第十話
夕食後、机に向かっていると風澄が性懲りも無く部屋に乱入してきた。しかし入るや否や煩いテンションは何処へ、口に手を当てて何かを呟いた。俺はスマホで聞いていた音楽を止めて、イヤホンを片耳外した。
「なんだって?」
俺が聞き返すと風澄は扉を閉めた。ズイズイ歩いてきて俺の椅子に腰を押し込んできた、なぜわざわざここに座るんだ、立ってろ、というか去れ。
「なんで勉強してるの……? ほすみょんはなにがあっても勉強しないことで名を馳せていたのに……」
風澄が俺の肩に手を回して体を密着させてくるので、ペンを置いて体を反対側に傾けた。
「そんなことで名が馳せるか。もうすぐ期末テストがあるんだ、だが赤点を取るのも飽きたからな。だからこうしてしたくもない勉強に、貴重な自己研鑽の時間を割いて取り組んでいるんだ」
「自己研鑽ってゲームしてるだけじゃん、それと飽きたって、ほすみょんが赤点ばかり取るのはただ単に実力がないからだよね……?」
「俺には趣味と呼べれるものがないから、それを見つけるための時間を自己研鑽と呼んでいるんだ、無趣味は淋しいからなんとかしたいんだ。あと、決して実力がないわけじゃない、ないのはやる気だ」
「へぇ、流石マイナス加減では誰にも引けを取らないほすみょん、その舌先三寸性といい強情性といいマイナス族の名をほしいままにしてるね。まぁ分かった、それなら今日は素直に退散することにするよ、頑張ってね!」
諒解した風澄は立ち上がると、軽快なステップで扉まで向かうと最期に投げキッスを残して立ち去っていった。彼女がいなくなった部屋では扇風機の音だけが聞こえ、ことさら物静かに感じる、嵐のように騒がしいやつだ。
俺は気を取り直して、イヤホンをつけるとスマホに手に取り画面をタップする。するとLINEのメッセージのバーナーが画面の下の方に表示されていた、今の嵐に見舞われている間に来たようだ。アイコンに見覚えはない……いや、ああ、あいつのか。
今日朝栗と交換したことを思い出しつつ、バーナーをタップしてLINEを開いた。
[夜分遅く悪いけど]
[話したいことがある]
置き時計を見やり時刻を確認すると七時だった。そんな夜分ってほどでもない。イヤホンを両耳外した。
「『どうした』……っと」
俺は返事を打ち込み青い矢印をタップする。しゅんとメッセージは相手に送られた。次の瞬間既読がつき、少し驚いた。すぐ返事が来るかもしれないので通話画面を開いたまま暫し待機することにしよう。
ぼーっと画面を眺めているとメッセージが送信されてきた。
[やっぱ言わなきゃいけないと思って。あなたには本当のことを知ってほしい、あなたならきっと分かってくれると思うから]
『本当のこと?』
それを見て眉を寄せて、俺は文字を打った。
[なんの話だ]
[みつの話]
佐々木の……? その話は既に終わった話だ、今更本当のことなんて言われても困る。俺の予想は誤っていたのか? 朝栗はみつに裏取りしたのか? なんにせよ興味のない話だ、真実がどうでも俺が虐げられる現実は変わらない、無意味だ。
「……………………」
俺はそれでも、チッと舌打ちして文字を打った。
[本当のこと、ってのはなんだ]
机に肘をついて朝栗のアイコンを睨む。これでどうでも良いことだったらこいつに思いつく限りの悪態をついてやる、そう断じている時メッセージが送られてきた。
[本当は噂を流したのはみつじゃない、他のクラスメイト]
それを読んで、見て、呼吸が止まった。悪態を吐くと息巻いていた憤りはすっかり形を失くして消えた。ゴクっと固唾を飲んで、動揺を隠さないまま指を動かす。
『詳しく説明してくれ』、そう送ろうとした時朝栗が先んじてメッセージが継がれた。
[あなたとみつの交際の噂は、もともとクラスの誰かが昨日公園で二人の姿を見つけて、面白がって拡められた。誰かの犯行なのかは私も分からない。でもその話を虫の知らせで聞いた]
[本当は保健室の時に伝えるべきだった。でもあなたの勘違いは聞くとみつが自発的にやったことらしいから、彼女なりになにが意図があると思って黙ってた]
[でもやっぱり、]
その時、朝栗は妙な一拍を置いてから告げた。
[あの優しいみつが悪く思われるのは我慢できない]
これを最期に朝栗からのメッセージは途切れた。言い終えて一息ついているのか、それとも返事を待っているのか、俺には分からない。そんなことも分からないほどに俺の脳は銃で撃たれたくらいにショックを受けて麻痺していた。
[そうか]
それでもなけなしの気力を振り絞って返事を送信して、スマホを机に投げるように置いた。背もたれに寄りかかって腕をダランと下げ、天井を仰いだ、首筋に扇風機の風が当たってこそばゆい。
鈴虫の音が外から聞こえる。
「……さっぱり分からん、忘れよ」
体を起こしペンを握る、勉強を再開した。数学の問題だ、俺は問題を解き進める。
『佐々木の嘘』
左腕を杖にして耳あたりで頭を支える。だらしない格好で問題を解いていく。
『愚者の反逆』
無性に精神のベクトルが行き先を惑い、無意識に貧乏ゆすりしていた。歯噛みして停止する。
『優しいみつ』
背中を丸めてページに顔を近づける。その時、手にページがくっついていることに気がついた、俺は手汗をかいていた。
『――人間はプラスマイナスで語れるほど――』
ああくそ。
俺は抵抗を諦めて数学ワークの解答を開いた、それを並べて書き写していく。これなら他のことをしていても作業の結果は等しくなるので効率がいい。
スラスラ解答を書き写していきながら、俺の脳は全く違うことを考える。言わずもがな彼女と彼らのことだ、圧倒的に輝かしい彼女や彼らの真実を、俺は眼を焼かれる思いで思考する。
俺は思考範囲が足りなかった、佐々木のことだけじゃなくもっと広い視野を持つべきだった。それはクラスメイトたちのことであり、俺が盲信するプラス族のこと。そして、俺自身のこと。
視線だけ移動させて文字を写す。残り1ページ半。
俺は正しく日向歩澄を理解していない。『口先だけのマイナス』、それじゃあ足りない。――きっと俺は、そう俺は彼らに、劣等感を抱いていたんだ。
俺の誤信は、彼らを一つの生物と思っていたこと、彼らはマイナスを持たない煌めきと思っていたことだ。その誤信のおかげで彼らは神格化され、俺は見ることすら憚れて目を伏せていた。
……信じて良いのだろうか、風澄の言葉を……もしかしたら彼らも一人一人、個として孤独で、プラスもマイナスも持ち得る、そんな存在なのだと……。
最後の問題に取り掛かる、素早く書き進めていき、問題を書き終えた――その解答は正数だった。
――俺もプラスを持つ存在なのだとしたら。
彼らは本当に、輝いているのか?
「……………………輝いて、ない」
――ティロンティロンティロンティロン。
その時いきなり電話が鳴り響いた。ビクッと喫驚してからバクバクなる心臓を摩りながらスマホを手に取る。全くこんな時に風澄のやつ……。
しかし画面を見て息を止めた、そこには驚くことに朝栗と表示されていたのだ。まさか彼女から電話をかけてくるとは思ってもいなかった、さてはさっきの返事が素っ気なさすぎただろうか。俺はタップする。
「……もしもし、どうし」
『助けて……!』
「……!? どうした、何かあったのか」緊迫した声音で俺はなんとなく椅子を下げて起立しやすくしていた。
『みつが家出したって……!!』
「はぁ?」
俺は思わず立ち上がっていた。電話の向こうから慌てた息遣いが聞こえ、俺は額に手を置いて状況を考えた。なんだこれ、佐々木はなんで家出なんか……どうやって……。
「今どこにいるのか分からないのか」
『――っうん、さっきみつのお母さんからみつがいなくなったことを聞いて……あ私幼馴染だから親交があって……それでどこに行ったか知らないか聞いてきて、見つからないなら警察にも言うって』
「一旦落ち着け。……家出って本当か? ただ出かけただけかもしれないぞ、書き置きでもあったのか、衣類は確認したのか、バックとか財布とか」
俺はスピーカーに設定してスマホを机に置いた、タンスを開け衣類を引っ張り出す。
『そ、それは知らないけどお母さんが家出だってそう言ってて』
「なら十中八九家出じゃない、何かの勘違いだ。警察に連絡するのは行き過ぎだ。電話は通じないのか」
俺は部屋着から着替えながら話す。
『多分電源切れてるっぽい、みつよく電池切らしてたから多分……』
んなバカな。
「…………ともかく心配なのは分かるが警察に連絡するのはやめさせろ、佐々木も面倒ごとにはしたくないだろ」
少し呆れつつ言うと、朝栗は口篭った。俺は「聞こえてるか」と聞くとか細い声で「はい」と答えた、俺は靴下含めて全身着替え終えスマホを手に取っていた。スピーカーを解除して耳に当てる。
『言いにくいんだけど……みつのお母さんってよく言えばちょっと心配性な人で悪く言えば正義中毒的な人で……私の説得が効くとは思えないんだよ』
朝栗は遠慮がちな声で告げた、しかし俺はあまり合点がいっていなかった。部屋の扉を開けて階段を降りる、声を絞ってリビングの扉の前を通った。
「……? よく分からんがつまり通報は取り下げない気ってことか?」
『そう』
「……はぁ、要するに一刻も早く佐々木を安否を確認すればいいんだろ」
『ま、まぁ……』
俺は玄関を開けてするりと体を隙間から通して外に出た。夏というが流石に暗くなっていてじめっとした空気が飽和していて蒸し暑かった。『日向?』俺はその気怠さを誘う空気に迫られていると、電話越しの朝栗の声で我に返った。
「……ううん。佐々木を探す、見つかったら連絡する」
『え? 日向――』
俺は電話を切って自転車を自転車小屋から取り出し跨った。さて、佐々木が傷心のとき足を運びそうなところは……俺には分からんな。だからもし俺が佐々木の立場ならどうするかを考えることした。
とりあえず、避暑地にでも行ってみるか。
思いっきりペダルを漕ぎ始めた。