地獄文庫 クジゴジ 2 「ぶっこわ」
9時から書き始めて17時になったら強制終了というルールで書いた物語。
物語の途中でも3行しか書いてなくてもそこで終了。
まさに地獄。読むも書くも地獄の文庫。
『ジューシー若鶏の唐揚げがたっぷり入ったお弁当480円』
有井康人の今日の昼食だ。
工事現場のガードマンの仕事をしている有井は昼休憩になるとコンビニでいつもこの弁当と炭酸水を買い、仕事場から近い公園で食べる。
公園にはベンチも多いが有井は公園の隅の花壇のレンガに腰掛け、コソコソと弁当をかき込む。ガードマンという仕事には慣れたが、警備の仕事着のまま外で弁当を食べるのにはどこか気恥ずかしさがあった。
同じように昼の時間を過ごそうと近くのオフィスから公園へとやってくるサラリーマンたちと顔を合わせないよう、できるだけ端を選ぶ。
それでも公園の鳩たちは食事中の有井を目ざとく見つけ、おこぼれにあずかろうと有井の周囲をせわしなく歩き回る。
有井は足元の鳩を眺めながら、弁当をこぼさないように慎重に口へと運ぶ。
鳩にエサはやらない。
有井の中では鳩にエサをやる人間は社会生活に溶け込めない変わり者のイメージが強く、自分はそうなりたくないという思いが強かった。だから飯の一粒だって鳩にやるまいと慎重だった。
しかし鳩そのものが嫌いというわけでもなく、弁当を食べながら鳩を眺めている時間は有井にとってそれなりに楽しい時間となっていた。
鳩にエサをやることをせず黙々と弁当を食べていると、鳩も諦めて一羽二羽と飛び去ってゆく。
未練がましい鳩だけが一羽残り、しばらく有井の足元をうろうろしていたが、その鳩を追い立てるようにピカピカの革靴が足を踏み鳴らした。
突然現れた足に有井が顔をあげるとそこには細身のスーツに身を包んだシルクハットの男が立っていた。
「素晴らしい、素晴らしいですよあなた!」
有井の前に立ったのは皺の目立つ50代くらいの男で、シルクハットにスーツという出で立ちは紳士と言えなくもないが、首元の派手な蝶ネクタイを見るとどちらかといえばマジシャンのような胡散臭さを感じる。
「公園の隅っこでコンビーニ弁当を食べるガードマン。んー、実に絵になります」
男はニヤニヤと笑いながら有井をじっとりと眺めぶつぶつと語り続ける。
「働き盛りの20代。それなのにガードマン。実入りの良い建設作業員をするでもなく、何の資格も能力もいらない工事現場のガードマンとして働き、安い賃金で貴重な時間を食い潰す。んー、なんという人生の無駄遣い。素晴らしい! なんと素晴らしい愚か者でしょう!」
そう言った男の目線が有井の食べる弁当へと向く。
「そして食べているのはコンビニ弁当! 値段は高く量は少ない。おまけに美味しいわけでもない。そんな良いところが一つも無い弁当を安い給料で暮らすガードマンが食べる。まさに愚かさが産む負のスパイラル!」
ぽかんとする有井をよそに男の言葉は止まらない。
「あなたもわかっているのでしょう? 自分の惨めさを。よーくわかっているかこそこんな公園の隅でこそこそ食べているのですよね? ああ美しい、まるでドブネズミのような美しさです」
突然現れた奇妙で失礼な男に有井は面食らうばかりだ。
ガードマンをしていれば理不尽なクレームや侮辱の言葉を受けることはわりとある。
しかしこうも奇妙な格好の男に、ただの昼食をとっているだけで絡まれるのは初めてだ。
侮辱された怒りよりも戸惑いが先行し、有井はとにかく関わらないようにと残りの弁当を慌てて口に放り込むと立ち上がった。
「待ちなさい。私の話は終わってませんよ」
「俺の昼休憩はもう終わるんだ。あんたと話すことこそ愚かで人生の無駄遣いだ」
「んー、底辺ジョークは面白みまで低空飛行ですね」
「言ってろ」
有井が背を向けて歩き始めると、男が有井の背後から言葉を浴びせた。
「聞きなさい、私はあなたに儲け話を持ってきたのです!」
「儲け話?」
「そうです、どうせあなたの仕事なんて日給一万にもならないでしょう? そんなあなたに時給に換算したら40万円はある素晴らしい仕事を持ってきてあげたのです。さあ、今すぐ振り向いて私に感謝しなさい。このような運命の巡り合わせはもう二度とありませんよ」
しかし有井は振り返らなかった。
「そんな儲かる話があるならあんたがやればいい。本当に儲かるなら人に話すわけがない」
「私ではダメなのです。あなたのような底に生きてる人でなければ深みが出ない」
「意味がわからない……」
こんな胡散臭い男に関わる理由なんてどこにもない。
昼休憩はまだまだあったがとにかくこの男から離れたくて有井はとにかく歩いた。振り返りもせず早足で歩き続けると、少しずつ男の声が遠くなってゆく。
ようやく引き離せたと思った頃、今度は有井の前方に別な男の姿が見えた。
会社こそ違うが有井と同じく警備業の制服を着た男で、年齢も20代くらいの同年代に見える。
「あんた、シルクハットの変人に声かけられてたろ、あいつほんと頭くるよな」
目の前に現れた男はそう吐き捨てると有井の背後から追いかけてくるシルクハットの変人に目をやった。
彼もガードマンというだけで自分と同じように見下すような言葉をあのシルクハットにぶつけられたのかもしれない。そう思うと有井の中で急に親近感がわいてきた。
「もしかして、あなたもやられたんですか?」
しかし、男から返ってきたのは意外な言葉だった。
「いや、どっちかと言えばあいつの仲間、かな」
「え……」
予想外の言葉に有井が後ずさると男は慌てて両手を広げてみせた。
「待った。そんな警戒するなって。あいつは手配師みたいなもんで仲間といっても俺もあいつは大嫌いだ。頼む、同業のよしみで少し話を聞いてくれないか、あいつは抜きで」
そう言って男はシルクハットの変人に向かって追い払うようなジェスチャーをしてみせた。
「実はさ、二人一組の仕事があるんだけどパートナーがいなくて困ってるんだ」
「稼げる話ってやつですか?」
「ああ、あの帽子野郎がどんな話をしたか知らんが、簡単に言うと物を壊す仕事があって、一緒にやってくれる人間を探してる」
「解体業? 悪いけど肉体労働できるほどの体力はありませんよ」
そういうと目の前の男は大きく首を振った。
「いやいや違う、解体業じゃない! なんていうかその、本能のおもむくままに物を壊すというか、破壊衝動をパフォーマンスとして表現する仕事だ。体力が必要とかそういうのじゃない」
「いやあの、全然わからないんですけど……」
男が何を言っているのか有井はまるで見当がつかなかった。
そしてその男自身も自分が何を説明しているのかわからないようだった。
「そう、全然わからないだろ! 俺もわからなかった! だからこそ一度体験してほしいんだ、そうすりゃわかるし、金も稼げる。別に騙すつもりなんてないし、騙すならもっとわかりやすくやる。だからちょっと一緒に来てくれないか」
「いや、だって午後も仕事あるし……」
「そんなのシカトすりゃいい。警備のバイト2週間分を15分で稼がせてやるから!」
「だからそうやって稼げる稼げるいうのが胡散臭いんだって!」
「実際稼げるんだから仕方ないだろ!」
男は頑なに拒否を続ける有井の態度に頭をかきむしると、ポケットの財布から一万円札を無造作に掴んで有井に突き付けた。
「10万やる! ヤバいと思ったらそれ持って逃げてくれていい、だからとりあえず一緒に来てくれ! 頼む!」
「いや、そんなこと言われても……」
しかし拒否する有井を無視してポケットに紙幣を強引に押し込んだ。
どんどんと迫力を増す男の圧に有井はたじろぐばかりだ。
するといつの間に接近していたのか、シルクハットの変人がすぐそばに立っていた。
「今井君、時間がありません。残念ですが今回は別なチームに頼みます」
「いや大丈夫だ、車を持ってこい。このまま行く!」
シルクハット男に今井と呼ばれたその男は有井の体に掴みかかると強引に引きずり始めた。
「ちょ、離せ! 行くなんて言ってない!」
しかし抵抗も虚しく、有井は公園を引きずられ、今井の手によって路上の車へと押し込まれた。
午後。
有井は車の後部座席から流れる景色をぼんやり眺めていた。
何の連絡も入れずにガードマンの仕事を放棄してしまい、何度もため息が出る。
会社からの連絡が恐ろしく、携帯電話の電源は切ってしまった。
「……一体どこに向かってるんですか?」
「さあな、どこだろう」
「無理矢理連れ去っといてそれですか……」
隣りには有井を車に押し込み、連れ去った張本人の今井が座っている。
「今から向かうのは海辺のホテルです」
運転席からシルクハットの男が後部座席の有井たちに声をかける。
シルクハットを被ったまま運転できる余裕の室内空間、揺れを感じない乗り心地。
有井たちの乗る高級セダンは海辺のホテルへと向かっている。
「ただのホテルじゃありませんよ。五つ星の超名門ホテルです。あなた達のような社会の隅で生きるような人間には本来縁の無い場所です。まあ建設工事か解体工事の時にならあなたたちでも入れるかもしれませんね」
失礼なシルクハット男の物言いは車の中でも相変わらずだ。
「コーヒーはいかがですか? あなた達の大好きな自販機の缶コーヒーがありますよ」
運転席から左手で缶コーヒーを手渡された今井は呆れた顔をしてみせた。
「こいつはいつもこうなんだ、気にするな」
シルクハット男は悪びれた様子もなく指でハンドルを叩きながら海辺のドライブを続けた。
「で、そのホテルで何をするんですか?」
今井がどうしたものかと黙っているとシルクハット男が言葉を繋いだ。
「今日は車を壊してもらいます」
「……車?」
まだまだ話の見えない有井に今度は今井が声をかけた。
「俺たちが今からする仕事は物を壊すパフォーマンスってところかな。観客は暇と金を持て余した金持ちだ。俺たちみたいな社会の底辺が憎しみや嫉妬丸出しで高級品をぶち壊すところを見たいんだと」
「……なにそれ」
有井はまるで想像していなかった今井の言葉に思わずポカンと口が開いてしまった。
「ほんと何それって感じだよな。だけど金持ち連中はこういうのが面白いんだと。金持ちの集まるパーティーとかで、いきなり仲間の車をぶっ壊して、それを見てみんなで大笑いすんの。サプライズってやつ」
「ええ……そんなことして大丈夫なの?」
まるで理解できない金持ちの世界に有井の顔が引きつったのをシルクハット男がバックミラー越しにチラリと見た。
「持ち主に内緒で壊すので大丈夫とは言えません……が、皆さん超がつく大金持ちです。面白ければ何も言いませんよ」
「その面白いってのが厄介なんだよなあ」
今井がシートにもたれかかってため息をついた。
「昔はただ物を壊すだけでハプニング的に楽しめてたらしいんだが、何度もやってくうちにただ壊すだけじゃ満足してもらえなくなってる」
そう言うと今井が有井の顔をジッと見た。
「そこであんたを連れてきたってわけだ。えーと、そういや名前聞いてなかった。俺は今井。あんたは?」
「有井です」
「オーケー。有井さん。あんたの助けが必要だ。俺と一緒に金持ちたちの前で面白おかしく破壊活動をしてほしい」
「……」
有井は言葉が出なかった。頭の中にあるのはただただ混乱という文字だけだ。
「っていうか、車にむりやり押し込まれて拒否権なんて無いようなものでしょ」
「それもそうだ……すまん。ただまあ、金だけは保証する。な、おっさん」
今井は運転席のおっさん、シルクハット男を見た。
「今回は最低保障として15万。お客様が楽しんでくださればおひねりもあるかもしれません」
「15万……」
「物をぶっ壊してスカッとした上に15万貰えるなんて最高だろ? 工事現場のガードマンなんてやってる場合じゃない。警備の安い時給で片交させられるよりずっと良い」
「そうは言っても俺、物を大切にするタイプなんだけどな……」
有井は予想外の出来事に巻き込まれ困惑するばかりだったが、まるで現実感の無いその状況を前に心のどこかには困惑とは正反対のわくわくとした感情が芽生え始めていた。
車に有井が押し込められてからどれくらい時間が経っただろうか。
日もずいぶんと傾き、美しい夕日に照らされる海岸線を走り続け、ついに目的地のホテルへとたどり着いた。
美しい砂浜のすぐ目の前に建てられた5階建ての真新しいホテルは高級リゾートホテルといった佇まいだ。真っ白な建物に負けないくらい白い砂浜がホテルの前には広がり。波が輝いて見える。
シルクハット男の運転する車はホテルの車寄せに停車すると有井たちを車から降ろした。
高級セダンから降り立つ泥で汚れた警備会社の制服を着た有井と今井、2人の男は明らかに場違いだった。
「破壊する車はホテルから見える砂浜に移動させてあります。時間が来たら連絡入れますので、それを合図に開始です。それまでは物陰で待機していてください」
そう言い残し、シルクハット男はホテルの中へと消えた。
「さ、俺たちは砂浜だ、行こう」
今井と共にホテルを回りんで砂浜方面へと向かった。
南国のヤシの植わった美しい庭園を通り、その陰から砂浜へと目をやると誰もいない砂浜に真っ赤なスポーツカーがポツンと停車している。
夕日に照らされ、波打ち際で輝くスポーツカーはまるでCMの一場面のようだ。
「どうやらあれをぶっ壊すみたいだな」
「本当にアレを壊すの? あんなピカピカで傷一つないフェラーリじゃないか……」
「そのピカピカの高級車をぶっ壊すから楽しいんだろ、あそこの金持ち連中は」
今井はホテルの窓に目をやった。
ホテルの中央にカーテンで覆われ、無数の人の影が揺らめく広間が見えた。
「いいか、今日のテーマは施設の警備員が自分には一生縁の無い高級スポーツカーを目にして嫉妬と怒りで破壊してしまうって感じで行こう」
今井はどこからかマイクとイヤホンを取り出し、自身の体に取り付け始めた。
「あんたは今日が初めてだから多くは望まない。とにかく大きな動きで車にダメージを与えてくれ。ホテルの部屋から結構離れてるから動きは大きくないと伝わらない」
「壊す……本当に壊すのか……」
「常識や理性は必要ない。あんただって怒りに任せて物を壊したい時があるだろ。それを実行すればいいだけだ。これは破壊を楽しむアトラクションなんだ。罪悪感は必要ない。ホテルの窓から見てるあいつらも、俺らも、みんなそれぞれの理屈で楽しめばいいんだ」
今井にそう言われれば言われるほど、有井の体はおかしな緊張で硬くなる。
そんな風にして物陰でジッと隠れているうち、ついにホテルの窓のカーテンが開かれた。
窓辺の人達は開かれたカーテンの先、砂浜に一台の車を見つけると指をさしたりして騒ぎ始めた。
有井の横でスマートフォンの画面をのぞき込んでいた今井がスマートフォンをポケットに押し込んで立ち上がった。
「よし時間だ、行くぞ!」
今井は背筋をピンと伸ばし、砂浜へと降り、車へと歩き始めた。
「ほら、早く! 一人じゃ間がもたないんだよ! ここまで来て稼がないで帰る気か!?」
今井に急かされ、有井も慌ててその背中を追いかけた。
車の方へと砂浜を歩きながらホテルに目をやると、数人がこちらに気付いたのか車ではなく自分たちを指差しているのに有井が気付いた。
「わかるだろ、みんなが俺たちを見てる。これはショーなんだ。覚悟を決めてエンターテインメントのなんたるかを見せつけてやろう!」
「そんなこと言われても……」
しかし有井の戸惑いをよそに歩くほどに車は近づいてくる。
気付けばもう目の前だ。
するとその瞬間、今井が叫んだ。
「おい! なんでこんな所に車が停まってんだよ! ここは砂浜だぞ、ふざけやがって!」
今井は鋭い目で真っ赤なスポーツカーを睨みつけた。
「大体なんだよ、フェラーリじゃねえか! 真っ赤なボディしやがって! 俺をバカにしてんのか!」
理不尽な怒りの言葉をぶつけると、今井はいきなり車のドアを蹴とばした。
「俺が赤いキツネばかり食ってるからバカにしてんだろ! 緑のたぬきだって時には食ってんだよ!」
今井はひねりを加えて再度ドアを蹴り飛ばした。
「おい、お前もやれ! 何で見てんだよ」
「でも……」
有井がためらうと今井は有井の体を掴み、そのまま車のボディに叩きつけた。
「痛っ! 何するんだよ!」
「おめーが何もしねーからだよ! ここまで来て何もできねえとかそんなだから底辺暮らしなんだよ! 俺の足を引っ張るならお前もボコボコにすっからな!」
車に叩きつけられた痛みで、有井は体がカッと熱くなるのを感じた。
いきなり暴力に訴えた今井に対する怒りが全身を駆け巡る。
「ふざけんなよ! さっき会ったばかりのお前にそこまで言われる筋合いねえよ!」
「言わなきゃわかんねえだろ、ほら、かかってこいよ!」
今井は車そっちのけで有井を煽った。
あまりの怒りに今井を殴ってやりたかったが、人を殴った経験などない有井はただただ拳を握りしめ、やり場のない怒りをどうしていいかわからず、思わず振り上げた拳を車のボディに叩きつけた。
「そうだ、それでいい! 人を殴るより簡単だろ!」
車のボディを殴りつけた有井を見て今井が笑った。
笑いながら車のボンネットを駆け上がり、車の屋根に倒れ込むようにしてエルボーを叩き込んだ。
「くそ! なんなんだよこれ!」
有井の中にあるのは怒りというより混乱だった。
しかしもうその混乱を受け入れるしかない。
有井は覚悟を決めて車を蹴り始めた。
「蹴るだけじゃ弱い! カギ! 鍵もってないか?」
「ある! 家の鍵!」
今井の言葉にポケットを探り、有井は家の鍵を取り出した。
「何をすればいいか俺が言わなくてもわかるよな?」
有井は黙ってうなずくと、手にした鍵で車のボディを真っすぐ切り付けた。
真っ赤な車体に白い傷入ると有井はニヤリと笑ってみせた。
もはや覚悟は決まった。
「昇龍拳!」
有井は低い姿勢から上に向かって鍵でボディを擦り上げた。
「そうだ、ボーナスステージだ! 壊せば壊すほど金になるぞ!」
今井も負けてられないとばかりに腰に手を回し誘導棒を手にした。
「警備員がみんな持ってる光る棒! こいつでぶった斬ってやる! くらえ!」
今井が飛びあがって誘導棒を車の屋根に叩きつけるとプラスチック製の誘導棒は柄を残してぽっきり折れ、くるくると回転しながら飛び去った。
「まだまだこんなもんじゃないぞ、本番はここからだ! 窓を壊して中をやる!」
今井は手に残った柄を車の窓に突き立てた。
窓を割ってドアを開けるつもりだったが、窓は想像以上に硬く、何度叩きつけても割れる気配がない。
「まずい、モタモタしてると印象が悪い! あんたも手伝ってくれ!」
「わかった!」
今井にうながされ、有井も車の窓を叩き始めた。
しかしそれでも窓には傷一つつかない。
「やばいな、このままだと本当に査定に響く。なんとかしないと……」
その時だった。
海風と共に車のボンネットに大きな影が飛び込んできた。
激しい衝突音と共にフロントガラス全面にヒビが入り、乾いた音と共に砕け散った。
「なんだ、こいつ……」
今井の目にはボンネットに横たわる男の姿が映っていた。
車のボディに負けないほどに真っ赤な全身タイツをまとった男で、その両手の拳がフロントガラスを突き破っている。
「いやー、イイね、破壊って」
真っ赤な全身タイツの男はボンネットから降り、砂浜に転がったカウボーイハットを拾い上げるとそれを静かに被った。
見知らぬ男の登場に今井も有井も一瞬呆気にとられたが、今井は冷静さを取り戻すと全身タイツの男に声をかけた。
「おい、あんたも破壊の仕事頼まれたのか? 聞いてないぞ」
「そんなものは頼まれていない。面白そうだから俺もやってみただけだ」
「だったらどっかへ行ってくれ。俺たちは仕事中だ」
「そうはいかない。俺も仕事にきたんだ」
全身タイツの男はその奇妙な風貌とは正反対の無機質な表情でジッと有井と今井を見た。
「私はタイムリミットマン。この世界に終わりを告げる無慈悲な時の鐘だ」
タイムリミットマンと名乗る男の言葉に今井は苛立ちを隠さなかった。
「悪いがお前の寝言に付き合ってる暇は無い。俺たちは今すぐこの車を壊さなきゃならないんだ。邪魔をするな!」
「そうか、だったら手伝ってやろう」
低く、冷たい声でそう答えると、タイムリミットマンは一歩また一歩と砂を踏み鳴らし、今井へと近づいた。
そしていきなり今井の頭を掴んだと思うと物凄い力で今井の頭を車のボディに叩きつけた。
二度、三度、四度、五度……
何度も何度も何の躊躇も無く今井の頭を叩きつける。
ボディと頭の骨が衝突する大きく鈍い音が辺りにいつまでも響く。
しばらく呆然と眺めるだけだった有井はようやく事の重大さに気付き、声をあげた。
「おい、何をしてるんだ。 やめろ! 殺す気か!」
「殺す気じゃない、もう殺した」
タイムリミットマンは今井の頭をまるでボールのように地面に放り投げた。
身体は力無くぐにゃりと曲がり落ち、血まみれになった今井の頭が砂の上に転がった。
それを見て有井の体が震えだした。
明らかに今井は死んでいる。目の前にある今井の身体は命を無くし、ただの物体としてそこに存在している。
「なんで、なんでこんなことを……」
震えの止まらない有井を前に、酷く冷たいタイムリミットマンの声が響く。
「悪いな、この世界は終わる時間なんだ。恨むならこの世界をそう作ったやつを恨むんだな」
「何を言ってるんだ、終わってるのはお前だろ……人を、人を殺したんだぞ……」
「仕方ない、そうするしかないんだ、物語を終わらせるためには」
まるで言葉の通じない全身タイツの男。
有井はただただ恐ろしく、後ずさった。足元の砂が有井の精神状態のようによじれる。
それを見てタイムリミットマンは腰に手を回し、ナイフを取り出した。
「これはこの世界を終わらせるタイムリミットナイフ! せっかくだからサービスで塩味にしてやろう」
タイムリミットマンは取り出したナイフを手に波打ち際に立つと、その刃を海水に浸した。
夕日を浴びたナイフがその禍々しさとは正反対にキラキラと輝いて見えた。
もはや有井は言葉すら出なかった。
蛇に睨まれたカエルのように、ただ硬直することしかできない。
「誰か……」
有井の視界の端にホテルの建物が見える。
大広間に集まった金持ちたちはこれもアトラクションの一つとしかとらえていないのか、手を叩いたり拳を振り上げてこちらを眺めている。
「真っ赤な夕日、真っ赤な車、真っ赤な全身タイツ。それとお前の真っ赤な血……」
「頼む、許してくれ……死にたくない……」
「許しを乞うのはこっちさ。本当にもう時間がない、いきなり世界を終わらす俺を許してくれ。そして受け取ってくれ、タイムリミットナイフ(塩味)」
その言葉と共に有井は風を感じた。
有井はそれが何かを理解できなかったが、その風はタイムリミットマンの投げたナイフの巻き起こした風だった。
ナイフは有井の首に突き刺さり、有井はそのまま砂浜に倒れ込んだ。
カッと首が熱くなったかと思うと、すぐに体は冷たさを感じ、その冷たさがどんどん強くなるのを有井は感じていた。
波の音だけがやけに大きく感じていたが、その波の音も徐々に遠くなり、何も聞こえなく、感じなくなった。
ただふわふわと、焦点の合わなくなった視界の中に真っ赤なものが見えていた。
その視界に広がる赤いものが夕日だったのか、車だったのか、タイムリミットマンと名乗る男の姿だったのか、有井にはついにわからないままだった。