06:消滅への祈り
光は、ない。
あるのは、肌を刺すような石の冷気と、黴と湿気が混じり合った淀んだ空気。
そして、時折壁を伝って滴り落ちる、水滴の音だけ。
王城の地下深くに作られた特別牢。
国家への反逆者という、最上級の罪人に与えられる、生きたままの墓場。
それが、私の新しい世界だった。
父は、私とは別の牢に入れられたと聞いた。ヴァインベルク公爵家は、爵位と領地を没収され、その財産は国庫、つまりは宰相派の管理下に置かれるだろう。一族の者たちは、おそらく王都から追放されるか、軟禁状態に置かれるに違いない。私が築き上げたもの、守ろうとしたもの、そのすべてが音を立てて崩れ去った。
どれくらいの時が経ったのか、分からない。昼も夜もないこの場所では、時間の感覚などすぐに麻痺してしまう。日に一度、看守が無言で差し入れる粗末な食事だけが、かろうじて一日の区切りを教えてくれた。
私は冷たい石の床に背中を丸めて横たわり、ただ、虚空を見つめていた。
考えることは、もう何もないはずだった。
なのに、私の思考は、意思とは無関係に、あの断罪の場面を繰り返し再生する。
クラウスの、あの苦悩に満ちた瞳。
婚約破棄を告げた、感情のない声。
リリアーナの、涙に濡れた勝利の微笑み。
宰相の、老獪で満足げな顔。
私を糾弾した、数多の貴族たちの顔、顔、顔。
そして、何度も自問する。
どこで間違えたのだろうか。
記憶を取り戻したあの夜会。私は、これ以上ないほど冷静に状況を分析し、最善と思われる道を選んだつもりだった。破滅フラグを回避し、ヒロインに関わらず、自分の足で立つための力をつける。その計画に、一点の曇りもなかったはずだ。
もし、私が、相川理奈の記憶など取り戻さなかったら?
ゲームのシナリオ通り、愚かで嫉妬深いエレオノーラのままだったら?
リリアーナにワインをかけられたあの日、私はきっと彼女を平手打ちにしていただろう。その後も、子供じみた嫌がらせを繰り返し、周囲の顰蹙を買い、皇太子の愛情を完全に失う。そして、卒業パーティーでみっともなく喚き散らしながら婚約破棄を突きつけられ、ヴァインベルク家の名前を汚した罰として、どこか遠くの修道院に幽閉される。
それは、確かに破滅だ。
だがその破滅は、あまりにも「個人的」で、「限定的」なものだった。
国家反逆罪などという、途方もない罪を着せられることもなかった。
一族郎党を巻き込んで、家そのものを潰されることもなかった。
何より――クラウス皇太子を、本気で愛してしまうこともなかった。
彼と知的な会話を交わす喜びに、胸を高鳴らせることもなかった。
彼の不器用な優しさに触れて、心を温めることもなかった。
彼に「信じている」と言われ、淡い希望を抱くこともなかった。
希望を知ってしまったから、今の絶望は、身を切るように痛い。
愛を知ってしまったから、裏切りの痛みは、魂を砕くほどに重い。
私の「理性」こそが、私を最悪の悲劇へと導いた元凶だった。
良かれと思ってやったこと。正しいと信じて行ったこと。そのすべてが、運命という巨大な歯車を、より悪い方向へと噛み合わせてしまった。
私がもがけばもがくほど、運命の網はきつく、きつく私に絡みついてきた。まるで、シナリオから逸脱しようとする異物を、元の筋書きよりもさらに悲惨な結末へと引き戻そうとする、強い意志が働いているかのようだった。
ああ、そうか。
私は、この世界の「修正力」に負けたのかもしれない。
乙女ゲームという、ヒロインが愛されて幸せになるために作られた世界。その中で、悪役令嬢という役割を放棄した私は、システムにとって許されざるバグだったのだ。だからシステムは私を排除するために、より強力な、より抗いがたい「物語」を用意した。政争、陰謀、聖女という名の神託。それらの前では、一個人の理性など、あまりにも無力だった。
私は、自分の浅はかさを嘲笑った。
歴史学徒として、大きな流れに抗うことの難しさを知っていたはずなのに。
人間ひとりの力など、時代のうねりの前では無に等しいと、文献の中で何度も見てきたはずなのに。
いざ自分が当事者になった途端、知識と理性で運命をコントロールできるなどと、本気で信じてしまった。なんと傲慢で、愚かな思い上がりだったのだろう。
愚かなのは、エレオノーラではなかった。
本当に愚かだったのは、中途半端な知識を振りかざして運命に挑んだ、相川理奈の方だった。
扉の外で、かすかな足音がした。
食事の時間にはまだ早い。看守だろうか。
私は身動きもせず、暗闇を見つめ続ける。
やがて、重い鉄格子が、軋む音を立てて開かれた。
そこに立っていたのは、クラウスだった。
王族としてのきらびやかな衣装ではなく、フード付きの質素な外套を身にまとっている。彼の顔は蝋のように白く、目の下には深い隈が刻まれており、あの日の凛とした姿は見る影もなかった。
「……エレオノーラ」
絞り出すような声が、牢獄の静寂に響く。
私はゆっくりと、身体を起こした。
彼を見ても、もう何の感情も湧き上がってこなかった。憎しみも、怒りも、悲しみさえも。すべてが燃え尽きて、灰色の虚無だけが残っていた。
「皇太子殿下が、このような場所へ何の御用でしょうか。罪人への、最後の憐れみでございますか」
私の声は、自分でも驚くほど乾いて、冷たかった。
彼は、私の言葉に傷ついたように顔を歪めながら、近づいてきた。
「すまなかった」
彼は、私の目の前で膝をついた。
王国の次期国王が、断罪した罪人の前で。
なんという滑稽な光景だろう。
「私は……君を守れなかった。君を信じると言いながら、君を裏切った。私には、君ひとりを救うために、王国を危険に晒す覚悟がなかったんだ」
「……いいえ」
私は静かに首を振った。
あの場面を、「理性」で判断するならば。彼の取った行動は間違いとは言えない。皇太子、次期国王の身である彼としては、要らぬ騒動など起こらぬ方がいいに決まっている。
今の私でさえ、そう思う。理性はそう言っている。
「殿下のご決断は、王太子として、正しかったのでしょう。個人の感情より、国家の安寧を優先する。それこそが、王たる者の務め。あなたは、あなたの役割を果たされた。ただ、それだけのことです」
「違う!」
感情がまったく乗らない、平坦な私の言葉。
あまりに静かな反応に、彼は絶望したような顔をし、叫んだ。
彼は、私が彼を罵り、泣き叫ぶことを期待していたのかもしれない。
その方が、彼の罪悪感は、まだ救われただろうに。
「私は、ただの臆病者だ! 宰相たちが作り上げた偽りの正義に屈し、愛する女ひとり守れなかった! 君のいない玉座に、一体何の意味があるというんだ……!」
彼の目から、涙がこぼれ落ちた。
その涙を見て、私の心は、ほんの少しだけ揺らいだ。
だが、それはもう、遅すぎた。
壊れてしまったものは、二度と元には戻らない。
「父上を説得した。君の処刑だけは、回避できることになった。終身刑だ。いずれ、ほとぼりが冷めた頃に、遠くの修道院へ移す手筈を整える。だから……だから、生きてくれ、エレオノーラ」
彼は、私の手に触れようと、震える指を伸ばした。
私は、その手を避けるように、静かに後ずさる。
「お断りいたします」
「な……」
「生きる意味など、もう、どこにもございませんから」
生きる? 何のために? 誰のために?
この牢獄で、あるいは修道院で、過去の栄光と、失われた希望と、裏切りの記憶だけを抱えて、何十年も生きろというのか。それは、死よりも残酷な罰だ。
私は、彼の目を見つめて、最後の真実を告げた。
「殿下。あなたは、愛する女を守れなかったのではございません。あなたは、あなたが本当に愛した女を、あなた自身の手で殺したのです」
それは、私という存在の、魂の死を告げる言葉だった。
彼の紺碧の瞳が、絶望に見開かれる。
「もう、お帰りください。あなたの顔を見ているのは、苦痛です」
私は彼に背を向け、再び壁際に身を寄せた。
もう、何も話したくなかった。
背後で、彼が嗚咽を漏らす気配がした。
やがて、彼は力なく立ち上がり、ふらつく足取りで牢獄を去っていった。
重い鉄格子が閉まる音が、私たちの永遠の決別を告げていた。
ひとりになった暗闇の中、私は静かに瞳を閉じた。
もう、何も考えたくない。相川理奈だった自分も、エレオノーラであった自分も、すべてが間違いだったのだ。
この世界に転生させた「何か」を呪う気力さえ、もう残ってはいない。
なぜ、私だったのか。
なぜ、変えられるかもしれないという、残酷な希望を与えたのか。
もし、初めから何もなければ。
もし、この意識が、記憶が、苦しみが、すべて消えてなくなってしまえば。
事故で死んだあの瞬間、私の魂が、そのまま無に帰っていたなら。
「いっそ消えてしまえばよかったのに」
虚ろな心で、私は、生まれて初めて、心の底から祈った。
それは、神にも悪魔にも届かぬ、ただ、消滅を願う魂の慟哭だった。
-了-
最後まで読んでいただきありがとうございました。
少しでも楽しんでもらえたなら幸いです。
評価や感想などいただけると嬉しいです。
といっても、バッドエンドなんだよな。
もしかして、オレの書く小説ってバッドエンドが多い?
……まぁ、いいよな!(いいのか)