ごめんなさい
エリンは裁縫の仕事に向かい、アシェンはまた一人になる。
別れ際にエリンは心配そうな顔をしていたが、すぐにもうアシェンは彼女に心配されるような人間ではないと気付いて去っていった。
その際に見せた寂しそうな表情には、少しだけ思うところがあったが。
「あら、アシェン」
洗濯をしている女に、桶に入った水を渡す。
「あんたは凄いねぇ。二つも運んでこれちゃうなんて」
以前アシェンを邪険に扱った中年女性は、笑顔で桶を受け取った。
「人一倍働いてくれるおかげで助かるよ。少し休憩しててもいいからね」
あの時とは全く別人のような対応だった。あの日のゴブリンとの戦いから帰還してから、少しずつ周囲のアシェンに対する態度は変わり始めていた。
多くの者達はアシェンに対して懐疑的な視線を向けるだけに過ぎないが、家族を救われたものは話が別だ。
例え病気で先がなくても、貴族のお遊びでゴブリンに殺されていいわけがない。家族とはそういうものだった。
だからそんな態度の変化にも、アシェンは言及することも気に留めることもなかった。
エリンはその現金な対応に少し顔を顰めていたが、人間とはそういうものだろう。結果を見せて信用を得る、アシェンがそうした結果に過ぎない。
「ねえ、アシェン。エリンのことだけど」
「……どうした?」
女は何ともいえない、迷ったような顔をしてエリンが裁縫をしている石造りの建物を見ている。
「その、ボルスさんの話なんだけどね。妙な噂が聞こえてくるの」
「妙な噂?」
「ええ。この間ここにきた貴族のね、ジェレミー様なんだけど……。あの人、エリンに気があるみたいで」
「ほう」
「だからね……。ボルスさんが、その……」
女がそれを最後まで口にできなかったのは、恐らくエリン達の父であるボルスに対して複雑な感情があるからだろう。
エリンは少しばかり人見知りで口数は少ないが、真面目に働くいい子だ。だからこそ目の前の女も、エリンについて身を案じているというわけだ。
だがそれでも、ここ地域をまとめるボルスを裏切るわけにはいかない。女の言葉にはそんな感情が込められていた。
「……何の話かわからんな。仕事に戻る」
だからアシェンは、敢えて突き放した物言いをする。
ここで余計なことを吹き込まれたことになっては、女の立場も危うくなるかも知れないと。
「あの貴族が、エリンを……。それに父親がな」
先程エリンが何かを言いかけたのには、そういった理由があったのだろう。彼女自身、薄々と自分が何処かに差し出されるような予感があったというわけだ。
何よりもエリンは、そうすることでしか自分がこのコミュニティの役に立てないと信じ込んでいる。彼女にそう思わせるだけの淀んだ空気が、ここには充満していた。
空の桶を二つ持ち歩いていると、建物の角からアシェンよりも小さな影が飛び出してきた。
「おっと」
目の前に現れたのは、子供だった。
アシェンと同じようなぼろを着たその姿には、見覚えがある。
この身体になった初日に、石をぶつけてきた子供だ。
「なんだ?」
子供は何か言いたげな顔でこちらを見上げている。
そのまましばらく黙っていたが、やがて意を決したかのように口を開いた。
「アシェン姉ちゃん、ごめんなさい」
「何の話だ?」
「……えっと、あの……。石をぶつけたり、他にも色々……嫌なことして……」
どうやら昔から、アシェンという少女に対して何かとちょっかいを掛けていたらしい。
呆れつつも、それに対して今怒りを向ける理由はアシェンにはなかった。
「……父ちゃんが、こっそり教えてくれたんだ……。ゴブリンから助けてくれたのは、ひょっとしたらアシェン姉ちゃんだったかもって」
「さてな」
どうやらあのとき一緒にいたのが、子供の父親のようだった。直後は記憶が混乱していたようだが、後になって思いなおし、自分の子供にだけはそう伝えたのだろう。
「アシェン姉ちゃんって強いの?」
「かも知れんな」
「帝国をやっつけて、おれ達を奴隷じゃなくできる?」
「難しいな。私は強いが、お前達全員を護れるわけじゃない。護ってやる理由もないしな」
「そんな……」
「だからお前は少しでも強くなれ。そして然るべき時に家族や隣人を護ってやれる意思を持て」
「……意思……?」
どうやら子供にはまだ難しい話のようだった。
だがそれでも、伝えておく必要がある。少年が心まで弱り、誰かに頼り切りな生き方を覚えないように。