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となりのセカイの折上くん  作者: なかの
あらたなるセカイ
4/7

「ひとりでの、ヒミツ」



嫌な予感というものは、当てにならないものだと思っていた。


あの時、あの場所で、別のセカイから来たという自分に出会うまで、そんな非論理的なものを信じた事なんてなかった。けれど、それは自分が思っているよりも当然来るべくして訪れた必然なのだとしたら?ボクが此処に来た時点から、こうなる事を見越した事態なのだとしたら、――これは在るべくして生じた必然なのかもしれない。



***



「なんの話…?」

居ても立ってもいられず、恐る恐る問いかけていた。

久我さんは、ゴミにも見える長方形の切れ端を指先で摘まむように持ち、それを此方へ突き出すように向けている。

「しらばっくれないでください、です」

ここからではその内容を伺えない。

もしかしたら、久我さんがカマをかけている可能性もある。と、希望を胸に馳せた刹那、同時にそんな的を射た台詞が何故彼女の口から発せられたのかを考えて失望する。

高確率で久我さんは何かを知ってしまったのだとしたら、ボクがこのセカイの人間でない事がバレてしまった可能性が否めない。――それは同時に、ボクがこのセカイに居留まれない事を意味していたとしたら?

自分によく似た彼が言っていたように「セカイが不要因子」と認識してしまったら、――憶測だが代わりの自分が此処に居ない以上、ボクはセカイに淘汰され、「存在しなかった」ということにされてしまうかもしれない。このセカイに留まりたければ、なんとしても彼女を納得させなくてはならないのだが、それが既に不可能であるのならこの場合、ボクは直に消えてしまうのだろうか。現状なにをしたらセーフで、なにをしたらアウトかも分からない以上下手に動けない。まさに手探り状態だ。

寧ろ、現状を打破するのであれば最善策としては彼女のリクエストになにがなんでも応えるべきではないだろう。

などと思考していた矢先に、久我さんはいつの間にかボクの顔を覗き込んでいた。

「折上くん、酷い冷や汗です」

指摘されて気付いた。

背中は当然ながら頬からも首からも滴る不快な汗。腕で拭いながらボクは自ずと一歩後退っていた。するとその視界一杯にゴミとも窺えた用紙を突きつけて、久我さんは好奇に満ちた眼差しで再びボクへ迫る。

「見せてください……お願いします、折上くん」

さあ、どうする。

これはイタズラです。とでも言うか?そんなんで納得してくれるだろうか。いや、ある、限りなく可能性のある言い訳が。と、閃いたボクは、久我さんの手からその紙を摘まみあげて目を通す。

「あぁ、これか、これはゲームの特典だよ……そんな目で迫るから、何かと思っちゃったじゃないか」

我ながら下手な芝居だ。

今一度汗を拭って視線を持ち上げると久我さんは眉を下げていた。

なんだ?なにかが引っ掛かる。その目はとてもとても残念そうで、例えるなら最後の希望さえも摘み取られてしまったような、そんな目をしていた。好奇とはまた別の……期待とでも言うべきか、そんな切なる思いの篭った瞳を今は伏し目がちに逸らしている。――ボクは、なにか勘違いをしているのか?

そんななか、久我さんの唇が小さくか細く開かれた。

「そうですか、そんな力が本当にあったのなら、私は……」

そこでなにかを思い出した風に彼女ははっとして踵を返す。

「それでは、その紙を折上くんにお返しします」

「あ、ありがとう」

引っ掛かりは喉の奥で留まっていた。――今は現状を回避できたことを素直に喜ぼう。

機敏とその場を後にする久我さんを傍目に、ボクは散らかしたゴミの片付けを強いられる。引っ付かんだゴミ袋をゴミ山の上へ戻していると、背後から「あ、」という声が響いて振り返る。久我さんは10m離れた場所で足を止めていた。そして肩越しに此方へ振り向くと彼女はぽつりと呟いた。


「折上くんが折上くんではない事を私はまだ諦めておりませんので」


悪寒が走った。

それは一体どういう意味なんだろう。



そして彼女は再び歩を進めて人気の無い焼却炉を後にした。




***




同時刻・A線




「教えて、ここにいたゆーくんをどこへやったの?」

うるえの瞳は、紛れもない確信へと変わっていた。

その瞳は揺るがない。それもそのはず、揺るがす程のハッタリをオレは用意できなかった。黙り込む姿がそもそも肯定を物語っている。沈黙してしまったオレを見て、なにを察したのやら彼女はバツが悪そうに首を傾げて呟いた。

「誤魔化しても無駄だよ…?」

「……言えないんだ」

もう誤魔化せないのは一目瞭然だ。

だが伝えられないという意思表示だけは、頑なに訴えた。

別のセカイから来た事を認めちまったら、このセカイがオレを不要因子と見做してしまう。そうなればオレは此処に居留まれないだろう。

これは罰だろうか……あいつ(自分)を犠牲にしてしまったオレへ対する罰だと言うのなら、自分に与えられた運命というものはどのセカイへ飛んだとしても変わらないのかもしれない。――と、いつになく感傷的になってしまった。

だけど、そんな罰はこの際どうだっていい。オレの目的はただ一つ。彼女の延命だ。彼女に干渉、或いは接触、如何なる伏線も控えたい。彼女を消してしまう選択肢も、そしてオレが消えてしまかもしれない現状も、――どうにかして回避しなくちゃならない。


一度だけ、セカイに不要因子と見做されて消滅した男がいた。


過去へ飛んだ男からは、毎月興味深いデータを受け取っていた。その交信手段は一方的なもので、調査結果を封書に纏めてとある形で未来へ送るといったアナログ式の方法だった。人目に触れぬよう書類を決まった場所へ保管しておけば未来(現代)の同じ場所に送られてくる寸法だ。これが一番安全で、一番手っ取り早い方法だったとも思う。だが、その手紙はある日を境にぱったりと途絶えてしまった。次元の変革に巻き込まれてしまったか、セカイに不要と判断されてしまったのか、行ったきり戻って来ない男にしかその事情は分からなかった。

その後、彼の捜索案も検討されたが、探しに行くのはあまりにも危険を伴うとされ、この研究はその男の失踪を最後に終止符が打たれた。

それから二年後。行方不明だった男は、現代のとある農場で発見された。何十年もの時間差があったのにも関わらず、男は生前の姿のままで現代へ戻ってきた。どういう事なのか事情を聞こうと療養中の男に何人もの研究員が詰め寄ったが、男はなにも語りはしなかった。否、語れなかったのだ。

現代へ戻って来た男が、過去へ飛ぶ前と明らかに違う点が一つあった。それは誰の目から見ても明らかな変化で、異常とも呼べるものだった。オレも一度だけその男の面会には行った。話しかけても反応は無く、まるで抜けがらのように虚ろな瞳をしていた。焦点は遠くを見ているようで、なにも無い所を飽きる事なく眺めている風にも見えた。頬を叩いても、足を抓っても、微動だすらしないその様子は、――まるで人形のように無機質だったのを今でも覚えている。

医師の話では、自分が何処の誰かも忘れてしまっていたそうだ。自分の事も、愛する者の事も、全て忘れて廃人に成り下がった男の末路。 自らを実験材料と呼んだその男は、――オレの親父だ。


その話を聞いてから、消滅だけは何があっても死守しようと心に決めている。――目の前の人の事を忘れちまったら、そんなのは死んだも同然だ。

頑なな態度を取り続けていた矢先、――はあっという溜息が聞こた。視線を持ち上げてみたら、うるえは肩を下げていた。彼女の瞳からは敵意が消え、そして「まったくもう」とでも言わんばかりの呆れ顔で、両手を後ろに組むと僅かに上半身を前へ倒して口を開いた。

「なにか勘違いしてるようだから言っておくね……あなたが正体をバラしたとしてもあなたは消えないよ」

「それってどういう…ッ!」

的確で衝撃的な物言いへ咄嗟にも問いかけてしまっていた。その時点でオレの真意が明るみとなる。――オレ、馬鹿だなあ。

自分の馬鹿さ加減に呆れ返っていると小さな笑い声が聞こえてきた。

「っ、ふふ……ずるいな、ゆーくんみたいな顔してる」

ゆーくんだもの。なんて言えないけど、そう言いたそうなオレの気持ちを汲んでか、うるえは申し訳なさそうに肩を竦めた。そして一歩後退ると、踵を返して彼女は後ろを向く。

「タイムパラドックスの理念は、世界が不要と判断するんじゃないの。自分がその世界を受け入れられなかったとき、数多の世界からの来訪者はいつしか自己を保てずに粒子化してしまうんだ、……だから研究者達は、幾度も研究を重ねては戻る事の無い勇敢な者の帰りに終止符を打った。セカイが不要と判断したとき、その存在は消滅する、と。初期段階ではそういう結果に至ったの。でも、本当はね、世界を行き来するうちに自分自身が何処の誰かも分からなくなってしまうらしいんだ。自分の立ってる位置を見失ったとき、人はパラレルワールドの再構築に巻き込まれて粒子と化し、消滅してしまう。あなたが此処の住人と思いこみさえすれば……」

「できるかそんな事!」

思わず突っ込んでしまった。

そんなオレへ向き直るとうるえは真剣な面持ちで言う。

「まあ、そう簡単にできたら苦労はしないよね……でも、やるしかないんだよ?此処の住人だと思いこまなければあなたは自分を忘れてしまう」

彼女は、何故そんな事を知っているんだろう。なんて、今更そんな事を考えている自分にはっとする。この現状から逃避しようとしている事に気付き、我に返った。――そんなの答えは一つしかないじゃないか。

受け止めたくない答えから一瞬目を逸らしてしまいそうになったが、オレはそれをぐっと堪えた。

「それより、ゆーくんが心配、なんでこんなことしたの。上手く回ってたのに……」

顎に手を添え、余す手でその肘を支えるような体勢でうるえは身体を固定していた。その視線の先は焦点となる物も無く、思考を巡らせているようだ。本来此処にいたであろう人物の危惧をし始めた相手を傍目に、オレは確信に近い思いを胸に彼女へ問いかけた。

「つーか、お前、もしかして、……」

その歯切れの悪い怪訝な物言いに、うるえは今一度オレへ視線を向けると大きく頷いて見せた。そしてもう4月だと言うのにもかかわらず青いマフラーを靡かせて、彼女はふんわりと微笑んだ。

「お察しの通り、私も世界を移行してここへ来たんだよ」

予測した通りの返答が返ってきて、些か安堵していた自分がいた。


が、


この違和感は、なんだ。


「お前、なんで笑えるんだ」

「えっ…?それは今の話のうえでって事、かな?」

確認を込めて問う相手をオレはどんな顔で見つめていただろう。――言葉には出来なかった。その沈黙を肯定と受け取って、うるえは続けた。

「君もタイムマシンのあるセカイから来たんでしょ…?なら、分かるはずだよね……犠牲は付き物、だよ?」

「分からねえよ……」

うるえの眉が僅かに眉間へ寄せられた。

「君は、セカイへ大いに貢献した者を侮辱する気…?」

「ちがう、おれは、オレはただ……」

無性に、悲しかった。

うるえはまるで全てを見越したようにとても冷静で――


それがただただおぞましかった。


今しがた説明された話しを聞いてオレは惨いとすら感じていた。


オレのセカイは、オヤジ一人が犠牲となって研究は中断。全ての機材は使用を禁止されて研究室の奥で厳重に保管され、埃を被っていた程だ。だが、もしもその先の研究を続けていたセカイ(チーム)が存在したとしたら?――動物実験では成しえなかった事を、人体で試した禁忌の研究。

それって、つまりは、実験の為に生贄となった人間を勇敢な者と讃美して、表向きは過去や未来の観測者とでも称してタイムトラベルさせ、実際はただの実験材料だったって事じゃねぇか。

多くの者が命を落とした上で、ご丁寧にもその過程を君は淡々と説明した。――それでも尚、うるえはオレに笑顔を向けた。そんな顔をする意味があるってこと事態、オレには凄く悲しく思えた。その過程も、そのセカイの実態も、聞けば聞くほど残酷だ。目の前の笑顔はなんのために向けられたものなのか。――それを思うとただただ悲しくなった。


口を噤んでしまったオレに、うるえは深く追及してこなかった。

「また落ち着いたら聞かせて、ゆーくん」

「……最後に教えてくれ、今の研究成果をお前はどうやって入手した」


オレは、君に聞きたい。


やっぱり君は"何者"なんだ、と――


だが、彼女は申し訳なさそうに笑った。

「ごめんね、禁則事項なの」と人差し指を立てて口許へあてがい、うるえは夕暮れの学園を後にした。

その仕草は、昔も今も変わらなかった。


『秘密だからね、ゆーちゃん!』


だけど、


君はオレの知ってる君じゃないんだな。


別のセカイがあったとしたら、誰でも一度は行ってみたいと思うんじゃないだろうか。だが、そこから元いたセカイへ帰る事が出来ないと知ったら、大体の人は行くのを思いとどまるだろう。それでも別のセカイへ行きたいと強く望む者もいる。そういう奴は大抵、今のセカイに未練が無い人間だろう。だがそれも、移動手段が無ければ幾ら望んだって不可能な話だ。

それが可能である全く別のセカイから、全く別の目的と、全く別の理由を抱えて、君も、オレも、降り立ったんだろう。――未練すら無く、此処へ来た、その目的とは一体なんだ?

オレはそれを聞かなくちゃならない。知らなくちゃならない。そうじゃなきゃ……また君は、オレの前から消えてしまうような気がした。


帰路に着く彼女の後を追い、オレは夕暮れの学園を後にした。




***



ゆーくんの居なくなってしまったこのセカイへ居留まってもしょうがない。だけど、ゆーくんの居るセカイへ行ってもしょうがない。ゆーくんが平行世界をダイヴしたのなら、そのセカイには違う自分がいて、きっとゆーくんはその私と日々を過ごしている。

私には彼氏がいる。十歳年上の彼氏。と、称した上司だ。

表向きは彼氏として行動を共にしてもらっている。私は幼馴染である折上ゆずるとの親密な接触を禁じられていた。それは私がこのセカイの住人じゃないから。――ううん、今はもう住人。

でも、ゆーくんに私の違和感が伝わっては研究に差し支えが生じるから必要以上の接触を禁じられている。まだ誰も成し得ない未知の領域というものは、いつの時代も危険を伴うものだった。私が専属する時空調査もまた同じ。不安定で仮定ばかりの研究と実験記録の山。私の小さなミスでセカイを崩壊させてしまう事があってはいけない。そんなぎりぎりの賭けみたいな調査に私は携わっている。


私は、ゆーくんが大事だ。


ゆーくんが居てくれさえすれば私はどんなセカイでも笑っていけた。そんなセカイから、ゆーくんは消えてしまった。いや、正確には異なるセカイのゆーくんと入れ替わってしまった。



ゆーくん、君は今頃どうしてるのかな?



―――――――――――――――――



六年前。


私は未来人。正確には西暦二一〇三年から来た。

私のセカイの地上は、既に人が住めるような基準値を大いに下回っていた。生物が正常に生きていく為の最低限な自然も失われているような地球だった。ご先祖様は、地上を捨てて地下に大都市を築いた。私は人工的な太陽の紫外線、定期的に降る雨を浴びて育った。そんなセカイ。

地下では科学者が大いに貢献していた。惑星への移住計画、タイムトラベルによる未来改変計画、現代再生計画など、幾つもの研究が今も地下で続けられている。

タイムマシンは二〇〇〇年代から研究を重ねられていて、二〇八三年にはその完成を遂げた。だけど、その後の研究は上手く進まなかった。タイムトラベラー実験も初期の段階では機械に頼っていたが、オートモードには限界もあった。一向に成果はあがらず、そして遂には最終計画へと移行して、人間を使う実験が始動された。勿論道徳を捨ててはセカイの秩序など保てない。かといって実験を止めてしまえば進化は愚か、人類は退化の一途を辿る事になるだろう。最初は自主的な被検体を集めて、過去へと送り込み、機械には成し得なかった観測が始まった。最初は行って戻ってくるだけだったそのタイムトラベラー実験であったが、何人かの研究員が過去で行方不明となる事例が発生した。その報告を受けて方針が改ざんされ、人体消失問題についての研究へと変わった。送りこまれる検体も最早人為的なものとなり、時空を始めとするその分野に長けた知識を持つ研究者はいつしか調査員と呼ばれるようになった。

だが、その頃には研究員も調査員もどこか探究心を失ってしまっていたようにも見えた。成果が上がらぬまま、人員は徐々に減っていたからなのかもしれない。それでも、この汚染されてしまった地球を自分の子に託すなら、よりよいセカイで過ごしてほしいと思うからこそ、研究が途中で中断する事はなかった。

私は十歳だった。父も母も優秀な研究員で、私も将来は彼らの後を継ぎたいと幼心ながら思っていた。毎日文献を読み漁っては幼馴染のゆーくんとの他愛も無い日々を過ごしていた。

――ある日のことだ。

私とゆーくんは研究所へ招かれた。

大きくなったら自分も研究者になると騒いでいたから、きっとその気持ちを尊重して招いてくれたんだと思ったら嬉しくなった。ママの「良い子にね」と、パパの「静かにしてるんだよ」が、今でも忘れられない。

私とゆーくんは職場体験のような気持ちで研究施設へと足を運んだ。

職員用出入り口で母が待っていて、「こっちよ」という手招きに後ろをついて行った。四方八方の興味深い機材に瞳を忙しなく彷徨わせてしまう。今まで足を踏み入れた事のなかった研究施設に私は高揚していたのだと思う。タイムマシンのある部屋へ通されるや夢にまで見た機材に瞳が釘付けだ。その実物を前に、明るくなる未来を感じたのは今でも覚えている。

分厚い硝子に隔てられた向こうでゴウンゴウンと唸る機械。瞳を輝かせながら、白衣を纏う母親へ問いかけた。

『これがタイムマシン?これでみんな助かるの?』

『ええそうよ』

人類の希望。ノアの箱舟。タイムマシンは、人々からそう呼ばれていた。これがあれば本物の青い空、白い雲、波打つ海、満点の星空が見れるようになるのだろうと、あの時は本気で信じていた。

それから私とゆーくんは、時空の歪みから身を守るための防護服を受け取った。防護服についての簡易な説明を受けたが、私にとっては重大な物を託された気分だった。そんな大事な服を試着していいとまで言われてしまえば心が高鳴り、身体はそれを反映するかのように自然と軽快な跳躍で自身の浮かれ具合を表現していた。

渡された服に着替えて、ゆーくんと未来人ごっこなんかもしたんだ。

『折上ゆずる調査員、これより我々は新世界へと移行する!』

『はーい』

擬音語で出発から着地までを表現して室内を駆けまわった。部屋の隅では母親が珈琲を啜りながら私たちの戯れを眺めていた。

『どう?楽しい?』

『うん!すっごーく楽しいよ!ねっ、ゆーくん!』

『うんー おばさん、ぼくクッキーが食べたいなー』

時計を見るや既に三時を回っていて、時の進む早さに驚いた。言われてみれば少しばかり小腹が空いている。それすら気付く事もなく、私は現状から知識を得ようと集中していたのかもしれない。文献だけでは決して得られない知識に気を取られていたのだろう。

出されたお茶とクッキーを堪能して、今日は夢のような一日だった。――と、満足した時だ。

『うるえ、ゆーちゃん、ちょっと乗ってみようか』

『え?タイムマシンにのれるの!?』

『すげー のりたいー』

それは、その日最高のプレゼントだった。私もゆーくんもそれを乗る事を夢にしていたからこそ首を横に振る事なんて無かったんだ。硝子越しに見ている事しかできなかったタイムマシンを目前に、心拍が上昇していく。

マシンのフォルムは、風の抵抗を最小限に抑える作りで、それをなにかで表現するなら弾丸と似たような形状をしていた。中は比較的しっかりとしていて、三つの椅子にこれでもかと言わんばかりの拘束具が取り付けられていた。運転席が一つ、後部座席が二つ。私とゆーくんはその後部座席へ座るよう促された。

そこへもう一人、防護服を身に纏う男性が入ってきた。男性は私たちの拘束具を一つ一つ繋げてくれた。それが済むと再確認するようベルトを何度も強く引っ張っていく。彼自身も運転席へ腰を下ろして拘束具を接合しては引っ張っていた。確認が済むとマシンの出入口から母親が顔を覗かせる。

『気持ち悪くなったら腰に付いてるオート酸素を起動させてちょうだいね』

『はーい!』

『らじゃー』

私たちは勢いよく手を挙げた。

それとは裏腹に、運転席へ座るお兄さんはどこか緊張したような面持ちで敬礼をしていた。

『い、行ってまいります!』

不思議なゴーグルをかけて、私と、ゆーくん、そして調査員のお兄さんの三人でいよいよ出発する。私の足は喜びにぱたぱたと交互に揺れた。落ち着いていられない緊張からかもしれない。その気持ちを誰かに話したくもなった。友人や、周りの人、――だけどそこで気付く。

ゆーくんと特別な共有関係であるという事に。

そこで見たもの、聞いたこと、他の誰とも共有できない今日という日。全てが私と君にしか出来ない冒険だという特別な気持ち。

『ゆーくん、ゆーくん、』

『んー?』

私は振り向くゆーくんに人差し指を立て、それを口許に運びながら言う。

『このことは、ふたりだけの秘密だよ!』

『おー』

ゆーくんとの秘密の共有が何よりも嬉しかった。わくわくして、ドキドキした。両手で口許を隠したけど、ふふふっと笑い声はこぼれる。

そしてマイク越しの声が室内に響く。

『それじゃ、健闘を祈る』

見送りの言葉と共に機械音が轟き、唸りを上げ出した頃、青い光が沸々と湧き出て、それは次第に青白い光へと変化し、最終的には真っ白で何も見えなくなってしまった。ぐわんと脳が揺すられる感覚を覚えて、私は両目を頑なに瞑った。嘔吐感が強くなり、母親に言われた通りオート酸素のスイッチをオンにして耐えた。光が次第に落ち着いてきた刹那、乗っていたタイムマシンが何かにぶつかるような衝撃を受けてぐんっと身体が前へ投げ出された。ベルトで固定した身体はどこにもぶつかる事もなく、衝撃もそれが一度きりだった。私は身体を固定するベルトを外すとゆーくんに駆け寄って調査員のお兄さんと三人で外へ出た。


キンッとした痛みのある太陽光。色んな臭いを含んだ空気。青い空に私は言葉を失っていた。こんな世界に私たちは行くのかと思っていた。そう思うと心は躍った。太陽に向かって両手を伸ばし、私とゆーくんはこれでもかとはしゃいだ。――だけど、本当は違った。正確にはそんなセカイに来てしまっていた。


私は、シュミレーションだと思ってた。


後からお兄さんに説明されて言葉を失う。そう、私たちは実の母親と父親にモルモットにされたのだ。未来へ成功を持ち帰る英雄という名の、モルモット(実験体)に。




***



某日某所 R線 二〇XX年(過去)


私は十五歳になろうとしていた。ゆーくんはまだ十四歳。本計画の指揮を担当する調査員であるお兄さんは二十五歳だ。あれから戻る事もせず私たちは調査を続けていた。お兄さんは私たちを養うために仕事をしながら調査を続け、私たちもそんなお兄さんの迷惑にならないよう自分たちで出来る限りの事は行った。家事と洗濯は私。掃除はゆーくん。学校も行かず図書館で本を読み漁り、観測機材で日々の数値を測っては平和な毎日に明け暮れていた。特に問題もなく、平凡な日々を過ごす事に、いつしかこの時代にも慣れてしまっていたんだろう。母親にあんな事をされておきながら、もしかしたら私をよりよい環境下で研究させてくれているのかとさえ思えるぐらい楽観視していた。そしてそれは徐々に、素敵な母親像を身勝手に作り上げて、会いたい気持ちを彷彿とさせていく。

そんなある日の事だ。

『……いつまで、続くんだろうね』

母親に会いたい。元いた場所が恋しい。途方も無い現状に私は愚痴をこぼした。こぼしてからはっとする。文句一つ言える立場じゃないのに、ゆーくんを巻き込んだのは私なのに、慌てて弁解しようとして彼へ振り向いた。

『え……』

目に映る不思議な光景に、私は伝えようと思っていた言葉を飲み込んでしまう。ゆーくんは自分の両手を見て、なにかを悟ったようにぽつりと呟いた。

『ああ、限界か……』

『ゆーく、ん…?』

何が起きてるのか分からなかった。ゆーくんの身体は半透明で、それは徐々に透明感を増して彼の存在を消滅させようとしていた。困惑のあまり言葉にできず、生理的に涙が溢れて、声も震えた。そんななか、ゆーくんはいつものように笑みを浮かべて私へ告げた。

『おれなりに色々調べたんだ。セカイに必要とされない不要因子のあれ、……実はセカイじゃなくて自分が自分を受け入れられないからなのかもしれない』

『…ゆ、……く?なに言っ、……て、』

ゆーくんは立ちあがって私に手を差し伸べた。

『うるえ、ごめん、君は自分を受け入れて……』

いつものように間の抜けた笑みを浮かべて悲しい事を言う君。

やだよって、消えないでって、私は切実に願った。

『私は、ゆーく、が…いたから、……やだよ、いかないで……』

伸ばされた手を掴んで、私は追い縋る。だけどゆーくんは眉を下げて微笑んだ。

『ごめん』

そう言い残して、彼は私の目の前で粉のように弾けた。

あの日、タイムマシンに乗ったときにゴーグルの奥で目にした青い光のようになって、彼は消滅した。ゆーくんだった残留粒子が今もふわふわと部屋のなかを舞っていた。――だけど、もう、ゆーくんは何処にもいない。

絶望が全身を支配した。身体が凍りつくように強張って、声にならない嗚咽がこぼれる。不意に落とした視線の先で震える手が目に入った。自分の身体もうっすらとしている事に気付く。だがそんな事はもうどうでもよかった。ゆーくんのいないセカイに留まってもしょうがない。タイムマシンを使えばいつだって元の時代へ戻れたが、こうなった以上私は私をモルモット扱いした両親のいるセカイへ戻りたいとも思わなかった。お兄さんがいて、ゆーくんがいて、いつも二人が私を励ましてくれたから、私は私でいられたんだ。こんな日を、今のいままで素敵なんて呼べたんだ。なら、ゆーくんの欠けたセカイに、もう、居る意味が無い。


ふわっと何かが溢れるのを感じた。これが消滅するって事なのだろうか。次第に意識が遠のくのを感じて、私は瞼を閉じる。


"でも、私がここで諦めたら……どうなるの?"


たったひとつ。確証も確信も無い思いが込み上げる。


もし、ゆーくんを助ける方法があるなら?もし、ゆーくんのあの笑顔をもう一度見られるセカイがあるなら?もし、またもう一度君に会えたら、私は…――そんな、藁にも縋るような思いが私を留めた。

今ここで消えるのはとても簡単だ。でも、此処で諦めたら今脳裏を過った幾つもの可能性の「もしも」を目には出来ないだろう。そう思ったら途端に身体は実態を得た。――だけど、涙は止まらなかった。未だに震える自分の身体を抱きしめて私は誓う。



――何を犠牲にしてもゆーくんを取り戻す。




***




お兄さんと私はゆーくんの消失した結果を報告するためにタイムマシンへ乗り込んだ。この研究で得られた成果は人体の維持を可能とするにあたり強固な自己を必要とする事。ゆーくんが呟いていたあの一言が鍵となった。そして、それは一瞬ではあったが私も体験した事だ。

徐々に薄れゆく意識のなかで、自分は何をしてるのかも思い出せない。そんな靄のかかった思考を僅かながら体感していた。

お兄さんと共に元のセカイへと帰還する。

五年経ってもそれほど変わらない未来という名の現代で、私は少しばかり不安になる。――私たちの研究は、少なからず貢献できたのだろうか?

思い悩む私の気持ちを汲んでか、お兄さんはそんな私の肩を励ますように叩いてくれた。そして、その研究成果を提出して、私は実の母親と五年ぶりに対峙する。だが、それも一瞬で目を逸らされてしまった。その視線の先は、私の隣に立つお兄さんへ向けられた。

『よく戻った牧瀬調査員』

母に敬礼をし、お兄さん――牧瀬調査員は今回の調査資料と共に事の成り行きを説明すると、人体への多大な影響を訴えて実験の休止を提案した。

『折上調査員は未だ行方不明。詳細はお手に持つ資料をご参考ください。尚、助言できる身ではございませんが今回の調査結果を以て本計画の実行を今すぐ見直すべきかと』

『それは危険を伴うから、か?』

湯気の立つ珈琲を啜りながら母は牧瀬調査員を見つめた。その瞳は威圧的で、危険を伴うのすら承知の上だとでも言ってるようにも見えた。

『はい、個人差はあれど誰しも自己を保てると約束された環境下ではありません。下手をすれば人口の半数が消滅する危険も考えられます』

『ふむ……』

威圧的な瞳に迷いが生まれていた。母はいつになく慎重になっているようだ。――駄目だ。これでは駄目だ。

私はお兄さんを押しのけて実の母親の前に立つ。

『神埼官房』

『なんだ、神埼調査員』

今ここで研究が休止するような事があれば私は二度と過去へは飛べないだろう。綺麗な空をもう一度君と見たいなんて贅沢は言わない。ゆーくんがいてくれれば私はこんなセカイだって愛してみせる。それは他でも無い自分よがりの賭けだった。

私は、あの後得た最後の切り札となる書類を突き出して申し出た。

『私をA線の二〇一三年へ調査に行かせてください』

『二〇一三年?』

『はい、観測結果から折上調査員の波長に似たなにかを二〇一三年で観測しました』

母親の目の色が変わる。狐が笑うような、そんな不敵で、好奇に満ちた眼差しだ。

『なるほど、それは面白い……』

その突飛な申し出にお兄さんの顔色が悪くなる。

『うるえちゃん!?』

ごめんなさいって気持ちはあった。でも、私は諦められない。揺らがない瞳で母親を見上げると彼女はフッと鼻で笑ってお兄さんを呼ぶ。

『牧瀬』

『はっ!』

『うるえの指揮をとれ』

『……りょ、了解!』

こうして、私は再びお兄さんと時を共にして時代を遡る。私たちの一件が纏まるまで当初の実験は一時休止となった。その間、改めてタイムトラベルに対する理念の方式について、見直しのプロジェクトが立ち上げられたと聞く。タイムトラベルによる副作用は「セカイが不要と判断するのではなく自分がそのセカイを受け入れられないタイムパラドックスによる矛盾」として落ち着いた。危険が回避されない以上続行はしないはずだ。幾ら子供すらモルモットにした両親でも無暗に人員を減らす真似はしないだろう。次なる策が見つかるまでは、現状に終止符を打てた事を良しとした。――ゆーくん。君の消滅がなかったら、もっと沢山の犠牲を出していたかもしれないね。こんなにも沢山の命を救えたはずなのに、なんでかな、素直に喜べないんだ。


君のいないセカイなんて……――




***




A線・二〇一三年 一月


私たちは二〇一三年へとタイムトラベルしてきた。

主に情報収集となる調査は私で、お兄さんにはこのセカイで生きていく為の資金調達や解析結果を任せている。


このセカイから観測できたゆーくんの波長と似たモノの正体を突き止めるまで私は諦めない。と、意気込んで二〇一三年に降り立ったのにもかかわらず、此方のセカイの環境に慣れるまで少し時間が掛かってしまった。

元々地下暮らし(地下とは言っても地上と変わらない気候、天候、環境を微細に再現していたが、それは常に人体へ適した温度と湿度の保たれた温室みたいなもの)だったからか、思っていたよりもこのセカイは気温の上がり下がりが激しく、体温調節のできない身体はついていけなかった。まずはこの環境に適した衣服を入手しなくてはならないだろう。

勿論、最初はお金もなかったので、神代さんが職についてお給料が入るまでの間はスティールスーツ(微粒子を纏いあらゆる衣服に変化させるスーツ)なるもので誤魔化していた。今だってそのスーツでも見栄え的な意味では別段構わないのだけれど、防寒具として真冬には適さないようだ。それもそのはず、スティールスーツは私が住んでいた環境下に最も適した素材で作られていたため、この凍てつく寒さをまやかしなんかで凌げやしなかった。それ故、此方で作られた素材の衣服の方が"まだ"暖かい。――という結論が出て、初めての給料日は二人で服を買いに出た。

今時の女の子がどんな服を着るのかすら分からない私は、店員のお姉さんに【流行りの清楚系】という注文をして適当に見繕ってもらったけど、そこに【なるべく暖かい服装】もリクエストすればよかったなと細い道から吹き荒れる一月の風に煽られながら思った。

そんな心許無い装備で、私はとある練馬の住宅街を歩いていた。

二〇一三年の某所に出現したゆーくんと似たような波長と、その周辺の乱れについて調査を行っている最中だ。観測結果と同等の数値を叩きだす波長の乱れを追っていたらこの住宅街に入り込んだ。当ても無く観測機なるモバイル端末を片手に散策していて気付く。

車は少なく人通りも疎らだ。主に制服を着た少年少女や主婦が多かった。その時、観測機の針が一瞬だけぐんっと振り切る。そこで足を止めると、一軒の家が目についた。――今日はこれでいい。今後この住宅街を中心にして調査を開始しよう。と、範囲を定めて家路に着こうと踵を返した刹那だった。

その視界に入った少年の容姿を目に、私は喫驚した。何故ならその少年は、――とてもゆーくんに似ていたから。

そして驚きに瞳を丸めた私へ彼は尚も驚愕させる事を口にする。

「うるえ?……なにしてるんだ?寒いから早く家に入りなよ…?」

どういうこと…? ――唐突すぎて思考が追い付かない。観測機の針が振り切った家へ入って行く少年を茫然と見つめていると、彼は徐に此方へ振り返った。

「あ、そうだ……今日親いないんだ、夕飯そっち行っていい?」

「えっ」

それが私の精一杯の返答だった。

ゆーくんに似た少年は、首を傾げて問い返す。

「あ、都合悪い?」

「えっ、あ、う、うん、ちょっと、今日は……」

歯切れの悪い断り方に暫し私を見つめて、彼は短い返事を紡いだ。

「そか、じゃあまた明日な」

後ろ手に手を振る少年へ何も言えないまま私は彼を見送った。どれぐらい其処に立っていたかは分からない。頭を整理するために、私は道端で暫し推論を展開させていた。

私は未来人だ。そして此処は二〇一三年……過去だ。仮にご先祖様と同姓同名であり、私を見てそのご先祖様と勘違いしたというのなら理解はできた。だけど、私は此処へ来る前に「神埼家」の経歴については調べてある。このA線には、神埼うるえなんて人間は存在しない。だからこそ事前の仕込みは少なくて済んだ。――なら、彼は一体誰の事を言っているの?何故「私」を知っているの?

彼は、もしかして、――もしかしなくてもという期待が膨らむ。

もう一つの仮説を立てて私は息を飲んだ。

彼こそ、あの日私の前から消滅したゆーくん本人だったら?――という一つの仮定だ。だが、此処は過去。二〇一三年と二一〇三年とでは膨大な時の矛盾が生じるはずだ。なら、このセカイの折上ゆずるとは一体何者なんだろう。

なんて考えていた時だ。背後から背中を叩かれて私は肩を跳ねさせた。

恐る恐る振り返ると、そこには面影のある女性が立っていた。

「もう、携帯に出ないんだもんお母さん心配したのよ?」

パンク寸前の思考は働く事を放棄して、ただただその女性を見上げる事しかできない。危惧するように女性は私の様子を窺いながら問いかけてくる。

「あら、どうしたのうるえ、……ゆーちゃんと喧嘩でもした?」

即座に私は首を横へ振った。

表情も髪型も異なっていたが、その女性は紛れもなく私の母親の面影を持っていて、ゆーくんの事も知っていて、「私」の事も知っている風だった。それはつまり、――私は誰?

沈黙したままの私を置いてその女性は先程ゆーくんらしき少年が入っていった隣の家へ歩を進めた。

「もうすぐお夕飯だから後でゆーちゃん呼んできてね~?」

そう言って母に似た女性は家に入って行く。――やはり彼はゆーくんで、そして彼女は、……私の母親?

でも、私はこの時代の住人ではなくて、此処に私の居場所なんか無いはずなのに、――これは、一体どういう事だろう?

溢れる情報の渦がぐるぐると無遠慮に私の全身を這い回った。


此処は過去。それを確かめられた人物は私の他にたった一人だ。一度思考を遮断して私は来た道を駆けた。自己を保てなくなって消えてしまう前に、急いで牧瀬調査員の元へ戻る。




***




練馬区 某所


ガンッ――


ドアノブを力任せに引くが、鍵が掛かっていて阻まれた。急いで鞄から家の鍵を漁る。真新しい銀製の鍵をその手に、鍵穴目掛けて差し込もうとしたが、分かり易い形状の穴にさえ通せぬほど私の手は震えていた。

暫し鍵穴と格闘していたが、その扉は私の努力も無く開かれた。

どうやら中にいた牧瀬さんが駆け付けて開けてくれたようだ。私は縋る思いで彼の名を呼んだ。

「ま、牧瀬調査員…!」

すると牧瀬さんはぎょっとして人差し指を立てた。禁句を訴えるようにその指先を口許へとあてがう。

「しーっ!うるえちゃん、ここでは真人って呼んでよ…っ!」

「あ、す、すみません……」

私たちは現状お付き合いしている。という設定だ。間柄は兄妹と偽る事もできたが、他人であるほうが後々問題が生じたときの保険としても使えるだろうと牧瀬さんに彼女の振りをするようお願いされた。

牧瀬調査員。本名、牧瀬真人まきせまなと。二十歳の若さでその研究熱心な実力を買われ、私と共に過去へと調査へ向かったお兄さん。(実際は一緒にモルモットにされたわけだけど…)現在は二十五歳。

私は本日の調査結果を牧瀬さんへ報告した。途中、生理的に涙が溢れたが、困惑した私の話を彼はただただ頷いて聞いてくれていた。不安でいっぱいで、嬉しいのか、寂しいのか、分からない感情に震え。会いたかった人は目前にいるのかもしれないという希望と、もし違っていたらという絶望が交互に私を襲った。



***



時刻は二十一時を回っていた。牧瀬さんは私の話を纏めているようで、暫くは黙りこんでいた。泣き疲れた私の思考は停止したままで、手近にあったクッションを抱きかかえて彼の意見を待った。


室内に、ふうっと一息こぼれた。

漸く整理がついたのか牧瀬さんは重たそうにその口を開いた。

「いいかい、うるえちゃん……俺も、君も、未来人だ。それは確かだよ」

私は頷く。そうじゃなきゃ私は自己を保てない。そして牧瀬さんは尚も続けた。

「君が調べた波長の乱れだけど、そこで起きた出来事は俺にも説明がつかない。というか、つけようがないってのが本音だね……君も過去と未来を行き来して、その調査が捨て身に近いって事はもう分かるだろう?俺たちは未だ見ぬ未知の領域に足を踏み込んだばかりで、それを調査しに此処へ来たようなもんだ。驚くようなことが山積みで、見失ってしまいそうになるかもしれない。けど、絶対見失っちゃいけない。君は、何のために此処まで来たんだい?」

その言葉に、私は今一度自分へ問いかけてみた。

「私は……折上ゆずるを探し出して元のセカイへ帰還する、……そして折上ゆずるからその情報を引き出し、消滅原因の調査並びに消滅に必要とされる要因の解明の任についています」

「ああ、そうさ、仮に今日出会った少年がゆずるくんなら、ゆずるくんは生きていた事になる。まあ、まだそう確定付けるには判断材料も調査も進んじゃいないけどさ……今はそれをゆっくり調査して行こう」

「そうですよ、ね……すみません、想定外の事態に取り乱しました」

そうだ。私はあのとき誓った。何があってもゆーくんを取り戻すと誓った。ならば現状はこれ以上無い希望だ。あの日、君を失ったときの絶望に比べれば、幸先のいいスタートライン。――私は、ゆーくんを探すために此処へ来た。なら、これ以上なにを見失うと言うのか。

……私は馬鹿だね。得体の知れないセカイで、身内に似た人物と遭遇して、そのあまりの奇怪な出来事と、今までに見ない矛盾ばかりの光景を目の当たりにして、また取り乱してしまった。簡単な事だったんだね。


ゆーくんのいるセカイが私の居場所。

だったら私は、この現状を冷静に見極めて、必ず君を取り戻す。


今一度決心を固めて、強く頷いた。牧瀬さんも安堵したように頷き返してくれた。――その時だ。此方のセカイで使用しようと購入しておいた携帯端末が不意にも鳴り出した。

「!?」

「どうして、……牧瀬さんしか登録してないのに」

携帯の液晶画面に視線を落として言葉を失う。その横で、牧瀬さんが遠慮がちに私へ問いかけた。

「……だ、誰から?」

液晶画面には、登録した覚えも無い人物の名が刻まれていた。

私はその名を紡ぐ。


「か、神埼いよの……」


――それは、私の母の名だった。


ピシリと身が固まるのを感じた。つい今し方、ああ言い切ったものの、現状不可解な点が多すぎる。未だに整理の出来ていない思考で、私はこの電話をどんな声で取るべきなのか逡巡する。

「う、うるえちゃん……とりあえず出てみようか」

牧瀬さんに促され、私は小さく頷いてから通話ボタンをタップした。受話器を耳へあてがい固唾を呑んで話しかけた。

「……も、もしも」

「今何時だと思ってんの―――――――――ッ!」

受話器から轟く声に背筋が伸びた。感嘆符がいくつも並びそうな程の怒号に次いで、僅かに遅れて鳴り響くハウリングの嫌な音が鼓膜を刺激した。私も牧瀬さんもあまりの展開に息を潜める。

「うるえ!今すぐ帰ってきなさいッ!………返事はッ!」

「……ッ、はい!」

そして電話は一方的に切れた。

受話器の向こうからはもう何も聞こえてはこなかったが、私は暫くの間端末を耳へあてがったまま動けないでいた。




***




二十二時・練馬区住宅街



帰ってきなさいと言うのだから場所は分かっている。

私は今、夕方過ぎに散策をしていた住宅街へ足を運んでいる。道は覚えてなくても観測機がその場所を教えてくれた。波長が乱れている一角へ着き、その隣の家で足を止める。あの時は取り乱していて確認を怠っていたが、改めて表札へ目を向けると腑に落ちないほどに見知る苗字が仲良く並んでいた。


【折上】【神埼】


牧瀬さんと話し合った結果。この調査は私の判断に委ねられた。牧瀬さんを連れて行くわけには行かないし、何より通信を取りながらその判断を仰ぐ事は難しい。全て総意するとまで言ってもらったが、――正直、怖くて一歩も進まない。

信じがたい話だけど、携帯へ登録した覚えの無い人物は私の母で、その隣に住む少年はゆーくん。そして私はこのセカイで、彼女の娘であり、彼の幼馴染。という結論(あくまで仮説)へ落ち着いた。あの電話の調子から察するに母親は大激怒しているに違いない。もし、あの人が本当に私の母なのであれば三時間ほど正座させられるだろう。やはり引き返すなら今か。と、かれこれ十分は家の前で立ち往生している。

ここで迷っていても仕方がないのは分かっていた。未だに受け入れがたい現実に、半ば半信半疑の憶測だけでは調査不足もいいところ。今一歩踏み出せないでいる自分の足元を見下ろした。

もしかしたら「此処は私の都合のいいように創造された夢なんじゃないか?」なんて、消極的な思考が働いた。駄目だ。それじゃ駄目なんだ。そう自分に言い聞かせて、私は頬を挟むように両手で叩く。――受け入れなくてはいけない。この現実も、このセカイも、自分すらも。どんな役でも演じよう。それでまた君に会えるのなら、私は自分すらも欺いて行こう。

深く息を吸い、二度ほど深呼吸を繰り返す。意を決して私は未知なる扉を叩こうと、手の甲を引いた。だが、同時に背中をとんとんと叩かれた。

「!?」

勢いよく振り向くと、そこには青いマフラーに顔を埋めたゆーくんが立っていた。

「よお、自分の家にノックして入るの?」

「えっ!あ、私、門限破っちゃって……それで締め出されちゃったの」

咄嗟に嘘を吐いてしまった。だけどそれでいい。私はこれからずっと、彼を取り戻すまでずーっと、そんな嘘と付き合っていかなくてはならない。――ただ、少しだけ寂しくなった。


「おばさんに呼ばれてきた……いれて、」


「あ、うん、一緒に入ろう」


内緒はいつもふたりで共有してた。

けれど今は、――ひとりぼっちの秘密になってしまったね。




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