魔王の名
「いつから気付いていた?」
特に動揺するわけでもなく、アシェンはそう尋ねた。どちらにせよ、永遠に隠し通せるとは思っていない。
そのまま歩き出すと、エリンもその後を付いてくる。
「……多分、はじめから」
「本当か?」
「多分」
エリンが多分という言葉を重ねたのは、そういう意味だろう。
最初から違和感には気付いてた。それでも目の前の少女が別の人物と入れ替わっているとは思えなかった。
それは単純にそんなことが実際にあるわけがないし、何よりも本人が信じたくなかった。
夢の中で話した灰色少女の言葉が本当ならば、二人は強い絆で結ばれた仲だったのだろうから。それこそ、死の淵に瀕してなお幸福を望むほどに。
「友だったのか?」
二人は路地を曲がり、次第に人気がない場所へと進んでいく。
「親友だった」
「そうか」
謝罪も、慰めることもない。
ただ淡々と、エリンから事実を聞いてそれを受け入れる。
「たった一人の、親友。お父さんもお母さんもわたしのことは邪魔みたいだけど、アシェンだけがわたしを必要としてくれた」
「カイがいるだろう」
「お兄ちゃんはわたしを守ってくれたけど……でも、ちょっと違う」
カイがエリンを大切に想っているのは間違ってはいない。ただその気持ちの半分ぐらいは、両親にそういわれたからだ。
聡いエリンは、それを察していた。
「二人で仕事をして、こんな魔法が使えたらいいなって話をして、アシェンが読んだことのある本の話を聞かせてくれて。わたしはそれが何よりも楽しかった」
「寄り添って生きてきたのだな、お前達は」
この奴隷地区で。
希望を摘み取られた大人達に、奇異の目で見られながら。
他に寄る辺もない少女二人が互いを想いあうのは、或いは依存に近い状態であるのかも知れない。
だからといって、それを否定するほどアシェンは無粋ではない。彼女達の想いは、彼女達が思うがままにあればいい。
やがて二人は、あの場所に辿り着いた。
砂地にはまだ赤い染みが僅かに残っており、砕けた石碑の欠片が半分埋まっている。
「ここが奴が死んだ場所だ」
「……どうして」
「理由は知らん。私が目覚めたとき、奴は祈っていた。そこに私がいることも知らなかったようだがな」
「……そう」
どうやら、エリンも理由は察しているらしい。恐らくそれは具体的な何かではなく、誰かの八つ当たりやそれに近しいことなのだろう。
たったそれだけの理由で、一人の少女が命を落とした。
「っ……!」
エリンが膝をつく。
灰色の少女が眠った場所に蹲り、嗚咽を漏らした。
一見無感情にも見える少女が見せたその強い感情に胸がざわついたのは、アシェンの中にまだ灰色の少女が眠っているからだろうか。
「もう、嫌だ」
少女が震え、くぐもった声が響く。
「もう嫌だよ、こんな世界」
「そうだな」
「何もしてないのに。悪いことしてないのに、どうして奪われるの? 本当のお父さんもお母さんも、友達も……!」
「世界とはそういうものだ」
アシェンの知る世界は、こことそう変わったものではない。
ひたすらに理不尽で、都合が悪く、喜びの倍の嘆きが響き渡る。
そんな場所が、アシェンがかつて生きていた世界だ。
――そして、だからこそ。
アシェンは反逆した。そんな世界に、理不尽に屈してなるものかと己と周りを奮い立たせ、全てを壊し尽くそうとした。
それは多分、ここでも変わらない。
アシェンのやるべきこと、あの帝国貴族達の裏に見え隠れする陰。
そして何よりも一人の少女との約束。
それら全てが、一つに集束しようとしていた。
「私が壊してやる、こんな世界は」
ぽん、と。
エリンの頭に優しく手を置いた。
「……そんなこと……」
「できる。それをやろうとしたのが、かつての私だ。お前の親友との契約に従い、お前が幸福になれる世界を創ってやろう」
そのためには、この奴隷地区が邪魔だ。
希望を奪われ、他者を痛めつけることで少しでも己を慰める弱者が邪魔だ。
その上に君臨する、帝国とやらが邪魔だ。
だから全てを壊す。
ここから始めると、アシェンは己に誓ったのだ。
「……貴方は、何者なの?」
「私の名は」
アシェンは口にする。
既にこの世界では失われた、かつて世界を震撼させた者の名を。
「ソル・ア・ゼウル。かつて世界を焼き尽くさんとした、魔王だ」