オレンジで塗りつぶせ
保健室という場所は、一度入ってみると意外に快適である。また同時に、本来自分の居場所で快適であるはずの教室という場所がもはやそうではなくなる。僕が考えているのは、いわゆる保健室登校の事だ。僕の場合は学校を楽しもうとも思っていない、教室での出来事についてすべて他人事のように気にしすらしていないのだから、そもそもの居場所もないが。僕はゴールデンウイーク明けからここに入り浸っている。養護教諭いわく校内最速の保健室登校者らしい。以来、僕は出席と単位を計算しながら、強かに学校生活を送っている。保健室は僕にとって、トイレの個室を除けば最も安心できる場所だ。いつも、ベッドに寝っ転がって本を読んで、スマホから音楽を聴く。誰に叱られることもなく、時が過ぎるのを待っている。
だけども、今日は先客がいた。時々、けがをしたりとかあるいは体調不良で人がやってくる事はあったが、それにしてもベッドに横たわってぐっすりと眠っている人間を見たことはなかった。僕は、昼前のこの時間にぐっすり眠っているこの女の子は昼夜逆転の破天荒な生活を送っているに違いないと思って、そのたくましさに畏敬の念を抱いた。近寄って、その姿を見てみると(これは下心があってのことではないし、男だろうが僕はそうしたにちがいない)髪は長く、肌は白く、なんというか全体的に線の細い女だった。この外見で中身が僕の想像通りなら、それ以上に素晴らしいことはないなと思った。だが、真面目に考え直してみると、体調不良というのがもっとも妥当な理由だろう。
いずれにしても僕の憩いの場はこの来訪者の存在もあって、いまいち寛ぎにくい。しかし、教室でも肩身が狭いのにここでもそれではいよいよ不登校に戻ってしまうので、虚勢を張りつつも、彼女から距離のある椅子に腰かけ、いつものように本を開いた。それに、考えてみるともしかしたらこの子もクラスでは居心地の悪さを感じているかもしれないし、同族のよしみとして起きた時には優しくしようと思った。
本に夢中になってしばらくして、ベットの方から物音がした。僕は彼女が仕切りのカーテンをしっかりと閉めていないのもあり、あまり視線を向けるのは嫌だったので、平安貴族のように本で顔を隠しながら様子をうかがった。
今座っている位置からは直接は見えないが、僕は動く気配を感じた。
寝返り、布と布がぶつかる音がして、うーんといううめき声が聞こえ始めた。具合が悪いのだろうかと思って、僕はどうしようかと迷う。これで見て見ぬふりをするわけにも行かぬと思って、僕は本をたたんで立ち上がった。歩いてカーテンの仕切りのあたりまで行くと、彼女は両手で踏ん張って、その長い髪をベッドにたらし、止まっていた。
「大丈夫?」
彼女は両手をつきながら、頭をあげその色白の顔を向けて言った。
「うーん、まだ」
おそらく家族に話しかけるような口調で彼女は言った。
僕はその距離間に動揺して、何と返せばいいのかわからなかった。
「誰?」
「おはよう」
言っていなかったが、僕が他人と会話をするのはかなり久しぶりである。かつては行ってきますからただいままでなにもしゃべらないことも珍しくなかった。いまでは行ってきますとも言わないが。
変な奴だと思われているらしい。彼女はいったん目をそらして、手をベッドに伸ばし、再びベットに戻った。これはなかったことにされたかもしれない。彼女も寝ぼけていたし、なかったことにできそうではある。水に流そう。というわけでトイレに行こうと考えた。
「ねぇ、今何時間目?」
あぁ、会話は続いているらしい。
「もうすぐ4時間目が終わるよ」
「そ」
そういうと彼女はベッドに座り込んで、まだ眠そうな様子でうなりながらこちらを見てきた。
そのうち、自分がこの不審な男にあまりに馴れ馴れしく話しかけていたことに気づいたようで、若干気恥ずかしそうにこちらを見てきた。
「朝にね、お母さんが、送ってくれたの」
その取り繕う様子はいかにもな思春期の少女らしさがあった。しかし、それにしても寝すぎではないだろうか。僕の想像を超えた眠気というものがあるのかもしれないと思って納得しようとした。
「ぐっすり寝ていたね」
結局遠回しに尋ねる。
「朝、なかなか起きられないんだ。そういうビョーキでさ」
ということはなんだ、あまりに起きられないけどとりあえず学校までは引きずってきたということなのだろうか。僕も不登校の時に親に引きずられながら車に乗せられ、惨めに泣き叫びながら車の打で踏ん張って抵抗するもむなしく、失敗し登校したことはあるので気持ちがわからなくもない。しかし、初対面であまり踏み込むものでもないなと思ってこれ以上は聞かないことにした。
「そうなんだ、まぁでも僕みたいなサボりじゃなくて、ちゃんと理由があるんだし本来保健室にいるべきは君なんだろうな」
「サボっているの?まだ学校始まったばかりなのに、そういうえば君も、1年生?」
「そうさ」
なんだか意外に僕は会話ができるらしい。
「私もそうなの。でも、学校始まってちょっとしたらこうなっちゃって」
「それは、なんというか気の毒だね」
僕は話し過ぎている。教室じゃあ女子とは全く何の会話もないのに。
「でも、お母さんも送ってくれるしなんとかついていかなくちゃと思って」
彼女もよく話す。細い声で、しかし耳によく届いた。
「がんばっているんだね」
これは本音だった。しかし同時にこのままいくとどこかで限界がくるのではないかという予感があった。とはいえ今あったばかりの女の子にそんなことを言うつもりもない。
僕はそろそろ会話の種が尽きるなと思って、保健室を出ることにした。
「お昼食べなきゃだから、僕は行くね」
「うん、それじゃあ」
彼女は手を振って僕を見送ってくれた。僕も振り返した。つい先ほど初めて会った人間にするしぐさではないが、なんだか僕もこの場所にいるとに余計な事を話過ぎるのかもしれない。問題を抱える人間が来るこの場所だからだろうか。そんなことを考えながら僕はポケットに手を突っ込んで教室へと歩いた。それにしても、相変わらず、廊下はわけのわからないSNSに上げるためのダンスをしている人間がたくさんいて、僕はそれを避けなければならなかった。制服の詰襟が首につかえる不快感に気づき、それから逃れようと僕は顎を突き上げて、態度の悪い学生のように歩いた。
お昼を食べるといっても僕にはそんなに重要なことじゃない。というのは誰と食べようとか、どこで食べようとか、お弁当の内容やあるいは購買で何を買おうかという楽しみがないからだ。学校という場所はいつでも退屈で、僕の場合は努力を怠ると途端に会話の相手を失い、それがひたすらに続く。わざわざ得体のしれない他者に対して介入を試みる物好きは存在しない。いや、物好きといったがこれは他者への欲望の押し付けに過ぎない。僕にもできないことを他者に求め、またそれがやってこないことを嘆くなんて言うのは卑怯者のすることだ。
とにかく、僕には友達がいない。学校が終わればすぐに家へと帰るし、毎日同じ作業をこなすだけだ。サボっているのも、なにか甘美なひと時という感じもなく時間を進めるための暇つぶしといえる。お昼ご飯は当然一人で食べる。
自分の席について、今朝詰めた冷凍食品だらけの茶色い弁当を食べながら、僕は彼女の事を考えた。
入学してから初めておそらく会話らしい会話を行った彼女について。
同じ学年らしいが、僕は彼女を以前見た記憶がない。A組からG組まであるこの学校で社会性の皆無な僕が人間一人の顔を覚えられるはずもないが。しかしあの状態では、交友関係を広げるのも難しいだろう。彼女が教室でどのように過ごしているか、僕は気になった。どこの組なのかも聞かなかったし、名前もわからない。こう今になって思い返すと、およそあれは会話と呼べるものではない。名前も名乗らず、自分の弱い部分を垂れ流すだけ。僕が彼女に同情したいのではなく、僕が彼女に同情してほしかったのではなかろうか。僕は自分の卑しさにうんざりし、とりあえず立ち上がって、トイレにでも行くことにした。
便所、いやレストルームは僕にとって文字通りの休憩所である。生理的欲求が起こらずとも僕はそこへ行く。座ってひじをひざについて、ロダンのブロンズ像のように考える。いや、考えているわけではない。純粋に時間が過ぎるのを待っている。いつも僕は何かを待っている気がする。だけど、それに対してどう反応すればいいのかわからない。手を伸ばせば届くのかもしれないが、それを恐れて縮こまってしまう。なにもしないことで、なにか気分がよくなる気がする。
座っているとそのうち、足音が聞こえてきた。バタバタと大人数が小走りでやってきたようだった。
声を荒げてはしゃいでいるようで、思わず僕は息をひそめた。なんとなく、こういう人たちとは関わりたくなかった。だが、彼らは人がいるらしき個室を見つけると、ノックをしてきた。僕は対応に迷った。僕はいまいちこういうものが苦手で、うまい対応が浮かばない。とりあえず、気さくに返事をすることにした。
「入ってまーす」
あまり言い方が硬いとかえって不愛想に思われるかもしれないので自分でも驚くほど柔和な声をひねり出した。
「おい、入ってるじゃねぇかよバカ!」
そう一人が吐き捨てると、彼らは大声で笑いながらトイレを出ていった。あっけに取られてしばらくして、僕の脳は状況を理解した。次第に脳に血が上って、頭が熱を帯びてくる。あふれ出そうなそれを急いでしまいこんで、僕はうずくまった。いつもこうだ。この、押し付けられる感情のごみが僕を埋め尽くす。僕がそれを吐き出せば、とたんに見世物になる。それは避けなければいけない。時がたてば、忘れはしなくとも熱は冷める。
毎日、僕だけがここで異質な、しかしそれでいて目立たないが完全なる部外者であることを突き付けられる。同じ制服を着て、日々を同じ空間で過ごしているのにも関わらず。いやむしろ、それがいっそう僕の存在を滑稽なものにする。元から異物だったのか、あるいはなにかきっかけがあったのか定かではないが、僕は漠然と前者なのだと思う。
僕は教室に戻った。教室をのぞくと僕の席は、スカートの短い女子の一団に占領されていた。僕は声をかけるのも億劫になって彼らが去るのを待った。
僕は今日も惨めな一日を終えてバス停へと向かった。この辺はバブル頃にできた団地で、行きかう人は老人かあるいはここの学生かだ。学生たちの乗る自転車のスピードは高齢者の命を奪うのに十分で、青春を謳歌する生を代表するような存在である高校生とおそらく死を待つだけの老人が触れるか触れないかというその光景は僕の退屈を十分紛らわせた。時々担任からあんまりスピードを出すなとか注意はされているが、そんなことは誰も意に介していないように僕には見える。いつにもまして気分が重い。保健室でのことも夢であったかのように現実は厳しく僕に直面してくる。むしろ、ああいう妙なことが起こると、いつも通りのはずの生活も耐えられなくなってくる。周りの人間が過ごす普通を一瞬体感しただけでも、僕のこの日常の中身のなさ、またそれを覚悟とともに受けいれるでも反抗するでもなく、ただ流される僕の意志薄弱さを突き付けられる。電車に揺られながら僕は過ぎゆく街並みととどまる僕の姿を眺める。もう空はだいぶオレンジで、気づけば今日も過ぎていく。




