星空のレヴァリエ
星が瞬く夜空に、奇妙な影が浮かんだ。白い波の間を軽やかに泳いでは、まるで何かを掴むように空へと手を伸ばした。
影は大きな月の前で動きを止め、眼下に見える小さな町を眺めた。
「今回はこの町にしましょう」
その声は静かで知性的な、けれども弾むような、鈴のような声だった。それに応えるように、にゃあと声がした。
そこは美しい町だった。木造の家が並び、石畳が敷かれている。路傍には可憐な花が咲き、景観を損ねるごみの類いは見当たらない。
「ここに来たのは正解だったみたいね」
少女は満足そうに笑った。夜の暗闇の中、少女は身の丈ほどの箒を右手に抱いて、ランタンを左手に寂しい町を歩く。その少女の足元に黒猫がついて歩いている。
今は町が眠っている時間だ。家屋からは光は溢れてこないし、話し声や物音もしない。その代わりに虫の声が鼓膜を刺激する。少女と黒猫はそれを楽しむような、陽気な足取りだ。
「あら? 何かしら」
町外れの小高い丘に、か弱い光が見える。町は確かに眠っている。あんな場所に人がいるようには思えない。
少女は不思議に思いながら、丘のほうへ方向を転換した。何か目的があって歩いていたわけではなく、ただ漠然と町を見て回っていただけだ。少し予想外の展開に、少女は笑った。
家屋が辺りに無くなり、月明かりと遠くで揺らめく小さな明かりを頼りに歩いていく。黒猫は少女の体を駆け登り、肩に乗って小さく鳴いた。黒猫は目を細めてもう一度鳴き、肩から飛び降りた。
「退屈なの? わたしもよ」
地上は退屈だ。特に人がいない夜はそれが顕著になる。
「でもきっと、あそこには人がいるわ。夜闇に生きる者を恐れない人がね」
丘に近づくと、不意に目標にしていた火が動いた。少女が持つ
ランタンの明かりに気づいたのだ。これであの場に誰かがいることが確定的だ。
「ほら、もう退屈しないでいいわよ」
少女にとっての最大の敵は退屈だ。地上に降り立つと、彼女の退屈はピークに達する。空にいる時には感じない種類の退屈が地上にはある。
心地良い退屈と、つまらない退屈だ。
丘に光るランタンは動かず、静かに少女を待つ。光は左右に揺れ、持ち主が角度を調節しているのがわかる。
「誰だ?」
聞こえてきたのは若い男の声だった。姿は見えないが、それは向こうも同じことだろう。
少女は微笑んだ。
「はじめまして、こんばんは。わたしは空に生きる魔女」
「魔女? 本当か?」
魔女を名乗る少女はくすりと笑い、歌うように高らかと言った。。
「デ・アーヌ・ラ・ヴィーレ! わたしが魔法の箒に跨がり空を飛べば、あなたは信じてくれるのかしら? それともここに満開の花を咲かせばいいのかしら。わたしが本当に魔女かだなんて、些細なことでしょう」
少女は軽やかなステップを踏んでまだ見ぬ声の主に近づく。段々と、そのランタンを持つ手が、腕が、体が、顔が、お互いに見えるようになっていく。黒猫は少女の肩に載って、静かに前を見据えている。
「そうかも、知れないね」
立っていたのは、くすんで汚れた服を着ている青年だった。半袖のシャツから伸びるのは、がっちりとした腕。やはりというべきか、両腕は黒く汚れている。
「驚いたな。随分と若いみたいだ」
「あら、レディに対して失礼ね。少なくとも、わたしはあなたよりも年上よ」
少女は至極真面目に答えた。青年は「それは失礼」と、驚いた風もなく頭を下げた。その仕草は青年の出で立ちには似つかわしくない、とても紳士然としたものだった。
「きみが空に生きる魔女だと言うなら、この世界をどう見る?」
青年は魔女に問いかけた。
「わたしの世界は空よ。地上のことは知らないわ」
魔女は首を振った。
「わたしの世界は広いわ。そしてとても美しいの。信じられないくらいにね」
魔女はくすりと笑い、両手を広げた。黒猫はさっと身を翻して、地面に軽やかに降り立った。その目が一瞬だけ閃いた。
「あなたは信じられるかしら。空ではね、星が降るのよ。無数の星屑がわたしを包むように降りそそぐの」
信じられないでしょう?
少女は歌うように言った。少女の言葉はいつも、どこか歌うような響きがある。
「それは綺麗だね。僕もその世界を歩いてみたいものだよ」
青年は目を輝かせた。少女には夜闇の中に、青年の目の輝きを見た気がした。
「簡単に信じるのね。一笑に伏すと思ってたわ」
意外そうに少女は言った。今の人はあまり、こんなおとぎ話のようなことは信じない。少女は時代が流れるにつれ、魔女という立場すら揺らいでいるとさえ感じていた。
青年は肩をすくめた。
「それをするなら出会い頭にやってるよ。それに僕はそれを積極的に信じたいね」
「あら。どうして?」
「僕には夢があるからさ」
「素敵ね。どんな夢なのかしら」
青年は少し恥ずかしそうに頬をかいて、控えめに言った。
「自分の店を持ちたいんだ。今は鉱夫だけど、いつかは自分の店を持って商売をしたい」
「それとわたしの話を信じることに、どんな関係があるの?」
「現実ばかりを見てられないって話さ。きみの話を完全に信じるには、もう少し時間が必要だね」
「それでも信じたい、と。なるほど、わかったわ」
少女は頷いて、青年の手を取った。青年は驚きで肩を一瞬振るわせ、「なんだい?」と平静を装った。それはあまり効果がなかったらしく、少女は青年に気づかれないくらいの小さな笑みを浮かべた。
「成功を祈ってるわ」少女は微笑み、「でも」と 言葉を続けた。「その頑張らなくちゃいけないあなたが、どうしてこんな時間にこんな場所で油を売っているのかしら?」
「疲れたんだよ。だから休憩に来たのさ。夜が明ければまた日常が始まる。それを乗り切る英気を養いにね」
「毎日来ているの?」
「まさか。いつもはもう寝ているか、店を持つための勉強をしてるよ」
「そう」
頷いた少女の声からは、どこか寂しげな響きを含んでいた。
黄昏時、少女は赤く染まる町を見下ろしていた。少女はため息をついて、地上へと降りた。町の外れに降りて、そこから町へと向かう。町に近づくにつれて、夕食の匂いが漂い始めた。黒猫が甘えた声で鳴いた。
少女は町を眺めて、目的の顔がないことがわかると残念そうに愛猫を抱いた。
「そういえば鉱夫だったわね。ちょっと鉱山のほうを見てみましょうか」
黒猫は喉を鳴らしてそれに答えた。
鉱山のほうへ向かう途中、少女には妙な視線が向けられていた。それは少女が鉱山に向かっている図が珍しいから――ではなく、その図ではなく少女にこそ向けられていた。
少女はそんな視線を意に介した様子もなく、ただ町中を歩いていく。その代わりとばかりに、少女の後ろに続く黒猫が、剣呑な視線をばらまいている。町の人はその威圧に圧されて目を逸らした。
町から外れて山間の道を進むと、鉱山から採れた石をよるための作業場があった。となると、あの青年はこの作業場にいるか、もしくはこの辺りに採掘場があって、そこにいるはずだ。空から見た限り、採掘場らしい場所は一ヶ所しかなかった。
「あなたもいっしょに来る?」
黒猫はしばらく考えた後、その場に腰を下ろした。
「にゃあ」
「あらそう。じゃあお留守番をよろしくね」
黒猫は、にゃあ、と鳴いた。
少女も、にゃあ、と返した。
ふふ、と少女は笑って、作業場へと向かった。
入口付近にもなると、コンベアの稼働音が酷くやかましい。自分の足音さえまともに聞こえない。コンベアの登場によって労働者の負担はある程度軽減されたと聞くが、この騒音では何も変わっていない。少女は嘆息した。
二種類の呆れの嘆息だ。
ひとつは変わらない人へ、もうひとつは自分に関わりないことに頭を使ったことに。
「とまれ、こんなところでつっ立ってても仕方ないわね」
耳を押さえそうになるのを堪えながら、少女は作業場に踏み込んだ。作業場には大勢の人がいた。男女の隔てなく働いている。
「いるかしら」
作業場を壁つたいに歩き、青年の姿を探す。作業をしている人たちは、不思議と少女に声をかけることをしない。意図的に無視をしているのか、それとも気づかないほどに集中しているのか
作業場の空気には、ほこりが我が物顔で舞っていた。窓から差し込む光でほこりがきらめく、白い帯を作っている。
「星の海には劣るわね」
光の帯を見て呟く。
ざっと作業場を見て回ったが、青年らしき人は見つからなかった。やはり採掘の仕事をしているようだ。そうなると、少女にはどうしようもない。
諦めて帰ろうと作業場から出た時、誰かとぶつかった。
「失礼。大丈夫かしら?」
「こちらこそ……って、どうしてきみがここに?」
「どうしても何も、あなたを探していたのよ」
少女が顔を上げると、そこには件の青年がいた。
「僕を?」
「ええ。お話をしたいと思ってね」
「光栄だけど、僕は仕事中なんだ。夜にしてくれないかな」
「あらそう。そうね、あなたたちにとって仕事はとても重要だものね」
〝あなたたちにとって〟という何気ない言葉に、青年はこの少女は自分とは違う世界の住人だと、改めて気づいた。
「わかってくれて、嬉しいよ」
「ふふ。それじゃあ昨夜の場所で待っているわ」
少女は青年の脇を通り抜け、軽やかな足取りで去っていった。その姿が見えなくなると、青年は作業場に入った。
「お前、憑かれるなよ」
作業に取りかかろうとした時、隣で作業をしている男に声をかけられた。
憑かれる――というのは、人に似て非なる住人への差別意識が表れている言葉だ。青年は努めて冷静に、
「ああ、もちろんさ」
「奴らは心の隙を突く。極力付き合わんことだ」
「わかってるよ。今夜が最後さ」
「賢明だ」
と、男の話に合わせた。
作業をしている間、青年はもやもやしたものを抱えていた。
その様子を黒猫が窓から覗いていた。黒猫はさっと身を翻して、主の元に走った。
「あなたが言い付けを破るなんて珍しいわね。どこに行っていたのかしら?」
もちろん、この魔女は猫の言葉を解さない。猫は説明をする代わりに「にゃあ」と鳴いた。猫は魔女の肩に乗り、ピクピクと耳を動かす。
「変よね」
魔女はため息と共に漏らした。
「人のことなんてどうでもいいなんて思ってたのに、どうして今さらあの男と話そうとしているのかしら。自分が不思議でならないわ」
猫はその解答にある程度のあたりを持っていたが、それを伝える術はなかった。
「あなたにはわかっているかも知れないわね。ずっとわたしといっしょにいたのだもの」
少女は猫を撫でながら言った。猫は喉を鳴らすだけで、何も答えなかった。
「何か用があったのかい?」
夜、昨夜の丘にふたりは座っている。そのふたりの間に黒猫がちょこんと腰を下ろしている。
「用がなくちゃいけないのかしら?」
「そういうわけじゃないけど、きみはきみの立場を自覚するべきだ」
「それはわたしが魔女だということを言っているのかしら? 昨日はほとんど信じていなかったのに?」
少女は不機嫌なような、寂しいような表情を浮かべた。
「それともあなたが魔女憑きと呼ばれることを怖れているのかしら?」
「きみを心配して言ってるんだよ」
「心配されるような間柄じゃないわ」
「呼び出しておいてよく言うよ。それに魔女憑きと呼ばれるのが怖いなら、そもそもきみとは話さないし、ここには来なかった」
黒猫は持ち上げかけていた腰をもう一度下ろした。
「あらそう、優しいのね」
「初めて会った魔女がきみで良かったよ。そうでなけりゃ、もしかしたらきみの言う通りになったかもしれない」
「ふふ、空に生きる魔女は優しいのよ。というよりも、人が勝手なのよ」
「そうだね。言いたいことはわかるよ」
虐げられるのは、いつも少数派の集団だ。愛すべき凡人たちはそうやって、自分たちを守る。そうして人に似て非なる住人は排斥され、その姿を見ることは稀になり、彼らは孤独になる。
青年はそれを自分たちの責任と思えるほど、生真面目で愚かな人物ではない。
少女はそれを悲劇と泣いて人を恨むほど、悲観的で簡単な人物ではない。
「きみはまだここにいるのかい?」
「ええ、そうね。美味しいものを頂いてから出ていくことにしてるの」
少女がこの町にやってきたのは、ただそれだけの理由だった。空に生きる魔女は、基本的に奔放な存在だ。
「美味しいもの?」
「そうよ。わたしはね、美味しいものが食べたくて地上に降りてくるの」
本当はそれだけではないが、少女はそこの説明をしなかった。それこそこの青年には関係のないことだ。
今回もきっと、それは空振りに終わるのだろうから。
「それなら町の広場の東側にある店に行くといいよ。あそこは少し値が張るけど、味は確かだから」
青年の声はどこか寂しげで、教えたことを後悔する響きがあった。少女はそれに気づかない振りをして、「そう、ありがとう」と微笑んだ。黒猫はそんな主人を見上げ、またうつむいた。
静かな時間が流れ、耳に届くのは虫の声だけになった。夜闇に月明かりは少し頼りなく、このまま世界が閉ざされてしまうような、言い様のないささやかな不安が青年を包んだ。
「空は心地良いかい?」
静寂を打ち破ったのは、青年のそんな問いかけだった。少女は前を見たままで答える。
「ええ。でも少しだけ寂しいわ」
「寂しい?」
青年にはよくわからなかった。空は自由で、あらゆる束縛がなく、寂しさも悲しみもない世界だと思っていた。だからこそ人は空に焦がれて夢を馳せる。
「そうよ」
そんな空に生きる魔女は、しかし、寂しいのだと頷いた。
「贅沢な悩みだと思うかしら?でもそれは外部から見た感覚よ。当事者からしてみれば、どんな悩みも悲しみも切実なのよ」
青年は少女の真意を計れずにいた。まだこうして話すのは二回目で、それは当たり前のことではあるのだが、彼はそれがもどかしく感じた。
「ねぇ」
「何かしら?」
青年は答えない。
「いや、やっぱり何でもないよ」 何かを言いかけた青年は、けれども何も言わなかった。
それとも言えなかったのか。
「あらそう」
ふたりの微妙な空気を感じ、黒猫はのびをしてからその場を離れた。居心地がそもそも良くなく、青年も猫が危惧したような行動はとりそうにもないため、あの場にいる理由がないのだ。
猫は離れた所からふたりの様子を眺めながら、退屈そうな欠伸を漏らした。
「ねぇ」
「何かしら?」
「僕はきみといっしょに行きたい」
「あなた、夢はどうするつもりなのかしら?」
「それにはまだ時間があるさ。夢の達成には期日なんてない」
本音では、もはやそれはどうでもいいとさえ思っている。この魔女と共に生きられるなら、夢が叶わなくてもいい。
魔女は自分でもよくわからない感情を抑えていた。喜びのような戸惑いのような、初めての感覚だ。
「そうね、あなたの言う通りだわ」
青年の表情が喜びの弾けたものになる。
「じゃあ――」
「でも駄目よ。そうしたらあなたはあなたじゃなくなるわ」
生きる世界が違うのだ。
「でも、わたしが地上で生きるなら、あるいはできるかもしれないわよ?」
「それをしたら、きみはきみじゃなくなるんじゃないか?」
「そうね、その通りよ」
本来なら、出会うはずのないふたりだ。すれ違い、それで終わるはずだった。それが何かの間違いで出会い、何かの間違いで言葉を交わし、何か間違いで――
それでも結局、世界が違う。どれだけ間違えても、その事実だけは間違えられない。
「なら駄目だよ。きみがきみじゃなくなるなら、それじゃ意味がないよ。僕はきみだからこんなことを言ってるんだ」
何かに縛られず自由で、気高い少女。そんな少女だから彼は世界の壁を越えたいと思った。
それが――叶うはずのないことだと知っていても。
「そうね。だからつまり、これはそういうことなのよ。わかっていたはずでしょう?」
青年は泣きそうな顔で、静かに立ち上がっていた少女の顔を見上げた。
少女は猫を手招きで呼んで、青年を見た。何も言わない少女の肩に猫が飛び乗った。少女はそれを両手で優しく胸元に抱く。
「あなたは自分の夢に生きなさい。そこにはわたしは存在しえないはずよ。わたしはわたしの夢に生きるわ。そこにはあなたは存在しえない」
それは決別の言葉だった。空に生きる魔女は、地上に生きる民とは相容れない。
「それでも僕はきみを愛すだろう。いつまでもだ」
「明日のことは誰にもわからないわ。明日にはあなたは他の人と共に歩いているでしょう。それが自然で、そうあるべきよ」
それは自分に言い聞かせているようでもあった。
「あなたは――夢に生きなさい」
少女は青年に背を向けて歩きだした。しばらく呆けていた青年は慌てて立ち上がって、少女のあとを追った。丘を駆け下り、平野を走って少女を追いかける。
「まだ何かあるの?」
少女は振り向かない。
「きみは結局――なんのためにこの町に来たんだい?」
青年は慌てて自分の口をふさいだ。こんなことを聞くために、この魔女を追いかけてきたわけではないのだ。失敗したと思った。けれど、それと同じくらいその答えを聞きたいと思っている。
「それを聞くの? それは野暮だとは思わない?」
魔女は少しだけ、ほんの少しだけ可笑しそうに言った。
「そうだね。じゃあ……その……」
魔女は振り返らずに青年の言葉を待った。
「また……この町に来てくれないか」
「そうね、またくるわ」
少女は青年の方へ向き直り、儚げな笑みを浮かべた。黒猫を地面に下ろして、青年へと歩み寄る。
「その時には……そうね、あなたのお店に寄らせてもらうわ」
「ああ。その時には美味しいものを用意しておくよ」
「期待しているわ。あなたは自分を信じなさい。信じた者は救われるの」
「ありがとう」
「それじゃあね。短い間だったけれど楽しかったわ」
少女は箒にまたがり、優しく微笑んだ。その頬に透明のしずくを見えたが、青年はあえてそれに気づかないふりをした。少女もそれを拭うことはしなかった。透明なそれはランタンの明かりに照らされ、何度かきらめいた。
魔女は何かを呟いた。
青年には聞き取れなかったそれは、きっと魔法の言葉なのだろう。不思議な何かに持ちあげられるように、箒にまたがる魔女が空へと昇っていく。
青年は手を夜空に掲げる。
夜闇に散らばる星屑が、青年の目にはまぶしく映った。
そこは静かな町だった。
街並みは美しく、ごみの類は当たらない。石畳を歩けば靴と低い音楽を奏で、風が吹けば花が香る。空を見上げれば夜闇に星が輝き、月がゆかしい光を注いでる――のが普段の光景であるのだが、この日はそうではなかった。
月の真ん中に黒い影がひとつ。
夜になり眠った町の中、一件だけ明かりのついている建物がある。そこは小さな食堂だった。食堂の店主としては不釣り合いな屈強な体つきをした中年の男が、いそいそと狭いキッチンで料理をこしらえる風景がこの店で見ることができる。今はその中年の男は、明日の仕込みをしている。
中年の男は窓から空を見上げた。丸い月がいつもどおりの輝きを放っている。男はそれを見て、しかし、残念そうにため息をついた。
「辛気臭いわね。ため息なんかついていたら、お客が逃げるわよ」
「なあに。ここに来る連中は酒を飲みに来る奴らさ。僕の顔も飯も、それほど重要視しないさ」
何気なく答え、男は驚いてカウンターの方へ向き直った。
「お久しぶり」
いつからそこにいたのか。カウンターの真ん中の席に、二十歳そこそこに見える女性と、退屈そうに毛づくろいをする黒猫が腰かけていた。
「もう店じまいをしたんだけどね」
「あら、つれないわね」
「まあ、ひとつくらいなら作ってあげてもいいさ」
男はメニューを女性の前に滑らせた。女性はそれに見向きもせず、それどころか、メニューを後ろに投げ捨てた。
「こんなものはいらないわ」
「そうかい」
「そんなことよりも、美味しいものを頂戴な。それとミルクもお願いね」
食いしん坊の魔女は意地悪な笑みを浮かべ、屈強な男は泣きそうな顔で――実際に涙を流しながら、
「それじゃあ、僕のとっておきを」
恭しく、頭を下げた。