初恋の人
ぼくが初めて好きになった人は、闇の女だった。
月明かりに瞳が碧く変わる、美しい人だった。
ジンの城を出た馬車は、ぼくとイランとシランを乗せて、ガタゴトと港へ向かっている。
後の二人は、その先の宿で合流することになっている。
周りには幾重にも護衛が取り巻いていた。
「いい加減機嫌直せよ、アオイ」
「そうよー。そんなにむしっちゃあ、クッションが可哀そう」
「可哀そうなのはぼくだー!」
思わず叫んだものの、お付きの振りをしている二人はあっさり無視した。
一人は腕を組んで明後日を見ている。
一人は長い黒髪を梳きながら、反対方向を向いている。
だいたい、臣下が主に対してこんな口を聞いていい訳がない。
なのに、容赦ないタメ口なのはこの二人はぼくの臣下ではないからだ。
「だから闇者って嫌いなんだよ……。お前ら遠慮なさすぎ」
「ガキに遠慮してどうするんだよ、バーカ」
「いいじゃないの。元気なワカちゃんの姿を見られたんだから♪」
こいつらの口車に乗せられたぼくが馬鹿だったよ。ああ、馬鹿だったさ。
今でも忘れられない想い人を一目でも見ることができるのなら、と病床の父の反対を押し切ってこんな野蛮な国へとやってきた。
無理やり書かせた親書を持って。
ジンの港に着いた時、心躍らせているぼくにイランは言った。
「ワカのことだけどな」
「うん」
「初めて会ったふりをしろ。そして絶対に手を出すんじゃねえぞ」
へ? 何で?
目を丸くしているぼくに、イランは続けた。
「ワカは、今、ジンの第三王子、ヤン・チャオの愛玩物になっている」
「な……! なんだよ、それ!」
ぼくは仰天した。
ドラを耳の横で鳴らされたような衝撃だった。
「あ、あ、愛玩物って……! そんなまさか、首に鈴でも付けているわけじゃあるまいし……!」
「付けているのよ」
シランの冷静な声に、ぼくはひっくり返ってしまった。
ああ、それでも会えるだけでいい、会いたい。
恋しい気持ちを殺して、無骨な城に入ったぼくは、のっけらから当人に出会った。
ワカはこちらをちらりともせず、猛烈な勢いで走り去っていった。
首の鈴をリンリンリンリンと、けたたましく鳴らして。
「なにをやっとるんだ、あいつは……」
後ろから呆けたようなイランの声が聞こえた。
全く、同意だった。
なにやってんの、ワカ。
そして追いかけてきたヤン・チャオ(流れるような深緑の髪で、背が高くて、男前で、堂々としているところが気に入らない)と仲良く去っていってしまった。
手を出すどころじゃなかった。
二人の間には、全く隙が無かった。
さらにシランが焚きつけたせいで、ぼくの前でも濃厚にいちゃつく。
そんな光景を見ながら、笑顔の下でどれだけ呪詛の言葉を吐いたか。
馬車がゴトンと止まった。
「どうした?」
窓から顔をのぞかすと、野盗が、と護衛が緊迫した顔で答えた。
「分かった。君たちは手を出さないで。この二人がやるから」
イランとシランを見ると、明らかに「えー」「面倒くせえ」というような表情を浮かべている。
「金を払った分は、ちゃっちゃと働け! この自己中!」
へいへい、と腰を上げた二人は、ダラダラと馬車を降りた。
呑気に世間話でもしている風情で野盗に近づいてゆく。
間合いが詰められたと思ったその時、イランとシランはばねのように跳んだ。
あっという間に、二十人の男たちは原に転がって呻いていた。
そんな能力を持つ人間なのだ、闇の者とは。
三年前。
ぼくは叔父に命を狙われていた。
理由は簡単、王位継承者だからだ。
王宮の中は魑魅魍魎がうごめいている。だが、中には本気でぼくの行く末を心配してくれる人もいた。
「どうした、ツキヤマ」
ある日、父の側近の老人が一人の娘を連れてきた。
「この女官が、これから殿下につきますので」
「ワカランと申します、ワカとお呼びくだサイ」
優雅に一礼をしたワカは、にっこり笑った。
そして、夜になっても他の女官のように下がらなかった。
ひっそりと壁際に控えている。
ああ、そうか。ツキヤマも意外に粋な計らいをする。
そう思ったぼくは、寝台にワカを呼んだ。
「どうされマシタ?」
にっこり笑って近づいてきたワカに抱きついた。
「……添い寝が必要なお年頃ですカ?」
「伽の間違いだろう」
言った瞬間。ものすごい衝撃が頭上で炸裂した。
「いっ……!?」
「寝言は寝てから言いなサイ」
拳を振りおろした状態でワカがにこにこしている。
「そして子供はさっさと寝なサイ」
頭の痛みと子ども扱いされたことに激怒したぼくは、蒲団をかぶって鼻をならすという非常に子供らしい行動をとった。
さらに、その後数日間、女官や教師の目を盗んで隠れてやった。
ワカはいつも、ものの数分で見つけてくれた。
「あなたの隠れている所くらい、すぐに分かりマス」
そう言って、いつも手を引いてくれた。
その言葉が、その手がぼくの心を切なくさせることに気付きもせずに。
ワカは一ヶ月間、不眠不休でぼくを守り続けた。
呑気な顔をしながら、神経を尖らせて、必死になって。
「殿下。ティエンランに保護を求めましょうぞ」
夜。さすがに埒が明かないと見たツキヤマの言葉にワカも頷いた。
「チャルカもジンも信用はできない国ですが、あの女王なら頼れマス。それに遠い知り合いがリウヒさまの講師でしたので、いざとなれば、その方の名前を出しマス」
アオイも噂を聞いたことがある。国のために民と海賊を率いて王に立った気高き少女。
「分かっ……」
刹那、扉がけたたましく開いた。十五人の刀を構えた男がなだれ込んでくる。
「こんな夜更けに、お前たち。無礼であろウ」
その時のワカの声は忘れられない。
低く怒りのこもった、そして威厳のある声。
「事と次第によっては死をもってお迎えするが了と取られるカ」
「だまれ、女……!」
叫んだ男は、口を開けたままずっぱりと顔半分が横にずれていった。
その後の阿鼻叫喚は、あまりにも美しすぎた。
血飛沫の中を舞うように刃を振りかざして、白い衣の残像がひらりひらりと残る。
ぼくとツキヤマは抱き合って口をあけて、ただ見惚れるばかりだった。
すべては永遠のように思われた。
だが、実際は五分かそこらだった。
刃を払って血を拭ったワカは、いきなり悲鳴を上げた。
「ど、どうしたんだ、ワカ!」
「すみまセン! 殿下の部屋ってこと忘れていて、思いっきり汚してしまいマシタ!」
ヘコヘコとコメツキバッタのように頭を下げるワカに、先ほどの迫力は微塵もなかった。
道中もワカは、常に神経を張りめぐさせてぼくとツキヤマを守った。
「なあ、ワカ」
「はイ」
「どうしてワカはぼくたちを守っているんだ」
「仕事だかラ」
宿の窓から二人並んで月を見上げている時だった。
横に立っていたワカが何か言おうとぼくを振り向き、その瞳を見た瞬間、ぼくは叫んでしまった。
「ワカ、その目……!」
いつもは黒い瞳が濃い蒼色に光っている。
目をそらすことができないほど、魅惑の色。
鳥肌が立つほど儚い色。
「ああ、月明かりで目の色が変わるらしくテ」
どうでもよさそうにワカは言った。
「すごくきれいな色だ……」
「そりゃどうモ」
これまたどうでもよさそうにワカは礼を言った。
ワカは見るからにやつれてきた。
黒く大きな眼の下には隈がくっきりと出ており、顔色も悪かった。
いくら声をかけても心配するなという。
やっとティエンランの宮廷にたどり着いた時は、ぼくの神経の方が参ってしまっていた。
かの女王は、温かい笑みで受け入れてくれた。
「分かりました。ティエンランはクズハの王子を受け入れましょう」
「良かっタ……」
小さな声が後ろから聞こえたと思ったら、ワカが崩れるように倒れた。
「ワカ! ワカ! しっかりしろ!」
「大丈夫ですよ、クズハの王子さま」
駆け付けた黒髪の男が安心させるためか、肩を叩いてくれた。
「熟睡しています」
まあ、ワカはそんな気の抜けた所も多々あった。
その一か月後。
ティエンランの虎の威をかりたぼくは、海軍に送ってもらってクズハへと帰った。
欲深いくせに小心者の叔父は震えあがって、それから一切手を出さなくなった。
戻るべき所に戻る、だけどそれはワカとの別れを意味していた。
「嫌だよ。ぼく、ワカと離れたくないよ」
「さようなら、西の王子サマ。もし今後会うことがあってモ」
泣き縋るぼくにワカはあっさりと別れを告げた。
「その時は知らんぷりをしてくださいネ」
伸びている男どもをうっちゃって、馬車は再びガタゴトと動き出す。
「だいたいさあ、あの時もワカが来てくれると思ったのに、なんでお前たちが来たんだよ」
「こっちはこっちの都合があんだよ」
「それにワカちゃんは仕込まれている最中だったから」
「何だよ、仕込まれているって」
シランはお色気全快、両手で髪ををかきあげ、うっふんとシナをつくった。
「ね・わ・ざ」
ああ、憎らしやヤン・チャオ。
「それにしても、クズハの王宮はドロドロよね。あなた、変な引力でも持っているんじゃないの?」
「持ってないよ、そんなの。美を取り繕っている人間の裏側が醜悪なだけだ」
叔父が大人しくなったと思ったら、今度は実の母が動き出した。
弟を王位に付けようと企んでいたのだ。そしてその弟は叔父と母の子だという噂だった。
再びすったもんだの騒動があり、ツキヤマが闇者を呼んだ。
ワカが来ると期待していたが、やってきたのは今現在、目の前にいる二人だった。
騒動は治まり、ぼくは闇者と深い縁を結ぶことになる。
てゆうか騙された。
「王子をダシに使って、ジンの城に忍び込もうなんていい根性だよ。全く」
ため息をつくと、二人はそろって苦笑した。。
「ま、物事はいろんな方面から見ないと分からんからな」
「結果良好、どう転んでも筋道どおりに行きそうね」
ほくは目を閉じた。
いずれこの大陸には大嵐が吹き荒れる。東のジンから流れる風は、どれほどの血を求めるのだろうか。
ほんの少し先を知っているぼくは、王家の人間として国を守らなければならない。
目の前にいる闇者は、その時、味方になるのか、敵になるのか。
「今回の詫びとして、一つだけ無料で依頼を聞いてやるよ」
クズハを守ってくれ。
そう言おうとした矢先に、シランが制するように言った。
「国家レベルは無理よ。わたしたちも組織の人間なんだから」
「それじゃあ」
静かに目を開ける。
「ヤン・チャオを消してくれよ」
もう手に入れることのできない女。
何も知らずに、手にしている男。
憎くて、憎くて、堪らない。
「あいつはもうすぐ死ぬよ」
イランは流れる景色を見ながら笑った。
くつくつと楽しそうに。
「溺愛しているネコに殺されてな。その時の顔はさぞかし見物だろうよ」
ほくが初めて好きになった人は、闇の女だった。
非情な心を持つように訓練された、美しい人だった。