第八話
相変わらず視線を浴びながら耐え忍び、放課後になった。俺はゆっくり帰りの準備を済ませて教室を後にした、廊下は喧騒としていて隅を歩かざるを得なかった。
教室で誰とも話さなかった。目も合わせなかった。
校舎から出ると、俺の胸中天候とは裏腹に颯然と澄み渡った青空が広がっていて、髪を揺らした。バックを背負い直し、駐輪場に向かい始める。夕涼高校は生徒玄関から前門までしばしば歩く構造になっている。右手にあるグランドで練習をするサッカー部を横目に進んでいく。
と、その時グッと腕が引っ張られた。
「みつと付き合ってるって本当ですか」
「……えぁーと……随分急だな」
真顔のちっこい女子は下から俺の瞳をジッと見つめてきていた、手は袖をつまんで離さない。確かこいつ、俺の前の席の……。
「朝栗さん……だよな」
「はい、それでどうなんですか」
朝栗……なんとか、下の名前は忘れてしまった。そもそも関わりなんて一切なかったのだ。そんなわけでその質問に答える義理もない。
「知らない。俺に聞かずに佐々木さんに聞けばいい」
俺はぶっきらぼうに答え、もう行くことを示すために前に振り向いた。しかしむしろ俺の袖をつまむ指の力が増して、引っ張られた。
「待ってください、私は日向くんに聞いています。あなたは知っているはずです。みつに何が起きているのか」
「知らないって。いいから行かせてくれ」
「ダメです、私に付き合ってくれるまで離しません」
「なんだと……」
俺は振り返り本気で引き剥がそうとした時、視界の隅に知らない女子生徒が入った。その口は醜悪に微笑っているように見えて、咄嗟に朝栗の手を引き剥がしてしまった。
「……?」
その女子生徒は俺の動きを見て不思議そうに眉を寄せながら、静かに通り過ぎていった、嘲笑は幻覚だったらしい。朝栗は想像以上に強かった引き剥がす力にびっくりして唖然としていた。俺は唾を飲み込んで手汗をズボンで拭い、振り向く。
「朝栗さん、俺とは関わらない方がいい。朝栗さんもマイナスになっちゃうから――」
「みつは私の親友なんです……!」
俺の言葉を遮り朝栗は叫んだ、普段から大きな声を出してないのかさほど大きくない声量だが、それ故に本気度が如実に伝わってきた。
俺は思案を巡らせて沈黙したあと、肩を上下させてため息を吐いた。
「……静かなところに行こう」
「それならいいところがあります。着いてきてください」
俺が諦めて言うと、朝栗は安心したように微笑んで振り返った。どうやら校舎の方にそこはあるようだ、もう一度学校に行くことに躊躇して一瞬足が動かなかったが、朝栗が俺に構わずぐんぐん歩いていくので結局足は力無く踏み出された。
×××
「ここは大抵の人は利用しないので、静かです」
「そりゃ静かは静かだろうが……それ以前の問題があるだろ」
俺は壁のプレートを見やる。赤いプレートと青いプレートを見比べて、肩を落とした。そこは本校舎と繋がる別校舎、その最奥の地に居するトイレだった。確かにここは放課後ほとんど人が寄りつかずひっそりとしているが。
「とりあえずこちらへ」
「いや行かんぞ、しかもなんで男子のほうなんだ」
入り口で断固拒否した俺に朝栗は「え?」と首を傾げた。
「いや、これを口実に女子トイレに入ろうとするのはやめてください流石に気持ち悪いです」
「違う。男子だろうが女子だろうがどうでもいい、俺はこんなところで話したくない、暑いしな。他のところに行けばいいだろ」
手を向けて嫌悪感をあらわにした朝栗、俺はムッと視線を逸らして別案を出した。彼女は「ああ」とポンと手を叩いて理解すると同時に目を細めた。
「では他にどこがありますか? あなたは放課後すぐに帰るから分からないかも知れませんが、放課後と言いましても大体の人は部活動で校舎内に残っています。静かなスペースなんて、本校舎はもとより話にならないし、ここ別校舎にもあまり無い、そう簡単にはありませんよ」
俺に拒否されたことが不服だったのか、少し怒っている様子だ。彼女の言う通り俺は放課後の学校事情には疎いが、ある程度推測することはできる。俺は顎に手をやって考えたあと、目星をつけポケットに手を入れた。
「あるさ。それに、どうやら俺の言う『静か』と朝栗さんのそれは違うらしいしな」
「……? どういうことですか」
「とりあえず行こう」
俺は踵を返し本校舎に向かい始めた。後ろから本校舎に戻っては元も子もないと言われたが構わず、真っ直ぐそこに向かう。
しばらく歩き、俺たちは生徒玄関前までやってきた。
「まさかここで話すわけじゃないですよね」
朝栗さんはふかふかなソファに手を付いて訊いてきた。この学校には玄関を通ってほどなくに応接間がある。大きなソファや綺麗な机が置いてあるスペースは対談にはもってこいだろうが、ホール状になっていて周りから丸見えの上、そこは生徒は使用禁止なのでありえない。
「まさか。正解はこっちだ」
俺は指を指して廊下の先を示した。それを見て朝栗さんも何を言いたいのか気がついたようで目を見開いた。
俺たちはその部屋の扉の前までやってきて、揃ってプレートを見上げた。
「保健室……ですか」
「『静か』ってのは要は『人目』だ。ここなら人目は保健室の先生だけだからな、先生が噂立てるとは思えない。適当に嘘ついて休ませてもらおう」
俺はチラッと朝栗を見てこの提案をどうか窺う。彼女は口を尖らして視線を逸らした。
「他に誰か居るかも知れませんが」
その口ぶりは未だに不服そうだった。俺は視線を前に戻して答える。
「それは運としか言いようがないな、もし他生徒がいた場合は他のところを探そう。まぁもうすぐ県総体だし、怪我とか病気にはいつもより気をついているだろうから大丈夫だと思うがな」
「……なるほどです……では、行きましょうか」
朝栗はこくりと首肯して扉をノックすると、中から返事を聞く前に扉を開けた。
「すみません、体調が悪いので休みたいのですが……って、あらら」
「……?」
朝栗は苦笑した。俺も横から部屋の中を覗き込むと保健室内はガランと静まり返っていた。
「先生すらいないようですね」
「都合がいい、帰ってくる前に済まそう」
俺と朝栗は思いを同じに動き、扉をピシャリと閉めてソファに向かい合うように腰を下ろした。正面の彼女に目線を向けて、口を結ぶ。さて、なんの話だったかな。
窓の隙間から吹き込む微風で彼女の髪が揺れている。
「では改めてお聞きします」
その横髪を耳にかけつつ神妙な顔つきで問い掛けてきた。
「みつに何が起きているんですか」
「…………」
俺は腕を組んで沈黙した。ソファの背もたれに寄りかかりジッと机の上に小物を目をやった。蝶々のオブジェクトなのだろうが、俺には全く別物に見えた。それからゆっくり口を開いて、答えを出した。
「起きてるも何も、これは佐々木さんが起こしたことだ」
「は?」
跳ねた声が響いた、朝栗は意外と純粋そうなジト目を向けてきた。
「みつが自ら小馬鹿にされる噂を流したって言うんですか。馬鹿ですかあなたは」
「……おそらく、佐々木さんは自分が馬鹿にされることを考慮していなかっただろう、彼女の計画に自分が馬鹿にされることは必要なかったんだ」
「じゃあなんでみつは噂を流したのですか」
身を乗り出して詰問してくる朝栗が鬱陶しく、俺のマイナスが突然姿を現した。
「……馬鹿馬鹿しくて話す気にもならん」
「はぁ? ふざけないでください、日向くんは何か知っているんですよね? それを言ってくれるだけで構いませんから」
『言うだけ』
俺は暫く黙ってみたが朝栗は全然引かず俺をじっと見つめるばかりなので、とうとう折れてしまった。小さく空気を吸い込んでから、手厳しい彼女を牽制するように真っ直ぐ見つめ返しながら答えた。
「佐々木みつさんは、俺を利用して男子から告白されない環境を作ろうとしたんだ」
俺の答えを聞いて朝栗は少し目を見開いた、それから噛み締めるように瞳を伏してから呟く、その手は膝の上で握り締められていた。俺にはその姿は何かを悔やんでいるように見えた。
「みつのバカ、恋人が出来ちゃったら意味ないんじゃなかったの」
『なかったの』
『この人も佐々木から聞いていた?』
「朝栗さんは佐々木さんから相談は受けていたのか」
朝栗は顔を上げると俺の顔を見て、「はい」と小さく首肯した。俺はソファの背もたれに背中をつけ、腕を組んだ。
「『男子友達が欲しい』と言っていたのか」
すると朝栗は首を傾げた。
「いえ、そんなことは言われてないです。確かそう、『いい顔をするのは疲れる』と、深刻そうにぼやいていました。まぁ中学受験の時だから結構前ですけど、それに相談と言いましても私はろくなアドバイスしてあげられませんでしたが……」
「…………」
俺は机に視線を落として沈黙し、腕を組んだ状態で人差し指で二の腕を叩いた。
『佐々木みつが俺に嘯いた理由』
『親友に語った疲れるという言葉』
『あの曖昧な微笑』
「朝栗さん、さっきも言った通り俺は何も知らない、」その時、彼女はまた俺を逃さないために口を開きかけた。その言葉が発せられる前に矢継ぎ早に続ける。
「――だが予想はした。それでもいいなら、聞かせてやる」
小さく唾を飲み込み、一瞬朝栗の反応を窺った、彼女は対応に困ったのか暫し沈黙していた。俺が視線をもう一度落とした時、キュッと背筋が伸びる気配がした。
「聞かせてください、みつに何があったのかを」