筋肉が足りない
アシェン達が集落の外れでリーベルの話を聞きながらうつらうつらとしているころ。
空に昇る明るい月を背に、カイは訓練場でひたすらに剣の素振りを繰り返していた。
訓練場といっても、それほど大した施設があるわけではない。ちょっとした空間を柵で区切り、小屋に木刀や重りなどの器具を並べてあるだけだ。
「298! 299! 300!」
300回の素振りを終えて、カイは額に浮かんだ汗を拭う。今しがた走り込みを終えてきたその身体には疲労が見えるが、まだ訓練は終わらない。
目を閉じれば脳裏にあの男の姿が蘇る。
紅い髪の巨体に、圧倒的なまでの力。
それまでカイにとって絶対であった戦士、父を一撃で葬った悪魔のような男。
――そして。
灰色、と呼ばれていた少女。
彼女はカイにとってエリンの友達だった。そしてそれ以上でもそれ以下でもない。
カイ自身が正義感に溢れた少年であるから、目の届く範囲で差別から守っていたことはある。
だが、それだけだ。
状況を改善するように働きかけたことはない。そこまで関心を抱く人物ではなかった。
ある日、彼女は変わった。
まるで別人のように。
立ち振る舞いも、喋り方も全く違う人物のようだった。
その力は圧倒的で、ゴブリンを瞬く間に倒し、カイや父が全く歯が立たなかった男、ウァラクを退けた。
「追いつけない、こんなんじゃ」
無心になろうとするが、一度生まれた雑念は消えない。
灰色の少女の小さな背中を見た。
これまで幾度となく見てきた妹の友人の背は、カイの知るそれではない。
あまりにも大きく、そして自信に満ちた頼れる姿だった。
「守られてばかりじゃ、駄目だ」
灰色の少女は妹だけではない。
生き延びた人々も救い、守ろうとしてくれる。
本来ならば、それはカイがやらなければならなかったことだ。
あまりにも無力だから、代わりにやってもらっているだけの話だ。
雑念を振り払うように、ひたすらに剣を振るう。
その回数が更に百を超えたところで、背後から声が掛けられる。
「精が出るな、人間の若者よ」
振り向くと、そこには一人のエルフが立っていた。
エルフ族の端正な顔立ちに、それとは似つかわしくないほどに鍛え上げられた筋肉。
エルフの長、イルニカだった。
「……あんたは」
「イルニカだ。君は?」
「……カイ」
「いい名だ」
お世辞だろう。
気にせず素振りを続けようとすると、それをイルニカの声が止めた。
「焦っているようだね」
「悪いかよ」
知ったような口調で、知ったような言葉を述べる。
それに対する苛立ちを隠そうともせずに、カイは剣を振り上げる。
それを振り下ろす前に、更にイルニカは続けた。
「私が見るに、君に足りないものがある」
「……なんだよ?」
まさか、筋肉とか言いだすのではないだろうか。
そんな不安は見事に的中した。
「筋肉だ」
ムキッと、上腕を見せつけるポーズをとる。
エルフの男達はどいつも妙に露出が多い恰好をしている。イルニカも例外ではなかった。
「それはそうかも知れないけど。多分、それだけじゃ駄目だ」
カイは考える。
例え少しばかり……いや、少しではなくイルニカほどの肉体を手に入れたとしても、ウァラクに勝てるのだろうか。
答えは恐らく、否だ。
「本当に強い奴等を知ってるんだよ。そんな見せかけみたいな姿になっても、勝てやしない」
「それは聞き捨てならんな。我々とてこの筋肉に誇りを持っている」
「……誇り、か」
父も同じだった。
自分達の血筋に誇りを持っていた。
今は雌伏のときと自らに言い聞かせ、いつかは帝国を打倒しようと策略を練り続けていた。
その結果がこれだ。
誰も彼もいなくなって、本当に僅かに生き残った者達でこうして人間じゃない種族の世話になっている。
「俺が聞いたエルフってのは、魔法とか弓を操る種族だって」
「弓は使うぞ。エルフの強弓は木の幹ごと敵を射抜く。それはかつてのエルフ達にはできなかったことだ」
「魔法はどうしたんだよ?」
「捨てた」
「捨てた?」
一瞬、イルニカの表情に揺らぎがあった。
もっとも、それに気付いて指摘できるほどカイは成熟した人間ではない。
「君の目には、私と同じものが宿っている」
「何の話だよ?」
「何かを憎んでいるんだろう? ……いいや、自分の弱さを」
イルニカの言葉は思いのほか鋭く、カイの胸を刺した。
思わず取り落としそうになった剣を、慌てて掴む。
「ふふっ、我等エルフは洞察力に優れているのさ。魔法を捨て筋肉を手に入れても、その力は消えていない」
「洞察力って……」
それで納得できる話でもないが、事実としてイルニカはカイの胸の内を暴いて見せた。
「私も同じだ」
「同じ?」
「自らの無力を嘆き、憎み、その源泉である魔法を捨てた。そして筋肉という力を手に入れた」
「……何のために?」
「我が民を護るためだ。そのためには力が必要だったのだ」
その瞳には決意が宿っている。
ふざけているわけではない、紛れもなく一つの部族を引きいる長としての決断がそこにあったのだろう。
そんなことを想像するに容易いほど、イルニカの目は真剣だった。
「夜の散歩はこれぐらいにしよう。明日も朝から鍛えなければならないのでね」
「あ、ああ……」
言いたいことだけを言って、イルニカはその場から去っていく。
それを見送るカイの胸の内には、これまでの悩みとイルニカの言葉は渦を巻き続けていた。
「無力を嘆き、憎む……。いろんな奴がそうやって生きてるんだ、この世界は」
カイだけの話ではない。
イルニカの言葉が嘘でないとすれば、それはきっとこの世界ではありふれた話なのだろう。
誰もが奪われ、踏みにじられ、無力を嘆く。
そして自分自身の弱さを憎み足掻いているのだ。
「……お前は、俺達を救ってくれるってのか……?」
灰色の少女の行く末、彼女が成そうとしていること。
それは今のカイには、到底想像もできないことだった。




