第1話 歪んだ憧憬
父を軽蔑していた。
宝生家は代々、魔を祓うことを生業とする家だ。母も、祖母も、私も、皆が妖魔と戦ってきた。美しく、強く、誇り高い宝生家の女として、私たちはこの世の理を保つための責務を全うしてきた。
だが、父は違った。彼は魔を祓う力を持たず、ただ血筋というだけで宝生家に婿入りした男。優しいだけの、弱い男だった。なぜ強く美しい母が、こんな男を選んだのか、私には理解できなかった。母が父に向ける眼差し。それは、私に向ける厳しくも愛に満ちたものとは異なり、まるで小さな子供を慈しむような、とろけるような甘さを帯びていた。そのたびに私の胸はざわつき、理解できない感情に苛まれた。
あの日、私は見てしまった。
普段は固く閉ざされた両親の秘密の部屋。偶然にも鍵がかかっていなかった。好奇心に駆られて足を踏み入れた私は、部屋の中央で繰り広げられる光景に息をのんだ。
そこにいたのは、私の知る宝生家の女としての母ではない、一人の女性だった。そして、その母に、私の知る弱い父ではない、まるで別の生き物のような支配的な男性が向き合っていた。
母は、私の前では決して見せない、柔和で従順な表情を浮かべていた。その瞳は潤み、口元からは、懇願するような、それでいて恍惚とした、私には理解できない音が漏れていた。父はそんな母を、まるで獲物を慈しむ獣のように、満足げに見下ろしていた。
私はその光景を、ただ立ち尽くして見つめることしかできなかった。それは、私が抱いていた両親のイメージを根底から覆すものだった。強く、誇り高い母が、誰かに従う姿。そして、弱いと軽蔑していた父が、すべてを支配する絶対的な存在として君臨する姿。私の頭の中は、激しい混乱と、説明のつかない熱でいっぱいになった。
あの日以来、私は両親をまともに見れなくなった。父の姿を見ると心臓がざわつき、母を見ると「なぜあの女だけが」と嫉妬のような、説明のつかない感情が込み上げてきた。
私が十二歳の時、母が死んだ。妖魔に殺されたのだ。
母の葬儀で、私は泣かなかった。宝生家の女がこの程度のことで泣いたら笑われる。宝生家の血を引く者として、その矜持を貫いた。
父は違った。彼はボロボロと涙を流し、周囲から白い目で見られていた。その姿を見て、私は少しだけ、救われた気がした。
母が死に、父が宝生家の当主となった。本来ならば私が当主になるべきだが、十六歳になるまでは成人とは認められない。当主ではあっても、父の家でのヒエラルキーは一番下だった。メイドたちからも下に見られ、私が庇わなければ屋敷にいられないほどだった。
十六になり、私はついに妖魔を討伐した。それはあっけないほどに簡単で、私は虚しさを感じた。こんなものに母は殺されたのかと。後から聞いた話では、私が倒した妖魔は、母を殺した妖魔よりもずっと強かったらしい。
家に帰ると、父が出迎えてくれた。安堵したような、それでいて少し緊張したような顔で、彼は私を書斎に招いた。
「よく帰ってきてくれた。お役目を果たした褒美だ。何がいい? 僕にできることなら、なんでも言ってくれ」
なんでも?
私は、あの秘密の部屋で見た光景を思い出していた。母が見せた、従順な表情。父が見せた、支配的な眼差し。私が、母の代わりになれるだろうか。
私の口から出たのは、思いもよらない言葉だった。
「褒美は、散歩がいいわ」
父は困惑した顔で私を見つめた。
「散歩、か。屋敷の庭でも散策するかい?」
私は首を横に振った。
「私が服を着たまま、四つん這いで歩くの。そして、お父様は私に首輪をつけて、リードで引っ張ってちょうだい」
その姿を想像して、両手で自分の体を抱きしめた。
父の顔から血の気が引いていく。
「それは、無理だ……」
いつになく弱気な父の姿に、私の口角が上がる。
「嫌ならいいわ。代わりに私のご主人様になってくれる男を探すだけだから」
父の目が迷いに揺れる。他の男に私を渡したくないのだとわかり、満面の笑みを浮かべそうになる衝動をなんとか抑えた。
「ま、待ちなさい!」
私の言葉に、父は唇を噛み締め、深く息を吐いた。そして、彼は静かに、書斎の棚から革製の首輪とリードを取り出す。
その首輪には母の名前が刻まれていた。
冷たい革の感触が、私の首に触れる。父は震える手で、それを私の首に巻いた。首輪から伸びる一本のリードが、父の手へと渡される。私は四つん這いになり、父を見上げた。
「さあ、お散歩の時間だ」
父は無言で、私のリードを引いた。
私たちは屋敷の中を歩き始めた。メイドたちが、驚きと蔑みに満ちた視線を向けてくる。宝生家の当主候補が、父にリードを引かれ、四つん這いで歩いている。その光景は、彼女たちの、そして宝生家の秩序を根底から揺るがすものだった。
しかし、私は、その視線がたまらなく心地よかった。
強くて、誇り高く、決して弱さを見せない宝生家の女。その重圧から解放され、私はただの一匹の「犬」となる。父の手から伝わるリードの温もり、そして、支配されることの甘美な感覚が、私の心を震わせた。
ああ、母は、この感情を知っていたのだろうか。
屋敷を一周し、父の書斎に戻ってきた。父は静かに、私の首からリードを外そうとする。
「待って」
私はその手を強く拒んだ。
「外さないで」
父は驚き、私を見つめる。
「お散歩の時間はもう終わりだろう?」
「嫌。外さないで。私はこのままがいいの」
父は困惑した表情で、私を説得しようと試みる。
「君は、宝生家の当主になるべき女性だ。こんなものはつけるべきじゃない……」
「お父様。それはあなたが決めることではないわ!」
強い口調でそう言った私に、父は何も言わなかった。
ただ、優しく微笑んだ。そして、私を抱きしめるように、その大きな手で、私の頭を撫でた。
「わかった。君が望むなら」
父の手のひらから伝わる温もり。
次に役目を果たした時。
私は、父に何をしてもらおうか。
母がしていたように、父の絶対的な支配を受け入れるか。それとも、父の心を、私が独占するか。
私の口元に、笑みが浮かんでいた。




