疲弊
ビルのフロア内に、悲鳴が響き渡る。
窓外に、飛行機がこちらに向かってくるのが見える。
息を飲もうとしたその瞬間に、凄まじい閃光に包まれる。
ベッドから飛び起き、夢だったのだと安堵する。
自分の荒い息遣いだけが、暗い部屋の中で響いている。
時計を見ると、まだベッドに入ってから、1時間も経っていない。
自分では気づかないほどに、精神的に追い詰められているのが分かった。
死への恐怖が、そうさせていた。
ただどこかで、考えすぎでは無いかと思う自分がいる。
本当にプロトの話は真実なのか。
その疑いが、頭の中をつきまとう。
プロトという警察官など、そもそも存在しなかった。
私は、質の悪い詐欺師に騙されていたにすぎない。
その可能性も否定できないのでは無いか。
そんな都合の良い考えに頼ることで、自分を保とうとしていた。
現時点で言えるのは、あの話を口外しないということだ。
どこで見張られているのか分からないので、そうするほか無いだろう。
あとは、何も行動を起こさないことだ。記者を辞める必要もあるだろう。
そうすることで、少しは自分の身を守れると思う。
何もしない蟻ほどの存在を、巨大な象が躍起になって殺そうとはしないだろう。
携帯にゴウからの着信が入る。
この上ないタイミングだと思ったが、外はまだ夜明け前だった。
要件は、予想通りイミの件だった。
勘違いであったと、はぐらかし、退職の意向を伝える。
それを聞いたゴウは、あっけないほどすんなりと認めてくれた。
まるで、それを予想していたかのようだった。
電話を切り、カーテンの隙間から外を確認する。
無数のドローンが、薄暗い空をせわしなく飛び交っている。
そのどれもが、この部屋の様子を伺っているのではないかと思えてくる。
また、一日が始まると思うと暗澹とした思いになる。
逃れたいと思った。この街や生活から。
これから生きていくためには、それが何よりも必要だろう。
イデアに、遠く離れた諸島の映像を映し出すように指示する。
人がいない、木々が繁茂する世界。
廃人のように、私は何時間もそれを見つめていた。
事件から、2か月が経った。
最初の頃は、メディアで頻繁に報道されてはいたものの、今はそれに時間を割かれることはなくなっていた。まるで、事件など無かったかのようだった。
ネット上にあった、加害者生徒の情報もきれいさっぱり無くなっていた。
何かの力が働いているなど、誰も夢にも思っていないようだ。
森や小川の映像が、絶え間なく部屋の壁に投影されている。
お腹についた贅肉をつまみながら、陰鬱な気持ちになる。
あの日から、一歩も部屋を出ない生活が続いていた。
テーブルや床に、ゴミが散乱している。
女としての尊厳はとうに失っている。
ただ生きる事だけを考えて、この生活を続けていた。
依然として、プロトの携帯はつながらず、行方は分からないままだ。
事件と同じように、プロトの存在も消え去ってしまったかのようだった。
彼の記憶と共に、あのホテルで聞いたことも全て忘れてしまいたかった。
死の恐怖に怯えることなく過ごせる日々は、戻ってくるのだろうか。
そうでなければ、いっそ死んでしまった方が良いのかもしれない。
そんな考えに囚われるようになっていた。
久しぶりに携帯へ連絡が入った。表示を見ると、プロトからのものだった。
電話を取るべきかどうか迷う。相手はプロトでない可能性が大きい。
携帯の呼び出しは、途切れることなく続いている。
このまま、恐れて逃げ回っても何も変わらない。意を決し、電話を取る。
「ごめん、何度も連絡くれたみたいだね。
ちょっと理由あって、電話出来なくてさ」
携帯からは、プロトの陽気な声が聞こえてきた。
あれほど聞くに堪えなかった声が、今の私の心を落ち着かせてくれた。
「無事だったんですね。安心しました」
「無事だったって、どういうこと?
サハルちゃん、俺のこと心配してくれていたの?」
プロトのあまりにも素っ頓狂な様子に、呆れそうになる。
「私に捜査情報を伝えたことで、何かあったんじゃないかって心配していたんです」
数秒間考えたあとで、あのことかと笑いながらプロトが応じる。
「あの話ね。どうやらデマだったらしいんだ。
ごめんね、俺も本当だと信じていたからね。
でもサハルちゃん、報道しなかったでしょ。良かったよ。
報道していたら、サハルちゃんの会社大変なことになっていたよ」
言葉とは裏腹に、特に悪びれる様子もなくプロトが言う。
余りのいい加減さに、言葉が出てこない。
これまでの、私の恐れは一体何だったのか。
怒りを通り越して、滑稽に思えてきた。
プロトは懲りることなく、また食事でも行こうと誘ってくる。
私はそれを軽くあしらい、電話を切る。
緊張の糸が切れたように、安堵しゴミが散乱している床に座り込む。
とんだ取り越し苦労だった。自分を笑ってしまいたくなる。
力が抜けてしまった体を起こし、カーテンを閉め切った窓へと向かう。
隙間から、光が差し込んでいるのが分かる。
カーテンの裾を両手で握りしめ、左右へ力一杯に開く。
眩しいほどの光に包まれ、目を開けることが出来ない。
ゆっくりと目を開けると、そこには変わらない街の景色があった。
ビルの谷間をドローンや、車が行き交っている。
心の中で、時が動き出した感覚を覚える。
また、この一部になると思うと心がザワついてくる。
ただ、死を恐れる事はもうないのだ。
そう思うと、この人間味の無い街並みが少し美しく見えた。
窓を開けると、数か月ぶりの新鮮な空気が部屋に入ってくる。
ゴミが不気味な音の合唱を始める。まずは、これをどうにかしないといけない。
床のごみをかき集め、袋に放り込み、両手に持って玄関のドアを開ける。
太陽の日差しと、強い風に包まれる。
大きく息を吸い、背伸びをする。
私は生きている。
部屋着のまま、階段を駆け下り、ゴミ捨て場へ。
私を見たおばさんが、驚いた顔をしている。
まるで、ウィトゲンを初めて見た時の私のような顔だった。




