「はじまりは、おわり」
「はじまり」とはなんだったか。なんて考える昼下がりの午後。
カリカリと音を立てて黒板に刻まれてゆく白墨の字を眺めながら、ボクは心のなかで小さな疑問を抱いていた。
この世は退屈で仕方がない。学生とはなんと無駄な時間を刻々と過ごしているのだろうか。朝起きて、朝食を取り学校へ行く。帰宅部であるボクは放課後に寄り道もせずまっすぐ家へと帰る。課題をして、夕飯をとり、そして風呂に入ってからゲームをするのが日課だ。というより、ゲームがしたいがために言われたことは済ませるようにしていると言ったほうが正しいかもしれない。
だがどうだ。なんとも退屈な毎日じゃないか。平和で、平凡で、平穏のこのご時世。抱えた日本の未来と言ったらデフレだのサイバーテロだのだ。ミサイルは少しばかり危機感を感じるが、大金やクレジットカードも持てない学生にとって金銭面の問題など実感も無ければ危機感すら危ういもんだ。
日本は平和だ。いいことだと思う。けれど、少しばかり物足りないと思ってしまうのは、ボクがなんの責任も負わなくていい学生生活を送っているからだろうか。もう少し大人になれば自分の責任感に向上心が働き、達成感や充実感のある日々を送れるのだろうか。もしくは、一人っ子だからボクの考えが甘いのかもしれない。両親は好きに生きなさいという奔放主義だった。あまりボクについてうるさくは言わない。なにが理由でこうなったのか、などと物思いに更けていた束の間のことだ。
ヒュンと風を切る音が鼓膜を震わせたかと思った刹那、目に入ったときには既にその音の正体はボクの額に当たっては跳ねて机の上に無残な形となって白線を引いていた。
「……っ、あッ」
「折上、ちゃんと聞いてないと遅れるぞ」
チョークを飛ばしてくる先生というのは、いまどき珍しいんじゃなかろうか。
痛みに悶絶するなか、そんなことを思考していた自分も我ながら呑気であると窺える。――机の上に引かれた白線を何事もなかったかのように手で払って消した。
こんなベタな忠告を受けても、笑う者はひとりもいなかった。漫画やアニメを見ていると、こういうときにくすくすと笑っている描写をよく見かけるけど、実際はそんなかわいらしいものでもないと、このとき不図思った。
静まり帰る室内で、カツンと響いたチョークの音は「何事」かと思わせるには十分すぎる理由で人目を集めた。だがそれも一瞥程度だ。その音の正体を理解してしまうと納得したかのようにクラスメイトたちはまた黒板とノートを交互に見ていた。なかには暫し長くボクを見ていたヤツもいたが、目があうと逃げるように逸らされた。
常に理想と現実は釣り合わない。
はじまりとはなんだったか。ボクの人生は、どこから始まり、どこで終わりを迎えるのだろう。――授業の内容はほとんど聞いていなかった。手だけが義務のように、黒板へ刻まれた文字をそのままノートへ書き写すようただただ筆を進めていた。
***
放課後。今日を振り返るほどこれといって気分の浮くようなことは何一つなかった帰り道。ボクは寒さに首を竦めてマフラーで口許を覆う。白い息がふわふわと空に上っては消えてゆくなか、駆けてくる足音が耳に入った。その足音は次第に大きくなっていき、しまいにはボクの愛称を呼ぶ。肩越しにボクはその声に振り返った。
「ゆーくん!」
そこには息を切らした幼馴染の姿があった。
「……うるえ?」
神崎うるえ。幼稚園から一緒で、よく遊んでいたりもした。周りからの評価を率直に並べるなら、面倒見がよくて、気配り上手で、優しくて、素直で、いつもニコニコしているような子だ。生けるオアシスとも呼ばれていた気がする。寝坊ばかりするボクを朝起こしに来てくれたり、母親が出張でいない間は弁当を作ってきてくれたり、なんだかんだと世話を焼いてもらった覚えがある。中学のとき、そんなうるえに彼氏ができてしまってからは、ぱったりと会わなくなってしまった同い年のお隣さん。
呼吸を整える時間はざっとこんなものでいいだろう。
緩く首を傾げると、うるえは眉を下げた。
「ごめんね、ゆーくん……」
「なにが?」
ボクの深まる首の角度に「忘れてるの?」と言わんばかりにうるえは続けた。
「誕生日、明日でしょ?今年こそはお祝いしようと思ってたんだけどね……予定入っちゃって」
「んー…ああ、いいよ、そういうの」
怒られたのかな。そんな疑問が脳裏をよぎった。きっと今日のことを彼氏に話したのだろう。うるえは残念そうに、申し訳さなそうにボクを見ている。
他の男の誕生日を祝う彼女というのは、一般的に嫌なものなのだろうか。ボクには彼女ができたことがないので、そんなことを考えても結論はでないのだ。いつも通りの間の抜けた切り返しに眉を下げたままうるえは微笑んだ。
「相変わらずだね、ゆーくんは」
「そだな、でも毎年おれの誕生日をお祝いしてくれる気持ちは嬉しかったからそれでいいかなって思った」
そう言うと、うるえの眉は安心したかのように丸みを帯びる。
「……ふふっ ありがとね、ゆーくん」
「おう」
そんな他愛もないやりとりを交わしながらボクたちは帰路につく。もうすぐ高校二年になろうと言うのに、ボクの春はなんの音沙汰もない。うるえを見ているとその束縛はとても窮屈そうに見えた。ボクはこう見えて息をするのも面倒臭がるような人間だ。誰かと同じ時間を共有するということこそがボクにとって耐えられない時間になると思うと「恋」というものに興味すら抱けなくなっていた。――つまりはしたこともない恋が億劫なのだ。
「恋をしたことが無いから言えるんだよ」と、うるえは言う。確かに恋をしてるうるえはどこか嬉しそうにも楽しそうにも見てとれた。
家の前に着くとお互い顔を見合わせて、昔のようにうるえが先に手を振った。
「ゆーくん、少し早いけどお誕生日おめでとうっ!」
それじゃまたねと言って、家に入るうるえを見送ってからボクも家路につく。
ガランと静まり返った薄暗い玄関で乱雑に靴を脱ぎ捨て、居間を覗く。――誰もいない。
帰りは遅いのだろう。ホワイトボードには今晩の食事の取り方が書かれてあった。ボクはそれを一瞥して階段を上っていく。そのとき不図部屋から物音がした。窓を開けたままにしてしまったのだろうか。あんまり良い気はしない。おそるおそるドアノブを掴み、ゆっくり捻って扉を開く。
そこには、夕焼けに照らされ逆光で見え難かったけれど、いつも働かない直感が今日に限って仕事をした。
――あれは、
あれは、ボクか?
その後ろ姿を見て、はっきりとしたことは分からなかったが背恰好はまるで自分を見ているかのようだった。
ボクに気付いたそれは緩慢な動きで振り返る。
「よぉ、待ってたぜ……オレ」
そうさ。それはまさしくボクだったのだ。
一驚に喫すボクを傍目に、そいつはどこか嬉しそうな声で話しかけてくる。
「おいおい、自分のツラ見て一時停止か?」
考える隙も与えちゃくれないソレをなんと呼べばいいのか。そんなことを考えていた自分も目先のこいつとあんまり変わらないのかもしれない。少し驚いたけど冷静ではあった。人は驚いたとき、よく気絶したり、慌てた拍子にこけたりとかするって聞くけどあれは本当なのだろうか。どちらかと言うと、――動けない。
息を飲むのもやっとで、目先のそいつに目を奪われる。思考も目先の信じられない出来事にぐちゃぐちゃとこんがらがっている。ひとつひとつ解いていこうにもそうさせてはくれないようだ。
「まぁそうかしこまるなよ…オレはお前で、お前はオレさ! ひとつだけ忠告するなら、オレに向かって自分の名前で呼ばないことだな……」
まるでボクを思考させないように会話を挟んでくる。待てないのか。それともただのお喋りか。計算されたなにかか。彼が一息ついたところを狙って、ボクは問う。
「なんで……」
「え?なにが?」
「なんで名前を呼んじゃいけないの」
「小難しい話は一切分かんないんだけどさ、なんでも他のオレに名前を呼ばれるとセカイがそれを不要因子と判断して消しちまうらしい」
なんのことだかさっぱりだが、呼ばない方がよさそうだ。
そいつは呑気に歩みを進めて室内の端に設けられたベットへどかりと無遠慮に腰掛けた。
「お前にお願いがあるんだ」
なんとも図々しいボクだろう。――だがそいつは、疑問に支配されるボクが首を傾げるとそれを受け入れのサインと勘違いして話を進めた。
「セカイを交換して欲しいんだ」
一字一句理解できなかった。
世界とは、交換できるものだったか。交換というのは、可能なのか。欲しいとは、一体なにを。彼がボクなら彼は別の時代か、別の世界からやってきた人間?タイムリープ?それともパラレルワールド?――状況がうまく飲み込めない。思考が働いてないからか、単語のひとつひとつの意味にボクはとらわれる。だが彼はそんなボクを待っちゃくれない。
「オレとお前のセカイ……ちょっとの間でいいんだよ、交換してくれよ」
さっきより分かりやすく言ったつもりなんだろうか。あまり変わっていない。
致し方なく、現状を整理するのは後回しにしてボクはその台詞のみに思考を働かせる。――こいつが此処に存在するという時点で、なんらかの方法を用いれば行き来が可能だと想定しよう。交換すると言っている以上、ボクはこの世界を離れるということだろうか?
まずそれを問うてみた。
「それって、お前の世界にボクが行き、ボクの世界にお前が留まるという解釈でいいのか?」
「そう、それ!お前あったまいいなー!」
「お前は頭悪いの?」て、ツッコミを入れたくなってしまった。ボクなのに、ボクより脳細胞は終わっているようだ。
「最後に聞くけど、お前はなんで此処に来たんだ?」
そこで一瞬だが彼の顔色が変わった。なんていうんだ、固まったというべきか、強張ったというべきか。だがそれもほんの一瞬で、すぐにまただらしのない笑みを浮かべて彼は言う。
「実はさぁ…オレのセカイ飽きちゃったんだよね!よくある話しだろ?ここはオレのいるべきセカイじゃない!……とかよ?」
それを聞いてなんだ。ボクは「なるほど」と素直に納得してしまっている自分がいた。そうさ、ボクもこの世界を退屈だと思っていたじゃないか。なにもない毎日、クラスメイトとはあまり仲が良いわけでもなかったが、奔放主義だが優しい両親に親切な幼馴染。後輩や先輩もよく茶化して来たりはするが根はいい人たちばかりだ。別にこの世界が嫌いなわけじゃない。ボクはただ……――
そう、なにもかも上手くいきすぎていてつまらないと思ってしまったんだ。それも上手く回っているのは周りだけ。自分は何をしたって中途半端で、これと言って何かが長けているわけでも秀ているわけでもない。
置いてかれているようなこの世界が――
たまらなく居心地が悪かった。
「……いいよ」
ボクはうなづいていた。
彼はそのだらしない笑みをより一層歪ませ、満面へと変えた。とても嬉しそうに立ちあがって、「そうか、そうだよな、そうさ!」と言語障害を起こしかけている。――いいじゃないか。交換できるということは、戻ることもできるはずだ。ボクは彼の願いとやらを叶えることにした。そうさ、ボクだって退屈な毎日から脱却したかったお前なんだから、何も深く考えることでもない。
「どうすればいい?」
ボクは自ずと問いかけていた。
そのとき思ったんだ。得体の知れないもうひとりの自分が、少なからず救世主に見えてしまって、ボクはそんなお前に期待してしまっていたんだと。
彼は制服の胸ポケットから万年筆を手に取った。
「これを持って行ってくれ、お前に必要になる」
それが?次元を移動する際に必要なものなのか?もう少し大がかりな機材かと思っていた分、冗談かと思った。傍から見ればただの万年筆でしかないそれを彼はボクの手に握らせる。訝しみながらあらゆる角度で万年筆をまじまじと見つめるが、ボクには万年筆以外の何物にも見えない。使い方を問おうと口を開いたときだった、まるでさえぎるように彼は早口で喋り出した。
「だがすまん、実はもう作動してるんだ」
「え?」
嫌な汗が背中を流れてゆく。
「いやぁ快く引き受けてくれて助かった!」
「おい、いったいどういう……」
今、こいつはなんて言った? もう、作動している? ――自分の表情が歪むのを自覚できた。ボクは確かに承諾をした。けど、なんだ、嫌な予感がしてならない。そんなボクを傍目に、彼は申し訳なさそうに笑いながら言う。
「世界に同じやつは二人も存在できないんだ」
そんなのパラレルワールドの定義だろう。実際どうなるかなど体験して帰ってきた人間にしか分からないし、そんなやつがいても信じるものは少ない。彼が言うからには、今此処に二人のボクが存在するという矛盾は確かによくないことだと理解できる。そしてボクが驚きに口をあけている合間にも彼は続けた。
「今回はこの万年筆でお前の意識を少しだけ長く留まらせたが……実際はオレがここに来た時点でお前は必然的に平行世界へ飛んでたんだ」
沸々と苛立ちがこみ上げ、ボクの声を震わせる。それを知ってか知らずか彼はその都度笑顔は絶やさず「ごめん」とでも言うかのように眉を下げた。話しの半分が頭に入らないぐらいには動揺している。相手にどう伝わったかは知れないが、ボクはあくまで冷静に問いかけた。
「騙したのか?」
「お願いというのは本当だよ」
首を傾げている余裕はもうなかった。そして彼は、続けざまにその願いとやらを"一方的"に頼んできたんだ。
「頼む、うるえを守ってやってくれ」
「なに言っ……―――ッ!?」
そういって彼は消えた。
それは室内のもの全てが二重にブレたかと思った瞬間だった。彼は音もなく忽然と姿を消してしまった。否、消えてしまったのだ。
しばらくの間、茫然と立ち尽くしていたが、今までのは夢だったのだろうか。立ち位置は変わっていなかった。
――なんだったのだろうか?
混乱にからまる幾つもの不可解な点は、まだボクを惑わせていた。
まだ頭の整理はつかない。先程まで彼が座っていたであろう場所に腰を下ろそうとして気がつく。ベットは綺麗なままで使用感がまるでなかった。彼が座っていた箇所にへこみは見られない。
――やっぱり夢を見てたんじゃないかという結論に至る。
「立ったまま寝てたのかな……」
色々考えさせられてパンク寸前の頭を抱え、ボクは無造作にベットへと横になる。――だるい、もう寝てしまおう。
そこで意識は途切れた。