空中散歩
冬の朝の肌を刺すような静けさが好きだ。
ぼくが起きてまず初めにしたことは、熱いお湯を沸かしてカップにコーヒーを入れることだった。
窓から天井を照らすように朝日が差す。布団の中で温まった肌を冷たい空気が撫でていく。
開け放った窓から透き通る冷気が染み渡って、カップからは真っ白い湯気が立ち上る。床に胡坐をかいて、背中を丸めながら飲むコーヒーはひどく苦い。
白い息でため息をつきながらぼくは空を見上げる。
昨日までは厚い雲が空を覆って、ちらちらと粉雪を降らせていた。
雪に沈む街が好きだ。だんだんとピントがずれていくように、街の輪郭が雪の中に滲んでいって、窓辺は陽の光とも雷光ともまた違う、ひどくそっけない白に輝く。そこには色も冷たさもなくただ純粋で、一切の混じりけのない現実だけがあった。
夜のうちに雪は止んで、あんなに分厚かった雲もどこか別の場所へと流れていったらしい。今はさっぱりとした高い空に点々と雲が浮かんでいる。朝日を受けて橙に輝く雲が綺麗だ。そしてその色を幽かに映す濡れた路面はまるで深い深い河のようにどこまでも透き通って見えた。
ちびちびとコーヒーを口に含んで、舌の上で転がして、そしてごくりと飲み込む。ざらざらとした苦味の中にまろやかな甘味とかすかな酸味、そしてその熱がゆっくりと喉の奥を通って腹の内へと流れ込む。
裸足の足が心地いい。冷たく感覚のなくなった肌と爪が、まるで一つの作品の様に横たわる。もはや何も感じなくなるまで冷え切って、あらゆる言葉が薄くなって消えていく。
痛いとか、苦しいとか、もうやめたいとか、そういうことを言う自分の体が嫌いだ。どうせそんなことを言ったって何も変えられない、それがわかって猶つまらないことを騒ぎ立てる。
コーヒーを口に含む。ちろちろと喉をあぶる痛みは、胸の奥にある痛みを忘れさせてくれる。
陽の昇る瞬間、街は静寂に包まれる。昼間の騒がしさとも、息をひそめる夜の気配とも違う。すべての存在がその日の出を待ち望んで、東の空に浮かぶ白日に眼を細める。その瞬間だけ全てが平等で何者でもない。本当の静寂とはきっと何も求められる必要がないことをいうのだ。
立ち並ぶマンションの隙間から朝日が差し込む。夜の暗闇に息をひそめていた者たちが、いそいそと退散する。どうせならぼくもあの光の中で嘘のように消えてしまいたい。
自分が何のためにここにいるのかそれをずっと考えてきた。どこからきて、どこに立って、そしてこれからどこに向かうのかを。
自分にしかできないことがあると昔言われたことがある。この世に意味のない人間などいないのだと。
実家を出てこのマンションに来てからもう数年がたったが、ぼくはまだそれを見つけられずにいる。何のためにここにきて、何がしたくてここにいる。
問い続ければ答えらしきものはいくらでも出てくるけれど、ぼくはそれがどうしようもなく嘘だと知っている。まるで単語帳でもめくるように、暗記したものをただ無感情に繰り返しているに過ぎない。
例えば「君はどうしてここにいるんだ」と聞かれたら、ぼくはきっと答えられない。何か正しいことを、少なくとも嘘でないことを言おうと思えばその瞬間に、ぼくは自分の中が空っぽであることに気が付く。
あなたは誰ですかと聞かれて、私はわたしです、と答えられるようになりたい。何が好きとか、何が嫌いとか、それだって結局は設定でしかない。すべてを人と比べたがる人が嫌い。その中にしか自分を見出せない人が嫌い。そして人と比べなければ何も語ることができない自分が一番嫌いだ。
文字で目をふさいで、音楽で耳をふさいで、そうやって逃げ込んだ先に救いなどない。ただゆっくりとよどんで腐り落ちていくだけだ。
例えば目をつむって、耳をふさいで、鼻をつまんで、口をつぐんで、そうやって全ての感覚を絶ったのならば、そこには何があるのだろう。何もないのだろうか、それともどうやっても消すことができない自分があるのだろうか。
気が付くとマグカップは空っぽになっていて、口の中がひどくべたついていた。
ずっと前から決めていた。
ぼくはカップを床にそっと置いて、ゆっくりと立ち上がって、ふらつく足で床を踏みしめた。
今自分がどこにいるのかはわからなくても立つことはできるなんて、性質の悪い冗談のようだ。
貧血でふらつく頭を振って、うーんと伸びをして、胸の中にまっさらな空気を取り込む。
さあ。ぼくはだれにいうでもなく、そうつぶやくと、窓辺に歩み寄る。朝日に涙がにじむ。
からからと窓を開けてベランダに出る。打ちっぱなしのコンクリートは冷え切っていて、そのそっけなさがひどく心地いい。
ぼくはもう一度深く息を吸い込んで、そしてすべてを吐き出すように息を吐いた。
あと数分もすれば町が目覚める。自分以外の誰かが息を吐く気配などもううんざりだ。
そうしてぼくはベランダの柵に足をかけて、それをゆっくりと乗り越えた。
ここは七階、真下には黒いアスファルト。乱立する建物の中にぽっかりと開いたその穴は、昼間でも日が差さないし、めったに人が来ないことも確認済みだ。
細い柵の上によろよろと立ち上がって、風に背中を押されるように、ぼくは空中に最後の一歩を踏み出した。
無意識のうちに強く目をつぶる。踏み出した足がどこまでも果てしなく落ちていく。傾けたカップからコーヒーが流れ落ちるように、ぼくはまだ暗い空の中に飛び出した。
自分の人生の最後の瞬間にいったいぼくは何を思うのかずっと考えていた。
悲しみか、喜びか、無力感か、虚無か。昔のことを思い出すのだろうか、最近のことをかみしめるのだろうか、あるかもしれなかった、あってほしかった未来を見るのだろうか。
最後まで窓辺に残っていた左足が滑り落ちる。
ごうという風の音が耳を打つ。果てしない流れの中にあるような風が、ぼくの全身に打ち付けてそして遥か後方へと抜けていく。
意を決して目を開けると、そこには残酷なほど鮮やかな景色があった。立ち並んだビルが赤い朝日を受けて燃えるように光る。その隙間に沈んだ駐車場はまるで乾いた傷口のようだ。
すべてが水あめの様にゆったりと崩れ落ちていく。顔の左半分が朝日を受けて熱い。羽織っていたフリースがもぎ取られて宙を舞う。
風に晒された目から、つっと涙が落ちる。ぼくはそれを無造作にぬぐって目を凝らす。
そうかこれがぼくの人生の最後の瞬間か。ゆっくりと地上が迫る。
その時ぼくが感じていたのは名前もないような苛烈な感情だ。悲しいでもない、うれしいでもない。感動と絶望と憧憬と感傷が入り混じったような不思議な何か。もう何を思っても意味がない瞬間に、それでも感じずにはいられない何か。すべての感覚の先にある何か、昔はそれを知っていて、でもいつか見失ってしまって、いつかそこに戻りたいと思って追い求める何か。
ぼくは自由だ。唐突にぼくは思う。踏みしめるものも、噛み締めるものも、自分の意味すら手放して、そして最後に残ったのは結局自分自身だ。
今死のうというぼくはこの世で一番生きている。
顔を焼いていた光が不意に途切れる。並び立つ高い建物とその中にある暗く湿った駐車場、まるで大きく空いた化け物の口に飛び込んでいくように。生臭く湿った空気が吹きあがる。
そしてついに地面が目の前に。頭から落ちる。
砂利の一粒一粒が見えて、指を伸ばせば触れられそうになって、息をふっと吹きかけられる距離になって、髪の先がちょんと触れて。
ぼくは静かに目を閉じた。
次の瞬間。
ぼくは風の中に立っていた。
ぎゅっと目をつぶって数瞬、痛みは訪れない。まだ意識もある。顔の正面から風が吹きつける。穏やかな風だ。
足の下に何かを踏みしめている。固くて冷たい何か。平坦ですべすべとしている。冬の池に張った氷に似ている。
ぼくは恐る恐る目を開けた。
まず飛び込んできたのは累々と続く、墓標のようなマンション群だった。
ぼくはボーとその見慣れた景色を眺める。
ゆっくりと視線を落とすと、自分の体が見えて、二本の手が見えて、足があって、その下にぼくが飛び降りたはずの駐車場が見える。
振り返ると自分の部屋が見える。古いマンションの七階の部屋、自分の机と椅子があって、床の上にはまだ洗っていないマグカップが転がっていた。冬だというのに開け放たれた窓でカーテンがぱたぱたとはためいている。そこにいるはずの住人の姿は見えない。
町が動き出す気配がある。空気を幽かな声と車のエンジン音が震わせる。その中でも、その七階の一室だけは置き忘れられたかのように静かだった。
ぼくは空中に立っていた。
自分の足が何もない虚空を踏みしめている。足の下には何もない、遥か下までただ風の吹くだけの空間が広がっている。
どうして。
ぼくは確かに自分の部屋から飛び出したはずだ。最後に窓枠を蹴った感触をまだ覚えている。落下の浮遊感も、果てしない感動も、永遠にも思えたあの最後の瞬間を確かにぼくは経験した。
確かに死んだはずだ。
ぼくは空の中で呆然と立ち尽くした。ゆっくりと開いていく瞼のように、山の端から日が昇る。
人生が終わったはず瞬間はまだ頭の中に残っている。だんだんと近づいてくる鈍色の大地と、上の方から降りてくる瞼の黒をぼくは確かに見たはずだ。
跡形もなく消えてしまいたかったのだ。ぼくという存在がどうしようもなく砕け散ってしまうことを願っていたのだ。そうして自分の人生という物語が終わってくれるものと思っていた。
町が動き出す。どこかの部屋で目覚まし時計が鳴り響いて、炊事を始めた人の気配がある。道を踏む足がある。前を見る目がある。息を吐く多くの人が動き出す。そしてすべてから取り残されたぼくがいる。
誰にも見られていないことなんて知っていた、そんなことを期待してなんていなかった。でもどうしてかひどくつらい。
当たり前のことだ、あまりにも当たり前でそんなことは分かっていた。数瞬前にこのぼくの下にある駐車場できっとぼくは死んだ。恥も外聞もなく、死ねば何かが変わると思って飛び込んだ。でも誰もそれに気がつかない。
ぼくがいなくたってちゃんと町は動き出す、ぼくがいなくなっても日は昇る。君のことなんて知らないよ、東の空に輝く太陽がそう言っている気がする。
ふざけるな。
ぼくは叫んだ。
悪い冗談のようだ。ぼくがいなくたって何の問題もないじゃないか。こうして世界から忘れられたままつ、ついにだんだんと消えていくことがぼくの意味なのか。
悲しい。
何もない空の上でぼくは膝をついた。
金属の板のような冷徹な何かがぼくがもう一度落ちることを許さない。
もう一度飛び降りれば消えることができるのだろうか。
ぼくは衝動的にこぶしを握り締めて、足元に振り下ろす。激突の痛みも音もなく、拳はそこにぶつかった。何度殴りつけてもびくともしない。
ふらふらと立ち上がって、眼をつぶって一歩を踏み出す。
でもやっぱり足の下には何かがあって、ぼくはもう何も踏みしめていないのに、まだその二つ足で立っていた。
ぼくはそのまま空を歩き出した。
ごうごうという風の音が累々と続く建物の間をすり抜けていく。そのなかでぼくはただ一人、足元にある世界を眺めながら歩く。どんなに鋭くとも、ぼくの服の裾が揺れることはない。まるでそこだけがこの世界に最後に残された楽園の様に、時間が静止したように風が通り過ぎていく。
遥か遠くから照り付ける太陽の白い光が、すべてを貫き通すように降り注ぐ。窓ガラスがキラキラと輝く。街の底にわだかまった暗闇が端から削り取られて晒される。きっとそこにしか生きていられない者がいる。暗闇に塗り込められた嘘の世界にだけ輝くものがある。照らされて、ふたを開けてしまえばもう取り返しのつかないことがある。光の中に誰もいない路地が立ち現れた。
人と鳥と様々な機械の発する音が空気を震わせる。果たして世界はこれほどまでにうるさいものだっただろうか。指先がひどく冷たい。
道には沢山の人が歩いていた。少し背中を丸めて、必死に誰かと目を合わせまいとする群衆が、河のように流れていく。
ぼくだってきっと少し前まであの中に居た。でももはやああして歩く彼らが一体何を思っているのかはわからない。
少し顔を上がれば動き出した街とそこを無数の影が見える。そしてまるでその上に覆いかぶさるように築かれた高いビルが、いくつもの影を呑んでいくのが見える。そしてもう少し目を上げると、そこには青い空とどこまでも続く水平線がある。
きっとあの空はぼくが生まれる遥か昔からあそこにあって、きっとこれから先もずっとあり続けるものだ。何も特別でもないし、きっと美しいものでもない。
遥か上から、動き出した街を見つめる。のっぺらぼうの墓標の中に無数の黒い点が流れ込んで消える。人はあんなにも小さい。
ぼくは空中を歩き続ける。高い建物の屋上を足元に見て、鳥の声も届かない。裸足の足が見えない床に吸い付いて離れる。見れば冷え切った足の甲は真っ白で、まるで一塊の石膏のようだ。もうそこには感覚なんてないけれど、離れるたびに足の裏をなでる冷たい空気が、まだぼくが落ちていないことを教えてくれる。どんなに耳を澄ましても聞こえるのは、風の音ととぎれとぎれになったエンジン音だけだ。足音は聞こえない。
雪の積もる道が好きだった。真っ白でキラキラと輝いて、足音も何もかもを吸い込んで。冬の道の染入るような静寂が好きだ。
積もったばかりの新雪に自分の靴の跡をつけるのが好きだった。裸足で雪の上に乗るのはもっと好きだ。千切れそうなくらいに冷たくて、でもだんだんと何も感じなくなって、血の気の引いた足に幽かに残った血の赤みを見るのが好きだった。それがどれだけ温かかったかを知るのが好きだ。
まっさらな雪もいいけれど、誰かの歩いた足跡をたどるのも好きだった。どんな人かも、いつそこを通ったかもわからないけれど、確かにその道を誰かが歩いて、ぼくより前にその景色を見た人がいると分かるのが好きだ。
つまらない感傷だ。
ぼくの中にも楽しいことがあった。こうやって思い出して懐かしめるものがあった。もうどうしようもなく失われて、もう二度と戻っては来ないけれど。だからこそ、それがどれだけ大切なものだったのかが分かる。それがただ純粋に懐かしい。
自分の手の中にあるものにいったいどれほどの価値があるというのか。明かりを落とした部屋で幾度そう思っただろう。自分よりも優れた人も、自分より美しい人も、自分より立派な人もこの世には大勢いて、そう考えると自分がひどく汚くてつまらないものに見える。
ポケットを裏返しても、そこにはもうなんだかわからないものがたくさん入っている。きっとそれは自分にとって掛け替えのないものだった、でも最早それをどこで見つけてどんな名前だったのかも思い出せない。
長い長い道をあるく中で、ぼくはたくさんのことをあきらめた。何かを選び取るためにほかの無数を裏切った。そのたびにポケットの中で何かが砕けて、ぼくは意味も分からずにそれを埋めて背を向ける。
そうやって歩いて来た先で、ある時ふっと立ち止まる。振り返ると始まりも終わりも見えない道がどこまでも続いていて、その傍らには何かを埋めた無数の痕跡がある。
すべてを犠牲にしてまだ猶手に入れられないものは、果たして本当に自分が命を懸けるべきものか。
ひとたびそう思ってしまえば、自分の先に続いていた道がひどく恐ろしいものに見える。この道はどこにも続いていない。
慌てて引き返して、自分が盛った土を掘り返して、でもそこにはもう何もない。
気が付くと道も何もない霧の中で一人蹲っていて、あんなに輝いていたはずの星ももう見えやしない。そうしてぼくは思うのだ、自分は何かを間違えたんじゃないか。もうどうしようもなくなったその場所で、答えるものは誰もいない。
きっとぼくは苦しかったのだ。何もわからないことが怖かったのだ。不安で不安で仕方なかったのだ。
だからぼくはサイコロを投げ捨てて、本の最後のページをめくるようにして身を投げた。期待していたものとは違ったけれど、永遠に何も起こらない世界は、何も起こらないかもしれない世界よりずっと気楽だ。少なくとも何かに怯える必要はもうどこにもない。
何かを食いつぶすように毎日を過ごしていた。何かから目を背けるために空を仰ぐ。それでもひたひたと歩み続ける音がする。何かが迫ってくる音、もうどうやっても避けようもない何か。それは僕ではない誰かの足音。ぼくの傍らをゆったりと通り過ぎて、水平線の彼方へと消えていく。ぼくの足音は聞こえない。
早朝の静謐な気配はとうに消え去っていた。
足早にどこかへ向かう人々が通りにはあふれ、みな一様にどこかを目指して歩む。滞留する無数の点は、コーヒーから立ち上る湯気の小さな水滴に似ている。
日はもうすっかり高くなり、大地を這うように伸びていた長い影は足元に残るだけだ。それでも冬の空気は冷たく、群衆の間を吹き抜ける風は鋭かった。吐いた息が白い。
ぼくはビルの屋上のそのまた上から道を流れる人々を眺めていた。
どこへ行くでもなく、ただ足の向くまま歩いて来た。誰に気兼ねをする必要もない。足の下にある世界を眺めていると、時折建物の窓に反射した光が目を射った。反射的に目をつぶって、にじみ出た涙をぬぐって、そっと顔を上げると、そこには遥か彼方まで続く山々と、その上にかかる白い雲、どこまでも続く人のいない世界が横たわっている。頭の上には冬の晴れた空が広がっている。白い靄のような朝の光はいつしか消え失せて、今は絵の具で描いたような青空が広がっていた。
人の瞳の奥に広がる暗がりが好きだ。それを覗き込むことが好きで、同時にそうされることを恐れていた。
人の目を覗き込むと眼窩の奥の暗がりに何かが動くのを見ることがある。言葉になる前の感情や、そもそも言葉にならないような様々な何か。それを見ているのが好きだった。
きっとぼくらが言葉にできることは限られていて、本当に大切なことを口にすることは許されない。それが分かって猶まだ言葉に縋るから、救いようのない言葉が部屋に散らばって、いつしか身動きが取れなくなってからその虚しさに気が付くんだろう。
言葉にならないことを伝えられる人がいる。言葉になる前の感情を意味に囚われる前の音に乗せて、風が吹くように鳥が歌うように、そっと吐息に乗せるものがいる。それがとてもうらやましい。
色々な人を見てきて、色々な言葉を知ってきた。でもぼくの言葉はいつまでたっても幼いままで、どうしたって核心には届かない。
きっとその瞬間にしか言葉にできないことがあって、それだけを必要とする人がいる。本当に言うべきことが、生み出されなければならないことがあって、でもぼくはため息を吐き出すばかりで、最後には判で押したように『仕方ない』と繰り返す。
ぼくは言葉が嫌いだ。言葉によって失われてしまうすべてが悲しい。それでもぼくは言葉なしに生きてはいけない。
他人の吐き出す言葉がこの世にはあふれていて、少し街を眺めれば高く掲げられた沢山の言葉が目に入る。誰に宛てられたものでもないけれど、永遠に叫び続ける。それがうるさくて仕方ない。語られるべくして語られた言葉ほど美しいものはないけれど、意味もなく吐き捨てられて無限に消費されていく言葉はひどく虚しい。
誰かが命を懸けて紡ぎだした言葉に触れていたい、その突き詰められ張り詰めた言葉をかみしめたい。ただそれだけを耳にして、それだけを口にしたい。
もう人の聲も聞こえない空の中で、遥か足元で誰かの口が動くのが見える。囂々と風がビルの間をすり抜けていく、ただそれだけしか聞こえない。もう誰かに語り掛ける必要も、聞きたくもない誰かの叫びもない。すでに失われた自分の言葉だけで出来た世界は静かで満ち足りていて、とても空虚だ。ここは自分だけの場所で、誰も訪れることはない。
その時ふっと日が陰って、顔を上げればいつしか山の向こうから灰色の雲が沸いていた。幾重にも重なった山々の隙間からしみだすように、それが風に千切れてだんだんと空を覆っていた。
気が付いたときには、ぼくは吹雪の中に居た。
空に浮かぶぼくの頭よりもさらに高く、頭上を厚く覆った雲の底から白くてかたい雪が降り注ぐ。
轟々という風と頬を打つ雪の中で、しかしぼくの服の裾はやはりピクリとも動かない。
手を前に出せばたちどころにその中に綿毛のような雪が降り積もる。でもそれは冷たいばかりでいつまでたっても溶けることはなかった。しんしんと冷えた空気の中で指が痛い。手のひらの中で複雑に絡まった雪の結晶が、キラキラと輝いた。
顔を上げてみても光は見えてこない、ふっと視線を下げてみれば足元には様々な色がある。赤い光、青い光、いくつもの傘が道を忙しそうに流れていく。白くかすんだ世界の中で、その点々とともる灯りだけが、そこに誰かが生きていることを語っていた。
力を失った手がだらりと垂れる。手の中にあった塊が風の中に投げ出されて、あっけないほど簡単に消えていった。いつかあそこにある傘のどれかの上に降り積もるのだろうか。
悲しくはない。寂しくもない。それが嫌だから、嫌だったから僕は空の中に飛び出したのだ。もうどうやっても涙は出てこないし、そんな資格はぼくにない。
どうしたって変えられないものがあって、どうしても耐えられないことがある。
ぼくはまた一歩足を踏み出した。
吹雪はどんどん激しくなって、もう上も下もわからない。
でも踏み出したぼくの足は何かを確かに踏みしめて、ぼくが落ちていくことを許さない。
光の中に富んだ世界の中で、眼下の冷たい光がなぜか泣きそうなぐらい温かい。
シャボン玉のようにふあふあと浮かぶ光を踏みしめながらぼくは歩き出す。
いつまで歩いただろうか、空から降り注ぐ光にぼくはハッと顔を上げた。
頭の上に、靴の上に、肩の上に。風に向かって歩くうちに空中に降り積もった雪がはらはらと零れ落ちていく。
見れば幾重にもからなった雲の隙間から光が漏れ、一直線に地上に突き立っていた。否、それは地面じゃない。
ざざんざざんという音が耳を満たす。ぼくはまるでずっと音を聞いていなかったかのように、音というものをすっかり忘れてしまっていたかのように、ぼんやりとした顔でそれを聞いた。
光が満ちる。
いつまで歩いていたのか、一秒か一時間か一週間か。いつの間にかぼくが踏みなれていたはずの大地は切れて、足元には海が広がっていた。足の下から幾万もの波のざわめきと、むせかえるような潮の香りが沸き上がる。
ゆっくりと振り返れば、遥か後方に空を切り取ったような山の影があって、そのたもとにあるはずの街はついに見えなくなっていた。山の端と空が解け合って、ほんの幽かな青のグラデーションを作る。目を凝らせば目を凝らすほど、その境界は曖昧で、空とも山とも海とも違うその青が立ち上る。
雲の切れ目から光が注ぐ。雲を突き破るように現れたその輝きは、冷たい空気とあふるばかりの潮騒を切り裂いて、青い水面に立ち、その中に潜りこむ。途端に色を忘れた光が青く湿っぽい気配を帯びて、しかし透明なまま海中を進んでいく。そしてだんだんと暗くなってついに、海の底へと沈んでいく。見渡す限りに広がった波が光を受けて輝く、まるで巨大な魚が鱗を煌めかせながら泳ぎ行くようだ。
耳を澄ませば海の聲が聞こえる、幾重にも重なった波の音が。湿った風が髪の間を抜けていく。
きっとこの声はもうとっくに終わっている。そんな言葉が突然ぼくの脳裏をよぎる。
遥か昔に誰かが海に向かって叫んだ声が、その水面に吸い込まれた叫びが、気の遠くなるような時間の果てに海中から湧き出して、もうとっくに意味を忘れた誰かの言葉を口にする。
もし海に物語があるのならば、それはもうとっくに終わっていて、ぼくらが見ているのはいつだってその残骸だ。最後のページが閉じられて、あとがきもエンドロールも過ぎ去って、遥か昔に繰り広げられた物語はもう二度と語られない。ぼくらはそれを懐かしみ、きっとそれを美しいというのだろう。
もうとっくに終わってしまった果てしない海の中で、その最後の叫びだけがこだまして、手遅れになった言葉たちが空に向かって溶けていく。それがひどく心地いい。
失われてしまったものを慈しみ、やっとわかったその価値に涙することはもうできない。見渡す限りに何かの骸が横たわって、もう永久に変わることはないという確信がある。
ぼくはそっと目を閉じて、潮風を胸いっぱいに吸い込んで、そして最後の一滴まで吐き出した。潮の匂いが鼻をくすぐる。
ぼくはここにいる。
そう思った瞬間、唐突に体がぐっと後ろに引っ張られるのを感じた。
振り向く間もないまま、ぼくは吹き飛ぶように後方へと吸い寄せられる。どこかで見た景色がすさまじい速度で流れていく。
海が大地に変わり、人のいない道が見えて、空を見上げる誰かがいる。街は忙しく動き、ぎらぎらという広告の光が目を刺した。
そして。
ぼくは自分のアパートの前に、その空の中に立っていた。
開けっ放しの窓の中に、白く雪が積もっているのが見える。その下に何があったかはついに思い出せなかった。
足の下には暗く湿った駐車場がある。あんなに雪が降ったはずなのに、そこだけは忘れられたように、切り取られたように、黒々とした口をぽっかりと開けていた。
空はすっかり元の姿を取り戻していた。目を凝らせば遥か彼方に千切れて飛んでいった雲の残滓がある、でもそれだって見る間みる間に小さく薄くなっていく。突き抜けるような空は、冬の空気の中にくっきりと浮かび上がり、透明な光を投げかけていた。
その時、かくんと足が落ちた。
その一瞬のうちにぼくが踏みしめていたはずの何かは唐突に消え去った。ぼくはあっけなく、そして当たり前のように再び落下する。
なんの理由も声もなく、空に投げ出されたぼくは落ちていく。ひゅうひゅうという風の音が鼓膜を打つ。
ぼくは呆然と急速に近づく地面を眺める。もうどうして空に立っていたかも、どうして空に飛び出したかもわからない。ただ空に飛び出したように墜落する。
胸の中は空っぽで、あんなに大切に抱いていたはずの苦しみも痛みも理由もなくなって、砕け散ったような静寂だけがある。ぼくが探し求めていたはずの解放感も高揚感も感じない。
落ちる。全身にざっと鳥肌が立った。
砂利の一粒一粒が見えて、指を伸ばせば触れられそうになって、息をふっと吹きかけられる距離になって、頭髪の先がちょんと触れて。
死にたくない。ぼくは確かにそう叫んだ。決して言ってはならない、言えるはずもなかったそれを振り絞るように叫んだ。
もう手遅れだ。
ぐちゃッという自分の頭が砕ける音を聞いた。
そしてぼくは死んだ。