「おわりは、はじまり」
「ゆ…っ……ゆー………」
まどろみのなかで声が聴こえた。その声に意識を傾けるとボクの思考は自然に覚醒していった。ゆっくりと瞼を持ち上げてみると、そこには人影が一つ。視界が霞み、部屋の蛍光灯が逆光で相手を翳らせている。二度ほど瞬きを繰り返すとそれが誰だかはっきりと分かった。
「………うる、え?」
そこに居たのはうるえだった。なんでうるえが…?などと考えている隙はなかった。現状は胸倉を掴まれボクはうるえに揺さぶられていたからだ。表情も険しく、とてもうるえには見えない。揺さぶりがぴたりと止まるとうるえは捲し立てるように問いかけてきた。
「ちょっとぉ!あんたいつまで寝腐ってるつもり!?」
「えっ……」
驚きのあまり硬直する。
今まで聞いたこともないような口調と凄い剣幕だった。今日は一日、思考してる暇のない日だなぁなどと呑気なことを考える。(もう、逃げたかったと言っても過言じゃあない……)
「えっ……じゃないわよ、ぶっ飛ばすわよ!?」
そうこうしている間に再びうるえに揺さぶられてボクは急かされていることを理解した。
「駄目だ、寝起きで頭が働かない……もう少し寝かしておくれ」
「馬鹿ッ!駄目に決まってんでしょ――ッ!!」
そのとき頬に強い痛みが走った。
うるえの空いた手が弧を描き、手が頬を払ったあとだった。耳鳴りと共に頬が急に熱くなるのを感じてビンタされたことに気づく。
ボクはどんな顔をしていただろう。驚愕のあまり目は見開いていたような気がする。視界に映るうるえもブレていたから、瞳が震えていたんだと思う。もう何が何だか分からずきょとんと相手を見上げているとボクを解放してうるえは仁王立ちした。――えっ、そんな君、ボク、はじめて見たよ…?
「あんたねぇ、せっかく私がきてあげたんだからしゃんとしなさいよ!」
――まるで話の意図が見えない。
気付くとボクはベットの上で壁に凭れていた。後ずさった覚えはない。――ビビったとか、そんな馬鹿な。
なんだか悔しくなって、叩かれた頬を押さえながら眉を寄せる。するとうるえはそれが気に食わなかったのか双眸を細めてドカッと仰々しくベットに片足を乗せてきた。
「聞いてンの?」
「……聞いてます」
すぐさまその場に正座する。――こんな条件反射、ボク知らない。
本当は布団をかぶってやり過ごしたかった。でも、身体はボクの伝達を無視して勝手にも正座の体勢を瞬時に取るよう動いていた。誰かに、こんなにも理不尽な暴力を振るわれたことが今までに少なく、親も奔放主義ゆえ喧嘩になっても放置が多かったからか手を上げられた経験がボクには少ないのかもしれない。全細胞が「正座しとけ」とでも囁きかけるかのように、ボクは今本能のままに正座していた。
睨みを聞かせながら上から物を言うような態度でうるえがボクに問う。
「あんた、明日がなんの日か分かってるの?」
後ろ手に髪を掻きながら思案する。夕方うるえに言われた謝罪の一言を思い出し、徐にそれを口にした。
「……ボクの誕生日?」
ガンッ。ベットを蹴られた。
「ちがう」
振動でベットもボクも揺れる。――なんだもう。ちくしょう。泣きたい。
訳が分からないまま目のやりどころに困り思考を巡らせる素振りだけでもと視線を四方八方泳がせていたボクに、うるえはさも当り前かのように答えた。
「バレンタインよ!」
「ああ、」
思わず納得するとうるえは踵を返して背を向けた。そしてそのまま投げるようにベットへと腰掛ける。その所作一つ一つに警戒しているボクを肩越しから見たのか不服そうにうるえが眉を寄せた。
「なによ…」
「いや、ちょっとびっくりしただけ」
慌てて弁解すると「あんたそんな臆病だっけ?」と言われてしまった。――そんなことはないんだけど。などと言った日には「口答えしないで」とでも言われてしまいそうで、いつも気ままに口をついていた言葉はこんなにも容易く喉の奥で詰まってしまった。
そんなボクを傍目に彼女は続けざまにぼそりと言う。
「チョコケーキ作るから明日取りにきて」
咄嗟のことにいつも通りの対応で疑問がそのまま口から飛び出した。
「なんで……」
その一言にうるえの眉がぴくりと動く。
「なんで?いまなんでって言った?」
ずいっと迫るうるえの顔にボクは反論の余地もあらず僅かに顔を逸らして、半ば強引に頷いた。
「いえ、はい、うん、分かった」
今度は溜息を吐かれた。
だが次の台詞はあまりにも意外だった。
「それと、なにかあったの?今日のゆずるちょっと変」
変なのはあなたです。なんて口が裂けても言えなかった。だが、心配してくれたんだろうか。ここは一応お礼の一つも言うべきかとかしこまってみた。
「し、心配してくれたのかい…ありがとう」
そして殴られた。
「べっ、べつにあんたの心配したわけじゃないんだからね!?」
慌てたようにベットから立ち上がったうるえの頬は僅かに赤く、早口で捲し立ててそのまま後ずさっていく。
「た、ただ、バレンタインだし…女子のみんなとお菓子を交換するにあたって……ほ、ほら、余るかもしれないでしょ?そっ、それだけなんだからっ!!」
勢いよく開き、勢いよく閉まるボクの部屋と廊下を繋ぐ扉。それだけ言い残してうるえはボクの部屋を後にした。――要約するとボクにもくれるってことだろうか。
「どうしてお前そんなツンデレみたいなキャラになっちゃってんの」
誰もいない部屋でやっと思ったことを口にできたボクは、そのまま緊張の糸が切れたかのようにベットへ横になる。
あれは、まぎれもなく外見はうるえだったけど、ボクの知ってる神埼うるえではなかった。
***
同日、――遡って正午。
「こんなセカイ要らない……」
ゾッとした。
背筋が凍るほどにオレは悪寒を感じていた。
「待ってくれ、お願いだから考えを改めてくれ……」
教室にはもうオレとこいつしかいない。正確には、みんな避難した後だった。空からは塵が降り注いで辺り一面を灰色に曇らせ、時間はまだ正午だというのに塵の向こうの空模様は夕焼け色をしていた。その窓際に立つ少女は風に靡かれカーテンの裏へと隠れた。とても異様で、とても現実味のない風景。
昼過ぎのチャイムがオレを現実へと引き戻すように鳴り響く。
その少女の手元には、刃渡り20cmのナイフが握られていた。感情的な声で彼女は窓の縁を幾度も幾度も叩く。
「もう終わり…今日で終わり……こんなセカイなら要らない……要らないッ!!要らない!要らない!必要ないッッ!!ゆずるにも分かるでしょ?分かるよね?明日なんてないの、私たちは後数時間で死ぬのよッ!!なら!なら最後なんて……最後なんてそんなの私が決めるわ!誰にも邪魔はさせない……」
外では、サイレンが鳴り響く。
あれはうるえを捕まえに来たサイレンじゃない。緊急の避難を訴えるものだ。だがオレは、どうにかして彼女が手に持つナイフを奪う必要があった。
「お願いだから目を覚ましてくれ、うるえッ!」
「ゆーちゃん、もうおわりよ……せめて来世があるのなら、そのときもまた………ゆーちゃんに会いたいな」
そう言って彼女は、鮮血も知らぬ白銀の刃を自分の喉にあてがった。
「やめッ……止めてくれ、うるえ!」
手を伸ばしたんだ。――だけど、届かなかった。
うるえは、自分の喉を掻き切った。視界はこれでもかと赤に染まる。血飛沫に遮られてよく見えなかったけど、最後に彼女が微笑んで逝くのをオレは"また"見てしまった。
なぁ…どうして……
どうしてうるえには、そんな残酷な運命しかないんだ。
オレは絶望に飲まれる寸前だった。
立っているのもやっとであった身体は崩れるようにその場へ膝をつく。何度も時間軸を移動して、何度もうるえを救おうと手を伸ばしたけど、君はオレの介入も虚しく残酷的な死を迎えた。
今回はなんとか1年ほど取りとめた彼女の命だったが、それも世界の終わりと共に今日で絶たれてしまった。彼女を延命させようとすると世界が終わる。なんて馬鹿げた話だろうか。
この世の未来は変えられない。うるえの存在が未来にどんな影響をもたらすのかは分からない。そんな未来をオレは見るつもりも、進む気にもなれなかった。そこから先をオレは知らないけど、もしかしたらうるえという存在が後の世に不要……あるいは必要だから絶たれたとも受け取れよう。
しかし、こんなにも繰り返して、幾つもの可能性ある伏線を変えたり、取り除いたりしても、オレには君を救えなかった。何度も死んでゆく君をさいごに、オレは過去へ戻る。その繰り返しに、オレはもう疲れきっていた。この世界のうるえは、必ず死ぬために存在しているという確信が強まる。なんて悲しい世界だ。
だがオレは、まだ諦めていない。彼女が死んでしまう結末の世界があるなら、彼女が生き続けるという世界もあるはずだ。この世界の君の運命は変えられなかったけど、君にはどうしても高校を卒業するまで共に生きててほしい。オレは、そんな自分のどうしようもない願いのために、"自分を犠牲に"しに行く。
此処は少しばかり科学の発達した現代。
タイムマシンが存在し、禁忌とされる平行世界への道具も開発され、そしてそれらが埃をかぶっているような世界。現在、それらは使用禁止とされ手厚く保管されている。そんなものをこのオレがどう手に入れるか、――愚問だ。作ったのはオレのオヤジが築いたチームで、オレもまたそのチームに携わっている。そうさ、オレは今から禁忌を侵す。
行ってはならない一線を越えて、
また君と出会うために、オレは……―――
***
――朝・B線。
ボクは飛び起きた。
言い知れぬ恐怖と不安がとめどなく溢れ、身体はがちがちに強張っていた。――今の夢はなんだ。あれは、うるえと自分だったじゃないか。……嫌な夢だ。うるえが死んでしまうセカイなんて考えもしなかった。否、考えたくもない。
整理のつかない思考は、先程の夢を走馬灯のように映し出しては消えてゆく。室内の明るみに気付くと時間が気になった。そのまま視線を持ち上げ、ボクは壁掛け時計に目をやった。
「………6時」
どうやらあのまま眠ってしまっていたらしい。
気が付くと時計は午前六時をさしていて、着ていた制服はしわくちゃになっていた。考えてもきっと埒の明かないことだろう。気だるい身体を動かし、ボクは壁に掛けてあった予備の制服を掴むと寝ぼけ眼で一階へと下りる。
シャワーを浴びようと思って浴室を訪れると、不思議なことに浴槽には湯が張ってあった。こんな時間に誰が?などと思考を回す余裕などはなかった。頭からシャワーを浴びて早々と湯船へ浸かった。
はあ、と息を吐く。
そしてゆっくりと昨日のことを振り返る。
帰宅する前は、いつもとなんら変わり映えのない半日だった。それがどうだ、自分の部屋で平行世界のボクだと名乗るヤツに出会ってから、セカイは一変してしまっていた。彼は一方的なお願いとやらをして消えたが……そのお願いの理由がうるえの未来だとか言ってたっけな。夢だと片付けたが、あれは夢じゃなかったのだろうか。そしてその後現れたうるえ。あれは確かに、外見は神埼うるえだったが、はたして本当にボクの知る神埼うるえだったのか。
幾つもの疑問がまだ覚醒しきらない頭のなかでぐるぐると回る。
そのとき不図思い出した。
「そーいやあの万年筆……どこに置いたっけ」
ぼーっと天井を眺めていると水滴が鼻の上に落ちてきた。ぽつり、ぽつり、幾つもの水滴を肌に感じて、ボクは静かに瞼を下ろす。すると「ぴちゃん」という水滴の落下する音が、先程よりも鮮明に浴室内で響いた。
それから間もなくして洗面所に入ってくる足音。蛇口を捻り、勢いよく垂れ流された水音。カラカラという音を立ててコップが揺れているような音。カコンという音を最後に何かを擦る音が一定の間隔で定期的に聞こえてくる。
誰かが洗面所を使って歯を磨いているようだ。
母だろうか。父だろうか。と、思案するなかで、それは唐突にも姿を見せた。ガラリと開かれた浴室の戸から歯ブラシを銜えたまま問われる。
「ちょっとぉー…いつまで入ってんのよ」
「ぶばぁッ!?」
ボクは勢いよく浴槽へ沈む。
そこには見知らぬ女性が歯を磨きながら不機嫌そうに立っていた。
――だっ、だれだあの人。
驚きに目を丸めていると女性は溜息を吐きながら戸を閉めた。
「今更そんな粗末なもん見たってねぇ…いいから早く出てよね」
――どちらさま?
聞く暇なんてなかった。昨日から驚かされることばかりで思考が正常に機能しない。心臓がばくばくと脈打つなか、再度覗かれる危険を回避すべくボクは女性がその場を去るのを待って、浴室から出た。
***
制服に着替えて、濡れたままの髪をタオルで拭きながら居間へゆく。
女性はキッチンに立っていた。テーブルには朝食が用意されており、他には誰もいない。致し方なくキッチンで世話しなく作業するその女性におそるおそる話しかけた。
「あの……」
女性はボクの声に上半身を捻りながら振り向いた。するとその脇からは、丁寧に詰め込まれた色とりどりのおかずを陳列した弁当箱が二つ、目に入った。
「なによ、もう少し待って?まだ時間あるでしょ?先にごはん片付けちゃって」
「あ、はい……」
話しかけるタイミングを見失う。
世話しなく弁当の用意に勤しむ女性を傍目に、ボクはおずおずと椅子へ着座した。――まるで自分の家ではないような、自分の家だが落ち着かないような、いきなり他人と朝食を共にする現状にかしこまってしまう。
不図、テーブルに用意された朝食を一瞥していると傍らにあったポップアップ式のトースターから二枚のトーストが焼きあがって飛び出してきた。なんてタイミングのいいことだろう。一枚手に取ってバターを乗せるとそこでようやく腹の虫が鳴き出した。――ああ、そういえば昨日の夕方からなにも食べてなかった。
サクリと音を立ててトーストに齧りつく。一口、また一口と、進んでゆく。
サラダ、ハムエッグ、トーストといった至って普通の簡易な朝食だったが、いつもより美味しく感じたのは、それを作ってくれる人が食べる時間に用意してくれたからなんだろうか。いつも作り置きだったり、コンビニのパンだった。こんなに違いがあるとは思わず、空腹も相俟って味わうのも疎かにボクは飲み込むような調子で朝食を口へと運んでいった。
満腹に近付くにつれ、咀嚼により働き出した脳には余裕もでてきた。思考も回るようになるとモーニングコーヒーを飲みながらキッチンでばたばたと慌ただしく支度に勤しむ女性を視線で追う。
一通りの作業が終わり、二つの弁当箱を両手に彼女は歩み寄ってくる。
そしてその一つをボクに差し出してきた。
「ほれ、ゆずるの分だよ」
「……あ、っありがとう」
ほかほかの弁当箱を受け取ってお礼を口にすると女性は鼻を鳴らして得意げに歩みを進めた。
「ふふん、母さん、泊まり込みだから暫く帰ってこないし父さんも出張中だからねぇ……しょうがないからお姉さまのあたしが腕を奮ってあげたわ」
「お姉さま…?」
サッと血の気が引くのを感じた。
――姉?悪い冗談だ。ボクには兄弟もいなければ姉妹もいない一人っ子だ。
驚いたボクの口は、咄嗟に疑問形で問いかけていた。
姉と名乗る女性は、ソファの背もたれへ引っかけたスーツの上着と傍らに置いてあったカバンを引っ掴んで振り返る。
「ん?どした?調子悪いの?」
首を横に振る。
「あ、そうそう……今日も母さん帰って来ないってさ」
「うん、わかった」
伝言を残して女性は後ろ手を振り、玄関へと歩みを進める。
「じゃ、あたしも行くから戸締りよろしくね」
「うん……」
玄関先でカツコツと靴音が響く。
「ボクも早く出なければ」などと思いながら残りわずかな朝食を口へと運ぶ。
その刹那、玄関先から女性に声をかけられた。
「ゆずるー?行ってらっしゃいが聞こえないぞー」
「……っ、行ってらっしゃい」
咄嗟のことで不意をつかれ、トーストを喉に詰まらせながら女性を見送ると、玄関先で笑い声がこぼれた。
「よっし、行ってきまーす!」
ガチャリ。ドアが閉まる音を残して女性は家を出た。ボクは最後に残ったミニトマトを摘むと徐に口へと放り込む。
「……すっぱい」
親は共働きで二人とも忙しく、物心ついたときから家にはボク一人だった。朝食は置き去りに、夕食は冷蔵庫のなかで眠るような日々を過ごしていたが、それでも不満なんて一つもなかった。ただ、だれもいない家を出たり、入ったりすることがボクにとっての普通で、だからこそ違和感でしかなかった。
朝から台所に立つ女性の姿も、それを見送る自分も――
壁掛け時計が午前7時50分を指していた。
食器を台所へ片付けて、鞄を掴んでボクはいつも通り誰もいない家を出る。
不図、脳裏を過る姉の後ろ姿に立ち止まってゆっくりと自宅を見上げてみた。なんの変わり映えもしない、"いつも通り"の我が家だ。――変わったのはなんだ。姉か?うるえか?……もしかしたら、ボクが変わったのかもしれない。
そんな不安を胸に、ボクは家に向かって小さく呟く。
「……い、行ってきます」
そして、――"いつもと違う"家を後にした。