「あらたなる、セカイ」
あれから、ふた月が過ぎた。
「くそ…こんなことなら目覚まし二個セットしておけば……ッ」
鞄に詰め込むものは昨夜のうちに済ませたが、間に合うかは怪しい。制服に着替え、ネクタイを締める。だが、慌てれば慌てるほど指先は狂い、上着のブレザーのボタンが上手く引っ掛からない。もたもたとしてる間にも時間は刻々と過ぎてゆく。致し方なくボタンを留めずに鞄を引っ掴んだ。
そこでボクは静止した。
机の上のペン挿しに混ざるあの日の万年筆。――これは持って行こう。
「進学祝いとしてありがたく使わせてもらうよ」
万年筆を胸ポケットへ挿し、ボクは部屋を駆け出した。
胸元でだらしなくネクタイをはためかせて、寝癖をつけたまま階下へ降りる。
居間にいき、冷蔵庫から水一杯を一気に飲み干すと背後から欠伸が一つ。振り返るとパジャマ姿で壁に寄りかかり、腹を掻く姉貴が茶々を入れてきた。
「やーい、初日から遅刻とは肝が据わってるわねぇ~」
「……うるさい」
ボクは一喝してコップを流し台に置き、姉貴の横を通り抜けては足早に玄関へ向かう。その背中に、今はもう聞き慣れたいつも通りの言葉がかけられた。
「行ってらっしゃ~い」
「……行ってきます」
――今日は始業式。
春休みの不規則な生活リズムが仇となり、朝からこのような仕打ちを受けている。幸い住宅街の狭い道であり、車の通りは少ない。――走れば間に合いそうだ。
と、思った刹那。
十字路をまっすぐ突っ切ろうとスピードを上げたときだ。視界の片隅に曲がり角から現る人影を捉えたが、時既に遅しとはこの事。盛大に衝突し、ボクは尻もちをつく。
痛みを堪えて謝罪と危惧を口にした。
「ッつ、………す、すいません大丈夫でっ」
ぽたり。頭上に何かが落ちてきて、それはバウンドして地面を転がった。――食パンだ。
ぶつかって来たのは同じ高校の制服を着た少女で、赤毛を靡かせて地面に座り込んでいた。そしてどこか嬉しそうに少女は痛そうな声を上げる。
「いったぁ~……えへへ、ぶつかっちゃいました!」
――こ、これはベタだ!
なんともお決まりな展開である。角でぶつかった相手が食パンを銜えていたのなら漫画でよく見る展開だが、遅刻間際の今、そこまで確認する余裕なんてなかった。引っ張り起こそうと立ち上がると、少女の背後から同じ赤毛の少年が駆け寄ってくる。
「おい~ お前またかよー!」
ぜえはあと息を切らせ、少女に走り寄った少年はボクに視線を向ける。――ボクはこいつを知っている。
姫川蓮汰、クラスでは悪い意味で有名だった。帰国子女で、周りをバカにしたような態度をとって人を寄せ付けない生意気なヤツだってことは覚えてる。
姫川は後ろ手に頭を掻きながら、へらりと笑った。
「すまんー!妹が世話になった!」
「お、お兄ちゃん!邪魔しないでください!今大事な展開なのに~」
鳩が豆鉄砲を食ったようにとは、こういうことだろうか。あの姫川が人に謝るとか信じられない。そしてその妹の言動も信じたくない。
さっさと引っ張り起こして学校へ向かおう。と、姫川(妹)へ片手を差し出しながら、ボクは姫川(兄)に先を譲る。
「ぶつかったのはおれだから、姫川くんは先に学校へ行きなよ」
すると、姫川(兄)の手が、ボクの手を掴んだ。
「馬鹿だな、友達おいて先に行けないだろ?どうせならここは俺に任せてお前が先に行け」
――いい顔でなにおっ立ててるの?馬鹿なの?死ぬの?
「それ死亡フラグだよ?この場合一緒に遅刻決定フラグだよ!」
「あは、いいって!新学期初日から目立ちまくりじゃんか!」
――駄目だ。ボクの手に負えない。
差し出した手を引っ込めると唐突に腕を引かれた。姫川(妹)だ。
「ダメです!彼は運命の人なんですから!いくらお兄ちゃんでも邪魔しないでください~!」
「そいつが運命の相手なのか!」
――駄目だこいつら。
そのまま力任せに姫川(妹)を引き上げると腕からくっ付いて離れない。――どういうことなの。
腕時計に目をやると時刻は午前8時15分を指していた。
――やばい。遅刻する。と、確信した刹那、鼓膜を揺るがす怒号に振り返る。
「馬鹿野郎!」
姫川(兄)が妹の余す腕を引っ張っていた。――待って、その力はボクも釣れちゃう。頼むからボクを解放してくれ。
引き剥がそうとしてもがっちり掴まれ振りほどけない。
「毎朝食パンを銜えて人様にぶつかって!いい加減止めなさい!」
「お兄ちゃんには分からないんですっ!これはヒナが運命の相手を見つける大事な意味があるんです!漫画にもそういう出会いがあるんですよ!止めないでください~!」
「そうか、それはすまんかった……だが運命は自分で切り開きなさい!」
「だから今切り開こうとしてるんじゃないですか~!」
――食パンで切り開ける運命はサンドイッチぐらいだよ。なんて言う気力はなかった。口論を始めた二人の間に入り、ボクは先を急かす。
「兄妹喧嘩は後、本当に遅刻しちゃうから……行くよ」
鞄を肩へ掛け直して、姫川(妹)をぶら下げながら走る。二人は走りながら口論を続けた。学校が見えてきて、校門が今にも閉まるぎりぎりだったが、滑り込みセーフでなんとか間に合った。その足で校庭に設けられたクラス表を確かめにいく。――春休み前まで1年A組だったが、今日から何組だろう……。
「お!俺2年B組だー!」
「ヒナは1年C組です~」
二人が何に喜んでいるのかは分からないけど、ボクも自分のクラスを見つけた。だが今の話にハッとする。
「おれもB組だ……」
おそるおそる姫川(兄)を見ると彼はニッと笑って親指を立てた。
「へへ、同じクラスだな!」
「うん」
悪い人ではないみたいだけど、お近づきにはなりたくないなと思ってしまった。その場を後に下駄箱へ向けて歩き出すと姫川(妹)がこちらを見上げて腕を引っ張った。
「あ、お名前まだ聞いてませんでした!」
「俺は姫川蓮汰だ!」
――天然なのか?
どちらにせよボクには捌ききれない。すぐさま妹がムキになって兄の自己紹介に靄でも払うかのような仕草で掻き消す。そしてちゃっかりと自分の名を名乗ってきた。
「お兄ちゃんのことじゃありません~……あ、ヒナは姫川雛乃と申します!」
「おれは折上ゆずるだよ」
名を名乗ると雛乃は愛称でも決めるかのように幾度かボクの名前を紡いだ。
「ゆずるくん!……んん?ゆ、ゆずる先輩!」
「好きに呼んでよ、姫川さん」
「おう!」
蓮汰が割り込んできた。
――お前じゃないよ。
でも、そうか、同じ名字だと分かりづらいか。
「姫川くんのことはヒメって呼ばせてもらおうかな……姫川さんのことはヒナさんって呼んでもいい?」
「なんでヒメなんだ!」
「はい!ヒナでいいですよ~!それじゃヒナはゆずくんと呼びます!」
うん、穏便(?)に済んだ。
「それじゃよろしくね」
「待てー!なんでヒメなんだーッ!」
ボクはヒメをスルーして自分の下駄箱を探す。クラスごとにあいうえお順で並んだ靴箱は辿っていけばいいから分かり易くて助かる。早々に自分の靴箱を見つけ、外履きを脱いで気付く。ヒナさんを見ると未だ腕にくっ付いていた。
「……ヒナさん、くっ付いてたら靴も履けないんだけど」
「あっ!あわわ!すっすみません!寂しいですがヒナもそろそろ靴を履き替えて教室へ行きますねっ」
「うん」
頷きながら靴を履き替え、外履きを靴箱へ仕舞う。だがヒナさんはまだそこにいた。
「それだけですか…?」
どうやら何か期待されているらしい。
「……ま、また後でね」
「それだけですか…?」
――君はNPCか何かなのかい?
確信をつく台詞やアクションでないと同じ台詞を繰り返すNPCのようなしつこさを感じた。
「おーい!置いてくぞゆずるー!」
「……寂しいけど、ヒナさんまた後でね」
渋々と台詞じみたことを口にし、ボクはヒメが駆けていく廊下を進む。後ろから嬉々としたヒナさんの声が聴こえたが、振り返るのは止めた。
「ゆずくん!またあとで~!ヒナ待ってますから~!」
廊下の先の階段を登れば二階が二年生の教室だ。ヒメの後を追って階段を上ろうとしたとき、視界に金糸が飛び込んでくる。
「わっ」
咄嗟に両手を差し出すと腕のなかには女の子が納まった。
――あ、この人も知ってる。
「すみません、です……」
「ううん、気をつけてね久我さん」
久我寧々。同い年にしては小柄で、長い茶髪の女子だ。ボクの知ってる久我さんは、素直で照れ屋な人だったけれど、これだけ周りが異なってくると果たして彼女はボクの知る人と言えるのだろうか。一見真面目そうに見えるけど、今はあまり人と関わりたくはない。体勢を戻した久我さんを後に、ボクは階段を上ってゆく。
――久我さんの小さな呟きにも気付かぬまま。
「……折上くん、やっぱり雰囲気が違う」
***
なんとかチャイムが鳴る前に教室へ入れそうだ。などと思いながら教室の後ろの戸に手を掛けてスライドさせると中から仁王立ちしたうるえが現れた。
――嫌な予感がする。
と、思った刹那。それが現実となった。
拳を引いたうるえがボクに向けてストレートパンチを繰り出してきた。当然ながら避ける反射神経は持ち合わせちゃいないので鳩尾に食らってボクは廊下まで吹き飛び、その衝撃で胸ポケットに挿した万年筆が転がり落ちる。
「っ、てぇ………」
視線を持ち上げると教室の戸を塞ぐようにしてうるえが立っていた。
「見たわよ?さっき女の子と仲良さそうに歩いてたじゃない」
――だからなんだよ。と言ったら蹴られる気がしたので口を噤んだ。
そのときだ。前方からコンコンと音が鳴る。
「おい、そこ、出席取るぞー」
どうやら担任の先生のようだ。出席簿を抱え、前の戸をノックして入室を促していた。ボクたちに声をかけると先生は前の戸から緩慢な足取りで中へと入っていった。
視線をうるえに戻すと眉を顰められ、顎で室内を指された。
「ッ……さっさと教室入れば?」
――理不尽だ。
よろめきながら鞄を掴んで、転がる万年筆を掬いとってボクも教室に入る。
***
信じられない。新学期初日、女の子と腕組んで登校する馬鹿になんでこんなに腹を立てているのやら。そんな自分が腹正しい。ゆずるがなんの言い訳もせず教室に入ったのもムカつくし、あの何か言いたそうな目もムカつく。――でも、殴るつもりなんてなかった。ゆずるのことになるとカッとなっちゃって、つい手が出ちゃうのは正直悪いとは思っていた。
気分が下がり、自ずと視線も落ちた。
――…ん?
そんなあたしの視界に、廊下の端で風に靡く一枚のメモ。
何か書かれてる。掬うようにそれを手に取れば私は文面を読み上げた。
【注意書き】
ナノタイムマシンを渡しておく。ペン先の先端から体内に注入して使え。最高5分だけお前に選ぶ権利が与えられるだろう。ただし、過度な使用を禁ず。
紙にはそう書いてあった。
「ナノタイムマシン?……なにそれ、中二臭ッ」
またゲームか何かの特典ね。まったく、ゲームばかりしてつまらないヤツ。
「うるえさん…?」
名前を呼ばれて顔を上げるとそこには久我さんが立っていた。
「寧々ちゃんじゃない、おはよう」
「おはようございます…」
――びっくりした。
今の独り言、聞こえてないといいけど。それを確かめる時間はなかった。挨拶も早々、前の戸から先生が顔を出す。
「おーい、早く着席しろー」
「やばっ」
あたしは拾った紙を慌ててゴミ箱へ捨て、教室へ入った。
だけど後ろからガサッと音がして振り返る。
ゴミ箱の隣には久我さんが立っていた。
「久我さん、早く早く!」
「はい、です……」
放課後、さっきのメモの話をゆずるにしてあげよ。
でも、ゆずるがゲームをするようになったのは誕生日からね……
そういえば、誕生日の前日以来、ゆずるはまるで人が変わってしまったみたいだった。前までは殴っても笑って「痛いよ」って言ってたし、何よりあんなひ弱じゃあなかった。あたしのパンチだって避けたりもしていたから、癪だけどいつも態と受け止めてくれてたんだろうなって、思ってた。
――本当は、違うの?
ねえ、ゆずる、どうしちゃったの?
***
放課後。ボクは図書室に来ていた。
色々と変わってしまった要因を、あれからちょくちょくと調べている。
あれから――とは、二月十三日にあいつに会ってからのことだ。
あの日はバレンタインデー(ボクの誕生日)の前日で、変化を確認できたのは神埼うるえただ一人だけだったが、次の日には姉貴という存在が足され、学校へ行くと色々と変わっていた。
色々というのもアバウトな話しだけど、強いて言うならよく知る人物は勿論のこと、街の風景や、自分という存在すらも、何もかも所々変わっていたのだ。
まず一人っ子のボクに姉が存在すること。でも、母親と父親が共働きで、なかなか帰って来ないって所は変わっていなかった。さらに友人だったヤツがオレのことを覚えてなかったり、クラスに知らない顔や、見たこともないヤツも居れば、その逆見たことあるヤツがちらほらと存在してなかったりと、最初は不安になった。
クラスの何人かに慣れ慣れしく話しかけられ(見たことも聞いたこともないようなヤツも一部)、戸惑った。そのうち、声をかけてきた誰もが「お前、なんか変わったよな」と言い残して、ボクから離れていった。
うるえはというと、――夜、焼け焦げたチョコケーキを持ってきた。それを引き攣った顔で受け取ると「なによバカッ!」と捨て台詞を吐いてそのダークマターをボクに投げつけ帰っていった。あの日は散々な誕生日を過ごした。
そして街だけど、これは少し複雑だ。
登校中に何度か迷子になるぐらいには、以前と構造が異なっていた。空き地は公園に、公園があった場所には住宅が建ち並んでいるといった具合に、在ったものがなかったり、無かったものがあったりと最初の頃はその情景に「不思議な国にでも迷い込んだのではないか」とさえ思えた。
あれからひと月はホームシックになりかけたけど、それからすぐに春休みへ入ったので、ボクは休みを利用して、自分の身になにが起きたのかを調べた。
分かったこと、それは確実にここが元いた世界では無いこと。
勿論、周りが変化してる可能性だけで現状材料を並べただけじゃ確定はできない。ここが元いた世界だと仮説するなら、何らかの変革で元々の歴史が変わってしまい、過去自体が変わって全く異なる現代が築き上げられてしまった。――と、するなら、ここが元いた世界とも言えよう。
だけど、どちらにせよ変わってしまったこの世界を、元々いた世界だとは呼べない。例えそれで地球が上手く回っていても、ボクには大きすぎる変化だ。
また、別の方法を用いれば、過去が変わってしまう可能性も、次元が変わってしまった可能性もあり得る。これはあくまで仮説だが、"誰かが"この次元でタイムトラベルを繰り返した。または、タイムトラベルで歴史を変えた。或いは、――あいつがボクと出会ってしまったことにより、その世界の次元が二つに分かれてしまった。
そう推測するなら、ここはボクの知らない歴史の時間軸なのかもしれない。そんな次元にボクは来てしまったんじゃないだろうか。
ただ一つ主張するなら、ボクの時間は進みもしてなければ、戻りもしちゃいないってことだ。ボク自体は変化していない。一歩も。それが結論にはならないことだと分かっているけど、"ボクが"未来にも過去にも飛んじゃいない明らかな証拠だ。ようは、"ボクが"タイムトラベルした可能性は薄いと言えよう。
なら、"誰かが"過去へ飛んで歴史に加入したか、"誰かが"タイムトラベルを繰り返した末に何らかの理由でボクまで巻き込まれてしまったか、あるいは全く似た別の世界か。
次元が異なるのだとしたら、ボクが思うにここは平行世界なのかもしれない。別名、パラレルワールド、並行宇宙、並行時空。これは異世界や四次元空間とは異なり、パラレルワールドは宇宙と同一の次元を持つようなものだと幾つかの書物に記されていた。
――あのときの彼もこう言っていたじゃないか。
『セカイを交換して欲しいんだ』と。
ボクがいたセカイをAと仮定したなら、ここはBのセカイとしよう。そうするとBのセカイに元々いたであろうボクは何処へ消えたか。あまり考えたくはないことだが、元からここにいたボクは必然的にCへと移動してしまったか、或いは消滅してしまったか……。
タイムトラベルは、必ずしも同じ時間、同じ次元に辿りつけるわけではないそうだ。簡単なたとえ話をするなら、シュレーディンガーの猫だろう。
現状、二択の結果を同一に観測することは不可能とされていて、タイムトラベルはその二つの可能性を観測できる可能性を秘めていると言えばいいのだろうか。箱に入った猫が死んでいる可能性、生きている可能性、これらは五分五分であり、幾度か繰り返せばタイムトラベルでならその二つの観測が可能と言えよう。だが、それを目にしたとき、進んだ次元は異なってしまう。
そこにはまぎれも無く、生きてる次元と死んでいた次元が存在するからだ。
ゆえに過去へ飛んでも、過去から現代の間で幾つもの変革で枝分かれした「線」は無数に存在し、自分が辿ってきたその一つに辿り着くのは至難の業とも言われている。ようは、Aの現代からAの過去に飛びたくても、実際にはBという過去に飛んでしまう可能性もあるそうだ。大きな変革でない限り、そこはそんなに変わらないらしいけど。
仮説だけではそこまで分からなかった。他にも可能性のある話だ。パラレルワールドについての記述はどれも絵空事のように曖昧なもので、確信に迫る文献は少ない。敢えて挙げるなら"未来から来た男"と名乗った者の記録ぐらいだ。
これはボクのセカイでも同じだ。でも、あいつは少なくともあの口ぶりから察するに目的を持ってセカイを移動してきた。もしかしたら、平行世界を移動できる手段はあるのかもしれない。或いは行き来が可能な現代から彼が来たのだとしたら、ボクが戻れる可能性も無くはないんだろう。そう思い至ったから、今もこうして図書室で色々な書物に目を通している。
二冊目の分厚い本を読み終えて、溜息を吐く。
収穫はなかった。
三冊目を手に取ったときだ。
「こんなところにいたのね」
聴き慣れたその声に肩が跳ねた。
「あたしが迎えに来てあげたのに教室にいないんだもの、探したじゃない」
おそるおそる視線を向けるとそこには想定していた人物が腕を組んで立っていた。
「……う、うるえ、ごめん、探し物がありまして」
うるえの眉がきゅっと寄り、その顔がぐっと距離を詰めてボクに迫る。
「なんで敬語なのよ?」
「なんとなく」
いたたまれず目を逸らすとうるえは怪訝そうに此方の様子を窺う。そのお眼鏡に適ったのか、胸元に視線が注がれた。
「ふーん、あ、その万年筆どうしたの?」
「ん、もらったんだ」
咄嗟に誤魔化した。
だがうるえは引き下がらない。
「……だ、だれによ?」
冷や汗が頬を伝い、思考が低下する。
嘘をついたらぶッ飛ばされる。そんな恐怖心がボクを支配し始めた。暈すように本音が口をついていた。
「そっくりさん」
「あほくさ……」
どうやら冗談と受け取ってくれたようだ。呆れ果てたようにうるえは溜息を吐いた。現状をなんとか打破できたことにボクも安堵の一息を吐き捨てていた。
だが、うるえの次の言葉は再びボクを不安にさせた。
「あっ そうそう、今朝あんたが倒れてた所に注意書きと記された紙が落ちてたのよ?それもナノタイムマシンがどうのって……笑っちゃったわ」
「タイムマシン」という単語にドキリと心臓が跳ねた。
ボクは席を立つと縋るような思いでうるえに詰め寄っていた。
「それ、本当?冗談じゃないよね?君が持ってるの?」
「えっ……ひ、必要ないと思ってゴミ箱に捨てちゃっ…」
――ゴミ箱。
その単語だけで十分だった。恐ろしいほどに回転し始めた思考はその先を察すや否や身を翻して駆けだしていた。図書委員らしき人物がボクに向けて注意を促すがそんな声に耳を傾けている余裕はない。
「ちょっと!?ゆずる!?」
残されたうるえのそんな声も耳には届かず、ボクは足早に図書室を後にする。
***
――同時刻。A線。
オレはうるえに呼びだされていた。
「なんだよ、こんな所に呼びだして」
こっちのオレはどうやら大人しいようだ。極力怪しまれないように努めて、呼びだされた学校の中庭で対峙するようにうるえと向かい合う。
だが、うるえはオレの目を見ちゃあくれない。どこか、別のなにかを見ているような、ここではない遠いなにかのことを考えている、そんな目をして花壇の花に視線を落としていた。
オレは、この目を知っている。
自分がそうだった。――ここへ来たとき、始めは驚いた。うるえにはカレシがいて、元いたセカイにはいた兄貴も、妹も、ここにはいないってことに。
ここのオレは一人っ子で、家はいつもガラ空きだ。(状況を判断するに怪しまれなくていいからオレとしては助かるが……)
しかもゲームばかりしてるようなヤツで、クラスメイトの反応を見ると、友好的でも社交的でもないと窺えた。慣れるまで時間がかかりそうだと思ったが、こんなの慣れるはずがねーよ。あいつはこれでよかったのだろうか。こんなつまんないセカイ、変えようと思わなかったのだろうか。なんて、変えようと思ったから、あいつはあの時、オレの交換話しに乗ってくれたんだよな。――自分勝手にすっ飛ばしておきながら、オレは遠い遠い場所へ追いやったもう一人の自分が、今どんな目にあっているのかを想像して、現状が少しばかり上の空だったりする。
今のうるえの目も、まさにそんな目をしていた。
遠いなにかを危惧するような、身近ななにかを想うような。
――そんな空虚な目。
気付いたらそんなことを考えていたオレを今は射抜くような目で見つめている。目が合い、疑問符を浮かべると今度は意を決したような声で問われた。
「……君は、っ誰なの?」
「誰って、……おれはおれだよ」
言葉が詰まる。――何故、そんなことを聞く?
上手くやっていたつもりでも、やはりバレてしまうものなのか。誤魔化しきる自信はない。けど、"誤魔化さないといけない"。今はまだ、君に知られるわけにはいかない。と、思った。――その瞬間だった。
うるえは寂しそうに瞳を揺らし、首を横に振った。
「君は、私の知ってるゆーくんじゃない……」
「何言って……」
誤魔化しきれないのか。いや、簡単なはずだ。あの日、自分の部屋で出会ったあいつのように、呆れたような顔をすれば済むことじゃないか。でも、うるえのその一言には、紛れもなく的を射たような、確信に満ちた芯が込められていて、もしかしなくても、もしかしたら、という一つの想定が脳裏をよぎる。
「あなた、"別のセカイ"から来たんでしょ」
それは、オレが危惧した想像を遥かに超える想定外の確信だった。
――君は、なにを知っているんだ。
彼女は、いったい。
その瞳は、なにかを強く訴えるようにオレへ語りかけていた。
***
――同時刻・B線。
教室。部活でまだ残っている者もいるだろうけど、教室に残っている者はいなかった。ガランと静まり返った室内の一番後ろの端へ設けられたゴミ箱へ走り寄り、そのなかを引っ掻き回す。――が、見つからない。そもそもどんな色の紙だ?どれぐらいの大きさなんだ?
そこまでちゃんと聞いておけばよかった。今になって血の気が引き、徐々に冷静さを取り戻しているようにも感じたが、それは全くの気のせいだ。
痺れを切らしてボクはゴミ箱をひっくり返す。
無い。無い。無い、――。
それらしい事が記された紙は目にとまらなかった。
――もしかして?
一つの可能性に賭けてボクはまた走る。
乱れた呼吸を整えながら辿り着いた先は、学校のゴミが一纏めに集められた場所、――焼却炉のあるゴミ捨て場だ。
思っていた以上の量を前に、茫然としてしまう。
「……これ、全部ゴミ?」
近くまでいくとそれは気の遠くなるような質量だった。それでもボクは、あいつの残した可能性を捨てるわけにはいかなかった。今、なんの策もないこの現状を変える術は、その紙なのだとしたら、――ここで諦めたら、ボクは一生ここで生きて行かなくてはならないだろう。
そう思えば身体は自然に前進していた。
ゴミ袋を一つ、二つ、と手に掴んで、広い場所で破り開こうと手を掛けた。
その瞬間、コツリと響く靴音。背後に気配を感じた。
「お探しのものはこちらですか、折上くん」
その声は知っている。
振り返ると、一枚の紙切れを差し出した少女が立っていた。
「なんで君が、それを、……久我さん」
「返してあげてもいいのですよ…?」
その言葉に、警戒していた気持ちが安堵へと変わる。
「ありがとう、助かる……それちょっと大事なんっ」
「でも、」
そんなボクの言葉を遮って、彼女は一歩、二歩、歩み寄ってきた。
表情が強張り、緊張が走る。
何故なら久我さんは、まるで実験体でも見るかのような、好奇心に満ちた目をしていたからだ。
「折上くん、私にも見せてください…」
なにを。と、問うことがこんなに難しく思えたのは初めてだ。
だけどその続きはご丁寧にも彼女の口から紡がれた。
「その結末を」
ボクは、このとき不図思ったんだ。
変化をもたらすほどの選択肢で、セカイが二つ、三つ、四つ。無限に枝分かれしていくのなら、ボクは今現在迫られている二択の選択肢で、もしかしたら新たなるセカイを生んでしまうんじゃないか――
ということに、恐怖すら感じていた。