第十二話
「じゃあね」
「おう」
母さんはそう言って職場に赴いていった。
俺は机に置かれた朝食をぼうと眺めたあと、ポットで沸かしたお湯を湯呑に注ぐ。湯呑のお湯が適温に冷えてから、茶葉を放り込んだ急須にその冷やしたお湯を注ぎ込む。そして一、二分待ち、急須から先ほどお湯を入れ温めておいた湯呑にゆらさず注ぐ。
お茶の薫りが鼻腔をくすぐる。大した茶葉ではないが幸い貧乏舌なので味の違いなんて分からない、よって安価も高価も美味ければ関係ない。
湯呑を持って食卓に腰を下ろす。その時、壁を隔てた先から扉の開く物音が聞こえた、今この家にいるのは自分と風澄だけだ。俺は視線の先にある母さんが作った美味そうな料理を見つめた。
「……ふむ」
×××
「なにこれ」
風澄のリビングに入って来て開口一番の言葉がそれだった。俺は足を組んで座り、新聞紙を捲る。別に新聞紙なんて読む習慣はないが、慣れない早起きをしたせいで暇を持て余しておりその解決策として、一世代前の親父像のように新聞紙に目を走らせることにしたのだ。
「母さんがあんたにって作ったものだ」
「ああ、今日は早い日だっけ。へー、またなんで今日は作ってくれたの? しかもまだあったかい」
風澄はカレンダーを見て理解が及ぶ。我らの母親は月に何回かとても早く家を出る、それに伴いその日の朝ごはんはトーストとか簡単なものを自分で作るのが恒例となっていた。
「……。面と向かって言うのは気恥ずかしいからな、日々の感謝とアドバイスのお礼の品だ」
「はぁ……? 日々の感謝は嬉しいけどアドバイスなんてしたっけな。まぁいっか! それじゃあありがたくいただきます!」
風澄は少し怪訝そうに眉を顰めたが、一変し席に着くと手を合わせた。箸を手に取ると味噌汁に手を伸ばす、その時ピクッと違和感を感じて手を止めた。
「味噌汁が左?」
風澄は慣れた動作に反する状態を訝しみ、白米と味噌汁の位置を左右反対に直した。俺は新聞紙の上から覗いて言う。
「ああ忘れてた。悪い」
「ううん別に」
風澄はふへと愛想笑いを浮かべてから味噌汁を飲もうと持ち上げ、ふーふーと息で冷ましてから少し飲んだ。
「……ふへぇ。ほすみょんの分は?」
「俺が朝ごはんを作る様な人間に思えるか? めんどくさい」
「そりゃあそうだ、というかなんでこんな時間に起きてるの? いつもは七時過ぎに起きてくるのにまだ六時だよ、学校で何かあるの?」
「……まぁ少し、ないと言えば嘘になるが、まぁ杞憂かもしれない……が早起きは三文の徳と言うしな悪いことじゃない」
まぁ三文なんてお金より、時間いっぱいまで惰眠を謳歌するほうがよっぽど価値がある気がするがな。
「へぇ、しかしあのほすみょんが早起きなんて天変地異の前触れと思われても可笑しくないレベルだよね。正直その理由を凄く聞きたいけどグッと堪えるね、何か含みがありそうだし」
察しが良くて助かる。俺はお茶を啜る、少し冷えていた。
「それよりそっちはなんで早起きしたんだ、そんなに大学とやらは大変なのか」
「ううん大学はサボるよ。いやぁ暑くて汗かいちゃってさぁ、気になってシャワー浴びに起きたら目覚めちゃったんだよね、最近朝も暑いよねー」
大学行けよ。
「ふうん、さっき浴槽の扉の音がしたのはそれか」
「うん、そゆこと」
ふと会話が止んだ、俺は新聞紙の上からちらりと風澄を窺うともぐもぐ食事に勤しんでいた。異変を感じている素振りは見られなく俺は顔を渋らせた。
カチカチと時計の音を聞いていると、いつの間にか風澄は朝食を食べ終えていた。「ご馳走様」と手を合わせると、食器を重ねて台所に持っていく。
「ん、このお皿は?」
風澄はキッチンで水切りかごにあるお椀とお皿を見つけて、俺に聞いてきた。
「母さんが食べた」
風澄はそれを聞いて「ああ」と当たり前かと言うが如く目を見開くと、その皿を片付けようと手に取った。乾燥しているのを確認した後、食器棚にしまう。
スポンジに洗剤を垂らし泡立てる。お湯で流したお皿を洗う。一通り洗い終え、風澄は手を拭いた後元の席についた。
「ふぅ、美味しかった。ほすみょんは本当に食べなくていいの? トーストくらい焼こうか」
息をついた風澄は少し身を乗り出して言ってきた。
「大丈夫だ……それはいいんだが、一個、いいか。あの時言えずじまいだったから」
「うん? うん、いいけど」
首をこてんと傾げて聞く。俺は新聞紙を畳み、風澄を見据えてはっきりと言う。
「俺はあんたのマイナス要素を認めた気はない」
「ほう」
「以上だ」
「へ?」
俺は立ち上がりスマホを手に取る、時刻は家を出るにはちょうど良いくらい。惚ける風澄をあえて無視しつつバックを背負う。
「んー? んー、つまりなに?」
風澄は腕を組んで首を左右に傾げると、思考を諦めたのか俺についてきながら訊いてきた。俺は止まらず玄関で靴を履く。
「言っただろう、面と向かって言うのは気恥ずかしいんだ。全部察してくれ」
「はぁ、それはお母さんの話じゃなかったの?」
俺は靴をとんとんと地面を蹴って調子を整えると、軽く振り返り告げた。
「行ってきます」
「え、ちょっとー! なんなのよー!」
静止を聞かず家を出る、じわっと熱気が体を包み込む。とぼとぼ歩いて自転車を運んできて、跨る。
気づかんか……まぁそうか、あれで気づいて欲しいなんて酷いにも程がある。俺の正面切って感謝を伝えられないマイナスのせいでこんな迂遠なことになってしまった、反省だな。
しかしあいつのことなら持ち前のブラコン性で理解らずとも察するくらいは出来ると思ったんだが――どうやら驕っていたらしい。
道路に出て、漕ぎ始めた。
――がちゃん。と、大きく急いで扉を開ける音が耳を届き、グッとブレーキを握って停止した。振り返ると、サンダルで飛び出した風澄が道路の真ん中で膝に手をついていた。
「はぁ、はぁ――なんだか解らないけど……ありがとう!!!!」
「…………」
母さんが作ったあの風澄宛の朝食は、真実は俺のために作られたものだった。俺はただ感謝していたのだ、鬱陶しくても面倒くさくても俺を大切にしてくれる風澄に、佐々木との一件の際教えくれたアドバイスに、俺は助けられたから。
……やっぱりちゃんと言わなきゃ伝わらないか。
「こちらこそ、あ、あり……ありがとぅ」
しどろもどろに告げてから、風澄の反応を見ずに走り出した。僅かに視界の端で捉えた風澄は、どんな顔をしてたか気になりつつも見れなかったのは、今の自分の顔を見られたくなかったからか。
×××
朝から照る太陽に晒されること数分、学校に到着し、自分の席に座り汗を拭いてから頬杖をつく。昨日よりかは落ち着いたが、相変わらず馬鹿にする冷えた視線が向けられている。手持ち無沙汰を解消するための何かを模索し、徐にスマホを取り出す。LINE通知は一件もない。
今朝家を早く出たのは佐々木のせいだ、あいつを応援するとけしかけた以上無関心はいかんので、一応教室で動向を見ておこうと考えたのだ。
しかし見ての通り、昨日の別れの後に朝栗から連絡は一言もなかった。佐々木の変革の意思は聞いたのか、俺の手助けする約束は聞いたのか、警察沙汰にはならなかったのか、気になることはあるにはあるが、こちらから質問する一歩を踏み出せていなかった。
まぁ俺の手助けはあくまで彼女が困った時に執行される約束、今メールが来てないことが示すように彼女は俺の助けをそこまで求めてないのかもしれない。昨日はうまいこと調子に乗せられ流されていたのかもしれない。
俺は頬が火照るのを感じて、杖にしていた手で頬を隠した。
今思うと結構恥ずかしいことを言っていた気がする。
「……ふぅ……」
小さくため息を吐いて緊張を解こうとする。
「今日は早いね日向」
突然背後から話しかけられた、心底びっくりしつつ平静を装い振り返ると、朝栗が顔の動きに反し通り過ぎた。それを横目で追いつつ、顔を近づけて小声で注意する。
「おい、俺と話してるところを見られたら朝栗さんも馬鹿にされるぞ」
朝栗は俺の助言に沈黙を返して、俺の前の席に腰を下ろした。
「…………朝栗」
「あ? なんだ」
「私の呼び方、さん付けされるのは淋しい。私もあなたのこと呼び捨てにするから」
「は、はぁ」
朝栗はジッと真顔で言ってきた。なんか昨日と口調が全く違う気がする、あれは初対面の相手にする処世術だったのだろう。ということは、俺は知らぬ間にこいつと打ち解けていたらしい。
その時ガラリと扉が開いた。スッと現れたのは件の彼女佐々木みつで、瞬間教室が騒めくのを静かに感じ取れた。登場するだけで場の空気が変わる、相変わらず凄い人だ。
「あれー!? みつ彼氏と登校してあげなかったのー?」
そう煽るのは教室後方を陣取る女子集団の一人、周りもクスクスと嗤う。わざわざからかい文句を用意していた様だ、言うまでもなく遠回しに俺が嘲笑われている、俺はふんと鼻を鳴らし顔を背けた。
佐々木は彼女たちの声に一瞬足を止めた、それから体を彼女たちを正面に向ける。教室にいる全員が佐々木の反応に注目していた、かくいう俺も耳を傾けていた。
佐々木は小さく口を開いた。
「なんでそんなつまんないこと言うの?」
佐々木が言い放ったその一言は教室の空気をドライアイスの様に凍てつかせた。俺だって例外ではなかった。衝撃的な発言の内容と、それから感じた怒気や侮蔑の念はあの佐々木から全く連想できないものだった。
俺は振り向き佐々木を疑った、その猜疑心は彼女の顔を見た瞬間に吹き飛ぶ。友情なんて持ち合わせない鋭利な眼光を炯々に、喧嘩腰の猫の様に光らせて、かつて自分が守ろうとした人々を見つめていたのだ。その様子が何故か様になっている気がして、そこが妙で、彼女たちは狼狽えていた。
「『私と歩澄くんはそんな関係じゃない』『そういう噂が立つと迷惑』、言わなきゃわからない? あなた達のつまんなさに付き合わされるこっちの身にもなってよ」
教壇の近くに立つ佐々木は、後方グループの彼女たちを睨め付ける。彼女たちは口を閉ざした佐々木を数秒見つめたあと、ようやっと自分たちの返答が待たれていることを理解した。
「ちょ、ちょっとー、みつガチギレやめてよー」
「ね! 演技うまくて普通に反応に困るんだけど!」
「ねー」
彼女たちは憤る佐々木を「本気にするなよ」と嘲る様に苦笑いを浮かべる、それでこの自分たちを照らすステージライトに歯向かうことができると思ったらしい。しかしそれが通じる相手ではないことは観客からは一目瞭然だった。
「…………」
佐々木は哀れな彼女たちを一瞥して取り合わず、今度は何かと思えばひょこひょこ蟹の様な横歩きで俺たちに近寄ってきた。俺は慄いて若干体を引いた、美形な人の顰めっ面はそれなりに怖いことを知った。
「おはよ! こまっちゃん! 歩澄くん!」
佐々木の黒いオーラがフッと消えて、今まで通りの眩しい光を放ち始める。
「おはよう」
「…………うす」
朝栗が挨拶をしたので仕方なく挨拶した、これまでろくな挨拶をしたことが皆無だったからか、照れて随分小声になってしまった。
「うす!!」
佐々木は何故か俺の真似をした。
明るい彼女を見て俺は肩を落とした。プラスに振り切った彼女はマイナスでさえ一丁前にできてしまうらしい、俺の存在価値が薄れた。
「凄いな佐々木さん」
「凄くなれたのは君のおかげだよ」
「……そうか」
「そうだ」
佐々木は嬉しそうにはにかんで応えた。俺はなんだか調子が合わずこめかみをかいて顔を逸らした。その時クラスの連中が俺と佐々木を見ていることに気がついた。
俺は今、道に立っている。そして今になって血迷っている。マイナスはマイナスとして生きるのがベスト、その通念がある限り俺はこのままこの道を進んでいくはずだった。だが俺は立ち止まった、こいつのせいだ。
出会ってしまった、関わってしまった、見て考えてしまった、もう俺の後ろ髪は解けないほど彼女に絡みついている。
『マイナスとマイナスの解』
『劣等感』
『プラスマイナスを内在する性質』
これまでの真実は、俺に一つの答えを導き出させている。
『マイナスは佐々木のプラスになれる』
俺は道で振り返り、佐々木と目を合わせた。
「…………」
佐々木の背にする教室の窓、これでもかと言う程威張る碧い昊天に、絹の様に艶めき美白な入道雲が、とても綺麗だった。