5話 「魔法使いと魔導士」
「魔文失読症、と」
「長い時を生きながら、いまだに現代最高の老魔導士と呼ばれるあなたであれば、なにか知っているのではないかと」
「過分な呼び名ですな。わたしは所詮、魔導士です。どこまでいっても」
そう言いながら、老魔導士エルドリックはふと考え込む仕草をみせる。
「……ですが、そうですな、あえて私にそう訊ねた殿下のお気持ちと覚悟に応えたいとは思います」
アルフレッド・リンザー・マナフィードは聡明である。それも、そのへんの英才教育を受けた王族とは一線を画す本物であるとエルドリックは思っている。
だから、これまでの会話の流れで、あえて魔文失読症について訊ねることが、どういう意味を持つのかも、当然わかって今の言葉を口にしたのだろう。
それを口にできた理由としては、自分の出自と、かの史上最高の魔法使いと謳われたグラン・マナフとの関係性を知っていたからでもあろうが、それでも覚悟のいることだ。
「マリウス殿下が、そうなのですね」
あえて答え合わせをするように、エルドリックが口にした言葉に、アルフレッドは小さく、しかし重くうなずいた。
「マリウス殿下は、これまで魔文に触れることはどれくらいありましたか?」
ごく内密な話ということで、エルドリックはアルフレッドに連れられて彼の自室へと通された。
一介の流浪の民が王族の自室へ通されることなど普通はありえない。
しかし、エルドリックにはそうされるに足る実績と、そして信頼があった。
「ほとんどなかった。魔文を読むこと自体が負担になる可能性があったから、マリウスの体調が回復するまで、マリウスを魔導書に触れさせるつもりはなかった」
「それは賢明な判断でしたね」
事実、魔文はそれ自体が人体へなんらかの影響を及ぼすと考えられている。
魔法は現象を起こす。そしてそれを構成する魔文は、一小節、一文字でも、その現象の素となるなんらかの意味と効力を持つというのが今の魔導学者たちの共通見解だ。
「まず先に申し上げておきますと、私もいまだに魔文失読症がなぜ起こりうるのか、その原因については確証を持っておりません」
エルドリックは正面に座るアルフレッドにそう告げた。
その言葉にアルフレッドは少し残念そうな顔をする。
「あなたをしてそうであるというのなら、世界中を探してもきっと同じ回答が返ってくるのでしょう」
エルドリック・フォン・ローラン。
齢三百歳を超える稀代の魔導士。
その正体は、生まれながらに魔力を持たない〈魔力欠乏症〉罹患者であり、その幼少期、魔力欠乏症児であったことから一族に捨てられ、そして――
「買い被りますな、殿下。わたしはしがない魔導士。あろうことか魔力すら生まれ持たず、道端で野垂れ死ぬべきであったところを、運よくグラン・マナフに拾われただけの、しがない魔導士なのです」
エルドリックの耳元できらりと青いクリスタルの耳飾りが揺れる。
エルドリックは魔力を生まれ持たない。
しかしこの三百年、界隈では現代最高の魔導士と呼ばれる。
魔力がないのになぜ魔導士であれたのか。
「この魔晶の耳飾りがなければ、わたしはたちまちただの凡夫以下になってしまいます」
「その魔晶に込められた魔力は、いまだに尽きないのですね」
「ええ。我が師ながら、畏怖を禁じえないことに」
◆◆◆
グラン・マナフは、およそ四百年前にこの世界を生きた魔法使いである。
彼が生まれ持った魔法は、〈魔晶〉と呼ばれていた。
「魔晶は物質でもあり、同時に魔力そのものでもある。たとえるなら魔力が結晶化したもの、というのが一番近いだろうか」
青いクリスタルに覆われた夢の中のマナフィード王城の一室で、マリウスはそんな説明を受けていた。
目の前ではその魔法の使い手だった有名人が、少し拙い手つきで二人分の紅茶をカップに注いでいる。
「この魔晶は、魔力を燃料にありとあらゆる形状を形成、そしてそれに自分の魔力を紐づけることで自在に操れるという点で、とてもわかりやすい魔法だったけれど、それ自体はほかの魔法にもあるようなありきたりな性質だった」
その強度が異次元に高いということを除けば。
「でも、魔晶の真価は、そこにはない。僕はもう一つの魔晶の力に気づいてから、当時の世の中にいたほぼすべての魔法使いと、そして魔法が使えない者たちに追われることになった」
「その真価って――」
自分よりずっと前の時代を生きた偉人を前にして、不思議なほど緊張しない自分に内心で少し驚きながら、マリウスは訊ねる。
「魔晶は、外付けの魔力供給装置として使えるんだ。つまるところ――〈魔力欠乏症〉であっても、魔晶を身につけることで魔法使いになれる可能性があった」
その言葉を受けて、マリウスはなぜグラン・マナフが多くの者に追われることになったのかを察した。
既存の魔法使いは自分の魔法的能力の強化のため。
魔力欠乏症者は――魔法使いへの夢のため。
「まあ、魔力があっても魔法を生まれ持たなければ意味がないという見方が多かったから、最初はたいしたことなかったんだけど」
そこでマリウスはハッと気づく。
「魔導書……」
今から三百年前、その魔導の変革は起こった。
「そう。とある一人の天才が、魔法の原理の一つを解明した」
『この世の全ての魔法は、魔文によって構成されている』。
今でこそそれは真理として魔導の世界に浸透しているが、それまで魔法はどこまでいっても未知のもので、神に授けられた奇跡とみなされることのほうが多かった。
そしてさらに、その天才はもう一つの偉業を成し遂げる。
「魔文を書物に刻むことで、彼女は魔法を他者によって行使可能な形態へと進化させた」
〈魔導書〉の誕生である。
「不思議なのは、魔文が人の目に映る形になった直後から、自然発生的に魔文を読める人間が出現したことだ。まるで神がその制限を解いたかのように」
この〈摂理解明者〉とよばれる天才の発生後、時代は一気に変わった。
魔法を生まれ持たずとも、魔力さえあれば魔法が発動できる時代へ。
その変革初期には、魔導書を使って魔法を発動させるものたちは〈魔導士〉と呼ばれ、魔法使いと区別された。
「そして当然のごとく、魔法使いと魔導士の間に大きな戦争が起こった」
選ばれし者だった一部の魔法使いの選民意識と、その魔法使いによって虐げられて来た新たな魔導士たちの怨讐の激突。
その戦いは、〈魔導書技士〉と呼ばれる魔導書作成の専門家の登場によって圧倒的な物量を誇る魔導士勢が勝利を収める。
この〈魔導戦争〉と呼ばれる戦を経て、時代は魔法使いの時代から魔導士の時代へと完全に切り替わった。
「そんな中、魔導書が生まれたことで僕の魔晶は魔法使いからも魔導士からも喉から手が出るほどほしいものになった」
魔晶は魔力を供給する。
魔導書は魔法を生まれ持たずとも魔文さえ読めれば誰にでも使える。
この二つが揃うことで、これまで捨て置かれてきたなんの魔法的才覚も持たない人間が、あまりにも手早く強力な魔導士になれる仕組みが完成してしまった。
「正直に言えば、僕はそれをよしとしていたんだ。もともと僕は、この魔晶の性質に気づいてから、それを多くの人民に行き渡らせようとしていた。もちろんそれがどういう自体を引き起こす可能性を秘めているのかはわかっていたつもりだから、悩みはしたけど……でも最終的にはやっぱり、誰でも魔法が使える世界を見てみたかったんだ」
そんな独白を頼りない笑みで告げるグラン・マナフの姿に、マリウスはなんとなく、彼の生来の無邪気で、優しい性格を見た気がした。
「――あなたがどんな人生を送ったのか、少しわかりました。で、そんなところに恐縮なんですが……」
マリウスはそこで改めて襟を正す。
「今の俺は、いったいどういう状態なんですか?」
話されるままに聞いてしまったが、そもそもの話である。
ここはどこで、なぜこうも明晰に過去の偉人と対話ができているのか。
「なんとなくわかっているんじゃないかな?」
ふと少し楽しげな笑みを浮かべたグラン・マナフが、マリウスの握られていた右手を指さす。
マリウスはその指示に応えるように、右手を前に持ってきてその手を開いた。
そこに――
「これは……」
その手のひらに、いつの間にか青い小さなクリスタルが握られていた。
「それは〈魔晶〉だ」
「あなたが?」
「違う。僕はなにもしていない」
そしてグラン・マナフは言った。
「マリウス、君は――〈魔法使い〉だ」