母であった人
炎に巻かれた奴隷地区。
その一角で、エリンは信じられないものを見るような目で自身の母を見つめていた。
エリンとカイの母親は、常にボルスの隣で彼を支え続けていた。滅多に何かを主張することもなく、言ってしまえばボルスのいいなりのような女性だ。
それでも息子であるカイには愛情を注いでいたし、エリンに対しても多少の距離はあれど母親として接してくれていた。
そんな彼女が、血走った目で集まった女や子供に命令している。
「なんでもいいから武器を取って! 女子供と見れば帝国兵は油断するはずよ!」
その号令を聞いても、動きだせるものはいなかった。
そんな話を聞いたことはない。つまりこれは、この土壇場で思いついたあまりにも愚かな悪足掻きということだ。
ボルスの命令によって、ここに住む者達全員で帝国兵と刺し違えようとしているのだ。
母の手には、調理に使う包丁が握られている。殆ど研がれてもいない錆びついた刃で、本当に人を傷つけることができるのかすらも疑わしい。
「何をしているの? このまま帝国兵達に蹂躙されて、殺されたいの? 屈辱に塗れた死よりも、奴等を一人でも多く殺しなさい!」
そこに、一人の女性が立ち上がる。
傍らには彼女の息子が、服の裾を摘まんで不安そうに二人のやり取りを見つめていた。
「に、逃げましょうよ。戦いなんて男達にやらせて、わたし達だけでも……」
言葉が最後まで語られることはなかった。
彼女の悲鳴が炎の中に響き、それに合わせるように子供の泣き声や女達の息を呑む声がした。
ざっくりと、女は肩の辺りを包丁で斬られていた。
当然斬りつけたのはエリンの母だ。焦点の合わない目で、エリン達を睥睨している。
「夫であるボルスの言葉よ。女子供は武器を持ち、一人でも多く奴等と刺し違えること。それがわたし達が護れなかった祖先達の誇りへの、せめてもの慰めになる。さあ、武器を持って!」
そうまでしても、その場から動くものはいない。
次第にエリンの母は焦れ始め、包丁を振り回しながら叫ぶ。
「もう何人か斬らないとわからないみたいね! どちらにしてもわたし達はここから逃げられない! ここで戦士として死ぬことが、一番の幸福なのよ!」
そのヒステリックな叫びを聞いて、エリンは理解してしまった。
恐らくは、もう彼女は生きることに疲れているのだ。
奴隷として暮らす日々に心が摩耗し、そしてボルスの言葉が、いつか死に場所がやってくることが彼女に救いになっていた。
そこまで考えて、エリンはこの場にアシェンがいないことに気がつく。
「……アシェンは……?」
彼女の呟きに真っ先に答えたのは、すぐ傍にいる母だった。
「死んだわ」
なんてこともなく放たれた言葉に、エリンは絶句する。
「理由はわからないけど、灰色の寝ているテントが徹底的に破壊されていたのよ。本当、最後まで役に立たない子」
その言葉を聞いて、エリンはもうこの母親の傍にはいられなくなっていた。
何よりもアシェンが死んだという言葉を信じることが出来ず、走りだそうとする。
そのエリンの手を、母が掴んで引き留めた。
「離して!」
「駄目に決まっているでしょう! あんたはあの貴族に気に入られてる! あんたが貴族を殺さなきゃならないのよ!」
「わたしにはそんなの関係ない……!」
「関係あるわ! あんた、散々うちのご飯を食べてきたでしょう! うちの子供として振る舞ってきたでしょう! わたし達とは違うのに!」
「そんな……!」
「お金になって、利用価値があるから育てていたの! 餌は沢山上げたんだから、役に立ちなさい!」
「あっ!」
ぐい、と逃がさないように母がエリンを引っ張る。
何とか逃げようと抵抗するも、今のエリンでは大人の力には適わなかった。
そうやってもがいているうちに、事態はより最悪へと近づいていく。
事の成り行きを傍観していた女達から、悲鳴が上がる。
その理由を確認するまでもない。いつの間にか炎に照らされて、帝国兵達がエリン達を包囲していた。
「くっ……!」
「やっと見つけた」
帝国兵達の間から、一人の貴族が現れた。
「もしかしたらどさくさに紛れて兵士に殺されてたかと、肝を冷やしたよ。まったく、ウァラクの兵は荒すぎる」
帝国貴族、ジェレミーは他の人物など全く意にも介さず、エリン達に近づいてくる。
それを見たエリンの母は、エリンから手を離すと包丁を構えてジェレミーへと突撃した。
「帝国貴族!」
「ジェレミー様!」
だが、それも無駄なことだった。
ジェレミー配下の兵がいち早く反応し、彼女を剣で斬りつける。
横合いから袈裟懸けに斬られたエリンの母は、そのまま悲鳴をあげることもできずに崩れ落ちる。
彼女が倒れ、炎で照らされた地面に血だまりが広がっていく。
少し遅れて、背後の女達から恐怖の悲鳴が上がった。
「逃がすな!」
その場から走り去ろうとした女達は、帝国兵達に槍を突きつけられて即座に動きを封じられる。
「驚いたな。まさかこんな無謀を働く奴がいるとは」
そういいながら、ジェレミーは倒れた母の死体を足蹴にした。
そのままエリンに向かって手を差し伸べる。
「お迎えに上がりました、僕の天使」
ここが炎に巻かれ、今もなお虐殺が行われている場所とも思えないような、気取った声色の表情。それが一層、エリンにとっては目の前の男に対しての不気味さと不快感を増大させる。
「以前から君のことは知っていたよ。奴隷地区に置いておくには勿体ない、まるで荒野の花だ。それに聞いた話によると、君は魔法使いの血筋らしいじゃないか」
エリンの戸惑いや恐れなど無視して、ジェレミーは言葉を続けていく。
「まさしく僕の伴侶に相応しい。もし君があの失われし血統の一族ならば、僕は帝国をこの手に収めることすら不可能じゃない!」
「何を……言っているの……?」
エリンの頭の中は、状況に全く追い付いていない。
目の前の貴族の求愛も、母が殺されたことも、余りにも遠い世界の出来事だった。
「今は戸惑うのも無理はない。でもすぐに君も目覚めるはずさ、愚民を支配する立場にね。おい!」
ジェレミーが声をかけると、槍の包囲が狭まる。
子供の泣き声と、女達の命乞いが交じり合って、まるで趣味の悪い合唱のように響いた。
「やめて!」
「いいや、駄目だ。君にはこんなくだらない情は捨て去ってもらう必要がある。貴族として暮らすんだ、奴隷の死にぐらい慣れておけ」
「……わたしは貴族になんかならない」
ジェレミーから距離を取ると、母の手を離れ足元に転がっていた包丁を拾い上げ、切っ先を彼に向けた。
「やれやれ……。どうやら、どちらの立場が上かわからせる必要がありそうだ」
エリンが何かをする前に、ジェレミーはその手を打って包丁を落とさせる。そしてそのまま、エリンの首に手をかけた。
「あ、ぐっ……!」
ギリギリとエリンの首が閉まる。
呼吸が出来なくなり、一瞬で視界が白く染まっていった。
「殺しはしないよ、ちょっとしたお仕置きさ。さあ、一緒に薄汚い奴隷共の悲鳴でも楽しもうじゃないか」
「ぐ、う……た、す……け……ア、シェン……」
エリンの意識が飛びかける刹那、帝国兵の槍が女子供達を串刺しにしようと突き出される。
その場の誰もが死を覚悟し、心が絶望に囚われた瞬間。
一陣の風が、帝国兵達の視界を奪っていった。




