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02:計算外① 皇太子の心変わり

 あの運命の夜会から、一年が過ぎようとしている。

 私の「悪役令嬢、降板計画」は、極めて順調に進んでいるように見えた。


 私はリリアーナ・メイフィールドという存在を、まるでこの世に存在しないかのように扱い、徹底的に無視し、避けた。学園の廊下で姿を見かければ進路を変え、食堂では食事の時間をずらし、彼女が選択するであろう魔法実技のような華やかな授業は避け、古文書解読や政治学といった地味な講義に没頭した。


 周囲の反応は、概ね計算通りだった。


「エレオノーラ様は、メイフィールド嬢を無視することで、精神的に追い詰めようとしている」

「なんと陰湿な……」


 そんな囁きが聞こえてきたが、直接的な証拠は何もない。私が何かをしたわけではないのだから当然だ。攻略対象者たちがリリアーナを庇い、彼女の周りに集うのも、ゲームのシナリオ通り。私はただ、彼らが繰り広げる甘ったるい恋愛劇の舞台から、静かに姿を消しただけだ。


 私の主戦場は、もはや学園内ではなかった。ヴァインベルク公爵家の書斎と、領地から送られてくる膨大な報告書。それが私の世界だった。

 父であるヴァインベルク公爵は、当初、娘の急な変化に戸惑っていた。恋愛や夜会にしか興味のなかった娘が、突如として領地経営に口を出し始めたのだから無理もない。

 だが、私が提案した施策――輪作の導入による地力の回復、甜菜からの砂糖精製、未開拓だった森林地帯での薬草栽培といった計画が、次々と目に見える成果を上げ始めると、父の態度は驚きから感嘆、そして信頼へと変わっていった。


「エレオノーラ、お前の言う通りだった。まさかあの痩せた土地からこれほどの収穫があるとは。王家への献上品のリストも、今年は大幅に見直さねばなるまい」


 書斎で報告書を眺めながら、父が満足げに頷く。その隣で、私もまた、領地から届いたばかりの土壌サンプルの分析データに目を通していた。

 この一年で、私は公爵家の「頭脳」として不可欠な存在になりつつあった。

 充実していた。

 自分の知識と行動が、確実に未来を良い方向へ変えているという実感があった。


 そんな日々の中で、私にとって最大の計算外の事態が、静かに進行していた。

 私の婚約者である、クラウス・フォン・エルクハイム皇太子の変化だ。


 彼との週に一度のお茶会は、婚約者としての義務だった。以前は、互いに当たり障りのない会話を交わし、沈黙が支配する苦痛な時間でしかなかった。彼は私を「ヴァインベルク公爵家の令嬢」という記号としてしか見ておらず、私も彼を「破滅フラグの発生源」としてしか見ていなかった。


 変化の兆しは、些細なことから始まった。


「最近、夜会に顔を見せないようだが、体調でも悪いのか?」


 ある日のお茶会で、彼が唐突にそう尋ねてきた。

 私は紅茶のカップをソーサーに戻し、平静を装って答える。


「いいえ、殿下。お気遣い痛み入ります。ただ、少し領地の運営に関することで立て込んでおりまして」

「領地の運営? そなたが?」


 彼の紺碧の瞳が、初めて私という存在をはっきりと捉えた気がした。そこには、値踏みするような色だけでなく、純粋な興味が混じっていた。


「ええ。父の補佐をさせていただいております。ヴァインベルク領の北部では、新たな灌漑水路の建設が計画されておりまして。その測量データと睨めっこする方が、どうにも夜会で踊るより性に合っているようですわ」


 皮肉のつもりはなかった。ただ、事実を述べただけだ。

 しかし、彼は虚を突かれたように目を丸くし、やがて、ふっと口元を緩めた。

 彼が私の前で笑ったのは、それが初めてだった。


「そうか。それは、意外だな。新しいドレスのデザインでも考えているのかと」

「殿方がお考えになる令嬢の趣味とは、いつの時代もそのようなものですのね」


 軽口を叩けるくらいには、私の心にも余裕が生まれていた。


 その日を境に、私たちのお茶会の空気は一変した。皇太子は、リリアーナや社交界の噂話には一切触れず、代わりに私の取り組んでいる領地経営について熱心に質問するようになった。


「甜菜からの製糖は、南方のサトウキビに比べてコストが課題だと聞くが、解決策はあるのか?」


「ヴァインベルク公爵領の鉄鉱石は純度が低い。それを補うための製鉄技術に、何か考えは?」


 それは、もはや義務的な会話ではなかった。未来の国王として、この国の産業と経済を深く憂慮している彼。そして一領主の娘として、領地の発展を願う私。そんな立場のあるふたりの、真剣な政策討論の場へと変わっていったのだ。


 私は前世の知識を総動員して、彼の問いに答えた。高炉の改良案、コークス製鉄の概念、複式簿記による財政管理の効率化。私の言葉に、彼は時に目を見張り、時に深く頷き、熱心にメモを取った。彼の知性が、私の知識を正しく理解し、評価してくれることが、純粋に嬉しかった。


 ある雨の日、温室でお茶会が開かれた。色とりどりの花々に囲まれながら、私たちは国の林業政策について議論を交わしていた。


「……短期的な利益を求めるあまり、森林の乱伐が進んでいる。数十年後には、深刻な土砂災害を引き起こしかねない」


 彼の憂いを帯びた声に、私は頷いた。


「植林と伐採のサイクルを法で定め、長期的な視点での森林管理が必要ですわ。木材だけでなく、下草やきのこ、薬草といった『森の恵み』全体を資源として捉える複合的な林業への転換も……」


 そこまで話した時、ふと、彼が私の手を取った。

 驚いて顔を上げると、彼の真剣な眼差しがすぐそこにあった。


「エレオノーラ」


 心臓が、大きく跳ねた。

 思えば、この時に初めて、彼から名前を呼ばれたような気がする。


「そなたのような女性が、私の妃になってくれることを、今、心から幸運だと思っている」


 彼の指先に、熱がこもっていた。

 それは、政略結婚の相手に向ける熱量ではなかった。

 ひとりの女性に向けられた、紛れもない熱情だった。


「そなたの知識、先見性、そして何より、民を思う心。それこそが、王妃に最も必要な資質だ。私は今まで、そなたを誤解していた」


 計算外だ。

 これは、致命的な計算外だ。


 ゲームのシナリオでは、クラウス皇太子はリリアーナの純真さに惹かれ、悪役令嬢である私を冷酷に切り捨てるはずだった。私がどれだけ彼を愛しても、その心は決して手に入らない、悲しい役回りのはずだった。


 なのに、どうだ。

 私が彼への執着を捨て、自分の道を歩み始めた途端に、彼は私に惹かれ始めている。私が良かれと思ってやったことが、新たな、そしてより強力なフラグを立ててしまった。


「……もったいないお言葉です、殿下。私は、公爵令嬢としての務めを果たしているに過ぎません」

「務め、か」


 慌てて彼の手を振りほどく。

 そんな私の態度に、彼は寂しげに微笑んだ。


「だが、その務めをこれほど見事に果たせる者を、私はそなたの他に知らない」


 その日から、彼は公然と私への好意を示すようになった。

 学園内で私を見かけると、自ら声をかけ、共に歩くことを望んだ。それは、リリアーナと彼女を取り巻く攻略対象者たちの前でさえ、臆することなく行われた。


「エレオノーラ、この前の治水計画の件だが……」


 彼の隣を歩きながら専門的な議論を交わす私と、それを見つめるリリアーナたち。その間に、見えない溝ができていくのを感じた。

 リリアーナの瞳には、以前よりも深い困惑が浮かんでいた。

 そして、私が今まで見たことのなかった、微かな嫉妬の色も。


 まずい。

 これは、非常にまずい。


 私がリリアーナに嫉妬するのではなく、リリアーナが私に嫉妬する。そんなシナリオは、ゲームには存在しなかった。私が皇太子の寵愛を受けることで、私は彼女にとって、より巨大な「悪」として映るようになってしまった。

 私が彼を避ければ避けるほど、彼は追いかけてくる。二度目の生を受けた私の知性が、理性が、彼の心を惹きつけてしまった。


 私は破滅を回避するために、悪役令嬢であることをやめた。その結果、皇太子に本気で愛されるという、最大の想定外を引き起こしてしまった。


 そしてその愛は、私をシナリオとは違う、もっと根深い破滅へと導く新たなレールを敷いている。そのことに、私はまだ気づいていなかった。ただ、胸の中に芽生え始めた、彼への淡い恋心と、未来への漠然とした不安の間で、途方に暮れるだけだった。



 -つづく-


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