夜の始まり
ある日の夜。
アシェンはいつものように、隙間風が寒いテントの中で目を閉じて半分眠りかけていた。
毎日の日課である水運びもそれなりに習熟してきて、今では上手くバランスをとることで同時に三つの桶を運ぶことができるようになっている。
明日は四つに挑戦してみようと、そんなことを半ば閉じつつある意識の裏側で考えていると、すぐ近くにあるカイ達の家から何やら揉めるような声が聞こえてくる。
何事かと気にはなったが、カイの家ということはつまりはそこにはボルスがいる。理由もなくあの男と顔を合わせるつもりはなかった。
なんとなしに耳を澄ませて聞いていると、聞こえてくるのはエリンの声だった。決して大きくはないが、彼女なりに声を荒げているのがわかる。
急ぐような足音。
それからほどなくして、テントの入り口が開かれてアシェンは目を開いて視線だけをそこに向けた。
「アシェン」
涙声で、エリンが名前を呼ぶ。
それは今ここにいるアシェンのことなのか、それとももう既にいなくなってしまった灰色の友人のことなのか。
そんなことはアシェンにとってはどうでもいいことだった。
「珍しく騒がしいな」
「……聞こえてたの?」
「内容までは知らんがな」
「……ごめん」
「何を謝る? 元気なのはいいことだぞ」
何故揉めていたのかを、アシェンが尋ねることはない。
エリンが話したければ話せばいいし、黙っていてもいい。
しばらくの沈黙ののち、エリンはアシェンの傍まで歩いてきた。
「今日はここで寝る」
どうやらそれはエリンにとっては確定事項のようだった。
アシェンの許可もとらず、ぼろぼろの布の中に潜り込んでくる。恐らくは、これもかつてアシェンであった誰かにとってはさして珍しいことではなかったのだろう。
アシェンは特に抵抗することも抗議することもなく、自分のすぐ横に入り込んできた温もりを受け入れる。
抱きしめることも慰めることもせずに、しばらくの時間をすごした後、エリンは自分から口を開いた。
「お父さんが、わたしを貴族に売るって」
「ほう」
「この間きた貴族の、ジェレミーって人が……わたしを気に入ってるからって。魔法使いの家計の血は、価値があるみたい」
「確かにそれはそうかも知れんな。魔導師共は知識だけでなく、自らの血脈に魔法を刻みつける。そうやって代々力を強くしていくものだ」
「……わたしはどうせ捨てられたから、そんな力なんてないのに」
「そうとも限らんがな。いずれ、お前も自分の力を知ることがあるだろう」
「……お父さんは、わたしを道具としてしか見てなかった。ううん、道具以下の売り物だった」
「……まぁ、そうだろうな」
「……アシェン。わたし、貴族に売られちゃうのかな?」
胸に当たりに手が伸びてきて、アシェンの来ている服を掴む。
「おい、服が破れるだろう。ただでさえ大した作りじゃないんだ」
そういっても、エリンは掴むのをやめない。
まるで赤ん坊のようだと嘆息しながら、アシェンは彼女の頭に手を乗せた。
そしてそのまま優しく髪を梳いてやる。
「何を馬鹿な心配をしている」
何も言わず、エリンがこちらを見上げる。
笑うこともせず、ただ淡々とアシェンは答えた。
「この身体の持ち主との契約だ。わたしはお前を護る、あらゆる災厄と悲劇からな。そして、お前が笑える世界を創ってやる。それが奴との契約だ」
「本当にそんなこと……」
エリンはそこから口を噤んだ。
その疑問を唱えること自体を無意味と気付いたのか、それともアシェンを信頼してのことなのかはわからないが。
それから少しして、服を掴む力が弱まっていく。
気付けばいつの間にか、エリンはアシェンの胸元に顔を埋めながら、安らかな寝息を立てていた。