落としものは犬のお鼻
地面にぽてんと落ちていた茶色いお鼻を拾い上げ、夏川はそれをまじまじと見つめた。
なんて大きなお鼻だろう——とても立派なそれに、夏川は微笑んだ。
茶色くて栗の渋皮煮みたいな色で、すごく大粒。これはおそらく、うんと大きな犬のお鼻に違いない。
緑の葉が生い茂る季節——こんなに賑やかで溌剌とした季節だというのに、そのお鼻は不安気にすんすんぴこぴこと動いていた。
おそらくどこかの犬が落としたものだろう。
周囲を見回すが、犬を連れた人は見当たらない。
「交番に行こうね」
夏川が声をかけると安心したのか、お鼻はぴこぴこと揺れ動くのをやめ、掌に大人しく収まった。
スーパーへと買い物に行きたいのは山々であるが、こんな不安気なお鼻を放置しておけるほど、夏川は冷たくはなかったのだ。
少し時間がかかるが、交番に届けよう。夏川はお鼻に話しかけながら、来た道を戻っていった。
交番までは10分の道のりだ。
橋を渡って木々のアーチを抜けると、公園の横に、その建物はあった。黒い屋根の小さな交番だ。
パトカーが一台止まっている。どうやら警察官は留守ではないようだった。
夏川は「ごめんください」とその交番のドアをよいしょと開ける。随分と重い引き戸だ。
ようやく入室を果たすと、二人の警察官が夏川に向かって、同時に視線を移した。
「どうしましたか?」
尋ねられ、夏川は掌を差し出した。
「お鼻、落ちてたんです。多分迷子です」
夏川の掌の上、そのお鼻は所在なさげに佇んでいた。ほのかに暖かなお鼻は、警察官が覗き込むと怯えたように夏川の袖口へと隠れてしまう。
「ははあ、これは立派な鼻ですなあ。ゴールデンレトリバーかなあ、それともセントバーナードかな」
警察官がグイッと帽子を引っ張りながら、そんなことを呟いている。
「じゃ、書類を記入してもらっていいですか?」
もちろん、と夏川は返事をし、書類に記された項目を埋めてゆく。
拾ったのは、川沿いの木の下。品目はお鼻。
数量は「1個」——、そう書こうとして、夏川は「1頭分」と書き直す。それから、夏川の住所を書き込めば完成だ。
その間もお鼻は、夏川の手の近くで落ち着きなくぴこぴこすんすんと動いていた。
「しかし」警察官が口を開いた。「しかし弱りましたなぁ。うちではお世話はできませんな」
警察官の言葉に、夏川の胸に不安が立ち込めた。では、このお鼻はどこへゆくのだろう。この交番では世話をするのは、確かに難しいだろう。
夏川が「どうなるんですか?」と尋ねると、彼らは顔を見合わせて「そりゃあ」と続けた。
「保健所、あるいはお鼻愛護センターですよ」
なんと言うことだろう。
「ウチでもちゃんと公示しますよ。だけれど……」
警察官の片方が声を潜め、耳をよこせとジェスチャーする。何事かと夏川は耳を寄せれば、彼は逡巡ののち、「しかしですな、持ち主は見つかるかどうか……」と言った。
「夏川さん、お鼻がないというのは犬にとってもとても不便なことなんですよ。それで飼い主さんは……」
飼い主は、飼い犬にかっちりと合う、受注製のお鼻を買ってしまうことが多い。
背中がスウっと冷たくなっていく。夏川は思わずお鼻を拾い上げた。
「野良のお鼻は、残念ながら処分されてしまうことも……」
なんと言うことだろう。そんなひどい話があっていいのだろうか。
夏川は強張った喉を潤すように、ごくりと唾を飲み込んだ。
これも何かの縁に違いない。
夏川は少しだけ乾いてしまったお鼻を撫でながら「あの、ウチで面倒を見ます」と言ったのだった。
「ねえ、お鼻、しめしめの時間だよ」
呼びかけると、お鼻は鞠のように跳ねながら、夏川の近くへと寄ってきた。物分かりのいいお鼻である。夏川はお鼻をキャッチすると、獣医から処方された保湿剤をお鼻に丁寧に塗っていった。
手間のかかるお鼻だ。
持ち主をロストしたお鼻は、1日10回の保湿が欠かせなかった。ちゃんとお手入れしてやらないと、この可愛い鼻はあっという間にカサッカサのガビッガビになってしまうのだ。
鼻の先が、ちょっぴり切れてアカギレのようになってしまったのを見つけた時、夏川は己の不甲斐なさに愕然としたものである。
——夏川とお鼻の生活は、2週間に達していた。
残念ながら公示期間に落とし主は現れず、夏川はこうして今もお鼻の世話を続けている。
「早く持ち主さん、見つかるといいね」
夏川はそう言いながら「川の向こうにもポスターを貼ろう」と考えていた。
きっとどこかで鼻を落として困っている大型犬がいるはずだ。こんなに懐っこい鼻なのだから、犬も、犬の飼い主も必死でお鼻を探しているに決まっている。
「さて、ご飯にしようかな」
小さく言った言葉を聞き逃さなかったのか、お鼻はピョンコピョンコと跳ね回る。
「口がないんだから君は食べられないよ」
何度言ってもお鼻は食事を強請るのだ。
ベーコンを焼いた日などは、一際興奮していた。そのお鼻の姿に夏川は、二度とベーコンを焼くまいと誓ったのだ。いい匂いしか楽しめないんて、あまりにも残酷だ。
とはいえもう2週間だ。そろそろ落とし主が見つかってもいい頃合いなのだが——。
不意にお鼻を見ると、やつは跳ね回りながらベランダへと向かっていた。
最初は危ないから、と止めたものだが、お鼻のすることといえば外の匂いを嗅ぐことだけ。夏川の育てた花の匂いを嗅いでは満足そうに室内へと戻ってくる。その繰り返しだ。ついに夏川は注意をすることはやめた。
扇風機が回っている。
もうすぐ夏が来る。
はやく持ち主が現れるといいのだが。
スイカも、花火も、ひまわりも。夏の楽しみが何一つ味わえなかったら、可哀想だ。
雨が降っている。
夏の大雨だ。何もこんな日に出かけなくとも、とは思うが、「あなたの貼ったポスターが剥がれていたよ」などという電話があれば、引き取りに行かないわけにもいくまい。
雨水に打たれてボロボロになってしまったポスターを回収し、家路を急ぐ。
そろそろ『しめしめの時間』だ。お鼻も鼻筋を長くして夏川の帰りを待っている頃に違いない。
増水した川を横目に橋を渡る。水の流れは早く、いつもの穏やかさは少しもなかった。
いつものお弁当屋さんも臨時休業。夏川は吹き付ける雨の中、スニーカーを濡らしながら歩いた。傘などあってもなくても一緒だ。顔がもうびしゃびしゃである。
「あの」
小さな声に呼び止められた。ちょうど歩道橋を登ろうとしていたところだ。遠くで歩行者用信号が明滅を繰り返していた。
振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。
「はい?」
返事をすると、女性は夏川の右手を指差した。
「そのポスター」
「はい」
「そのお鼻、たぶんウチの子のです」
その言葉に、夏川の気持ちは晴れ模様となった。
「よかった!」
自分でも驚くほどの大きな声。
これでやっとお鼻が家に帰れる。
どんなに寂しかったろう。やっとだ。やっと、あの可愛くてお利口なお鼻が家に帰れるのだ!
「あ、うちすぐそこです。ええと、あの、そこの喫茶店で待っててもらえますか? コーヒーくらいなら、もちろんこちらでお出ししますし、あの、すぐに連れてきますので!」
「あ、違うんです」
何が違うと言うのだろう。女性は困惑半分、迷惑そうな気持ち半分、といった様子のなんとも言えない複雑な顔をしていた。
「……ウチの子、もう新しいお鼻買っちゃって……」
「え?」
夏川の横を通り過ぎる車が、泥混じりの水を遠慮なく引っ掛けて通り過ぎる。
雨はますます強くなる。
女性の言葉の意味がわからず首を傾げると、彼女はサッと目を逸らした。
「ですから、できればそちらで引き取って欲しいんです」
——何を言っているのだろう。
だってあのお鼻はずっと持ち主があらわれるのを待っていた。ずっといい子にしていた。ずっと、ずっと。
「可哀想じゃないですか……」
「ウチの犬も、お鼻がないと匂いを嗅げなくて可哀想だったんですよ」
仕方ないじゃないですか。そう言い訳をするように、女性は矢継ぎ早に言った。
女性は「そういうことですので」と一言だけ言って、夏川に背を向ける。
まって。そう声をかけたが、彼女は雨の中、一度も夏川を振り返らずに行ってしまった。
雨の向こうに、あっという間に小さくなって行く後ろ姿は、まるで夏川から逃げ出すかのようだ。
「……なんて言おう……」
ザアザアと言う雨音に、自分の声がかき消されそうだ。
一体、あの健気なお鼻になんと説明すればいいのだろう。もう要らないと言われたなんて、そんなこと、とてもではないが夏川からは伝えられそうになかった。
いつのまにかアパートへと戻ってきた夏川は、お鼻がいつになく興奮していることに気づいた。
ピョンコピョンコと跳ね回る姿に、夏川は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
もっと雨に打たれてくればよかったのだ。飼い主の匂いが完全に消えるまで雨に打たれていればよかった。そうしたら、お鼻を悲しませることもなかったのだ。
「……ただいま」
持ち主さん見つかったよ。もうすぐお家に帰れるよ。よかったね——、そう言ってあげられたら、どんなによかっただろう。
「遅くなってごめんね。しめしめしようね」
お鼻の動きが、少しずつおさまっていく。
お鼻に、悟られてしまった。
夏川の態度に、声に、このお鼻はもうお家には帰ることがないのだと気づいてしまったのだろう。
「ごめんね……」
夏川はもう一度だけ言うと、特大の梅干しのような、栗の渋皮煮のような、可愛いお鼻を拾い上げた。
「……持ち主さんね、たくさん君のこと探したんだって。でも……でもね……」
言葉に詰まる。なんと言えばいいのだろう。一体、なんと。
「あんまり君が可愛いから、お家に返したくないって言っちゃった。ごめんね……」
お鼻がジッとして、それから夏川の掌に鼻を擦り付けた。
「自分勝手でごめんね。あのさ、ウチの子にならならない? ウチの子に、なってくれない?」
スリスリ。ひんやりとした湿ったお鼻が、二度、三度と繰り返し夏川に押し付けられた。
「いい? ウチの子になってもらえる?」
きっとこれは、イエスだ。お鼻の仕草を、夏川は都合よく解釈した。夏川のことを、お鼻は嫌ったかもしれない。本当はお家に帰りたいに決まっている。だけど夏川にはどうしてあげることもできないのだ。
泣いてしまいそうだ。
駄目だ、と夏川は鼻を啜った。
「ごめんね、雨降ってたから体が冷えちゃったかも」
お鼻に保湿剤を塗りながら、そんな嘘を言う自分にも嫌気がさす。
だけれども、お鼻に本当のことを言うなど、夏川にはどうしてもできなかったのだ。
雨上がりのベランダが、お鼻は好きだ。
いい匂いがするのだろうか。お鼻は雨が上がった頃合いになると、決まって外に出してくれとせがんだ。
もしかしたら、ベランダからお家を目指してしまうかもしれない——そんなことを考えたが、お鼻は少しずつ夏川との生活に馴染んでいった。
ウチの子にならないかと尋ねたあと、暫くは元気をなくしたお鼻であったが、今では『しめしめの時間』になると、自ら夏川のそばへと寄るようになった。
賢いお鼻だ。それに可愛い。
ウチの子になったからには、大事にしようと夏川は心に誓った。
お鼻と夏川は、どこにいくにも一緒だった。スーパー、図書館、お花屋さんに公園。
夏川の胸ポケットのお鼻は、たちまち町の人気者になった。
惣菜屋の女将さんなど、お鼻に「ワンちゃん用のソーセージ」をくれようとした。残念ながらお鼻には口がないため、断る羽目となった。
お鼻はいつまでもそれを欲しそうにして、ぴこぴこと動いていたが、食べられないものは仕方ない。
「君に口があればねえ」
まったくもってそのとおり、とでも言うように、お鼻は胸ポケットでぐりぐりと動いた。
交番の前を通ると警察官も「おお、お鼻じゃないか」などと声をかけてくれる。
お鼻は、町の人に声をかけられては嬉しげに跳ねて見せた。
愛想がよいし、ご機嫌だ。
だけどそれでも、お家に返してやれない、という気持ちは、いつまでも夏川の胸に燻り続けるのだ。
ふと、パン屋さんの窓にひまわり迷路のお知らせ、というポスターが貼られていることに気づいた。昼過ぎに迷路大会、その後に星空を眺めるイベントらしい。
「ねえ、お鼻。ひまわり迷路だって。行ってみる?」
尋ねると、お鼻は同意するようにポケットの中で転がってみせる。
「じゃ、行こうね。明後日だって」
犬のお鼻はよく動く。元気だし、ツヤツヤで健康そのもの。
ポケットの上からお鼻を撫でる。ほんのり温かいそれに、夏川の胸は締め付けられるようだった。
ひまわり迷路は巨大だった。
初めて訪れたそれに、夏川は思わず「広いねえ」と呟いたのだった。参加者もたくさんいて、ここでもお鼻は大人気だ。子供たちが「可愛いお鼻!」と大騒ぎである。
「見せて!」
大きな犬のお鼻を子供たちが取り囲み、次々と感嘆を上げ、時としてそっと撫でて去っていく。
お鼻も自慢げであったが、流石に息をつく間もない子供たちの来訪に、二十分を過ぎる頃には疲れを見せ始めた。
「ごめんね、そろそろお鼻も疲れているみたいだから」
ひょいと持ち上げ胸ポケットに入れると、お鼻はフーンと鼻息をついた。やはり疲れさせてしまったようだ。
暫くすると、開会式だ。ひまわり迷路は脱出タイムを競うらしい。夏川とお鼻は四番目。夏川とお鼻は、ソワソワと順番を待ち続けた。
と、その時だ。ひまわりの向こうから、何か激しい音が聞こえた。
悲鳴、そして「べドアーだ!」という叫び声。
ベドアー? こんなところに?
夏川の背筋が寒くなる。ベドアーと言えば、熊のように大型で凶暴な、イヌ科の生き物だ。近年、畑を荒らすことで社会問題となっていた。
遠くで黒く大きな影が見えた。
逃げなくては。
「お鼻、逃げるよ!」
胸元を押さえて逃げ惑う群衆に夏川も加わった。
人の波、叫び声、威嚇のために鳴らされるピストルの音。
「あ!」
誰かが叫んだ。後ろを見やると、子供が転んでいた。近くに親らしき人はいない。はぐれたのかもしれない。
数秒悩んだ挙句、夏川はその場に戻って子供を助け起こした。
「大丈夫?」
「う、うん」
「さあ、行こう!」
夏川の声を合図に子供は群衆に混じって走り出した。
だが。
眼前にベドアーの影が迫っていた。
ああ、もうおしまいだ。
夏川は地面に尻をつけたまま、その巨大な生き物を見上げた。
胸元をそっと押さえる。お鼻がポケットの中で震えていた。
ゆっくりとポケットからお鼻を出して、さそっと草の中に置く。
上手に逃げてくれるといいのだけど——。
ベドアーがぐるると唸り声を上げて迫ってくる。
振り上げられる太くて、毛むくじゃらの手は、夏川の鼻先を掠めた。
すぽん、と夏川の鼻が飛んでいく。それをベドアーが追いかける。
顔が痛い。
顔の真ん中が、焼けるような痛みに襲われる。
痛い、痛い、痛い。
パァン! と大きな音が響く。発砲音だ。
遠くでベドアーが倒れるのが見えた。
「お鼻……」
お鼻は無事だろうか。誰かに踏まれたりしていないだろうか。怪我をしていないだろうか。
「あなた、大丈夫ですか!?」
大丈夫ではない。とにかく顔が痛い。
だがそれよりも、夏川はお鼻が無事かどうかが気がかりだった。
「お鼻……」
倒れる夏川に、何かがぴたりとくっついた。
お鼻だった。
「よかった……怪我してない?」
尋ねると、お鼻は肯定するように跳ねて見せた。
「救急車呼んだからね!」
誰かに抱き起こされながら、夏川は顔を押さえた。もう片方の手ではお鼻を回収する。
「ああ……これはひどい……」
誰かが夏川の鼻を布で抑えながら言った。
お鼻が心配そうにポケットから這い出した。
「大丈夫だよ」
本当はとても痛かった。
だけれども、お鼻を心配させてはいけないと、そう思ったのだ。
救急車の音が聞こえた。
人だかりをかき分けて担架が運ばれてくる。
お鼻は再びポケットに潜り込んでいく。夏川はそれを確認すると、ゆっくりと意識を手放したのだった。
「驚かないでくださいね」
医師はそう言って、それからもう一度念を押すように「あの、もし嫌なら、ちゃんと取り外せますから。なので驚かないでください」と言った。
夏川はふふ、と笑ってやはり何度目かとなる「大丈夫ですよ」という言葉を繰り返したのだ。
包帯がスルスルリと、りんごの皮剥きのように落ちていく。
包帯がすべて外されると、夏川に手鏡が手渡された。
「ふふ」
夏川は思わず笑ってしまった。
あの事故からひと月が経っていた。
入院中の夏川の助けとなったのは、あのお鼻だ。
お鼻はずっと夏川の横にいた。
看護師さんたちは夏川が動けない間、なんと特別料金で『しめしめの時間』を請け負ってくれたのだ。
医師がごくりと唾を飲み込むのが見えた。
夏川はにっこりと笑って自分の顔にくっついたお鼻を撫でた。
「どうですか?」
医師の顔も不安げだ。なにせ彼は、犬のお鼻を人間の顔へ繋げる手術は、初めてとのことだった。
夏川はお鼻と何度も話し合った。
お鼻は夏川の傷口付近を何度も行ったり来たりして、まるで「こここそが自分の居場所だ」とでも言うように、包帯の上に乗ったのだ。
「綺麗にくっついてますよ。半年くらいは通院が必要となりますが……」
「最初から、この鼻だったみたいだ」
夏川の言葉に医師がホッとした顔を見せる。
「これからは、毎日『鼻が渇いた』と感じるたびにお鼻を舐めてください。最初は難しいと思いますが、そのうち慣れますよ。論文によると、大抵の人が三ヶ月程度で上手に鼻を舐められるようになるようです」
「そうですか」
夏川は指先でお鼻を撫でた。人間の鼻であったときよりも、はっきりと匂いを感じられる。消毒液の匂いに、パソコンの匂い、それにたくさんの人間の匂い。その中には、夏川自身の匂いもまた含まれていた。まるで匂いの洪水だ。
「お鼻を舐めるための訓練……我々はリハビリと呼んでいるのですが、それに参加しますか? あの、夏川さん、本当に大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫ですよ。あ、リハビリには参加します」
夏川は診察室を辞すると、病院をテコテコと歩いた。人々が夏川のお鼻を見ては一瞬驚いた顔をする。
子供などは、「わあ!」と驚きとも、感動ともつかない声で指差した。
だが、夏川は気分よく歩いていた。どんなに注目されても気にならない。寧ろ、この素敵なお鼻を自慢したいくらいだ。
交番の前を通りかかると警察官が駆け寄りながら「夏川さん!」と声をかけてくる。
「こんにちは」
「大変だったね。ベドアーに襲われたんだって?」
「はい。それで、こんな感じに」
「へえ……綺麗にくっつくものだねえ!」
彼は感心したような顔で、夏川のお鼻をしげしげと見た。それから「ややっ、失敬」などと言いながら、帽子をグイッと引っ張る。
「それで、調子はどうなの? 大丈夫?」
「ええ、まあ、いい感じですよ」
夏川は慣れない仕草でお鼻をぺろりと舐めて見せる。すると警察官は「ほほお、慣れたものですなあ」と言う。
それから軽い会話を二、三して、夏川は夏の終わりが訪れた通りを行った。
お惣菜屋さんの前を通ると、今度は女将さんが「夏川さん」と呼び止めた。
「あらあら、まあまあ。お鼻ちゃん、夏川さんのお鼻になってしまったのね! 痛くはないの?」
朗らかな声に夏川は「ええ、もうすっかりよくなりました」と答えた。
痛みなど少しもない。それにしても、いい匂いだ。お鼻をすんすんと動かして、中に何があるのかを伺う。
これはなんの匂いだろう。
ひょいと顔を暖簾に突っ込めば、レバニラやら餃子、かと思えば唐揚げや大根と里芋の煮物、それに秋刀魚の塩焼きなどがある。多様な品目に夏川は口元が綻ぶのを感じた。
「お昼、買っていこうかな」
「是非是非! お鼻ちゃん、今まで何も食べられなかったものね。何にする? 今日の唐揚げはちょっとだけピリ辛!」
どうりでスパイシーな香りがするわけではある。
夏川はご主人に「こんにちは」と言いながらお惣菜屋さんへと入っていくのだった。
夏川はお鼻をぴこぴこさせて外の匂いを嗅いだ。ベランダの外はすっかりと穏やかな春だ。
とてもいい天気で、完全なる洗濯日和。
三日間降り続いた雨であるが、雨の匂いがもうしない。雨雲はついにこの街から去っていったようだ。
夏川はパーカーやら靴下やらを干しながら、アパートの向こう、そのまた向こうに見える川を見た。桜が咲いている。何をするにも、とてもいい季節だろう。
お鼻をひと撫でして、夏川は「散歩に行こうね」と声をかける。すると、夏川の意志とは関係なく、お鼻はぴょんぴょんと動いた。
口や頬の肉が少しだけ引っ張られる。お鼻は賢いので、夏川が「痛い」と感じるほどこの激しい動きは決してしない。いいお鼻である。
ベランダから室内に上がると、時刻はちょうど十時であった。
上着を着てスニーカーに足を突っ込む。
階段を下って行くと、通りすがりの人に「夏川さん、こんにちは!」と挨拶をされた。夏川もそれに手を挙げ、「こんにちは」と返した。
今や夏川は少しだけ有名人だ。可愛い犬のお鼻がついた人、として、挨拶をしてくれる人がとても多い。
お惣菜屋さんの前、交番の前を通り過ぎ、川の近くの桜並木の下にたどり着く。
満開の桜に、夏川は目を細めた。
「桜って、匂いがあったんだなぁ……」
お鼻が顔にくっつくまでは、知らなかった香り。
夏川はスンスンとお鼻を動かして、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。それからお鼻をペロンとひと撫でして、「いいお天気だねえ」と話しかける。
——今でも、あの可愛いお鼻が自分の顔にくっついているのが、少しだけ不思議だ。
それでも、嫌な感じは少しもしないのだ。
道ゆくひとたち、特に子供たちは「見て、可愛いお鼻」と褒めてくれる。
そう、これは夏川にとっても自慢のお鼻なのだ。唯一無二の、可愛くてずっしりとしたお鼻。
「今日、何食べる? ベーコン?」
尋ねると、お鼻はピョンコピョンコと揺れ動いた。
「ベーコンかあ。ベーコンエッグにしようか」
桜がはらはらと舞っていた。
夏の足音はまだ遠いが、新緑の季節はそろそろだ。
桜の舞う中、夏川は素敵なお鼻と歩き続けた。
もうすぐ、お鼻と出会ってから一年が経とうとしていた。
おしまい。
少しだけ童話的なお話を書きたくて書きました。




