過去
大男に手を引かれ、少年は街の通りを歩いていた。
硬い掌である。
少年は、大男を見上げた。
人目が気になるのか、フードを深く被っている。
その体格のため、嫌でも大男は目立っていた。
恨めばいいのだろうか。少年は、考えた。
この大男は、両親を斬り殺した。
肉親を殺めた者を普通は恨むものだと、少年は知っていた。
だが、彼らは少年になにをしてきたか。
会うのは、ひと月に一、二回。
それも、苛立ちをぶつけてくるだけだった。
暴行を、それほど苦痛だとは、少年は思わなかった。
組織の中で生まれ育った彼は、他の子供たちと共に、毎日厳しい訓練を受けてきた。
両親からの暴行も、訓練の一環だと思えば、たいしたことではない。
恨めばいいのだろうか。
また、少年は大男を見上げた。
無骨な口の線が、動く。
「今日からお前は、私と一緒に暮らしてもらう」
大男は、真っ直ぐに前を見ていた。
少年も、釣られるように前に視線を送った。
余り、街を出歩くことなどなかった。
眼に映るもの全てが、真新しい。
「一緒に……?」
「私だけではなく、女の子もいるが」
「……」
「娘のようなものだ」
大男が、立ち止まった。
「正確には、従兄妹だ。だが、年齢が離れているせいで、あの子は私のことを父親扱いする。だから、娘のようなものだ」
微かに、顔をしかめていた。
その娘のような存在に対する、嫌悪感からではないだろう。
「……妻帯もしていないのに、娘とはな」
また、足を進める。
少年の歩幅に合わせてくれているのか、ゆっくりとした歩みだった。
「お前と、同い年だ。仲良くしてやって欲しい」
「……」
仲良く、という言葉の意味は知っている。
だが、実際にはどうすればいいのか。
他人と接することを、これまで余り求められなかった。
一緒に暮らしていくということは、家族のような存在となるのだろうか。
だが、両親と会話をすることも、ほとんどなかった。
「心配はするな」
少年の心情を、大男は見抜いたのかもしれない。
「あの子は、なんと言うか……」
視線が、いくらか惑う。
言葉を、捜しているようだ。
「……すごく、ぐいぐい来る」
しばしして、大男はそう言った。
「……」
なんとなく、大男の言い方がおかしいような気がする。
「……まあ、拒んでも近付いてくるということだ。そして、そこまで嫌な気分になることもないと思う」
「……」
「両親を、任務で亡くしたばかりだ。寂しいのだと思う。だから、仲良くしてやって欲しい」
「……」
そこで、会話は打ち切られた。
大男も、多弁という雰囲気ではない。
むしろ、喋るのも面倒臭い、という感じである。
黙々と、歩いていく。
やがて大男は、街の外れにある粗末な一軒家の前で言った。
「ここだ」
申し訳程度に設えてある門を押し、小さな庭を通り、古ぼけた玄関の扉を開く。
屋内になると、大男はフードを外した。
長く伸ばした黒髪が、顕わになる。
「おかえり!」
奥から声がして、女の子が飛び出してきた。
茶色の髪をした、女の子。
大男が言っていた、娘だろう。
同い年だということだったが、自分より年下に少年には見えた。
「……ああ、ただいま」
大男が、言った。
優しい言い方である。
それが、不思議な感じがした。
少女が、少年を見て小首を傾げる。
「お客さん?」
「……今日から、一緒に暮らすことになった。この子も、私たちの家族だ」
「ふぅん……」
少女が、円らな瞳で少年を見つめてくる。
なんとなく、視線から逃げるように、少年は顔を背けた。
「こんにちは!」
「……」
外は明るい。
だから、こんにちはで間違ってはいない。
初めて会ったばかりの、他人であるはずだ。
そんな存在を、今日から一緒に暮らす家族だと言われた。
少女に、警戒する様子はない。
それで逆に、少年は少女を警戒した。
「こんにちは!」
なるほど、すごくぐいぐい来る。
少年は口を動かした。
こんにちは、と言い返そうとしたが、上手く声が出ない。
人と話すことに慣れていないのである。
いや、他人に慣れていないのか。
「あなた、お名前は?」
「……」
少年は、口を噤んだ。
なぜか、名乗りたくないと思った。
代わりに、大男が言った。
面倒臭そうに。
「レヴィスト・ヴィールだ」
(……?)
一瞬、身が強張ってしまう。
理由は、わからない。
「レヴィ、ヴィ、ヴィ、ヴィ、ビビビビ……」
発音が難しいのか、少女は何度も『ヴィ』を口ずさんだ。
ジョッキを口に運ぶ仕草をする。
「ビール?」
「……いや、ヴィールだ」
大男が、面倒臭そうに訂正する。
「……なんか、言いにくい」
言われ、大男は困ったような表情をした。
「まあいいや、じゃあ、レヴィスト!」
体が、また強張る。
大きな声に驚いたからではない。
少女が、怪訝な表情をする。
だが、すぐに気を取り直したようだ。
「あなた、何歳?」
「……え?」
呟いて、少年は大男を見上げた。
自分の年齢が、はっきりわからない。
そこまで重要な数値ではない。
「……十一歳だ」
もそもそと、大男が言う。
「む」
少女が、一歩詰め寄ってきた。
「あたしね、九月二十八日生まれなの。あなたは?」
「……新暦七百二年九月二十六日生まれだったな」
もそもそと、大男。
「え? やだ」
なにが、嫌なのだろう。
「じゃあ、あたし、九月十八日生まれってことにする」
大男が、また困ったような顔をする。
「……変えられるものなのか?」
「変えられるの」
少女が、さらに近寄ってきた。
「弟が欲しかったの」
「……え?」
困惑しながら、呟く。
いきなり、なにを言ってくるのか。
「あなたは、あたしの弟だから」
「……え?」
「あたしのことは、『ティアお姉ちゃん』て呼べばいいから」
「……え?」
困惑してしまう。
初めて山岳訓練を受けた時の気分に、似ていた。
「えーっと……」
少女の瞳を見つめる。
にこにこと、満面の笑みを浮かべている少女。
なんとなくだが、ここで頷くと、今後主導権を握られる気がした。
「なんか……普通に嫌なんだけど」
「がぁぁぁぁん!」
別にショックでもなさそうだが。
大袈裟に、少女は頭を抱えた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
三人での生活が、始まった。
大男の名前は、ザイアムという。
少女の名前は、ティアという。
彼らと触れ合い会話をすると、おかしな感覚が全身を包み込む。
朝、眼を覚ますと、挨拶をされる。
食卓には、一人分ではない食事が並べられる。
対面にはザイアムが座り、隣にはティアが座る。
二人とも、それが当然だというような顔をしているのだ。
下手糞な男料理だが、不思議とまずくは感じない。
ティアが、色々と話し掛けてくる。
他愛もないことや、訳のわからないことを言ってくることが多い。
内容が、突拍子もなく二転三転する。
なぜか、苦痛ではない。
鬱陶しいとは感じた。
最初の数日だけだ。
それも、すぐに慣れてしまった。
掃除と洗濯は、ティアがする。
小さく古い家だが、こざっぱりとはしている。
少年の衣服も、清潔さが保たれている。
それも、不思議な感じがした。
午前中、ザイアムは余り動こうとはしない。
ナマケモノが、人の皮を被っているのではないか、と感じさせるほどだ。
唯一、食事の準備の時だけはてきぱきと動く。
なにかこだわりがあるのか、頑なにティアを台所に入れようとしない。
恐れ戦いているようでもある。
昼を過ぎると、ザイアムは庭に出て巨大な剣を振るう。
それを、少女と並んで眺めることが多かった。
きっとザイアムは、世界中の誰よりも強い。
少年は、そう思った。
なぜ、こんなにも力強いのだろう。
剣を振るたびに、切るのが面倒だからと放ったらかしになっている長い髪が、意思を持っているかのように舞う。
どうしたら、こんな強くなれるのだろう。
大きな体になったら、長く髪を伸ばせば、少しはザイアムに近付けるのだろうか。
生活が、日常が一変した。
いや、そんなことよりも、周りの人間が変わったことの方が、重要なのかもしれない。
教官、同じ訓練を受ける同年代の子供たち、親。
疑念、無関心、憎悪、苛立ち。
向けられてくる感情は、尖っていた。
ザイアムとティアからは、それを感じない。
ある日、いつものように庭で剣を振るザイアムに聞いた。
ティアは、トイレに行ったところで隣にはいない。
自分から話し掛けるということを、少年はできるようになっていた。
ザイアムとティアが相手なら、それができる。
「……なんで、あんたもティアも、俺のことを名前で呼ばない?」
「……」
ザイアムが、剣を止めた。
二人とも、名前で少年のことを呼ぼうとはしない。
『おい』、『お前』、『ねえねえ』、少年は、そんなふうに呼び掛けられる。
ザイアムは、無言になった。
上半身裸になっており、汗で濡れた筋肉質な肉体が、日の光で輝いていた。
しばらく風に当たってから、ザイアムは口を開いた。
「……お前は、名前で呼ばれると、怯える。違うか?」
「……」
どうなのだろう。
これまで少年の名前を呼ぶのは、必要以上に厳しい教官か、親だけだった。
「それを私に言ったのは、ティアだがな」
「ティアが?」
「あの子は、人をよく見ている」
「……」
剣を振り上げ、ザイアムは動きを止めた。
切っ先を庭に突き立て、少年を見遣る。
「名前を、呼ばれたいか?」
「……わからない」
正直に、少年は言った。
「……お前は、どうありたい?」
「……どうって……?」
ザイアムは、深い眼差しで少年を見つめている。
「……強くなりたい」
あんたみたいに。台詞の後半は呑み込む。
誰にも殴られないように。
自分の身を守れるように。
守りたいものを、守れるように。
ザイアムみたいに、強くなりたい。
「あ、サボってる」
手をハンカチで拭きながら、ティアが戻ってきた。
定位置である少年の隣に座る。
ザイアムは苦笑していた。
剣の先を上げかけ、ふと呟く。
「……ルーア」
「……?」
「お前の、新しい名前だ」
「……え?」
「七百年以上前に実在した、歴史上最初の魔法使い。最強最大の存在。その者の、無数にある呼び名の一つだ」
「……」
「元々は、ルーン・ユーザー。古代語で、神秘的なる力を扱う者、という意味になる。お前は、魔法使いの素養があるだろう?」
「ルーア……」
「嫌か?」
少年は、かぶりを振った。
「……別に、嫌じゃない」
「そうか」
ルーア。それが今日からの、たった今からの、少年の名前となる。
「なんかさぁ、ぱっとしないね」
あっけらかんと朗らかに、ティアが言った。
「あんまり強そうな響きじゃないし」
「……」
少年は、咳払いをした。
「ザイアム、あんたの名前は?」
「?」
ザイアムが、眉根を寄せて訝し気な表情を作る。
「名字は、なんだ?」
「家名は、ない。ただの、ザイアムだ」
「そっか」
ザイアムが、頭上に剣を振り上げる。
「……いや」
その姿勢で、彫刻のように動きを固めた。
「私の叔母に当たる人が、オースターという姓を名乗っていたな。だから、もしかしたら私は、ザイアム・オースターなのかもしれん」
「ふぅん……」
家族、ザイアムからは、そう言われた。
ティアには、弟扱いされる。
ザイアムは、父親ということになるのだろうか。
だとしたら。
(もしかしたら俺は、ルーア・オースターなのかもしれない)
ザイアムの剣が空気を割る音が、鼓膜を叩いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ザイアムは、時々いなくなる。
ほんの二、三時間くらいだけだ。
どこでなにをしているのか、語ろうとはしない。
ザイアムがいない間は、彼の部下らしい者たちが、家を守る。
顔ぶれは様々だが、共通して関わりたくないような雰囲気を醸し出している。
身の熟しからして、なんらかの訓練を受けてはいるだろう。
彼らと会話を交わしたことは、ほとんどない。
武器を打ち合わす音がした。
ザイアムがいない、昼下がりのことである。
ザイアムの部下らしい者は、門に三人、裏口に二人控えている。
音は、門の方からだった。
門の三人に襲い掛かる、武装した者たちが六人。
三人はなかなか奮戦しているようだが、いずれは力尽きるような気がした。
少年は、怯えるティアの手を取り、駆け出した。
手助けをしたくても、邪魔にしかならないだろう。
家に隠れるのも危険。
一刻も早く、逃げることだ。
恐怖に震えながら、裏口へと駆けた。
外に出て、少年は息を呑んだ。
裏口を守る二人の全身が、炎に包まれている。
右手に短剣、左手に杖を持った男がいた。
少年とティアの姿に、笑う。
杖は、真っ直ぐにこちらを向いている。
少年は、ティアを背後に突き飛ばした。
光が煌めく。
少年が発生させた魔力障壁を、激しく叩いた。
ザイアムは、まだ戻ってこないのか。
歯を喰い縛り、それだけを考えた。
明滅する視界の中、鋼の輝きが見えた。
左肩を、投げ付けられた短剣が掠める。
男が、杖を振り翳す。
今度は、炎が生まれた。
魔力障壁越しでも、熱波が伝わってくる。
反撃はできない。
魔力はともかく、大人と子供では体力が違い過ぎる。
堪えるしかない。
いきなり、衝撃波が横手から走ってきた。
男を揉みくちゃにしながら吹き飛ばし、少年を包もうとしていた炎も掻き消される。
視線の先には、『ダインスレイフ』を抜いたザイアム。
戻ってきた。
ザイアムの姿に、他の襲撃者たちは逃げ出したようだ。
それにしても、随分と派手な一撃だった。
ぽつんと建つ一軒家だが、離れた所にある他の民家まで衝撃波は届きかけていた。
地面は、深く削り取られている。
ここまでの威力を出さなくても、退けられただろう。
無駄を嫌うザイアムとしては、珍しいことである。
これだけの騒ぎを起こしたのだ、すぐに警察が来るだろう。
応対は、ザイアムや他の大人たちがしてくれるのだろうか。
ぼんやりと、少年はそんなことを考えていた。
余り表情のないザイアムが、焦りを見せていた。
ティアが、泣きじゃくっている。
血で、驚いたのかもしれない。
衣服の左肩に、赤い染みができていた。
たいした傷ではない。
簡単に、魔法で塞がった。
それでも、ティアは泣き止まない。
少年の袖を掴み、意味のない喚きを発している。
駆け寄ってきたザイアムが、まず左肩の傷の具合を看て、次いで少年の頬や脇腹、太股などを撫でるように叩いていく。
他に負傷した箇所がないか、確認しているようだ。
少年は、戸惑った。
ザイアムならば、左肩の傷が軽傷だと、遠目にもわかったはずだ。
立ち方一つ見るだけで、他に怪我がないこともわかっただろう。
ティアは、なぜそこまで泣くのか。
怖かったのだろうか。
ザイアムは、なぜそこまで焦るのか。
過剰に心配しすぎではないか。
(……心配?)
二人に心配されているのではないかと、ようやく少年は思い至った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
三人の生活は、三年続いた。
終わりは、余りにも突然だった。
眠っていたところで、足音が聞こえ眼を覚ました。
ティアが、トイレにでも行っているのだろう。
それとも、喉でも渇いたか。
ザイアムの足音は、もっと重い。
もしくは、全く足音を立てない。
外が明るいと、少年は気付いた。
朝になったのだろうか。
朝日だろうか。
だが、廊下の方向は西だ。
太陽はいつも、東から昇る。
異常なまでに明るい。そして、熱い。
ティアの声。
廊下に飛び出した。
壁が、歪んでいる。
巨大な光の球が見えた。
それが、街にのしかかっている。
それから先のことは、よく覚えていない。
気が付くと少年は、ティアを抱きしめて座り込んでいた。
いや、ティアではなく、ティアだった別のなにか。
なにがあったのだろう。
木々も道も、無くなっていた。
融解した地面が、波打っている。
原形を留めている建物はない。
街が、原形を留めていないのか。
同一の方向に、薙ぎ倒されている。
空気が、熱く渦巻いている。
空が、赤かった。
熱波が、空の色をも変えていた。
なにがあったのだろう。
少年は、また考えた。
家は、なぜ無くなったのか。
ザイアムは。
世界が終わるのではないか、と思えた。
突如、眼の前に二人現れた。
物音一つなかった。
学者のような雰囲気の、痩せた中年の男。
もう一人。
その男は、全裸だった。
髪の色は、おそらく赤。
ほとんど、毛髪が残っていない。
頭の皮が、焼け爛れているのだ。
頭皮だけでなく、全身の肌が焼け爛れていた。
体中にある裂傷は、体の内側からなにかが出ていったようでもある。
無くなった体の部位も、いくつかあるようだ。
重傷どころではなく、明らかに致命傷だった。
それなのに、平然と男は生きている。
(なんだ……?)
恐怖が、込み上げる。
(……なんだこいつらは……!?)
『クロイツ。そして……』
少年の思考の中から、少年の眼で、彼女は男たちを見ていた。
『ボス……』
「驚いたな、クロイツ」
赤毛の男の方が、言った。
「貴様の言った通りだ。本当に、『ルインクロード』が発動している。さらに驚くべきことに、制御できている」
「人の想いとは、侮れんよ。時に、能力を激しく増減させる」
クロイツと呼ばれた学者のような雰囲気の男が、応える。
実験動物を見るような眼で、少年を見下ろしていた。
「素質はあった。能力もあった。きっかけは、そうだな……。おそらく、守りたいという想い。彼は、自己を守るという意識が希薄だった。だが、彼は学んだ。自分が、誰かの大切な存在になれることを」
冷たく見通すような眼差しで、少年と、少年の腕の中の少女だったものを見ている。
「教えてくれた彼女を、守りたかったのだろう」
「なかなかどうして、たいしたものではないか」
崩れた膝を付き、赤毛の男が少年と眼を合わせてくる。
「守れなかった。だが、まだ人の形はしている」
自然と、体が震えた。
歯の根が合わない。
これまでに感じた恐怖とは、隔たりがある。
触れてはならないものに触れている。
そう感じた。
眼の離せない恐怖。
(……絶対悪……)
『違うわ、レヴィスト君……』
少年の内側で、少年が『コミュニティ』のボスに受けた印象を、彼女は否定した。
『絶対悪なんて、そんなかわいいものじゃないの……。この人は……』
全ての人間を、人類を滅ぼしたいと憎み、同時に。
人類全てを、心から愛している。
「擬似的とはいえ、発動させた。制御もできている。実験は成功と言っていいな、クロイツ?」
「差し支えないね」
「私への実験は失敗に終わったが、さすがだな、クロイツよ」
「待ってくれ」
クロイツという男が、非難の意思を言葉に込める。
「その言い様ではまるで、私の失敗のようではないか。私は、止めたはずだよ」
赤毛の男は、崩れた唇で薄く笑みを浮かべている。
「君の『ルインクロード』は、極限だ。極限の上へは、至れない、と」
「実験は、失敗に終わった。体が、持たなかった。私は、間もなく死ぬ。だが、ハウザードならば……?」
「そうだな、ハウザードならば……あの、最高傑作ならば……」
クロイツの眼が、妖しく光る。
赤毛の男は、薄く笑みを浮かべたままだった。
「……さて、そろそろネクタス家の者の元へと、向かわねばならないが」
「ああ。君の体には、もう時間が残されていない」
「この体で、果たして相打ちに持ち込めるか……」
「問題ないさ。ネクタス家の力は、そういうものだ」
「ふむ」
赤毛の男が、立ち上がった。
その拍子に、骨盤の辺りからなにかが落ちる。
なぜ、そんな体で生きていられるのか。
少年は、ただ震えて男たちを見上げていた。
「行く前に、指示を出してくれないか?」
クロイツという男が、赤毛の男に言った。
「この少年、レヴィスト・ヴィールを、どうする?」
「……ふむ」
「処分するかね? 間もなくストラーム・レイルが現れるだろう。回収されては、厄介だ。もっとも、彼も破壊を選択するかもしれんがね。……ああ、彼を撃退しろなどと、愚かな命令は出さないでくれよ」
肩を竦める、クロイツ。
赤毛の男の視線は、少年の背後を向いていた。
東である。
ふと思い付いたように、赤毛の男が口を開いた。
「……ライア・ネクタスが生き残る。私だけが死ぬ」
「それは……」
クロイツが、絶句する。
赤毛の男は、淡々としたものだった。
「それは、システムを歪ませるということになるな?」
「……それは、危険だ。確かにシステムは歪むが、その歪み方は我々が不利となる」
「きっかけ一つ。そうだろう、クロイツ? あるいは、システム崩壊の序曲となるやもしれん。エスの慌てふためく様が、眼に浮かぶようではないか」
「危険だぞ……。ネクタス家の力が、どうなるか予測がつかん」
「この子供を、使う」
赤毛の男が、また膝を付いた。
壊れた手で、少年の頬を撫でる。
笑みを浮かべているようだ。
新しい玩具を前にした、子供のように。
「この子供の名前は、なんだったかな、クロイツ?」
「レヴィスト・ヴィールだ」
「……違う」
唸るように、少年は否定した。
「ルーア……」
「ん?」
「俺は、ルーアだ……」
「くっ……!」
赤毛の男が、喉を鳴らした。
顔の肌が、ぼろぼろと崩れ落ちる。
「誰が、その名を?」
「……」
「ザイアムか? そうか。あの男か。あいつめ。なんという皮肉を」
ザイアムのことを、知っているのか。
ザイアムは、どこへ行った。
「いいだろう。お前は、ルーアと名乗り続ければいい」
無遠慮に、少年の頭を、赤毛を撫でる。
嫌悪感に、押し潰されそうになる。
「さあ、ルーア。愛しい家族を奪った、私を殺してみようか。そして、その先にある、ライア・ネクタスも殺してみせろ。お前が、システムを根本から破壊するのだ」
◇◆◇◆◇◆◇◆
少年の残留思念の中に、彼女はいたはずだ。
少年の目線で、少年の過去を追体験していた。
それが、いきなり闇に放り込まれ、彼女は混乱した。
一面、黒の情景。
(……なに?)
なにが起きたのか。
なにが起きようとしているのか。
感じた。
彼女以外の何者かが、闇の中にいる。
息遣い。彼女を、見ている。
草地に身を潜め、捕食せんと獲物を狙う、獣のように。
形なき闇が、諸手を伸ばし彼女に掴み掛かってきた。
(取り込まれる……!)
彼女の存在を、喰らおうとしている。
力。
少年の記憶の中で、見たばかり。
(この力の性質は……!?)
『ルインクロード』。
四年前に、消失したのではなかったのか。
未だに、少年の中に存在していたのか。
『ルインクロード』の中に、また別の力を彼女は視た。
その力も、知っている。
『ダインスレイフ』だ。
宿主の体を破壊した力さえも、『ルインクロード』は貪欲に喰らおうとしている。
(助けて!)
取り込まれる。
圧倒的な力の前に、自己が失われる。
『ルインクロード』と一つとなり、全ては無と化す。
悲鳴を上げていた。
夫の名前を、呼んだかもしれない。
帰らないと。謝らないといけないことがあるのだ。
闇の中、光を見た。
取り込まれないためには、自己を強く認識すること。
(わたしは……帰らないといけないの!)
纏わり付く力を、引き剥がす。
『ルインクロード』がなにか、よくわかった。
知りたいことは知れた。
これ以上の長居は、無用だった。
そして、危険過ぎる。
自分の肉体に帰還するために、彼女は少年の闇を脱した。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ティアが眼を開いた時、部屋の中は明るかった。
(あたし……)
自分の匂いが染み付いた、寝具。
部屋には、他に誰もいないようだ。
(なんで、泣いて……)
眼の周りが、少しひりひりする。
体の左側が、下になっていた。
眼から左耳まで、涙の跡があるのが感じられた。
適当に手を伸ばし、柔らかい物を掴む。
抱きしめたそれは、犬のぬいぐるみだった。
横になっていても、頭がくらくらする。
全身が、気怠い。
昨晩は、徹夜だった。
雪山を歩き回った。
それで、気を失って。
(あたし……)
声が漏れそうになった。
(あたし……ルーアを、死なせちゃった……)
考えてみれば、両親を失って以来になるのかもしれない。
オースター孤児院で暮らした、十数年。
新しい家族の誰も、欠けることなくやってきた。
ユファレートと旅に出て、みんなと出会って。
家族と同じくらい大切な仲間や友達が、五人もできた。
両親以来なのだ、死なれるのは。
「ルーア……」
呟く。
我慢しようと思っても、涙が溢れた。
せっかくシーパルを助けることができたのに。
それなのに。
疲れが、澱のように溜まっていた。
多分、意識を失っていたのは、一時間か二時間くらいだろう。
疲れきり、精神的ショックを受けたにしては、すぐに目覚めたと言っていいだろう。
それでいいのだ。
まだ、終わっていないのだから。
ゆっくり休んでいる暇なんて、ない。
みんなもきっと、なんとかしようと頭か体を働かせている。
気を失っている場合でも、泣いている場合でもない。
ルーアも、きっと。
生きていたら、なんとかしようと足掻いたはずだ。
誰かに死なれても、めそめそ泣いたりせず、戦ったはずだ。
ルーアが、身を犠牲にして、時間を稼いでくれたのだ。
泣いている暇なんてない。
(泣き止まなきゃ……)
それで、みんなの所へ行って。
「ごめんね……ルーア……」
あと五分だけ、待って。
部屋の外へは聞こえないように、ティアは泣いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
敵の罠に嵌まったユファレートを、ルーアは助けに来てくれた。
そして、殺された。
ルーアが死んだのは、自分の責任なのではないのか。
思ったが、ユファレートは口には出さなかった。
テラントやデリフィスも、責めるような追及はしなかった。
涙は出ない。
それは、ユファレート以上にティアが取り乱したからだろう。
居間を借りていた。
オースター孤児院の子供たちは、別室に集められているようだ。
シュアたちが、それを纏めている。
ティアは、部屋で休ませている。
子供たちとティアの部屋を、パナやミンミが行ったり来たりしていた。
誰も、ユファレートを責めない。
今後どうするか、意見交換が建設的に行われた。
最初はリンダもいたが、ルーアが死んだことを聞くと、ふらりと居間を出ていった。
自室にでも、戻ったのだろう。
「とにかく、あの大男とは、戦うべきではありません」
長髪の大男の魔法剣による一撃を、正面から受け止めたシーパルが言った。
目覚めたシーパルに対して、テラントとデリフィスの反応は微かなものだった。
テラントは『よぉ』と呟くように言い、デリフィスは軽く片手を上げただけだった。
たったそれだけでも、なにか感じるものがあったのか、シーパルは深く頭を下げた。
これでルーアが生きていれば、と思う。
テラントもデリフィスも、動揺を見せようとはしない。
元々は、将軍と傭兵だった。
二人とも、人の死に慣れている。
だから、感情を出さない。
「すぐにでも、村から移動するべきです」
「だが、道は封鎖されているな」
デリフィスが、地図に眼を落とした。
リンダの所有する『地図』ではなく、ただの地図帳である。
「敵も、何十人と残っているしなぁ。子供たちを連れて突破ってのは……」
「それでも、行くべきです、テラント」
シーパルの口調は、強いものだった。
「子供たちに、犠牲が出るかもしれません。でも、すでに僕らから犠牲が出ているんですよ。冷たい言い方かもしれませんが、多少の犠牲は割り切るべきです。このままここにいても、全滅を待つだけだとしか思えない」
村からの脱出をシーパルが強く提案し、それにテラントとデリフィスが乗り気ではない、という状況だった。
二人は、あの大男と直接対峙していない。
脅威が伝わらないのか、まさか戦ってみたいとでも血が騒いでいるのか。
シーパルが眠っている間、『コミュニティ』の動きは納得いかないものが多かった。
その影響もあるのかもしれない。
裏を考えてしまうのだ。
これだけの戦力差があって、あれだけ強力な存在がいて、なぜ回りくどいことをするのか。
なかなか意見が纏まらない。
居間の扉が開いた。
寄り掛かるようにして入ってきたのは、ティアだった。
思わず、ユファレートは席を立っていた。
気を失って、まだ小一時間というところではないだろうか。
とても、精神的ショックから立ち直れたとは思えない。
ティアの顔色は、真っ青だった。
顔色が悪いのは、みんな同じだったが。
一晩中、雪山を歩き回った。
シーパルも、大男の一撃でかなり消耗している。
「ティア……まだ……」
「もう、平気だよ」
肩に置いた手を、ティアが掴み返す。
爪が喰い込み、痛いほどだった。
手が、震えている。
切ないほどに、震えている。
「せっかく、ルーアが時間を稼いでくれた訳だし、有効に使わないとね」
「……」
「それにさ……」
無理矢理な微笑みを、ティアは浮かべた。
「まだ、ルーアが死んだって決まった訳じゃないしね」
「……」
「ほら、崖に落ちて、死んだと見せ掛けて、でも実は生きてるとか、演劇とかでよくあるじゃない」
「ティア、もういいから……」
「だからさ、案外ルーアも、平気な顔して戻ってくるんじゃないかなぁって」
「もういいから!」
声を荒らげると、ティアは驚いた表情をした。
「ごめん、みんな……」
ティアの肩を押して、廊下に出た。
男性陣は、なにも言わない。
「なに、ユファ?」
答えず、ユファレートはティアを押し続けた。
抵抗はあったが、弱々しいものだった。
居間の近くにあるティアの部屋に、押し込む。
後ろ手で、扉を閉ざした。
ティアが、しがみついてきた。
引きずり倒されるように、ユファレートはティアと座った。
泣いている。
「ルーアね、守ってくれるって言ったのに……」
「……うん」
「誰も死なないって……」
「……うん」
「なんとかするって、言ったのに……」
「……」
「嘘つき……」
黙って、ユファレートはティアを抱きしめた。
なにもできない。
どう慰めればいいのか、わからない。
どうすれば、ティアの心を癒すことができるのか。
(わたしって、無力なんだ……)
ティアがいたから、旅を続けることができたのに。
ハウザードの真実を知り、眼の前が真っ暗になった時、立ち直らせてくれたのは、ティアだった。
たくさん、助けてもらってきたのに。
それなのに今、ティアのためになにもできない。
ユファレートは、ティアをただ抱きしめ続けた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
朝になって、ロンロの姿がないとわかった。
ミンミは、青冷めていた。
ロンロとミンミは、血の繋がりがある実の兄妹である。
他の子供たちも騒ぎ出したが、リンダが黙らせた。
リンダが黙れと言えば、子供たちはみんな黙る。
ロンロは無事だろうと、リンダは思っていた。
あの子は、自分の面倒は自分で見れる。
ティアや旅人たちには、ロンロの行方が知れないことは告げていない。
これ以上心労を増やすのは、酷というものだろう。
ストラームの弟子が、殺された。
ザイアムに、殺された。
ザイアムと対等に戦えるのは、ストラームだけだろう。
それでも、ストラームの弟子ならばあるいは、と考えていた。
だが、殺された。
ストラームは、切り札だったかもしれないカードを、あっさりと失った。
「切り札を、切らなきゃなのかもねえ……」
自室から見える空は、青かった。
長年この地に暮らしてきたが、稀にあるのだ。
冬の季節、毎日のように大量の雪が降る。
しかし、思い出したかのように、空が青くなる日がある。
ドラウ・パーターと最後に会ったのは、夏だった。
そして、良く晴れた日だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ドラウ・パーターが、枯れ枝のように痩せた指で、『地図』に触れている。
手の甲にある染みは、しばらく前に見た時には、なかったものだ。
病が進行しているのだろう。
そして、はっきりと老いている。
リンダは、適当な岩に腰掛けていた。
地面には、『コミュニティ』の兵士の死体がいくつも転がっている。
リンダの拳で顎を砕かれた者もいれば、ドラウの魔法で肉を焼かれた者もいる。
オースター孤児院は、水面下で何度も襲撃をされてきた。
三日。
敵襲があると、リンダはまずそれを意識する。
東にあるドニック王国から、長距離転移や飛行の魔法を駆使して、二日掛けてドラウがやってくる。
魔力の回復に、一日掛ける。
だから、三日だった。
三日堪えれば、ドラウの援護が受けられる。
エスから連絡を受けているのか、ドラウは必ず助けに来てくれた。
「『地図』への登録が、終わったよ」
ドラウが、地図を見せてくれる。
キャリーという少女が、春先から家族の一員となった。
兎の耳のようなものが付いたフードを、夏場でも被り続けている少女である。
キャリーを示す孤児院にあった赤い点が、消えていた。
村には、他にも赤い点が三つ。
余所から来た、行商人かなにかだろう。
そして、『コミュニティ』の兵士たちを迎え撃ったこの平地にも、赤い点。
これは、ドラウを指している。
「さてと、用事も済んだし、僕は帰ろうかな」
膝の関節を鳴らしながら、ドラウが立ち上がる。
「もう帰るのかい? なんだったら、泊めてやっても……」
ドニック王国に戻っても、ドラウは一人だった。
妻は、大分昔に流行り病で亡くしている。
孫娘は、老いたドラウを残して、薄情にも旅立った。
息子の妻となった女性は、ドラウの孫娘を産んだ日に死んでいる。
元々、病弱な女性だったらしい。
息子は、中身を破壊され、別の人間が入り込んでいた。
「気を遣ってくれているのかい? 『鉄の女』も、随分と温かくなったものだ」
好々爺といった雰囲気のドラウが、少しからかうような口調で言う。
リンダは、そっぽを向いた。
「気持ちだけ貰っておくよ。ありがとう。でも、戻ることにするよ」
「あっそ」
「リンダ」
ドラウの口調が真面目なものに変わっていると気付いて、リンダは彼の顔へと眼をやった。
「ハウザードが、戻ってくる」
「……なんだって?」
「狙いはおそらく……いや、今それはいいか。ともかく、僕は君の援護ができなくなるだろう。一人で、子供たちを守れる自信があるかい?」
「ない」
「……正直は、美徳だよ」
即答すると、ドラウは微かに苦笑したようだった。
「ならば、教えておこうかな。『地図』の、本当の力を」
「本当の、力?」
ドラウは、抜けるような青空を見上げた。
「空の向こうに、なにがあるか知っているかい?」
「……いきなりポエム?」
「……ポエムを理解しないと、詩人に嫌われるよ。……いや、そうではなく」
ドラウが、今度は地面を杖で突く。
「旧人類の時代、ここはメルテナという国の首都だった。面影は、全く残っていないけどね」
「……だから?」
それくらいは、知っている。
「旧人類の文明が、どれほど進んでいたか……」
「まあ、巷にある魔法道具を見れば、多少は想像できるよ」
「科学」
「……うん?」
「魔法ではなく、科学だよ」
「……科学って」
「現代の科学と、同列に考えては駄目だよ。旧人類の科学は、魔法よりもずっと強大だった」
ドラウは、空を見上げたままだった。
「彼らは、科学により数多の道具を作製した。遠く離れた地に声を送り、鉄の塊を空に飛ばし、夜に光を満たした。彼らの科学を超えている魔法といえば、物質転送や瞬間移動、長距離転移、あとは、治療系の魔法くらいなものかな」
「……」
ティアからの手紙によれば、ドラウの孫娘であるユファレートに魔法や魔法道具の話をさせると、延々と口を動かすらしい。
きっと、祖父の影響だ。
「科学の発達に伴い、兵器も発達していった。ある程度の国になると、世界を何度も滅ぼせるほどの大量の兵器があったらしいよ」
「……ぶっそうだねえ」
「空の向こうに、なにがあるか知っているかい?」
さっきと同じ質問だった。
詩を吟じたい訳ではないだろう。
「……暗い空間が、無限に続いていると聞いたことがあるね。そして、とてつもなく遠くに、無数に星の光があると。確かそこを……」
「宇宙、という」
ドラウは空を見るのをやめ、頷いた。
「旧人類は、その宇宙さえも自分たちの領土としようとした」
「……そんな暗闇に、なにがあるのかねえ」
「ロマン、かな」
「……は?」
「未知への探求だよ」
「……はあ」
曖昧な相槌を、リンダは打った。
「最初は、探求心だったかもしれない。だが、やがて別の利用のされ方をし始めた。国家の上層部によってね」
「……」
「宇宙に打ち上げられた人工の物体から、彼らは地表を観察するようになった」
「……なんかさぁ」
呻き声のようなものが、漏れてしまう。
「大それたこと過ぎて、神様への冒涜に思えるね、あたしには」
「……そうかもしれないね」
ドラウが微笑を浮かべる。
「その精度は凄まじく、一人一人の顔や姿形まで判別できたらしいよ。それどころか、建物内部にいても、屋根や天井を通り抜けて観察することができた」
「プライベートもへったくれもないね」
「やがて科学は、物体の軍事利用も可能なほど、進化した」
「軍事、利用……」
穏やかな響きではない。
「宇宙にある物体から、人の脳を撃ち抜くことが可能なまでになった」
「……は?」
「旧人類が滅んだ今も、物体は稼動中だ。この地は、空の向こうから観察されている」
「ちょっと……」
「この地で暮らす者を、空の向こうの物体は解析し、識別している。九十二日以上、つまり三ヶ月以上留まっている者は、物体に登録が可能になり……」
「ちょっと待った!」
洒落にならないことを聞いているような気がする。
「じゃあなに? 登録されたあたしたちは、物体から攻撃されるってことかい?」
「逆だよ。物体は、メルテナの首都防衛のための設備だ。登録された住人ではなく、登録されていない外部からの侵入者を攻撃するためのね。『地図』は、物体へ接続するための端末の一つ。『地図』に表示される赤い点は、標的を表す」
「……」
「もし今、物体を攻撃に使用したら、登録されていない僕は、空の向こうから脳を貫かれる訳だ」
「なんかもう、話が凄すぎて……」
疲労を感じるほど、困惑している。
いつの間に立ち上がったのか。
また、岩に座り込む。
せめて、楽な姿勢でいたかった。
「そんなもん、破り捨てちまいな」
「見た目は紙切れでも、一応古代兵器だよ。形状を記憶しているから、折り曲げようと丸めようと、元の形に戻る。穴を空けても、塞がる。それにね、リンダ」
「なにさ?」
「力は、使い用だよ」
「軍事国家の言い分だ、そりゃ」
ドラウの顔の皺が、深くなった。
苦笑したのだ。
ストラームも老けたが、それ以上にドラウは老けた。
「そういう君だから、かな」
「うん?」
「大それたこと、と言ったね。破り捨てろ、と。そういう君だから、物体への接続方法を教えられる」
「教えなくていい」
「使え、と言っているのではないよ。子供たちを守るために、力は必要だろう? はったりに使うも良し。実際に使うも良し。君なら、使い時を誤りはしないだろうし」
「……」
「クロイツやエスに、攻撃操作法を知られることはないよ。例え、脳に侵入されたとしてもね。そうプロテクトを掛ける」
「はったり、ね……」
これまで、『コミュニティ』は戦力を小出しにしてきた。
もしくは、ザイアムのような強力な個を向けてくるか。
空の向こうからの攻撃で、大部隊を殲滅されることを警戒しているのだろう。
だから、半端な戦力を差し向ける。
あるいは、同じく『ダインスレイフ』という古代兵器で守られているザイアムを向かわせる。
はったりは、確かに有効だった。
ドラウが駆け付けてこれた、今日までは。
「まあ、君がどうしても聞きたくないというなら……」
「聞くだけ聞いといてやるよ。けど、絶対使わないから」
「それでいいと思う」
ドラウが、語っていく。
驚くほど、簡単な操作だった。
物体を意識した状態で、『地図』に触れる。
それだけで、物体に意識を接続できる。
すると頭の中に、楽器の鍵盤のようなものが思い浮かぶ。
いくつも配列されたそれを、順番通りに押すだけだった。
「……たったこれだけ?」
「それは、鍵となる語句を知ったから言えることだよ。知らない者には、ほぼ絶対に扱うことはできない」
「そういうもんですか」
ドラウが微笑む。
「そういうものだ」
この微笑みをもう見ることはない、リンダは理解していた。
「じゃあ、僕は行くよ」
「うん。これまでありがとね、ドラウ」
「どういたしまして」
微笑んだまま、小さく肩を竦める。
彼も当然、これが今生の別れだと理解しているだろう。
「君の健闘を祈るよ」
「あたしも、あんたの健闘を祈るよ。ユファレートちゃんが戻るまでは、負けるんじゃないよ。『コミュニティ』にも、病気にも」
「努力する」
女々しいことを、言う必要はない。
長年、共に戦ってきた。
離れた土地にあっても、一緒だった。
互いの弱さもみっともなさも、知り尽くしている。
痩せたドラウの後ろ姿が地平に消えるまで、リンダは見送った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
(ドラウ、あんたはやっぱ、男だよ)
青い冬の空を見ながら、リンダは思う。
ドラウは、リンダという女をわかっていない。
絶望的な状況にあり、それでも望むものがある。
それは、我が子の安寧。
例え、なにと引き換えにしても。
例え、醜悪に汚れるとしても。
何度か『地図』に触れて、わかったこと。
本来は、もっと細かい操作ができるはずだった。
使い熟せば、『地図』の範囲内にいる特定の人物だけを撃ち抜く、ということも可能なようだった。
だが、ドラウの解析能力でも、物体の細かい操作法が判明しなかった。
できる攻撃操作は、範囲内にいる未登録の者を、一斉に撃つことだけ。
予想通り、『コミュニティ』の大規模な侵攻は、冬になってからだった。
『ヒロンの霊薬』を製造する工場に、近隣の街や村から人々が集まっている。
『地図』に、赤い点で表示される人々が。
空の向こうの物体を攻撃に起動させると、『コミュニティ』の構成員だけでなく、彼らまで死なせてしまう。
だが、彼らに犠牲になってもらえば。
そして、オースター孤児院を窮状から救うためにやってきた旅人たちに、犠牲になってもらえば。
この地にいる『コミュニティ』の部隊を、ザイアム以外は殲滅できるのだ。
包囲を解ければ、子供たちを逃がすことができる。
ザイアムは、この身で足止めすればいい。
泥塗れになり、命を捨てるだけで、子供たちを守れる。
安いものだと、リンダは思っていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
自分の体に意識を戻しても、彼女はしばらく身動きを取ることができなかった。
『ルインクロード』に触れた。
理解した。
怒りが込み上げてくる。
(あんなものを『コミュニティ』は、わたしの体に埋め込もうとしたの?)
赤毛の少年は、それを知っているのだろうか。
ハウザードは、理解して、受け入れたのだろうか。
赤毛の少年にある『ルインクロード』は、滅んではいなかった。
ほとんどの力を失い、抜け殻のようになり、それでもまだ確かに存在していた。
『ダインスレイフ』の力さえも喰らい、かつての姿を取り戻そうとしている。
ティア・オースターの中にある一粒が、『ヴァトムの塔』の力を吸収したように。
赤毛の少年の左眼周辺に突き立っている、剣の破片を抜いていく。
魔法医として生きていた時期が、彼女にはある。
凄惨な傷など、見慣れていた。
深く傷付いた、赤毛の少年の体。
どう見ても致命傷。
死んだ肉体。
でも。
(あなたは、レヴィスト君の中の『ルインクロード』に、当然気付いていたのよね、ストラーム・レイル)
以前からの疑問が、一つ解けた。
彼女は、赤毛の少年をずっと見張っていた。
彼が、希望となるかもしれないと考えていたから。
彼の師であるストラーム・レイルは、赤毛の少年に激しい訓練を課した。
骨をへし折り、肉を焼き、内臓を潰した。
日に何十回と叩きのめし、同じ回数だけ赤毛の少年を癒した。
不可能なのだ、そんなことは。
魔法の力は、絶対ではない。
折れた骨を繋げても、当分まともに動かせない。
全身火だるまにされてしまえば、治療されても障害が残ることを覚悟しなければならない。
破裂した内臓の修復には、普通は数日掛かる。
だが、ストラーム・レイルは一日に何度も赤毛の少年の重傷を癒した。
ストラーム・レイルだから。
最高の魔法使いだから。
世界を救った英雄だから。
生ける伝説だから。
常人とは違う超人だから。
不可能を可能にしている。
彼女は、無理矢理そう思い込んでいた。
だが、おかしいのだ。
ストラーム・レイルは、人間なのだから。
人間の魔法以上の力を、扱える訳ではないのだから。
(あなたは、レヴィスト君の『ルインクロード』を理解していた。そして、利用していた)
宿主の死を拒むような、この絶大な再生能力を。
一粒を分け与えられた一人の少女が、息を吹き返したように。
死から生還したように。
(まだ……間に合う? 助かるの?)
まだ、繋がっているのだろうか。
赤毛の少年の命と、肉体は。
そして。
(ザイアム。あなたはどこまで計算していたの?)
あの男だけは、わからない。
癒しの力を、少年の体に、いや、少年の内側の存在に流し込んでいく。
彼女が出力した以上の魔力が、吸い取られていく。
存在を喰われているかのようだった。
傷口が、異様な速度で塞がっていく。
「あなたは、バカね……」
魔力を奪われながら、彼女は呟いた。
『ルインクロード』を理解した。
あれは、奇跡的な均衡により成り立つ力。
だが、少年は力を一粒分け与えた。
それにより、少女は人間とは少しだけ違う存在になってしまった。
少年は、苦悩することになるだろう。
だけどきっと、少女にとっては些細なことなのだ。
少年の『ルインクロード』は、一粒欠けている。
『ダインスレイフ』を喰らい、少年は『ルインクロード』の存在を自覚してしまうだろう。
おそらく、急速な勢いで『ルインクロード』は力を取り戻していく。
存在を、一粒欠けさせたままで。
奇跡的な均衡により、成り立っている力。
一粒分の欠けは、均衡を壊す。
そうなれば、少年はどうなるか。
「バカね……。そんなに、あの子を失いたくなかった?」
そんな愛され方で、女が喜ぶと思っているのだろうか。
男は、みんなそうだ。
勝手なことをして、女を苦しめる。
「わたしは、復讐なんて望んでいなかったのに……」
全部忘れてくれれば良かったのに。
ただ、平穏に暮らして欲しかったのに。
「……一番バカで勝手なのは、わたしね」
洞窟の中は、暗い。
自嘲的な呟きは、誰にも聞かれるはずがなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
リンダは、懐に封筒を押し込み自室を出た。
子供たちを守るため、必要ならば、『地図』を使うことも躊躇うつもりはない。
だからといって、無闇やたらに旅人たちや無関係な人々を殺めるつもりはない。
可能ならば、『地図』の範囲外へ避難してもらう。
廊下に、ミンミとパナが神妙な顔付きで佇んでいた。
「どうしたんだい?」
聞くと、ミンミが自分のふっくらとした唇に、立てた人差し指を当てた。
ティアの部屋の前である。
扉の向こうから、嗚咽が聞こえた。
リンダは溜息をついた。
止めるミンミを無視して、ノックと同時に扉を開ける。
ユファレートが、顔を上げた。
その胸に額を押し付け、ティアは泣いている。
リンダは、ティアの頭を撫でた。
言葉は、陳腐なものしか見付からない。
慰めを口にはしなかった。
もう少し時間が経過してからだ、とリンダは思った。
ユファレートの小さな肩に、手を置く。
「ちょっといいかい? 話がある」
顎で廊下を差し、先に部屋を出る。
二言三言ティアに囁いてから、ユファレートが立ち上がる。
入れ替わりに、ミンミとパナがティアの部屋に入っていった。
廊下を、居間の方向に進む。
ユファレートは、リンダの斜め後方について来ていた。
「あの、話って……」
「ドラウのとこに、帰んな」
ドニック王国との国境に近い。
ドラウの元へは、徒歩で数日といったところだった。
「……御祖父様の所に? あの、でも、わたしは……」
「ハウザードは、ドニック王国にいる」
「……!?」
絶句する気配が、伝わってくる。
「詳しいことは、ドラウに聞くんだね」
リンダがそう言った頃には、居間の前に到着していた。
扉を押し開く。
ティアの仲間たち、テラントにデリフィス、シーパルだったか。
三人が、顔を向けてくる。
「あんたたちに、頼みがある」
歩きながら、単刀直入に言った。
急いでいると、強調するためだった。
急ぐことと焦ることは似ている。
そして、周囲の者に伝播する。
焦りは、思考力を鈍らせる。
嘘を見抜きづらくなるだろう。
『地図』を、テーブルに拡げた。
ロウズの村の北に、三十ほどの赤い点。
王都へと続く西の街道を封鎖する、四十ほどの赤い点。
三十の赤い点が、少し南西へ移動したか。
ティアたちが戻ってきてからの敵の動きは、それくらいのものだった。
「あんたら四人で、ここを突破してほしい」
リンダは、西の街道を指した。
「突破、ですか? 倒せ、ではなく。脱出口を作れということでしょうか?」
ずっと眠っていたシーパルが言った。
この男を助けるために、彼らはこの北の大地にまで遠路遥々やってきたのだ。
何ヶ月も眠り込み、そして目覚めて間もないはずだが、頭ははっきりしているようだった。
ただ、疲労は感じさせる。
「脱出口って意味もあるけど、あたしはあんたらに、王都に向かってほしいのさ」
街道をそのまま進めば、やがて王都へと行き着く。
リンダは、懐にしまっていた封筒を『地図』の隣に置いた。
「こいつを、城へ届けてほしい」
「これは?」
テラントが、手を伸ばす。
「救援を依頼する手紙さ。城の門番にでも、あたしやストラームの名前を出して渡してもらえば、必ず王にまで届く。あたしは、王とは面識があるから」
「救援ですか……。でも、あの大男は……」
自分の両の掌を、シーパルは見つめる。
「あの大男を、どうにかできるとは思えません……」
「どうにかできる。ザイアム、大男の名前ね。ザイアムの脅威は、ホルン政府も知っている。いざという時のための、対抗策も考えられている。魔法道具には、魔法道具さ」
「対抗策が……」
「ある。だから、一刻も早く王へ手紙を届けてほしいんだよ」
そしてリンダは、わざと表情を翳らせた。
「ほんとは、政府に借りを作りたくないんだけどね……」
声のトーンを落とす。
俯き加減になりながら、リンダは素早く旅人たちの表情を盗み見た。
誰も、リンダの言葉を疑ってはいないようだ。
「四人で四十人か。敵さんの実力に未知数な部分があるから、なんとも言えんが」
自信はある。テラントの顔は、そう語っていた。
隣の席のデリフィスが、腕組みを解き口を開いた。
「ここの守りは?」
「あたしだけでいい」
「だが」
「北の三十人に、動きがない。地の利がある。あたしだけでいい。それよりも、手紙だ。確実に、城まで届けておくれ」
旅人たちの顔を、一人一人見つめていく。
「あたしと王の関係を、『コミュニティ』も知っている。様々な妨害があるはずだ。厳しいことだけど、他に頼める奴もいない」
「……わかった」
代表するかのように、テラントが頷く。
「疲れてるところ、悪いね。できるだけ急ぎで、頼んだよ」
テラントという男は、金の頭髪からしてラグマ人だろう。
この辺りの気候は、堪えるはずだ。
デリフィスという男は、昨晩崖から転落し、山中をさ迷ったという。
そして、特に魔法使い二人だった。
今にも卒倒しそうな顔色をしている。
それでも彼らは、愚痴を零すこともなく立ち上がった。
誰も、嘘に気付いていない。
四人が居間を出るのを見送り、リンダはほっと息をついた。
全てが嘘。
王と面識など、ない。
リンダは、ただの村人でしかないのだから。
おそらく、リンダがストラームの仲間だったから、彼らは騙された。
世界的に有名なストラーム・レイルの知人ならば、王と面識があってもおかしくない、と感じたのだろう。
当然、手紙は王にまで届かない。
そもそも、手紙ですらない。
封筒の中身は、白紙である。
ザイアムへの対抗策など、ない。
ストラーム・レイルという対抗できる人間が、遠くリーザイ王国にいるだけである。
ともかく、彼ら四人を追い払うことには成功した。
あとは、無事街道の敵を突破してくれればいい。
王都へ向かえば、ロウズの村まで戻るのは数日掛かる。
『地図』の効果の範囲外となる。
彼らが戻ってくる前に、全てを終わらせる。
(あとは、パナって子と、工場の人たち……)
パナはヨゥロ族だった。
山と馴染み深い一族である。
四人が街道を突破すれば、敵に乱れが出る。
包囲が崩れてしまえば、この村からなんとか脱出できるだろう。
ヨゥロ族以上に、山中を速く移動できる者はいないのだから。
工場で働く人々は、どうするか。
『地図』の力を用いれば、彼らが死ぬ。
(どうするかねえ……)
脳を使うと、目眩を感じた。
もう何ヶ月も、『コミュニティ』の構成員たちと戦闘を繰り広げている。
疲れていると、自覚していた。
廊下に出て、シュアを呼んだ。
一時間後に起こすように、告げる。
少し休めば、脳の回りもよくなるだろう。
頭の芯に痺れを感じながら、リンダは自室へと向かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
浅い眠りの中で、昔の夢を見た。
鍛えた肉体。固めた拳。
リンダは、自分の強さを自覚していた。
ストラーム・レイルの旅についていける者が、他に何人いるだろう。
しかも、リンダは女である。
自分よりも強い女といえば、『コミュニティ』の最高幹部の一人、死神ソフィアくらいなものではないのか。
だが、リンダは自分の弱さも自覚していた。
どれだけ技を磨いても、どれだけ強さを求めても、ストラーム・レイルには届かない。
ずっと、彼の後ろだった。
肩を並べて戦うことはなかった。
簡単に勝てる相手に、ストラームが傷付くことがあった。
リンダを、庇ったためだ。
リンダが足を引っ張り、窮地に陥ったこともあった。
自分の弱さは、いつかストラームを殺す。
結局、ドラウ・パーターの代わりはできなかった。
別れを告げた。
それを受け入れようとしないストラームを、引っ叩いた。
追ってきたところで、また引っ叩いた。
勝手な女だと、自分でも思う。
独りの旅を、しばらく続けた。
目的もなく、ただ流れ歩いた。
ホルン王国の北部である。
山中にいくつかの村や集落があり、盗賊団に悩まされていた。
治安を守るべき兵士たちは、ドニック王国との国境を巡る争いに従事している。
村人たちに依頼され、いくつもの盗賊団を潰して回った。
感謝される。賛辞の言葉を浴びることができる。
村人たちの尊敬の眼差しが、気持ち良かった。
集落が襲われた。
四軒の家、十四人が暮らす、小さな集落である。
潰したはずの盗賊団に、生き残りがいた。
リンダに退治を依頼した集落に、復讐したのである。
ストラーム・レイルならば、復讐などさせなかっただろう。
根こそぎ殲滅したはずだ。
ドラウ・パーターならば、生き残りを見落とさない。
なんらかの対策も考えたはずだ。
あの二人のようには、なれない。
十三人が、殺された。
一人だけ、倒れた家具の下敷きになっているところを、見落とされていた。
まだ、三、四歳ほどの女の子である。
頭から、血が流れていた。
高熱もあった。
流行り病に罹っているようだ。
意識はなく、譫言で何度も母を呼んでいた。
止血すると、抱き抱えてリンダは駆けた。
村まで行けば、医者がいる。
『ヒロンの霊薬』も、きっとある。
冬である。
山の中を、走った。
雪の中を、三日三晩駆け抜けた。
腹が減ったら、木の皮をかじった。
喉の渇きを感じたら、雪を口に入れた。
不眠不休で走り続けるつもりだったが、いつの間にか眠っていた。
眠っている間も、歩いていた。
女の子は、意識のないまま母を呼び続けている。
村へ辿り着いた時は、深夜だった。
医者の家の扉を叩き、無理矢理起こした。
女の子は、冷たくなっていた。
なぜ。なぜ死んだ。
なぜ助けられなかった。
なにが、『鉄の女』だ。
足掻いて足掻いて、こんな小さな女の子を救うこともできないのか。
助けたかった。ただ、助けたかった。
冷たい体。
もう、眼が開くことはない。
助かっていたら、きっと、すぐに元気になって、すくすくと育って。
学校に通って、友達ができて。
普通に、恋などして。
大きくなっていって。
いつかは、働くようになって。
困難にぶつかり、挫折することもあるだろう。
だけど、きっと苦しみながらも乗り越えて。
いつかは、結婚して、子供もできて。
そんな当たり前の人生が、ささやかで在り来たりな生活が、何年も何十年も続くはずだった。
親を亡くした。
それは、大変なことなのだろう。
こうして知り合ったのも、なにかの縁だ。
自分が、後見人になってあげよう。
そして、見守ってあげよう。
そういえば、まだ名前も聞いていない。
女の子は、冷たかった。
頭に巻いた包帯代わりの衣服の切れ端には、乾いた血がこびりついている。
表情は、まるで母親に抱かれた赤子のように、穏やかだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
シュアが起こしに来る前に、リンダは眼を開いた。
(あたしは、二度と失わない……)
子供たちの誰も、殺させやしない。
天寿を全うさせる。
絶対に、守ってみせる。
そのためならば、この拳はいくらでも固くなる。
勝てない相手にも、勝ってみせる。
なんだって利用してやる。
いくら汚れても、どれだけ傷付いても構いはしない。
村の北に、あの集落はあった。
そこには、名前が刻まれていない墓がある。
◇◆◇◆◇◆◇◆
戻ってくるものがある。
これは、意識だろうか。
体の内側で、暴れ回っているものがある。
これは、痛みだろう。
身を引き裂くような痛み。
熱を以て苛む。
叫び声を上げていた。
実際に、叫び声になっているのか。
霞んだ視界。
左半分は、なにも見えない。
体は動かない。
動かせたならば、のたうち回っていただろう。
「落ち着いて」
声がした。
「大丈夫だから」
透き通るようで、それでいて強い意思も感じさせる声。
温かい力が流れ込んでくる。
「今は、眠って……」
痛みが、わずかに緩和される。
この言葉に、逆らう必要はない。
眼を閉じた。
暗闇の中、浮かぶ情景がある。
(あいつ、泣いてた……)
早く、戻ってやらないと。
嘘つき、と言っていた。
(嘘なんて、つかねえよ……)
お前、俺の嘘がわかるんだろうが。
そんな奴相手に、嘘なんてつくか。
なんとかすると言った。
言ってしまった。
だから、なんとかしてやらないと。
もう少しだけ、待ってろ。
少しの間だけだ。
今はまだ、起き上がれない。
待ってろ。
呟いて、ルーアは眠りについた。