誰かの名
「な、に……?」
突然名前を呼ばれ、女が困惑する。
だが、そんな彼女が冷静さを取り戻す時間は与えられなかった。
見えない力が爆ぜる。
不可視の暴力はまるで全てを薙ぎ払うように広がり、木々ごと全ての炎も獣も消し飛ばした。
木も草も飛び散り、何もない空間になったそこに少女が一人。
灰色の髪、金色の瞳。
何処からどう見てもみすぼらしい少女だ。近付いて首を折れば容易く殺せるような、そんな弱きもの。
そう思っていても、女は身体が動かなかった。
その金色に瞳には覚えがあったからだ。
「随分姿が変わったな」
一瞬で、目の前にアシェンがやってくる。
符を放り結界を張るも、炎の剣の一撃で瞬く間に叩き切られた。
「馬鹿な! これまで一度も破られたことがないわえの結界だぞ!」
「それは嘘だな」
「ぐえっ!」
アシェンの蹴りが女の腹に突き刺さった。
腹を貫かれたかと思うほどの痛みと共に、女の身体が吹き飛び、細い木々をまとめて薙ぎ倒しながらようやく止まる。
「が、はっ……! な、なんじゃ……? なんでじゃ……?」
「それはこちらの台詞だ」
目の前にアシェンが迫る。
フーリはそれに対して、逃げの一手を打った。
煙幕を張り、自らの姿を獣に変え。
できるだけ視界に入らないように必死になって、森の中を駆けずり回る。
だが、それは無駄だった。
目の前には灰色の少女がいる。
一切の情け容赦ない目をして、女を見下ろしていた。
「しかし、貴様がフーリだとしたら何故生きている? 千年は経っているのだぞ?」
「貴様の知ったことかぁ!」
人型に戻り、爪を伸ばす。
アシェンの首を狙い突き出すが、あえなく空を切った。
すぐに獣に変化してその場から逃走。
だが、アシェンは彼女に容赦はしない。
横を駆け抜けようとした女を見事に捉え、その横腹に蹴りを叩き込んだ。
「ぐええっ!」
再び人型に戻り、女の身体が岩肌に叩きつけられる。
気付けば二人は、女が寝所としていた洞窟の前までやってきていた。
「貴様、貴様は何者じゃ! 何故わえのことを知っておる! たかが人間の小娘如きが!」
がむしゃらに爪を振るい、攻撃を仕掛ける。
分身の二人を呼び寄せ、三体で同時に攻めてもアシェンには全く掠りもしなかった。
それどころか、殆ど視界も捉えず炎の剣を振るい、分身の一人の首を飛ばす。
「ぐ、ぎっ!」
女が首元を抑えて蹲る。
彼女の分身は単なる目くらましではない。本体と同じように行動し、殆ど変わらない力を行使できる。
その代償として、分身のダメージの大半が女にも跳ね返ってくるという魔法だった。
「があああっ!」
もう一人の分身も容易く打ち取られ、その場に女はのた打ち回った。
こんなことは生まれて初めてだった。彼女本人も、分身にしてもこれほど打ちのめされたことはない。
「フーリよ」
「黙れ……!」
名を呼ばれ、女は怒りと殺気を込めてアシェンを睨みつける。
これほどの屈辱を味わったのは生まれて初めてだ。
これほどの苦痛を与えられたのも、生まれて初めてだ。
しかもその相手が呼んだ名は。
「人間風情が、わえの母の名を気安く呼ぶ出ない!」
両手に握った符から極大の炎を放つ。
それは空中で融合し、獣のような形になってアシェンへと突撃していった。
避けたところで、地を這い相手を追い詰める。そして全身を炎の牙で食らいつくす魔力の獣。
この攻撃から逃れられたものは誰もいない。
現にアシェンも、目を見開いてその攻撃に驚いていた。
今のうちに傷を癒す必要がある。
女はそういう術も心得ていた。
全ては母フーリから習ったもの。
いつかこの力を使い、尽くすべき相手が現れるからと。
炎が巻き上がる。
アシェンの身体に炎の獣の牙が突き立てられていた。
後はそのまま、全身を喰らわれて焦げた死体が一つ転がることだろう。
相手がアシェンでなければ、間違いなくそうなっていたはずだった。
「なるほど、フーリの娘か」
灰色の少女は全く堪えた様子もない。
それどころか、獣の姿を失った炎をまるで自らの眷属のように使役している。
ありえないその光景を見て、女の思考は一瞬遥か彼方へと飛んで行ってしまった。
そこで、ある一つの可能性を見出す。
母フーリから何度もその名を聞いていた。
彼女がかつて仕え、そして復活を信じていた王。
人間の歴史から完全にその名が消えてしまっていても。
他のどの種族達からも忘却されていたとしても。
フーリだけは忘れなかった。
そして娘にその名を伝えた。
「あ、なたは……。魔王――ソル――様」
金色の瞳を持つ者。
魔王ソル・ア・ゼウル。
かつて哀しみの世界を焼き尽くし、炎と共にこの地を去った王の中の王。
元より、女が勝てる相手ではなかった。
全身が震え、力が抜けていく。
その場に跪き、無意識の間に頭を地に擦り付けていた。
「母より使命を承り、お待ちしておりました。――わえは貴方の忠実なる僕、フーヤオでございます」




