01:覚醒と分析
今の状況を冷静に考えてみよう。
思考が明滅する。視界の端で、シャンデリアの幾千ものクリスタルが放つ光がきらめき、金色の粒子となって降り注いでいる。
喧騒が遠い。弦楽四重奏の甘美な旋律も、貴婦人たちの扇子が立てる乾いた音も、まるで分厚いガラスを隔てた向こう側の出来事のように感じられた。現実感を繋ぎとめているのは、胸元にじわりと広がる不快な冷たさと、鼻腔を突く甘ったるい葡萄酒の香りだけだ。
私の純白のシルクドレスに、血のような赤ワインの染みが、醜い華を描いている。その華を咲かせた張本人――リリアーナ・メイフィールド嬢は、私の目の前で青ざめ、か細い肩を震わせていた。
「も、申し訳ありません、エレオノーラ様! 足が、もつれてしまって……」
亜麻色の髪、庇護欲をかき立てる大きな翠の瞳。涙の膜が張ったその瞳は、怯えた小動物のそれだ。平民出身でありながら、稀有な聖属性魔力を見出され、特待生としてこの王立貴族学園に入学してきた少女。今、王都の社交界で最も注目を集める、物語の主役。
そして私は、エレオノーラ・フォン・ヴァインベルク公爵令嬢。この国の第一王子、クラウス・フォン・エルクハイム皇太子の婚約者にして――。
この物語の、悪役。
「……様! エレオノーラ様、大丈夫ですか?」
侍女の悲鳴に近い声が、ようやく鼓膜をはっきりと揺らした。
その瞬間、頭蓋の内側で何かが割れるような激痛が走る。洪水のように、奔流のように、膨大な情報が脳髄へと流れ込んできた。
知らない記憶。いや、忘れていた記憶だ。
日本の、平成という時代の記憶。
相川理奈という、どこにでもいる女子大学院生の記憶。
歴史学を専攻し、古い文献に埋もれるのが好きだった私の記憶。
雨の日の横断歩道、けたたましいブレーキ音。
そして世界が暗転する最後の瞬間。
――死んだ。私は、一度死んだのだ。
そして、生まれ変わった。乙女ゲーム『王都に咲く聖女の百合』の世界に。よりによって、ヒロインをいじめ抜いた末に断罪される悪役令嬢エレオノーラとして。
目の前の光景が、ぴたりと符合する。これは、ゲームの序盤で起こる最初のイベント。悪役令嬢エレオノーラが、皇太子の気を引くヒロイン・リリアーナに嫉妬し、その存在を周囲に知らしめるために起こす最初の嫌がらせ――の、これは「事故に見せかけた故意」バージョンだ。シナリオの分岐によっては、エレオノーラ自身がワインをひっかけるパターンもある。どちらにせよ、この後の展開は決まっている。
私が激昂し、リリアーナを罵倒。そして彼女の白い頬に、私の手が振り下ろされる。その一撃が、私の破滅へのカウントダウンを開始させるのだ。
周囲の視線が突き刺さる。好奇、侮蔑、そしてかすかな期待。彼らは「悪名高いエレオノーラ様」が、いつものようにヒステリックに騒ぎ立てるのを待っている。
婚約者であるクラウス皇太子でさえ、少し離れた場所から冷ややかな、値踏みするような眼差しをこちらへ向けていた。金の髪に、夜空を溶かしたような紺碧の瞳。完璧な造形美を持つ彼は、しかしその瞳に何の感情も映してはいない。私との婚約が、ヴァインベルク公爵家との政治的な繋がりのためでしかないことを、彼は隠そうともしなかった。
本来の、ゲームの中のエレオノーラならば、この状況にどう反応しただろう。皇太子の冷たい視線にプライドを傷つけられ、格下の平民にドレスを汚された屈辱に、きっと理性を失っていたはずだ。
だが、今の私は違う。相川理奈としての二十数年の人生と、物事を俯瞰的に分析する癖が、私の行動を縛り付けていた。
もう一度、心の中で繰り返す。
今の状況を冷静に考えてみよう。
私がすべき目的は何か。
破滅の回避だ。
破滅の原因は何か。
ヒロイン・リリアーナへの嫉妬と、それに伴う愚かな嫌がらせの数々だ。
では、取るべき行動は何か。
答えは、ひとつしかない。
「……大丈夫よ、メイフィールド嬢」
自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。喉の奥から絞り出した音は、震えもせず、夜会の喧騒によく通った。ざわめきが一瞬、ぴたりと止む。
私はゆっくりと、怯えきったリリアーナを見下ろした。彼女の翠の瞳に一瞬だけ困惑の色が浮かんだのを、見逃さなかった。計算外、とでも言いたげな色だった。
「事故なのでしょう? 気になさらないで。ドレスの染みなど、後で侍女に任せれば綺麗になるでしょうから」
私はハンカチで胸元の濡れた部分を軽く押さえると、傍らで呆然と立ち尽くす侍女のアンナに微笑みかけた。
「アンナ、着替えたいわ。部屋まで案内してくださる?」
「は、はい! かしこまりました、お嬢様!」
ようやく我に返ったアンナが、慌てて私の腕を支えようとする。
私はその場にいる誰にともなく、優雅にカーテシーをしてみせた。公爵令嬢としての作法は、身体に染みついている。
「皆様、お見苦しいところをお見せいたしました。少し席を外させていただきますわ。どうぞ、パーティーをお続けになって」
誰ひとり、言葉を発しない。ただ、呆気に取られたような顔、顔、顔。
その中に、私の婚約者であるクラウス皇太子の、わずかに眉を寄せた訝しげな表情があった。彼が私に、冷ややかな無関心以外の表情を向けたのは、初めてかもしれない。
リリアーナの隣に控えていた攻略対象者のひとり、騎士団長の息子であるオスカー辺境伯子息が、我に返ってリリアーナの肩を抱き寄せた。
「リリアーナ、大丈夫か? 酷い震えだ……」
「は、はい……。エレオノーラ様が、お優しくて……」
涙声でそう答えるリリアーナ。その言葉が、周囲の貴族たちにどう響いたか。おそらく、「いつもは意地悪なエレオノーラ様が、人前だから猫を被っている」とでも解釈されたに違いない。
それでいい。今は、それでいいのだ。
私は彼らに背を向け、アンナに導かれるまま、その場を離れた。背中に突き刺さる視線の数が、先ほどよりも増えている気がした。
夜会の会場から控え室へと続く長い廊下を歩きながら、ようやく私は大きく息を吐いた。全身の力が抜け、膝が笑いそうになるのを、気力だけで支える。
「お嬢様、本当に大丈夫でございますか? あの平民の娘、わざとでは……」
心配そうに顔を覗き込んでくるアンナ。
そんな彼女の懸念に、私は首を横に振る。
「違うわ、アンナ。彼女にそんな度胸はないでしょう。ただの事故よ」
本当のところは分からない。だが、ここでリリアーナを悪く言えば、結局はゲームのシナリオに回収されてしまう危険がある。今は徹底して「寛大な私」を演じきる必要があった。
控え室に入り、侍女たちが手際よく汚れたドレスを脱がせ、新しいものを用意する。鏡の前に座った私の顔は、血の気が引いて真っ白だった。豪奢な金髪、吊り上がった紫水晶の瞳、気の強そうな眉。まさしく「悪役令嬢」としてデザインされた顔だ。前世の、黒髪に黒い瞳、どこにでもいる平凡な相川理奈の顔とは似ても似つかない。
この美しい顔の持ち主は、愚かで、哀れな女だった。愛されない婚約者に執着し、自分より愛されるヒロインに嫉妬し、プライドだけを拠り所に、破滅の道を突き進んだ。
だが、私は違う。
私は相川理奈だ。
歴史とは、無数の人間の意思と、それを取り巻く社会情勢、そしてほんの少しの偶然が複雑に絡み合って形成されるものだと学んだ。個人の力で抗えない大きな流れがあることも知っている。
しかし、だからといって、ただ流されるだけの存在で終わりたくはない。
これは、ゲームの世界かもしれない。
私には「悪役令嬢」という役割が与えられているのかもしれない。
だが、この痛みも、恐怖も、思考も、紛れもなく本物だ。
ならば、これは私の人生だ。
誰かに決められた筋書き通りに、惨めな結末を迎えるなど、冗談ではない。
歴史学徒の血が騒ぐ、と言うと格好をつけ過ぎだろうか。
目の前にあるのは、ひとつの歴史的ifの実践。
悪役令嬢が、シナリオに抗ったらどうなるのか。
その結末を、この目で見てみたい。
いや、生き抜いて、私が望む結末を掴み取らなくてはならない。
着替えを終え、再び夜会に戻るべきか逡巡する。だが、今日のところはもう十分だろう。体調不良を理由に、このまま公爵家の馬車で屋敷に戻るのが最善手だ。これ以上、リリアーナや攻略対象者たちと接触するリスクは冒すべきではない。
アンナにその旨を伝えると、彼女は心得たように手配を始めた。
公爵家の屋敷に戻る馬車の中、私は窓の外を流れる王都の夜景をぼんやりと眺めていた。美しい街並みだ。けれど、私の目には破滅への舞台装置にしか見えない。
屋敷に着き、自室に戻る。天蓋付きのベッド、豪奢な調度品、壁一面の本棚。エレオノーラの部屋は、貴族令嬢の部屋として完璧だった。だが相川理奈にとっては、息の詰まる空間だった。
私は侍女たちを下がらせ、ひとりになると、書斎机に向かった。そして羊皮紙を取り出し、インクをつけたペンを握る。前世の癖で、思考を整理するには書き出すのが一番だった。
まず、現状をまとめる。
【状況】
・乙女ゲーム『王都に咲く聖女の百合』の世界に転生。
・悪役令嬢エレオノーラ・フォン・ヴァインベルク(17歳)。
・ゲームシナリオが開始された直後(ワイン事件発生)。
次に、破滅フラグをリストアップする。
記憶を頼りに、思いつく限りを書き出した。
【破滅フラグ一覧】
・リリアーナの教科書を隠す。
・リリアーナのドレスを切り刻む。
・リリアーナを階段から突き落とした、という濡れ衣を着せられる。
・試験でリリアーナに負け、答案に細工をしたと疑われる。
・リリアーナの出自を貶め、貴族社会から孤立させようとする。
これらすべての積み重ねが、卒業パーティーでの公開婚約破棄と、ヴァインベルク家の没落に繋がっていく。
そして、最も重要な回避策。
【基本方針】
・リリアーナ・メイフィールドとの完全な不干渉。
関わらなければ、いじめようがない。徹底的に避ける。視界にも入れない。
・クラウス皇太子への執着の放棄。
彼との婚約は政略。愛を求めない。彼の心がリリアーナに向かうのは、シナリオの強制力なのだから、気にしない。淡々と、公務として婚約者の役割をこなす。
・自己の生存基盤の確立。
万が一、シナリオの強制力によって破滅が避けられない場合に備える。ヴァインベルク公爵領は豊かだが、中央集権化が進むこの国では、王家の意向ひとつで没収されかねない。ならば、もっと盤石な、誰にも奪われない力を手に入れる必要がある。それは、知識と実利だ。
私はペンを置き、書棚へ向かった。ずらりと並ぶ哲学書や詩集には目もくれず、一番下の棚に並べられた分厚い背表紙の列を探す。
あった。
『ヴァインベルク領地経営白書』
『王国農産物改良史』
『鉱山資源の効率的採掘法について』
本来のエレオノーラなら決して手に取らなかったであろう、実務的な書物。だが、今の私にとっては、どんな恋愛小説よりも心を高揚させるものだった。
前世で学んだ歴史の知識が、この世界でどこまで通用するかは分からない。だが、社会構造や技術レベルが中世ヨーロッパに近いこの世界なら、応用できる知識は少なくないはずだ。
例えば、三圃式農業の改良、水車の動力利用の拡大、新たな特産品の開発と交易ルートの確保など。ゲームのシナリオというミクロ視点から脱却し、国家や領地というマクロ視点で物事を動かせば、私の運命を変えることができるかもしれない。
公爵令嬢としての地位と権力、そして相川理奈としての知識。
このふたつを掛け合わせれば、きっと道は開ける。
私は一冊の白書を抜き取り、机に戻った。羊皮紙の乾いた感触と、古いインクの匂いが心地よい。ページをめくると、そこにはヴァインベルク領の地図と、財政状況を示す数字の羅列が記されていた。
これだ。
これが、私の新しい戦場だ。
恋や嫉妬といった、不確かな感情に振り回されるのはもう終わり。
私は、私の理性と知識を武器に、この理不尽な運命に抗ってみせる。
窓の外では、月が雲に隠れ、王都の光が少しだけ翳って見えた。これから始まる孤独な戦いを暗示しているかのようだった。
だが、私の心は不思議と静かだった。恐怖はまだある。けれど、それ以上に、歴史の奔流に立ち向かう研究者のような、冷たい興奮が全身を支配していた。
まずは、このヴァインベルク領を、王国で最も豊かで、誰にも揺るがすことのできない盤石な土地に変えてみせる。それが、私の破滅回避計画の第一歩だ。
ペンを握り直し、前世の記憶から引き出した農法の改善案を記し始める。その夜、エレオノーラの部屋の灯りは、夜が白み始めるまで消えることはなかった。
-つづく-
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