エピローグ
目覚めたのは、外が明るかったからだと思う。
体が、異様に怠い。
胸はまだ痛んだ。
「……」
ルーアは、しばらくぼんやりと木の天井を眺めた。
染みが、左眼だけでも見える。
視力は、かなり回復したようだ。
寝台の上である。
それは構わないのだが、布団に潜った記憶がない。
(俺は……)
ザイアムに負けた。
それでもオースター孤児院に戻って、そこでも戦闘があって。
なぜか、ティアに抱き着かれたのだ。
そして。
「……なんで、殴られなきゃなんねえんだよ……?」
それも、意識を失うほどに。
「馬鹿だからだろ」
冷たい突っ込みに、目玉を動かす。
テラントが、だらし無く椅子に腰掛けていた。
「……俺、どんくらい眠ってた?」
意識を失う前は、夜だった。
窓から見える空は雲が覆い、雪が降り落ちている。
正確な時間はわからないが、太陽は沈んでいない。
半日眠っただけとは思えなかった。
「二日……一日半てとこか」
「……そうか」
思ったよりは短い。
一週間眠り続けたと言われても、驚きはしなかった。
「最悪だな……」
ルーアは呟いた。
「ん?」
「一日半眠り続けて……ようやく目覚めて……」
「ああ」
「なんで側にいるのが、男なんだよ……」
「まあ、気持ちはわからんでもない」
「ユファレートはなにやってんだ!? シュアさんは!? あのミンミって子でもいいぞ!」
パナの名前は、一応出さなかった。
なんとなく、パナの夫のドーラに悪い気がする。
「ティアなら……」
「……あいつのことは、聞いてねえ」
つい、抱き着かれたことを思い出してしまう。
「ティアは、ちょっと前までお前の側にいたぞ。それこそ、ずっと離れようとしなかった」
「……あっそ」
「ほとんど寝てないみたいだったし、さすがに体に障るだろうから、無理矢理ユファレートたちに連れていかせた」
「……」
なにか、胸の辺りがむずむずした。
それがなにか、よくわからない。
「……他の連中は?」
「みんな、一応無事だ。シーパルもリンダさんも、歩き回れるくらいには回復してる」
「そうか……」
デリフィスは、外の見張りでもしているのだろう。
「……あれから、襲撃は?」
「ないな」
「ないのか」
ザイアムは、なにをしているのか。
訳がわからない行動は、昔からだった。
「俺からも、聞きたいことがある」
椅子が軋む。
テラントが、水差しに手を伸ばしたようだ。
「なんだ?」
「なんで、お前生きてるんだ?」
「……ああ……」
なんと言うべきか。
ルーアは、助けてくれた女のことを思い出していた。
半死状態だったからか、片眼が見えていなかったからか、記憶が曖昧である。
顔を、はっきりと思い出せない。
もしまた出会えば、すぐにわかるだろうが。
あの女のことを、テラントに話していいものか。
迷っていると、テラントは立ち上がった。
「水を取ってくる。なんか、食い物とかいるか?」
多分、ルーアを拾ったデリフィスにも聞いているのだ。
そしてデリフィスは、曖昧なことしか言わなかったのだろう。
無理矢理聞き出さない。
テラントなりの気の遣い方なのだろう。
「あー……腹は減ってんのかな……よくわからん。喉は、渇いてる」
「そうか」
ドアノブを回そうとする。
「テラント」
呼び止めた。
「目覚めた時に側にいたのがあんたで、都合良かったのかもな」
「ん?」
迷う。
確たる証拠はない。
憶測の域を出ていないかもしれない。
だから迷う。
(けど……)
「テラント、あんたにだけは、話しておくべきなんだろうな。他の奴らに話すかどうかは、あんたが決めてくれ」
「……」
テラントの表情が変わった。
重要なことを話そうとしていると、察したのだろう。
緩んだ雰囲気がどこにもない、真面目な表情。
「いきなり掴み掛かったり、殴り掛かったりはしないでくれよ?」
「……? ああ」
「俺を助けてくれたのは、マリィ・エセンツだ。多分、だけどな。けど、まず間違いないと俺は思ってる」
「……」
屋根から雪が落ちる音がした。
「俺の言ってる意味、わかるか? あんたの嫁さん、生きてるぞ、テラント」
テラントは、無表情だった。
人はここまで表情を消せるのかと思ってしまうほど、無表情だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ルーアは目覚めたらしいが、ティアが顔を見に行った時には、再び眠りについていた。
一度無事に眼を覚ましたのだ。
もう大丈夫だと思いたい。
夜だった。
大半の部屋で、明かりが消されている。
なぜか、二日ほど襲撃がない。
こちらには、デリフィスしか戦える者が残っていなかったのに。
なぜ、畳み掛けるように攻めてこないのか。
あのザイアムという男は、なにをしているのか。
逃げることはできなかった。
大雪となっている。
子供や怪我人を連れて村から脱出することは、できそうになかった。
なにか、方策を考えなければ。
(考えなきゃ、いけないんだけど……)
トイレに行った帰りの、暗い廊下である。
余計なことを考えてしまう。
ユファレートやパナのせいだった。
ルーアに抱き着いてしまった件について、事あるごとにからかわれるのである。
逃げるように、トイレに行ったのだった。
身近な誰かに死なれるということに、ティアは余り慣れていなかった。
幼い頃に、両親が死んで以来、家族や仲間、友人を失ったことはない。
シーナが死んだ時はもちろん辛かったが、まだ深い付き合いといえるほどの関係ではなかっただろう。
そして、ティアとは比べものにならないくらい、シーナの妹のリィル、それにルーアは辛かっただろう。
あの時は、二人のことばかり考えて、悲しむ暇がなかったという感じだった。
だから、ルーアが死んだのは、ティアにとっては両親を失った時以来の衝撃だった。
でも、生きていた。
そして、戻ってきた。
それが嬉しくて、ついあんな行為に及んでしまった。
だが、そこにあるのは友情だけである。
だから、家族や他の男性陣、もちろんユファレートやパナに同じことがあったとしたら、やはり同じように抱き着いてしまうはずだ。
ルーアに対して、異性としての意識や恋愛感情などは、一切ない。
ティアがそう力説しても、ユファレートやパナは、『ふぅぅん、そぅお』みたいなことを言って、にやにやするのだった。
そんな話で盛り上がっている場合ではないというのに。
(……べつに、意識なんかしてないわよ)
もやもやと、ルーアの姿を思い浮かべてしまう。
可愛い気のない、拗ねたような顔付き。
眼付きが悪くて、口が悪くて、態度が悪くて。
だらし無い髪型だし、赤チンピラだし。
(意識なんか……してない……はず、なんだけど……)
急に顔が熱くなるのを、ティアは感じた。
窓に触れて冷やした手を、頬に当てる。
(意識なんかしてないわよっ! ……まあ、感謝はしてるけど……)
何度も助けてくれた。
『ヴァトムの塔』では、本当にぎりぎりのところできてくれた。
それに、あんな高い所から飛び降りてまで助けてくれた。
アスハレムでも、ぎりぎりだった。
サンのことも、助けてくれた。
今回も、家族のために戦ってくれている。
すごく感謝している。
そういう感謝の気持ちが、恋愛感情とかに発展したりすることもあるわけで。
(ないわよっ!)
慌てて否定する。
それに、逆にルーアのことをティアが助けたこともあったはず。
仲間だから、友達だから、当然だ。
つい抱き着いてしまうこともある。
それを、ユファレートたちは勘違いして。
(そういえば……)
抱き着かれたルーアは、どうなのだろう。
やはり、勘違いするのではないだろうか。
(勘違いされたら、どうしよう……)
こう、迫ってきたりとかしないだろうか。
顔が、さらに火照るのを感じた。
また窓を拭いて、冷たくなった手を頬に当てる。
こんな状態で部屋に戻ったら、またユファレートたちに冷やかされてしまう。
なかなか火照りが治まらない。
窓を何度も拭くことになった。
外が、よく見えるようになっている。
だからだろう、それに気付けたのは。
吹雪始めた外、雪が積もった裏庭に立つリンダ。
そして、あのザイアムという大男。
「……!」
血の気が引く。
外は、デリフィスが見張っていたはずだ。
彼に気付かれることなく、懐まで入り込んできたというのか。
裏口から飛び出していた。
一人で向かってなにができるのか。
助けを呼ばなくては。
だが、誰があの男を止められる。
どうしても、ルーアが大剣で貫かれたあの情景を思い出してしまう。
リンダとザイアムは、少し距離を置いて向かい合っていた。
会話をしているのか、互いに口を動かしている。
吹雪のため、内容は聞き取れない。
「母さんから離れて!」
リンダと挟み込むような位置で、ティアは小剣を抜いて、ザイアムに向けた。
兄から借りた物で、まだ手に馴染んでいないためか、微妙に持ちにくい。
肩越しのザイアムの視線。
それだけで、心が挫けそうになる。
「ティア!?」
慌てたのは、リンダだった。
「ティア! やめな! ザイアムは、あんたにとって……」
「母さん……?」
その切羽詰まった様子に、戸惑いを覚えてしまう。
「勘違いをするな」
ザイアムが、ゆっくりと振り返る。
「『コミュニティ』がオースター孤児院を攻撃することは、もうない。今日は、それを伝えに来ただけだ」
「……え……?」
理解に時間が掛かる。
もう攻撃しないと言ったのか。
「……そ、そんなの……これまで散々……」
「……べつに、信じられないと言うのなら、それでも構わないがな」
「……」
まだ、小剣を下げることができない。
訳がわからない。
なぜ突然、攻撃をやめるのか。
ザイアムが、口元を微かに動かした。
笑っているようだ。
「良かったな。弟が、生きて戻ってきて」
「……弟?」
ザイアムの視線。
ティアの背後に向いている。
舌打ちが聞こえたような気がした。
背後に立っていたのは、ザイアムを睨むルーア。
(……え?)
どういう、ことなのか。
「……いつからそんなお喋りになったよ、ザイアム?」
「昔から、こんなものだっただろう?」
今度は、はっきりと舌打ちが聞こえた。
ザイアムが、体の向きをリンダに戻す。
「まあ、先程言った通りだ、リンダ・オースター。今後『コミュニティ』は、オースター孤児院を攻撃しない」
「……ふん」
リンダが、鼻を鳴らす。
そして、ザイアムは吹雪の中を去っていった。
ルーアの顔を、盗み見る。
ザイアムの背中よりも、ルーアの表情の方が気になった。
ふと、窓から様子を窺っている人影に気付いた。
すぐに消えるが、それが、昨日ひょっこり戻ってきたロンロに見えた。
気のせいかもしれない。
人影自体が、見間違いかもしれない。
生きて戻ってきたというのは、ロンロのことを指しているのだろうか。
だがロンロは、弟ではなく兄である。
「……ルーア、どういうこと?」
硬い表情をしているルーアに、聞いた。
「……なにがだ?」
「あの人、弟って……」
「ばーか」
額を、指で弾かれた。
「敵の戯言に、なに揺さ振られてんだ。そんな訳ねえだろ」
「……うん」
そうだ。そんな訳がない。
一人っ子だった。
リンダに拾われ、この孤児院に来て、たくさんの弟ができた。
そこに、ルーアはいなかった。
いたはずがない。
だから、姉弟ではない。
「でも……」
それなのに、なにかが引っ掛かる。
「でも、ルーア……」
「しつこいね、お前は。姉弟な訳ねえって言ってるだろ。なんなら、押し倒してやろうか」
「……なに言ってんのよ」
睨み付けると、ルーアは溜息をついた。
わざとらしく笑みを浮かべる。
「まあ、なんにせよ、良かったじゃねえか。なんか知らんが、もうオースター孤児院は安全なんだろ?」
「そうなるね……」
険しい顔で、リンダが頷く。
「ああ、良かった良かった」
またわざとらしく言って、ルーアは孤児院に戻っていく。
「母さん……」
色々聞きたいことがある。
釈然としないことばかりだ。
なぜいきなり、攻撃しないと言ってきたのか。
そこには、ティアの知らない取り引きなどがあったのではないか。
それは、家族を苦しめるものではないのか。
ザイアムの言葉の真意は。
聞けなかった。
リンダに、肩を叩かれる。
「戻るよ。風邪引いちまう」
リンダの雰囲気に、聞くことができなかった。
ルーアは、すでに裏口を潜ったところだ。
(ルーア……)
姉弟のはずがない。
それは、間違いないはずだ。
ならばなぜ、ルーアは嘘をつく時の顔をしたのか。
吹雪が、更に強まった。
ティアの心の中でも、風が吹き荒れていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「終わった……」
呟くと同時に、感極まるような気分にクロイツはなっていた。
ビビラの地下迷宮に隠された、古代の設備。
随分時間が掛かったが、ようやく解析を終えたのである。
「おめでとう」
棒読みな台詞と気のない拍手で、ソフィアが祝福してくれる。
「ありがとう、ソフィア。本当に助かったよ」
五ヶ月の間、『天使』や『悪魔』の襲撃を退け続けてくれたのは、ソフィアだった。
たった一人で、何千という異形の者たちの命を刈ったのである。
「それで、これからどうするの?」
「ここは、破棄する」
「いいの?」
「問題ない」
ここに設置してある装置は、『飛空艇』に接続するための設備だった。
解析は終わった。
必要な知識は、全て脳に記憶した。
設備に頼らなくても、いつでも遠隔操作ができるようになった。
「起動させないの?」
「できればそれは、ハウザードが完成してからにしたい。ハウザードの号令として、行いたい」
それに、意味は余りない。
クロイツの願望、我が儘といえた。
組織の頂点が三人という今の形は、無理があるのだ。
どこかが、上手く回らなくなる。
頂点は、一人でこそ頂点である。
ハウザードの命令に、クロイツもソフィアもザイアムも従う。
そして、『飛空艇』が動き出す。
『コミュニティ』に新たなボスが君臨したと、組織内外の者に知らしめることができるだろう。
「まあ、あなたの好きにすればいいわ」
あっさりと、ソフィアは言った。
「それよりも、早くここを出ましょ。こんなカビ臭い所、一刻も早く立ち去りたいわ」
「そうだな……」
だが、長距離転移の魔法を使い掛けて、クロイツは思い止まった。
ソフィアが、不思議そうな顔をする。
「……どうしたの?」
地上に戻れば、大勢の部下たちが待っている。
『コミュニティ』の頂点の一人として振る舞わなければならない。
気軽に愚痴や弱音を口にすることもできないだろう。
今のうちに、言っておきたいことがあった。
「今回は、エスに負けた」
「……オースター孤児院の件?」
「そうだ」
エスに出し抜かれ、多くの部下を失った。
『地図』も、手に入らなかった。
紛れも無い敗北だろう。
勝てるはずだった。
ザイアムがいたのだ。
ザイアムが働かなくても、力を与えた者がいた。
「ドリ・クリューツという者を、知っているかい?」
「知らないわ」
即答に、クロイツは苦笑した。
ソフィアは、見栄を張るなどという無駄な行為をしない。
「君に名前を覚えてもらえない程度の者だが、彼は、とても真面目な男だった。才能の無さを謙虚に認め、研究や訓練に熱心だった。私は、その姿勢を認め、力を与えた」
ズィニアのようになるのではないか。
今にして思えば、そう期待していたような気がする。
「ところが、力を与えると彼は豹変した。自らを磨くということをしなくなり、周囲の者を心の中で嘲るようになった」
クロイツは、暗い迷宮の天井を見上げた。
「人とは難しいな。長く生きてきたが、人を理解することが、最も難解に思える」
「大きな力を与えられると、人は変わるわ。凡庸な者は、特にね。それが、魔力でも腕力でも、権力や財力でも、自分を見失ってしまう」
「……まれに、ズィニアのような者も現れる」
常に高みを目指す、気高い者が。
「その子はズィニアじゃなかった。それだけよ」
「……要は、私に人を見る眼がなかった、ということか」
「と言うよりも、あなたは与える力が大き過ぎるのよ。だから、与えられた方は、『コミュニティ』の頭脳クロイツに認められたと有頂天になる。そして多分、どこか虚しくなるのでしょうね」
「……虚しく?」
「これまでの努力はなんだったのだろう、みたいな。努力や才能では得ることのできない、巨大な力に」
「なるほど。やはり、人は難しい」
納得して、クロイツは頷いた。
「あなたは、特別な一人にこだわり過ぎなのよ。一つのことを、二人、三人でやらせればいい。人数だけなら、揃っているのだから」
特別な一人など、狙って作れるものではない。
ソフィアは、そう言いたいのだろう。
「私よりも、人を悟っているね、君は」
「あなたみたいに、他人に期待していないからよ、わたしは」
わかるような気がした。
『コミュニティ』で最も完成されているのが、ソフィアだろう。
他者を必要としないのだ。
「それと、負けたとか言ってたけど、違うわよ」
「あれは、負けだろう」
「いつからそんなに視野が狭くなったの? 『コミュニティ』の、今の大きな目的は?」
「……ハウザードの完成と、『飛空艇』起動」
「ハウザードの完成は間近、『飛空艇』は起動できるようになった。ストラーム・レイルもエスもドラウ・パーターも、何一つ手を打てなかった。大局的に見たら、どう考えても『コミュニティ』の勝利でしょう?」
「そうだな……」
その二つの目的に比べたら、『地図』の奪取やリンダ・オースターの排除など、小さなことだった。
大局で勝ち、局地戦で小さな敗北を喫した、というところか。
こだわってしまうのは、背後にエスがいたからだろう。
「ついでに、慰めるつもりはないけど、エスに出し抜かれた理由はたった一つ。あなたが、その場にいなかった。それだけでしょう?」
「そうかもしれないね」
「あなたは、これからどこに向かうの?」
「ドニック王国」
ハウザードの完成が間近だった。
それには、立ち会わなければならない。
ユファレート・パーターは、リンダ・オースターからハウザードの行方を聞いたようだ。
ルーアたちは、必ずドニック王国に向かう。
エスも、しゃしゃり出てくることだろう。
おそらくは、エスとの能力の封じ合いになる。
「負ける要素が、ないわね」
「これで、君も来てくれればね」
「んん?」
「……いや、もちろん冗談だが」
五ヶ月、ソフィアを拘束した。
心身共に疲れきっているだろう。
「『百人部隊』もいるし、平気でしょ」
「いや、彼らはドニック王国から離そうと思う」
ドラウ・パーターに当てていたが、一旦外す。
ハウザードが完成したら、なにが起きるか読めない。
周囲にいる者にも、被害が出るかもしれない。
『百人部隊』には、まだまだ働いてもらわなくてはならないのだ。
予測不可の出来事で部隊が壊滅することは、避けたい。
「あらそう。まあ、あなたが行くのなら、問題ないと思うけど」
「そうだといいね」
遥か北、ドニック王国。
これから、最も雪深い季節となる。
雨は嫌いだが、雪は平気だった。
「久しぶりに、父と娘に会ってくるよ」
「……それ、最低の冗談だと思うわよ」
呆れたような表情で、ソフィアは言った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
リンダの戦いは、終わった。
もう野宿する必要もないし、吹雪の中を駆け回る必要もない。
敵が、いなくなったのだから。
旅人たちは、旅立った。
パナは、南のラグマ王国へ帰るらしい。
ヴァトムから来ていた兵が、国境付近までは案内するということだった。
そこからは女一人旅となり、レボベル山脈を越えなければならないが、パナは笑って平気だと言っていた。
ヨゥロ族である。
山中を歩くことは、苦にもならないのだろう。
ティアたちは、東のドニック王国に向かった。
ユファレートに、ハウザードのことを話したのである。
ストラームの弟子が、ハウザードの破壊を命じられていたのは、知っていた。
他に人がいないのだろうが、荷が重いだろうとリンダは思った。
同じ『ルインクロードの器』といっても、ハウザードとルーアでは格が違う。
ドラウは、残された時間で彼らをどう導くのか。
(……やめたやめた)
考えても、仕方ない。
降伏したのだ。
『コミュニティ』と戦うことは、もうない。
攻撃されることもない。
ストラームやドラウとは違うのだ。
自分の子供を守ることだけで、精一杯だった。
怯懦を恥じた。
情けないと思った。
だが、自分の誇りよりも大切なものが、たくさんある。
ストラームもドラウも、死ぬまで戦うのだろう。
それとも、システムを破壊してしまうのか。
ティアやストラームの弟子、その仲間たちも、同じく戦い続けることになるのだろうか。
生きて欲しい。
死なないで欲しい。
戦いをやめたリンダには、願い祈ることしかできない。
(……だから、考えるなって)
ゆっくりできるようになったのだ。
のんびり朝寝をすることもできる。
冬の寒い朝、この温かい布団の誘惑に勝つのは、至難の業だった。
ゆっくりさせてもらおう。
「とつにゅー!」
ゆっくりと。
「わーい!」
ゆっくり。
「そーれ!」
ゆっ。
「きゃははははっ!」
(……)
「くたばれー!」
がっ。ごつっ。
「とどめだー!」
どかっ。ぐりっ。
耐えた。
なんとなく、起きたら負けなような気がした。
だが、後頭部を蹴られたところで、我慢の限界にきてしまう。
「ぬうぅ……」
唸りながら身を起こすと、膝に痛みが走った。
少しダイエットをさせた方がいいかもしれない、太っちょのジョニーが、げたげた笑いながらリンダの足に腰掛けている。
後頭部を蹴ってくれたマーレは、顔面から壁に突入して、わんわん泣いていた。
それを、マーレよりも年下のペペが慰めている。
キャリーは、タイミングを誤ったか部屋の隅でぼーっとしていた。
廊下には、小学校卒業と同時におとなしくなったレター。
眼鏡を上げながら、リンダを指している。
「行け、チャーリー! とどめを刺すのだ!」
「ラジャー!」
跳躍し、身を舞い上がらせる者がいる。
目覚めたばかりでゆっくりな思考の中、リンダはぼんやりと考えた。
なぜ、彼はパジャマのズボンを頭に被っているのだろう。
なぜ、こんな寒い日に、パンツ一丁なのだろう。
なぜ、尻から降ってくるのだろう。
「おふっ!?」
腹部への衝撃に、リンダは声を上げた。
「どうだー。参ったかー」
馬乗りになったチャーリーが、そばかすだらけの顔を寄せてくる。
「……」
無言で、リンダはチャーリーの顔面を掴んだ。
スイカを握り潰せる手に、少しずつ力を加えていく。
「しまった、捕まったぁぁ! ……って、おうっ!? おうっ!? これはほんとに、シャレにならな……」
がくり、とチャーリーの手から力が抜ける。
おとなしくなったところで解放し、レターに眼をやった。
「あんたねえ……最近いい子になったと思ったのに」
「だって、シュア姉ちゃんに起こすよう言われたし」
「シュアに?」
「朝御飯だって」
「んー……」
朝は弱い。
食事を採るよりも、眠っていたい。
それは、シュアに言ってあるはずだが。
「……にしても、他の起こし方があるだろ」
「これ以外に思い付かなかった」
なぜか誇らし気に、レターは眼鏡を上げた。
復活したチャーリーが、にかりと笑う。
「あとね、母ちゃん。ティア姉ちゃんが、たくさん遊んでもらえって!」
「……ティアが?」
「ルーア兄ちゃんも!」
「……ふん」
「だから、起きて、ご飯食べて、遊び相手しろ」
「……」
リンダは、溜息をついた。
腹に乗られているので、いささか苦しい。
「わかったから、どきな。ジョニーも。マーレ、あんたは泣きやみなさい」
叩くような勢いで、チャーリーが被るズボンを取り。
額に書かれた、『去勢済』の文字。
不意を衝かれ、不覚にも吹き出しそうになってしまう。
意味がわかっているのだろうか、この子は。
「なんだよ母ちゃん。人の顔見て笑うとか、失礼じゃないか」
「……う……るさいね」
なんとか笑いを呑み込み、チャーリーとジョニーを跳ね退け身を起こす。
「……じゃあ、たまには朝食を採ってみるかね」
シュアに呼ばれたのなら、仕方ない。
『ミッション達成だー』とか言いながら、チャーリーを先頭に子供たちが駆け去っていく。
レターは、おとなしく最後尾をついていった。
唸りながら、リンダは立ち上がった。
朝は、苦手なのだ。
ひどい時は、頭痛さえ感じる。
ふらふらしながら、居間へ向かった。
香ばしい匂いがする。
食卓に、人数分並べられた食事。
パンにスープにサラダ、ハムに目玉焼き。
シュアはいつも、栄養バランスを考えた食事を準備する。
席についている子供たち。
ふと、場違いな所に迷い込んでしまった気分にリンダはなった。
いつもの席につく。
隣は、シュアである。
いただきますの合唱。
また、おかしな気分にリンダはなった。
小さな子供が行儀良く食べるのは、最初だけ。
チャーリーを起点に、徐々に騒がしくなる。
余りに度が過ぎると、シュアが一睨みする。
それで、みんなおとなしくなるのだ。
リンダは、なかなか食が進まなかった。
まずい訳ではない。
朝は、いつも食欲がないのだ。
おかしな気分は、消え去らない。
みんなが食事を終え、シュアが何人かと後片付けを済ませても、リンダはまだ食べ終わっていなかった。
隣の席で、シュアはのんびりと紅茶を飲んでいる。
息子たちは、屋根や庭の雪掻きをしているはずだ。
小さな子供たち、特にチャーリーが、頻りにその邪魔をしている。
廊下を、ミンミに耳を引っ張られたロンロが通っていった。
また、妹たちにちょっかいを出そうとしたのだろう。
おかしな気分の正体に、リンダは気付いた。
必要ないのだ。
ここに、リンダは。
リンダが外で戦い、シュアが家の中のことをする。
それで、オースター孤児院は成り立っていた。
みんなの朝食に加わるなど、いつ以来のことか。
朝はいつも、外で誰かを殴り殺しているか、疲れ果てて眠っていた。
家の中にいても、リンダ・オースターという人間は、なんの役にも立たない。
掃除や洗濯などは、シュアの指示の元、娘たちがしっかりやってくれている。
リンダが食事を作ろうとすると、なんでかおかしなものができあがる。
敵がいない今、リンダは必要ない。
そして、人を殺しすぎた。
母親として、子供と触れ合うべきではないのかもしれない。
「シュア、あんたさ……」
「うん?」
雑誌をめくっていたシュアが、顔を上げる。
「結婚とか、しないのかい?」
「……!?」
紅茶を吹き出しそうになり、咳き込んでいる。
「急になに言ってるのよ、母さん!?」
「いや……」
息子たちの何人かは、シュアに恋心を抱いている。
村の若い男たちの中にも、そういった者はいるだろう。
誰かと結婚して、シュアとその夫で孤児院の子供たちを纏めていく。
それが、オースター孤児院にとって一番良い形なのではないのか。
チャーリーたちも、シュアの言うことはよく聞く。
みんなから頼られ、好かれている。
「あたし、は……そのうち旅行とか行くかもしれない……」
「……母さん?」
「あたしの分の朝食は、明日から準備しなくていいから」
「……」
しばらくシュアは黙って、不意に唇を尖らせた。
「いやよ。明日も作るから」
「だから……」
「作るから。旅行とかも、行っちゃ駄目」
「……」
「チャーリーとかの面倒、全部わたしに押し付ける気? わたしには、無理よ」
リンダがなにを考えてもいるのか、全部見抜いたのかもしれない。
「母さんには、謝らないといけないって、ずっと思っていたの」
「……なにを?」
「母さんばかりに戦わせて、辛いことさせて……。わたしたちのために、母さんだけが傷付いて。なのに、愚痴一つ零さなくて、ずっと守ってくれて……」
「……適材適所ってやつだろ。あたしは、家のことはなにもできないから」
「もう、戦わなくていいんだよね?」
「ああ」
「だったら、家にいて」
「あたしはね、シュア……」
殺しすぎた。体には、血の臭いが染み付いているのではないか。
この家で、暮らし続けていいのか。
子供たちと、一緒にいていいのか。
戦っている間は、余り考えないことだった。
敵がいなくなると、急に怖くなった。
戦うことしか知らないということが。
穏やかな、人らしい生活を送っていいのだろうか。
「母さんは、ちゃんとお風呂に入ってるじゃない」
「……当たり前だろ」
「昨日も一昨日も。だから平気よ」
シュアが、微笑んだ。
「みんなに、触れてあげて。頑張った子は、頭を撫でて、褒めてあげて。毎朝、一緒にご飯食べようよ。おかしなこと考えないで、ずっと一緒にいて」
「……ふん」
外からは、幼い子供たちの調子外れな歌が聞こえた。
雪なんて見飽きているだろうに、なにがそんなに楽しいのか。
「母さんは、わたしたちの母さんなんだから。わたしたちは、家族なんだから」
庭には、いくつもの雪だるまが作られていた。
雪だるまは大小様々で、親子にも家族にも見えた。
子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。
戦って戦って、戦い抜いて、子供たちの笑顔だけは、守れたと言っていいのだろうか。
「……まったく、朝くらい、ゆっくりさせなよ」
雪は、静かに降っている。
オースター孤児院は、新しい年を迎えようとしていた。