第五話
「ほっすみょ〜ん!! おかえり〜!!」
「ただいま風澄、早速で悪いんだが鬱陶しいから離れて」
リビングの扉を開けて約一秒、俺は抱きつかれた。こんな暑いのに姉である風澄は今日も今日とて熱苦しい。風澄は薄い桃色のTシャツにショートパンツと目のやり場に困るような格好だが、まぁ無論今更なんとも思わない。
「なんでー? おかえりのハグだよいつもやってるじゃん? ほすみょん今日機嫌悪い感じ?」
「いややってるのはあんただけだろ、俺は毎日抱きつかれてるだけだ。とにかく、今日は疲れてるから早く休ませてくれ」
俺が素っ気なくすると風澄はむーと頬を膨らませて渋々離れた。日向風澄、大学一年生、姉だ。昔から溺愛されていて家族として色々ありがたみを感じているが、最近は鬱陶しく感じてきた。なんせこんなウザノリが十六年間も続いているんだ、流石に面倒になってくる。
「今日大学は? やめた?」
「ズル休みだよ。まぁほすみょんがおねちゃんとずっと一緒に居たいって言うならやめるのもアリなんだけどね〜。やーん弟が溺愛してきて困っちゃーう!」
「一生大学行ってろ」
俺はソファにカバンを置いて座った。ふぅ、やはり自宅は安らぐ。見慣れた壁紙に嗅ぎ慣れた匂い、このソファの角も俺の座る定位置で居心地がいい。
「ほすみょん暑かったでしょ、何か飲む? オレンジジュース? コーラ? それとも、あ・た・し♡?」
スリッパをパタパタさせキッチンに移動した風澄は、冷蔵庫を開けながら聞いてきた。最初の二つだけ聞けばいいものをわざわざ体をくねらせて蠱惑的なポーズを取って冗談を言うあたり鬱陶しい。
「あんたの何を飲むんだよ」
「もちろんあいえ――」
「オレンジジュース」
「オレンジね了解!」
咄嗟に選択した俺は額の汗を拭った。本当勘弁してほしい、この年頃の男子に親族のちょっとキツめな下ネタなんて聞くに耐えない。姉といえど女性、されど姉は姉、性的な目は一切向けようと思わない。ちなみにスタイルは結構恵まれているほうだ。
俺はエアコンの温度をぐっぐっと下げる。エアコンはゴァァと音を出して冷風を放出し始めた。制服のボタンを外そうと手をかけた時、ふとカバンの中にプペコを放置していたことを思い出した。
カバンに手を伸ばすが届かない、仕方なく体をソファに倒して距離を稼ぎカバンを掴んだ。この冷風ジャストヒットゾーンを移動するわけにはいかない。
体を起こしカバンのチャックを開ける。
「…………」
予想はしていた、あの時食べかけだったプペコをどうすることもできずカバンに投げ入れた、それが間違いだった。ドロドロに溶けたアイスがカバンの底に溜まっていた、ノートやファイルにアイスが染みている。今日一、ショックだ。
俺はずっしり肩を落としながらせめてもの救済処置として残っていたプペコを取り出して、風澄に冷凍庫に入れておくようお願いして投げ渡した。風澄はうっとりと「プペコの指入れるところって指輪みたいだよね」なんてガチで何言ってんのか分かんないことを言っていた。
俺は卓上のティッシュでカバンの中を拭き取ったあと、濡れタオルを必要だと考え仕方なく重い腰を上げた。その時見計らったように風澄がタオルを持ってきた、どうやら汗を拭く用らしい。
俺はありがたく思い、アイスを拭いた。
一通り清掃を終えると俺はソファに深々と沈み込んだ。しかしなんだかまだ汚れている気がする、それは自分自身の体だ。
「……シャワーでも浴びるか……」
俺は立ち上がり一度二階の自室から着替えを取りに行ってから風呂場へ向かった。濡れてしまったノート類は部屋の窓から干しておいた。
×××
つめてー!!
シャワーから放出される冷水は熱った体を冷やしていく。夏はこれだけでさっぱりするから気持ちいい、俺は全身の汗を流してシャワーのノブを絞めた。ポタポタと髪の毛先から水が垂れる、俺は少し呆然とした。
カバンは綺麗になった、体も清めた、それなのに何かが汚れている気がしてしこりが残っていた。
着替えを終えてリビングに戻るとオレンジジュースが机の上に用意されていた。
「飲んで飲んで、一気一気!!」
俺が風呂から上がるのに合わせて冷えているジュースを用意していた様だ。風澄は気配りに関しては頭ひとつ抜けていると言っても過言ではない、中学の時鼻を啜ればティッシュが必要か聞き、何か探す動作をすれば何が必要か聞く。友達が少しでも顔を曇らせると話題を逸らし和ませる。そういうのも含めて風澄は俺の出会ってきた人の中で最もプラスらしいプラスだ。
俺はジュースコップを手に取って口元に近づけた。
――とでも思ったら大間違いだ。
「この感じ……媚薬かな」
答えを聞くため風澄に振り向いた。これは恒例行事となった姉の数あるうちの一つの問題行動だ、ヤクザと風澄が入れる飲み物には迂闊に手を出すな、と俺の中に新たなことわざができるほどに風澄の手料理とか飲み物は信頼できない。
風澄は「おー」と拍手する。どうやら今回は正解したらしい。
「残念! 正解は私のあいえ――」
「いやそれさっきやったよね、二回やっても面白くならないから」
「じゃ、じゃあ一体私のなんだったら飲んでくれるの!? ちゃんと言ってくれなきゃ分かんないよ私!!」
「なんで何か飲む前提になってるんだよ何を飲むかじゃなくて飲むか飲まないかの選択だろ」
「私ならほすみょんの汗までなら飲めるのに!!」
「聞いてないし意外としょぼくね」
「で、それ飲まないの!?」
「飲むわ、飲んでやるよこのビッチ」
俺はジュースをぐっと煽り一気飲みした。正直発言内容は気持ち悪いが姉の愛を無碍にはしたくない、たとえ本当に姉のあいえ――が入っていたしても俺は飲むだろう。
「っぷはぁ。ご馳走さん」
「いい飲みっぷり!! よっ、男の中の男!」
飲み切ったコップを洗面台に置いてスタスタリビングを出た。これ以上構ってられるか、俺は自室に戻らせてもらう!! 階段を駆け上り、俺はやっと熱の籠った二階で安息を手に入れたのだった。
×××
夜、自室でスマホゲームをしていた時ふとゲーム内に自転車が登場した。飽きてきたなこのゲーム……しかし、うーん、なんか忘れているような……。
俺はスマホを落として顔面に直撃した、鼻の痛みを抑えつつ思い出した事態に顔を顰めた。……自転車、公園に置きっぱなしだ。
俺はゲームを閉じて起き上がった、スマホで時間を確認するとちょうど八時を超えたあたりだった。仕方ない、気は乗らないが明日徒歩で学校に行くのはより気が乗らないので今取りに行くことにしよう。
一階に降り、リビングに顔を出す。リビングには大抵風澄や母さんがいる。
「俺ちょっとコンビニ行くけどなんかある」
忘れた自転車を取りに行くなんて説明したら主に風澄に詰問されるので適当な言い訳を告げた。
リビングの机でパソコンに向かっていた母さんがブルーライトカットメガネをクイっと上げつつ俺を見た。目が相変わらず沈んでいる、母さんは毎日忙しそうだ、勤労に敬礼。オーバーワークはいかんと何度か言ったが「私仕事人間だから仕事しないと落ち着かないんだよね!」とかほざいていた、社畜精神にドン引き。
「別に〜、出かけるのはいいけど車とか不審者には気をつけるのよー。あとキャッチとかね」
「都会ならまだしも秋田にそんなの滅多に出ないよ、少なくとも俺は遭ったことがない。まぁ都会行ったことないから分かんないけど、風澄は」
「遭ったことあるよ」
ソファでスマホをいじっていた風澄は、仰向けの状態で上を見上げて俺たちを見た。母さんは風澄を心配そうに眉を寄せた。
「大丈夫? 変なことされてないわよねー?」
「うん、なんかアンテナ持って『一緒に古代メソポタミアの声を聞きましょう』とか言ってきたから走って逃げた」
それどっちかっつーと不審者の部類だろ……。
「まぁあんたなら大丈夫だろうけど……とにかく歩澄、気をつけるのよ。……ひょんなことからあの人みたくなっちゃうかもしれないんだから」
「お母さん、その話はやめて。あの人は私たちを置いてったんだよ?」
「…………」
あの人というのは母さんの夫、俺たちの父親のことだ。そう、見てわかる通り今この家に父親の姿はない、とある事情でこの家を去ったのだ。母さんや風澄はそのことを赦している様子は見受けられない、俺でさえまだ引き摺っている。
優しかった父親の姿は失われてしまったのだ。
俺たちは揃ってスマホに視線を移した。
『大阪のたこ焼き美味すぎ! 流石大阪やで!』
去年から単身赴任中のお父さんは今日も大阪で楽しそうだ。毎日毎日美味しい物食べて、その写真を満面の笑みと共に我が家のグループラインに送られてくる。
母さんはそんな微笑ましい夫の姿を見て、温かく微笑むと文字を打ち込み始めた。
「『そんなことどうでもいいので仕事しててください』っと……これで良し!」
何も良くない気がする。
「……じゃ、じゃあ俺行くから……」
一階に降りてきた本来の目的を思い出し、愛想笑いを浮かべつつ退室しようとした。その時風澄が「あーあー!!」と叫んで俺を制止した。そういや風澄の返答を聞いていなかった。
「何かいるのか」
俺は改めて聞くと風澄はフワッと立ち上がってから首を傾げた。
「うーん、買いたい物あるけどちょっと悩ましいから〜、店行って考える」
「ん、そう、じゃあ行ってきます」
「いやいやなんで行こうとするの」
扉を閉めかけた俺を風澄は駆け寄っててきて止められた。はて、買うものが判然としないのならこちらとしても困るのだが……。
「……店行って考えるんだろ」
「だから私も行くって」
ああ、ついてくるんすね。せっかく一人夜道を歩く優越感を味わおうとしていたのに、勿体無い。しかし風澄はこういう時は、普段俺に丸投げスタイルなのにわざわざ腰を上げた理由はなんだろう。それが意外で俺は同行を拒否できなかった。
「すぐ帰ってくるのよー」
風澄もついていくと知って安心した母さんはパソコンに向き直りカタカタキーボードを打ち始めた。俺たちは「行ってきます」と残して、弟姉仲良く家を出た。