3話 「ずっと、君を待っていた」
――さて、どうしようかな。
兄姉たちと別れて自室へと戻ったマリウスは、借りてきた〈グラン・マナフの魔晶〉を机の上にそっと置いてから、ベッドに腰を下ろした。
両手を後ろに付き、腹部の筋肉を伸ばすように大きく体を後ろにのけぞらせる。
ふと上下反転した視界にベッド脇の窓が映って、その向こうに広がる空に一筋の流れ星が流れたのが見えた。
――気づけばって感じでもあるけど、たしかに前世を合わせればずいぶん長かったなぁ。
こうして当たり前に自分の体を動かせることが、すでに自分の当たり前になりつつある。
目をつむって思い返せば、これがありがたいことなのだと深く感じ入ることは無論できるが、目を開けて一刻も活動すれば、新しい当たり前に意識と体が慣れていく。
「いや、忘れちゃだめだ」
こうして今自分が回復したことは、当たり前ではない。
そもそも一度人生を終えて、こうしてもう一度新たな生を迎えられたこと自体が、奇跡なのだ。
「――いろんな人に、助けられてきた」
王族という身分に生まれなければ、とっくに口減らしで捨てられていたかもしれない。
周りに自分を思ってくれる兄や姉がいなければ、こんなに前向きな気持ちで耐えてこられなかっただろう。
そして――
「今日は四通だったかな」
マリウスはふと思い立ってベッドから腰を上げ、机に向かう。
さきほど置いた〈グラン・マナフの魔晶〉を横にそっとずらし、代わりに引き出しの中から四通の手紙を取り出して中を開いた。
「――ありがとう」
それは、マリウスに充てられた手紙だった。
差出人はマナフィードの国民である。
マリウスは王族という身分でありながら、たびたび城下の民たちと文を交わした。
王族という権威の維持という観点からはあまり褒められたものではなかったかもしれないが、マリウスが特に危篤な状態に陥ったとき、公正で知られるマリウスの父――現マナフィード王が、その公正さを唯一にしてはじめて曲げ、一人の父として国民に言ったのだ。
『マリウスに、声を』
そうしてぽつりぽつりと届くようになったマリウス宛の手紙を、マリウスはもれなく読み尽くし、そしてそのすべてに――返事を書いた。
どんなに体が重くとも、それだけは三日と空けたことがなかった。
それが、そのときのマリウスにできる、最大の恩返しだった。
――今度、彼女の言っていた公園に行ってみようか。
そんな中で、マリウスには特に忘れられない手紙がいくつかある。
そのうちの一つが、最初にマリウスのもとに届いた手紙だった。
内容は短く、文字も拙かったが、そこに描かれた言葉に、マリウスは救われたと思っている。
『元気になってください。元気になったら公園で一緒に遊びましょう。お城の前にある噴水の公園です。わたしは、マリウス様が元気になるのを、そこで待っています』
見たことも、話したこともない誰かが、それでも自分を思い、待ってくれている。
なぜだかその手紙を読んだとき、目頭が熱くなった。
――俺は、恵まれている。
だから、恩返しがしたいと思っていた。
自分を支えてくれた兄や姉を支えたい。
自分に声を届けてくれたマナフィードの民たちを微力でもいいから支えたい。
自分にたびたび生きる力を与えてくれた者たちに、報いたい。
体がよくなってからは、その思いがいっそう強くなった。
「……よし」
四通の手紙への返事を書き終え、マリウスはいったん動きやすい服装へ着替える。
それから机の上に置いておいた〈グラン・マナフの魔晶〉を手に取り、ベッドに寝転がった。
――やっぱり読めないなぁ。
ページをめくり、中に刻まれた魔文に目を通す。
一文字一文字の形は認識できるが、そこに文脈や意味などはまるで見て取れなかった。
――資質があると、学ばなくても読めるっていうけど。
頭が根本からその文字列の理解を拒んでいるような感覚。
「……ふう」
いったん魔導書を閉じて、枕元に置く。
そしてそのまま、マリウスは目を閉じた。
――もしかしたら、また夢の中で読めるかもしれない。
マリウスには奇妙な特技があった。
もともと前世を含めて、寝たきりで身動きがほとんど取れなかったマリウスは、その慰みによく書物を読んだ。
内容は多岐に渡るが、もっとも読むことが多かったのは物語だ。
動けない自分でも、誰かの物語を読んでいるときは、その中の誰かになってさまざまなことを疑似体験できる。
そんな中で、ある日、不思議なことが起こった。
――読んだことがないのに、その中身が夢の中に現れるって変だよなぁ。
ある日、とある魔導書を読んでみようとチャレンジして、やはり魔文が読めずに断念し、そのまま寝てしまったときのこと。
読めていないはずのその魔導書の著者の物語を、夢に見たことがあった。
寝る前に読んでいた公用語で書かれた普通の物語が夢になって現れるのならまだわかる。
だが、読んでいないのにそれを夢に見るというのは、いささかおかしな話だ。
「――おやすみ」
誰にでもなくマリウスは言って、静かにその意識は眠りに誘われた。
【――ずっと、君を待っていた】
意識が薄れる間際、そんな誰かの声を、聞いた気がした。