憂鬱
気がつけばゴールデンウィークは終わっていた。
「学校行きたくねぇ……」
今日から再び登校日であり、もう起きなければいけない時間ではあるのだが僕は布団の中で蹲る。目覚めは悪く気分は最悪。僕は唸る。
別に少し長い休みが終わり、また今日から気怠い学校が始まることを嘆いている訳では無い。いや、これだけ休めば学校自体が面倒くさいのも事実なのだが、それよりも行きたくない理由が明確に存在していた。
しかし、現実問題としていつまでも布団の中でうだうだしている訳にもいかないのも事実である。
「はぁ……」
気怠い体を起こして時刻を確認すれば7時ちょっと前、普段よりだいぶ早起きだ。
「なんでこういう時に限って……」
本来ならばあと20分ほど惰眠を貪るがそんな気にもならず起床する。寝覚めは悪いのに妙に意識が冴えて気持ち悪い感覚だ。
リビングに行けばいつも通り姉が朝食を取りながら挨拶をしてくる。
「ゆうくんおはよう〜」
「……おはよう」
朝から元気な挨拶に空返事をして僕はソファーに深く座る。母に朝食をどうするか聞かれるが食欲がないので珈琲だけ貰う。
『ゴールデンウィークも終わり、今日からまた仕事や学校が始まる人が多いと思いますが────』
「……」
ガムシロ2個を入れて飲みやすくした黒い液体を啜りながらテレビのニュースをぼうっと眺める。
内容など殆ど耳に入らず、思考の大半を占拠しているのはこの前の雨無とのやり取り。あの日以来、当然と言うべきか彼女とは会っていないし、メッセージのやり取りもしてない。
そもそも、今までのメッセージのやり取りも彼女が一方的に要件を送ってきてそれに応じるだけ。こちらから何かメッセージを送ったことは無かったし、送るほどの仲でもないと思っていた。
『……縁先輩、あんたのお姉さんのことが好きなの?』
悲痛な彼女の表情が脳裏にフラッシュバックしては儚く散る。
『そう……なんだ……』
「自分は何も悪くない」と自己保身をしようとするが「どう考えても僕が悪いだろう」と自己完結して責め立てる。
人として最低なことをしてしまった。
そんな罪悪感が数日前から僕を虐め続ける。連日の寝不足で大体の物事が手につかず、休日後半をどう過ごしていたのかさえ記憶が曖昧である。……いや、特段なにかをした覚えもなかった。そもそも、なにかをする気にもなれなかった。
『さぁ! 今日の運勢占いは────』
「……」
ちびちびとコーヒー飲み終わる頃に姉は朝食を食べ終わっていた。いつもの調子で彼女が「学校に行こう!」と言って、それに素直に頷く。
登校中、姉がこれまたいつものように何かセクハラ紛いのことをしてきた気がするが僕はまともに反応することが出来なかった。
「うゆくん、元気ない? 大丈夫?」
流石にここ数日、明らかに様子のおかしい僕に姉が気が付かないはずもなく。彼女はいつもより真剣に心配をしてくれた。
「大丈夫だよ、ちょっと眠いだけ」
「本当に?」
その優しさに僕は更に罪悪感を覚えつつも、彼女の気持ちに少し救われてしまう。
「……うん」
「本当に辛い時はちゃんと言ってね?」
「ありがとう……」
本当はそんな資格なんてないというのに。
・
・
・
久方ぶりの授業はやはりと言うべきか全く身に入らなかった。気がつけば昼休みで今日はまだ雨無と接触することができないでいた。
本当ならばメッセージでも直接でもどんな方法であろうと彼女に会って話すべきことがあるはずなのに、僕はこの期に及んでまだ足踏みをしている。
「……」
そんな自分が心底情けなくて、周りの喧騒が遥か遠く思えるほど意識はぼんやりとして現実逃避をしようとする。
「おい、授業終わったぞ?」
朝からそんな調子の僕を前の席に座る男が不思議がらないはずもなく。大智はこちらへ振り返って訝しげに眉根を潜める。
「ああ」
「飯の時間だ、食わないのか?」
「ああ」
のっそりと教科書をカバンに戻していると、大智はなんの遠慮もなく僕の机に昼食の入ったコンビニの袋を置いてくる。
「……夕夜、お前大丈夫か? 今日1日ヘンだぞ?」
何度目か分からない大智の質問。姉にも聞かれたその質問に……正直に言えば大丈夫なんかではなかった。
依然として気分は最悪、寧ろ学校に来てから拍車がかかり罪悪感が限界に達して吐きそうである。唯一、この状況を解消する方法は最初から分かっている。けれど、どうしてもそれを実行するには勇気が出ない。
「大丈夫だよ」
「そんな顔面真っ青にしてる奴が大丈夫な訳ないだろうが……」
平静を装うが流石に無理があったらしい。朝、洗面台で自分の顔を確認した時も、辛気臭い顔が映っていて思わず笑ったのを覚えている。
「本当に、大丈夫だよ……たぶん」
「お前なぁ……」
本気で心配してくれる大智には申し訳ないが、僕はこの胸中に渦まく気持ち悪い靄を打ち明けるつもりは無かった。
────言えるもんか。
全ては自分が招いたこと……自業自得なのだ。今でさえ現実から逃げようとしているのに、ここで誰かにこの気持ちを吐き出せば僕は本当に人として大事なものを失ってしまう。……いや、違うな。誰かに吐露することすら怖いんだ。
「はぁ……そういう事にしといてやる。話したくなったら話せ」
大智は僕が何も言う気がないとわかっているようで、呆れたように溜息を吐きそれ以上は何も聞いてこない。
「悪いな」
親友の気遣いに感謝すると、不意にスマホの通知音が鳴った。結構な音量に驚き、そういえばマナーモードにするのを忘れていたなと思いながら画面を見ればそこには一件のメッセージ通知。相手は、
「……は?」
雨無朝日だ。僕は思わず目を見開き固まる。
「どうした?」
そんな僕を見て大智は首を傾げるが、僕はそれを気にすることなくメッセージを確認して思わず席から立ち上がった。
「おい、急に立ち上がっ……あ、おい!?」
「ちょっと行ってくる!!」
「行くってどこに!?」
困惑する大智を無視して僕は教室から飛び出す。
「はっ、はっ、はっ…………!!」
目的地に向かって全速力で廊下を走り、二段飛ばしで階段を駆け登る。
雨無からのメッセージの内容は至って簡潔で『屋上に集合』とただそれだけ。自分勝手でぶっきらぼうなメッセージだったが今の僕にはそれだけで教室を飛び出すには十分だった。
────謝らないと!!
数日前から怖気付いて、今までずっと行動に起こすことが出来なかった事を今やらなければいつやると言うのか。
ただその一心で教室のある2階から指定された屋上がある5階を駆け上る。屋上へと繋がる扉の前へと数分経たずに辿り着いた。
────言われた通りに来たはいいものの屋上って空いてるんだっけ?
「はぁ……はぁ……はぁ……」
息を整えながら記憶るが、確か屋上は解放されておらず、誰も入ることが出来ないはずだ。だがどういう訳かノブを回せば扉は簡単に開く。
「空いたよ……」
呆気に取られながらも、少し風の強い扉の向こうへと進めばそこに佇むは一人の少女。風に靡く色素の薄い長髪を抑えながら彼女は中に入って来た僕を見る。
「ッ……」
その底冷えするような怜悧な視線に視られただけで僕は息が止まる。
最後に見た彼女の表情がずっと脳裏にあった所為か、久しぶりに見た彼女はあの時よりも存外元気そうで平気そうに見えた。
────謝れ…………!!
僕は反射的に言葉を紡ごうとする、
「ごめ……」
「アンタ、いつから知ってたの?」
が、それは雨無の言葉によって遮られる。
彼女の質問に対して「何を?」と、とぼけるつもりは無い。この期に及んで僕は彼女から真正面で向き合う機会を失いたくはなかった。だから、すんなりと答えることが出来た。
「写真部に入部して、直ぐに……先輩から聞いた」
「なるほどね、それで先輩にも私と同じようにお願いされたんだ?」
「……」
今の彼女の言葉もまた同様にとぼけるつもりは無い。恐らく……と言うか確実に、この数日で雨無はもう答えに辿り着いているのだろう。僕はただ頷くことしか出来ない。
「私の一方通行な想いをあんたは嘲笑ってたってワケ? そりゃそうか、そもそもあんたに私の手伝いをする義理なんてない。当然よね」
「ッ……そんなつもり、一度だってない! そりゃ、確かに色々と思うことはあったけど……人の大切な想いを、雨無の気持ちを馬鹿にしたことなんてない!」
自嘲的な雨無の言葉に僕は反射的に頭を振る。感情のままに吐き出す。これまで燻っていた膿を絞り出すように心の内を吐露する。
「雨無と先輩、二人の想いを知ってからずっとこんなの駄目だと思ってた……なし崩し的に中途半端な気持ちで、真剣に誰かを想う人の手助けなんてしちゃいけないって……二人と同じ時間を過ごして、二人の事を深く知る度にそう思ってた。ずっと、謝りたかったんだ……」
例え、始まりが不純で理不尽なものであっても結局それに加担したのは僕の意思だ。
「本当に、ごめん」
だから、この言葉は本心であり。臆病になってずっと言えなかったにしてはやけにすんなりと出てきた。
「……」
全力で頭を下げる。視界に映らない雨無は今どんな表情をしているのだろうか。
僕の本心が伝わったかどうかは分からない。謝ったところで許されるなんて思っていないし、彼女は今の言葉を聞いてどう思ったのかなんて、例え表情を伺えたとしても分かるはずなんてない。
それでもここまで中途半端に来てしまった僕はその全てを受け入れて、罵倒され、軽蔑されるべきであり、彼女の怒りを受け止める義務があった。
「ふふっ……あははっ────!!」
雨無は僕に怒鳴り散らかすのだと思った。そうあるべきだと思った。それでも彼女は笑った。
「……なにそれ。アンタ、よくバカ真面目って言われない?」
「……え? いや、どうだろう?」
予想外の反応に僕は困惑する。しかし雨無はニヒルに微笑み言葉を続けた。
「まあそれは今いいわ。何を勘違いしてるか知らないけど、別に私はあんたをどうこうするつもりなんてない。ただ事実を確認したかっただけ。縁先輩が初めから他の誰かに気があることなんて分かりきってたことだし、あんたも最初の頃に言ったじゃない「脈ナシ」だって」
「……」
初めて面と向かってしたやり取りを思い返す。確かに僕は感情に任せて彼女に「脈ナシ」だと言ったのを覚えてる。
────忘れるはずもない。
だって元を辿ればそれが原因でこんなことになっているのだから。
「だから今更、先輩の好きな人が明確になったからと言って、私のやることは何も変わらない。私はまだ微塵も先輩の事を諦めてないし、まだ先輩を惚れさせる自信がある」
自信満々な表情で雨無は爛々と双眸を輝かせる。
───ああ、なんて眩しいのだろうか。
「だから、勝手に私の気持ちを終わらせようとしないで」
強く気高い彼女の姿に僕は尊敬すら覚える。どうして一人の少女がここまで強くあれるのだろう。
恋と言うのは本当に魔法のようだ。
「それじゃあ事実確認も終わったことだし、これからの事について作戦会議をするわよ」
「…………は?」
まるでこれが本題とでも言うような雰囲気で雨無は話を切り出した。行儀よく地面に座り込んだ彼女を前に、僕は気の抜けた声しか出せない。何を言ってるんだ?
「自分で言うのもなんだけど、協力者として致命的なミスをした自覚がある。それなのになんで……?」
全ての事情が明るみになったというのに、なぜ彼女はまだ僕に協力を仰ぐのか。それに最重要事項を共有しなかった協力者というのはそれだけで信用するに値しないだろ。
しかし、やはり雨無はさも当然かのように言った。
「逆ね。どんな事情があれ、依頼人の情報は絶対に吐かない……それだけ口が堅いなら信用するに値するわ。確かに、私に縁先輩の事を教えなかったのは極刑ものだけど……流石の私もそこら辺は弁えてる。だから│夕夜にはまだ協力してもらう。何これでもう終わりみたいな顔してるの? 寧ろ、ここからが始まりよ。あんたにはまだ色々と利用価値がある。そんなの分かりきってる事じゃない。私、使えるものはとことん使い潰す主義なの」
なんとも物騒な雨無の物言いに、それでいて僕は彼女らしいと納得してしまう。
とんだ暴論だ。評価しているようでその実、僕のことをただ使い勝手のいい駒のようにしか思っていない。
「……」
やはり、僕は彼女に協力する義理なんてない。しかし、ここまで来てしまうと気になってしまう。雨無朝日と言う一人の少女がこの恋路をどんな結末にするのか。
────見届けてやろうじゃないか。
野次馬根性とも思えるが、僕はそれを見届けたくなってしまった。それこそ、今度は中途半端な気持ちではなく。面と向かって真摯にこの少女に協力したいと思ってしまった。
「わかった。協力してやる」
「なに勘違いしてるの? 協力させてあげるのよ」
だから彼女から「協力しろ」と言われて内心、とても嬉しかったのだ。こんなこと、本人には絶対に口が裂けても言えないけれど。そんな僕の気なんて知らずに雨無は言葉を続ける。
「勿論、アンタは今まで通り縁先輩にも全力で協力しなさいよ」
「は? いいのか?」
「当然でしょ。じゃなきゃ、やりごたえがないし……途中で先輩の頼み事を放り出すとか私が許さないわよ」
「ブレないな……」
この女、知れば知るほど漢らしいでは無いか。誰だ天使とか言ったやつ、これはその辺の男よりよっぽど漢だ。
「はぁ……ほんと、敵わないよ……。それで、今度は僕に何をさせる気だ?」
呆れつつ、僕は憑き物が落ちたように晴れやかな気分だ。そうして彼女との作戦会議に興じる。
5月の風はやはり生ぬるく、頬を心地よく撫ぜる。
ようやく彼等、彼女等の魔法の瞬間が始まったわけだ。