出会い_Ⅲ
以前から、その男の存在は認識していた。
あくまで噂程度の話だったので、実在しているのか怪しかった。
国民には、12歳の時にワクチン接種が義務付けられている。全ての病気に掛からないためのものだ。
また、個人の好きなタイミングで不老不死の手術も受けられる。手術といっても、入院の必要は無く、短時間で済む。施術は、薬品を注射器によって脳に注入するだけ。薬品が脳を刺激し、人体の指令系統を麻痺させ、老いを抑制するのだという。
20歳になった時点で、この手術を受けるのが通例になっている。ほとんどの人が、20から30歳の内にこの手術を受ける。若々しい姿で生きたいという欲望には、抗えないのだろう。
そのどちらも受けていない男がいるというのが、巷で噂になっていた。
男は、人里離れた山奥に住んでおり、その姿を見たものは誰もいない。
では、なぜそんな噂が立ってしまうのか。
随時撮影されている航空映像によって、山奥の中に家があるのが分かったからだ。
その山は、動植物の保護区になっていて、人の手が全く入っていない。
電気も水も通っていないので、とても人が住める場所ではない。
そんな所に、家を建てる物好きがいる。きっと変人に違いないだろう。
そんな憶測によって、噂話が出来上がったらしい。
確かに人は住んでいるかもしれないけど、ワクチン接種はしていないというのは嘘だろう。
小鳥のさえずりが、あちこちで聞こえる。
姿は見えないが、聞いたことのない鳴き声もその中にある。
ゆっくりと流れる小川には、魚が泳いでいる。その中にも、見たことのない種がいる。動植物に関心のない私でも、その種が珍しいものであると一目で分かった。
こんな環境が、この国に存在しているとは驚きだ。
街では高層ビルが建ち並び、ドローンや車が空を飛び交っている。
街中にも植物は植えられているが、どこか人工的なものを感じさせた。
ここまで手付かずの自然に触れるのは初めてだ。
木々の間から、眩しい光が差し込んでくる。
遠くから、微かに滝の音が聞こえてくる。
携帯で、現在地を確認する。目的地まで、あと2時間程度だと音声で伝えてくる。
電波は問題なく届いているみたいだ。
山奥だと言っても、標高は数百メートルなので、運動不足の私でもなんとかなりそうだ。
小川の脇にある岩に腰を下ろし、乾いた喉を潤す。
足の疲れをとるために、裸足になり小川につける。
思った以上に冷たく、反射で足を引っ込める。
また、ゆっくりと小川に足をいれていく。
冷たさが、足元から体内に染みこんでくる。
ここへたまに来るのも、悪くないのかもしれない。
大分、山奥まで入って来た。目的地まで、あと少し。
足の疲れも溜まってきている。もうそろそろ家が見えて来ても良いころだが、まだ見えない。
こうやって来たは良いものの、不安はぬぐえない。
どんな人が住んでいるか分からないし、取材に応じてくれるのかも怪しい。
何の収穫も無いまま、来た道を帰るのを想像すると、憂鬱になる。
そんな気持ちを抱えながら、険しい山道を進んでいく。
家は、鬱蒼とした森を抜けた所にあった。その場所だけ開けていて、太陽の光を取り込んでいる。
外観は、家というよりも倉庫に近い。
平屋で、2人で住めば手狭になってしまうような小さなものだ。
木造建てで、老朽が激しく、外壁の木は朽ちている。
囲いも無いので、強風にさらされれば吹き飛んでしまうほど、脆弱に見える。
玄関横の格子戸からは、中の様子は見えない。家の奥には縁側、その前には井戸がある。
縁側に近づこうとしたところで、背後から声を掛けられる。
「そこで何をしているんだ」
その大きな声に反応し、小鳥たちがバサバサと飛び立っていく。
振り向くと、男がナタを持って立っていた。もう一方の手には、鳥が握られている。
掴まれている首から下がだらりと垂れ下がり、鳥が死んでいるのが分かった。
男は薄汚れた甚兵衛を身にまとい、肩まで伸びた髪は乱れている。
顎髭も伸びていて、まさに仙人と呼ぶにふさわしい姿をしている。
ただ、背筋は伸びていて、体格もがっしりしている。もしかすると、案外若いのかもしれない。
男の目には敵意が滲んでいる。返答次第では、ナタで襲ってくる可能性もある。
「私は振興新社のサハルと申します。
アポも取らず、伺ってしまい申し訳ありません。
今回は貴方のことを取材するために来ました」
大袈裟な笑顔を作り、社員証を表示した携帯画面を男に見せながら言う。
「小娘に見えるが、本当はそうではないのかもしれんな」
視線を私の顔から足元まで移動させ、男がポツリと言う。
その声には蔑みが滲んでいた。男の態度により、噂の現実味が増してきた。
「すみませんが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
笑顔を崩さすに、恐縮しながら言う。名前で呼ぶことで、距離を縮められると雑誌で読んだ気だする。
「ウィトゲン」
不機嫌そうな顔で、男が言う。
周囲から聞こえる小鳥のさえずりにかき消されそうな、小さな声だった。
確認のために、再び名前を呼ぶと、男が小さく頷く。
「ウィトゲンさんがここで暮らし始めてどのくらいですか?」
男は質問には答えずに、家の玄関に向かって歩き出す。待つように言っても、全く聞く耳をもたない。
「あなたが、ワクチン接種や不老不死の手術を受けていないと噂になっています。
それは本当でしょうか?」
すがりつくように、矢継ぎ早に質問する。
玄関の取っ手に手が掛かったところで、男がこちらを振り向く。
「本当だが、それが何か問題なのか?
そのことで、私は罪に問われるのだろうか?
別に誰にも迷惑は掛けていないと思うが」
男が冷たい視線をこちらに向けてくる。
何も言い返すことが出来ない。確かにワクチン接種を強制する法律は無く、個人の自由なのだ。
「不安にはならないのですか?お一人で暮らしているのでしょう。
病気になったら、どうするんですか?
ワクチン接種するだけで、その不安から解放されるんですよ」
反抗するように、強い口調になってしまったのを後悔する。
男はその様子に驚き、目を丸くする。
「その様子だと、君は接種しているんだね。手術も同じように。
君はそれで幸せなのかね?」
沈黙の後、ゆっくりと男が言う。
「もちろん幸せですよ。いつまでも若々しく、健康で生きていられるんですよ。
こんなに素晴らしいことがありますか?」
私は躊躇なく、男を見つめたまま結実とした声で言う。
男は頭を左右に小さく動かし、こちらを見てくる。
「私はそれを幸せだとは思わないよ。
本当にそれは幸せなのだろうか?」
男はそう言い終えた後、ドアの向こうに消えてしまった。
私はただ呆然と立っていた。小雨が降り始め、雫が頬をゆっくりと伝っていく。
部外者を追い出すように、木々たちがバサバサと揺らぎ始めていた。