2話 「魔文失読症」
「酒瓶の底に死んだ虫が沈んでおる。まったく珍しい酒だな……」
マナフィード王国から四つほど隣の国のくたびれた酒場の隅で、その老魔導士はふとかつて看た一人の少年のことを思い出した。
もしかしたらそれはこの虫の知らせのだったのかもしれない。
「たしか……マリウス・マナフィードと言ったか」
かれこれ二百年を生きているが、その長い人生の中でもあそこまで歪んだ――性格などのことではなく――人間を見たことがなかった。
――底が見えない。
人間が持って生まれて良いたぐいの魔力ではなかった。
どちらかというと地脈だとか星脈だとか、そういう人の太刀打ちできない超自然的なものが総量として持つような莫大な量の魔力。
通常、魔導士は対峙する魔導士の力量を図るため、魔力に対する感知能力を鍛えるが、どうやらそのセンサーを破壊するレベルで量と質がともに人間の規格を越えていたらしい。周りの人間は、あの異常な魔力に気づいていなかった。規格外すぎて認知すらできなかったのだ。
――とはいえそんなわしも頼り甲斐のある方法を提示できたわけでもなく。
あれだけの異常な魔力を魂から発散していれば、当然体にも影響はでる。
さらにマリウス・マナフィードはまだ幼く、肉体の機能も未発達。こうなるとその無限とも思えるような魔力を、外的な手段によってどうにかしなければならない。
――うまくいっただろうか。
いったん思考を切って虫の死骸が沈む高度数の酒をあおる。
そんなときだった。
ちり、と。
魔導士としての感覚がなにかをとらえる。
反射的にその妙な圧を感じた方向を見やった。
窓の外。
星の瞬く紺色の空の果てに、天を貫き星をも突き刺してしまいそうな莫大な量の魔力が立ち昇ってゆくのをみた。
それはちょうど、マナフィード王国がある方向の空だった。
◆◆◆
「ちょっ! ストップ! やめやめ! 実験中止ー‼」
マナフィード王城上階に、けたたましく響く制止の声。
「うおぉぉ……誰だこの呪いの魔導具持ってきたの……一つだけレベルがちげぇじゃねえか……」
「マリウス⁉ 体は大丈夫ですか⁉」
星空を背景にした吹き抜けの空中祭壇で、男女六人が会話をしている。
「はい、なんともありません! ちょっと体が軽くなったかなって感じでした!」
祭壇の中央でにこにことした笑みを浮かべていたのはマリウスだった。
「くそぉ、なにからなにまで規格外すぎて頭おかしくなってきたァ……」
隣には額を抑えながらうずくまるマリウスの兄が一人。
「絶対今のマリウスの魔力圧で失神した人いるよね……」
「妙な誤解が生まれる前に手を打たないとね……アラストルの先制攻撃だなんてうわさが流れたら目も当てられない……」
「あ、レイリス姉さまが立ったまま気絶してます!」
「レイリスは魔力感度が高いからねぇ……」
ほかの兄姉たちも額に汗をにじませたりあるいは失神したりしながらマリウスの周囲にいる。
「最後の魔導具を外す前に、まずはマリウスに魔力のコントロールを教える必要があるね……」
ほかの兄姉と同じようにややつらそうな表情で眉間をつまんでいた最年長の兄――第一王子アルフレッドが言う。
「で、マリウス……魔文は読めたかい?」
「いえ、まったく読めませんでした」
「そうか……」
祭壇の上に、一冊の魔導書が置いてあった。
その魔導書の名は〈グラン・マナフの魔晶〉。
かつてマナフィードを建国したと言われる魔導士グラン・マナフが生み出した魔法について記された書物である。
それは青黒い装丁に、美しい金の文字で表紙が飾られていた。
「〈魔文失読症〉……ですか」
王女の一人がつぶやいた。
◆◆◆
マリウス・マナフィードが背負う宿業その二。
〈魔文失読症〉。
現代において魔法とは、魔導書に刻み込まれた〈魔文〉を読み、そこに燃料としての魔力を通すことで発動させるという手順が一般化している。
そうなるまでに紆余曲折はあったし、今の時代にも『例外』はいるが、基本的に人類の九割方は魔導書を使えば魔法を使うことができた。
そんな中で、稀に、魔法無能者と呼ばれる者たちが生まれる。
それが、〈魔力欠乏症〉と、〈魔文失読症〉と呼ばれる二種類の疾患者である。
前者は魔力を生まれ持たず、後者は先天的に魔文を読むことができない。
数は後者のほうが少なく、そしてこれだけ魔法の解明が進んでなお、その原因は明らかになっていなかった。
「これだけの魔力を持ちながら魔文が読めねぇってのも不思議な話だな……」
「究極の宝の持ち腐れ!」
「あなたたち、もう少し言葉を選びなさい」
「でも当の本人が一番けろっとしてるから……」
マリウスの周りで兄姉たちがやり取りをしていたが、彼らの言うとおり当のマリウスは改めて〈魔文失読症〉であることを突き付けられてもさして動揺していなさそうだった。
「まあ、これでも少し残念ではありますよ?」
マリウスはおもむろに自分の手を夜空に掲げ見ながら言った。
「魔法って使えたら面白そうだし、寝たきりのときによく魔法使いや魔導士の物語を読んでいたので、その輪に入れたらいいなって思っていました」
「……」
マリウスの白髪が夜風に揺られ紺色の空になびく。
「でも、わたしは運が良いことに、今まで魔法が使えなくても、それどころかまともに外に出られずとも、こうして生きてこられた。わたしは――恵まれている」
運が良い。恵まれている。
それはマリウスの口癖でもあった。
「これから少しずつ体を慣らして、少しでも兄上や姉上たちの手伝いができればいいなと思っています。たしかに魔法が使えないことで今の時代の生活に不便があるかもしれないし、わたしの力添えなど微力なものになるかもしれませんが、それでも――」
マリウスは兄姉たちを柔らかな微笑とともに見つめ、言う。
「わたしはこうして生きています」
兄姉たちは、これまでの人生と、今の現状を受けてなお、その表情でそんなことを言えるマリウスを、心の底で尊敬していた。
むしろそれは、畏敬にすら近かった。
「マリウス、これから君は少しずつ外の世界と関わるようになる。その中で、〈魔文失読症〉という性質は、もしかしたら君に嫌な出来事を運んでくるかもしれない。でも忘れないでほしい。――君は君だ。僕たちの大切な弟で、魔法が使えようと使えまいと、僕たちは君が僕たちの弟であることを、いつも誇りに思っている」
「ありがとうございます」
忘れるわけがない。
マリウスは心の中でいう。
「わたしは、あなたたちの弟であることを、物心ついたときからずっと、誇りに思っています」
マリウス・マナフィード、十二歳の年。
魔力による肉体の浸食を乗り越え、改めて〈魔文失読症〉――ひいては〈魔法無能者〉であることを突き付けられた年。
こののち数年を、マリウスは文字通り魔法が使えない者として生きる。
しかし、この時はまだマリウス自身も、すでに自分の身に起きている変化に気づいていなかった。
ここより三年後、マリウスを取り巻く環境が激変する。
そのとき、物心ついたときからゆっくりと起きていた変化が、明確な輪郭を伴って顕現する。
「――あ、でもちょっと悔しいので、その〈グラン・マナフの魔晶〉をお借りしてもいいですか? 部屋に戻ってもう一度読んでみようと思います」