた。
遠いため断言はできないが、御者台にいるのは、おそらくテラントとデリフィスか。
ヴァトムの兵たちには、村に残ってもらったのだろう。
「俺たちで、なんとかしてやる。これまでも、なんとかなってきただろうが」
「……」
無言で、ティアはルーアを突き飛ばした。
その脇を、通り過ぎる。
「……おい」
ルーアの、苛立った声。
ティアがそれでも独りでロウズの村へ向かうつもりだと、勘違いしたのだろう。
肩を掴んで、無理矢理振り返らそうとする。
仕方ないから、ルーアの胸にティアは額を押し付けた。
「…………あれ?」
ルーアの声が、固くなるのがわかる。
「……勘違いするなよ、バカやろー」
ティアは言った。
泣きそうになってしまったのだ。
その顔を、見られたくなかった。
だから、背中を向けた。
それなのに、無理矢理振り返らそうとする。
こうしないと、顔を隠せなかったのだ。
「……俺たちで、なんとかしてやるから」
「……うん」
頼っていいのだ。
巻き込んでいいのだ。
この仲間たちなら、きっとなんとかしてくれる。
「……みんなを、助けたいの。……お願い……力を貸して……」
「おう。貸してやる。任せとけ」
馬車は、まだ遠い。
こちらの様子は、よく見えないだろう。
勘違いされることもない。
もうしばらくは、馬車がもっと近付いてくるまでは、こうしていよう。
ティアは、そう思った。