最後の決断
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腕を引かれる。強く、強く、いざなわれる。
呪いはすでに身のほとんどに回り、足先は痺れて膝が言うことを聞かない。
ここしばらく、まともに動いていなかったエリカは、藪の中で幾度も足をもつれさせた。
走りながらけらけらと笑って、マイラはスカーフを解いた。自分が作ってやったボレロを木に引っかけて、ブラウスを脱ぎ捨てて、エリカの手を引っ張る……。
こけて、転げると、自分を引く手が離れた。嗤うようなマイラの声が、藪の奥へと遠ざかる。
『こっちだよ。さあ来て。頑張って。私も、もう陸には居られない』
喘鳴がする。心臓が強く脈打つ度、呪いが深く突き刺さるのを感じる。
マイラに誘われるままここまで来たが、どうして彼女についていくのか、自分でもわからない。
わかっていることは一つだけ。ここで逃げ出したところで、もう身は持たない。呪いに蝕まれ、どこかで心臓が止まり、野垂れ死ぬ運命が、待っている。
ふら付きながら海岸への坂を抜ける。
すでに夜は更けて、星空模様の幕が下りていた。波が砂を打つ音の中、月光が砂浜を照らしている。
『お疲れ様……【白竜の翼】は、もうすぐ完成するよ』
図面の通り出来上がった【白竜の翼】が揺らめいている。
それは月のように白く輝き、ところどころに緋の模様をちらつかせる白鱗の翼のよう。
対して、それを纏って波打ち際に立つ黒い影は、輪郭だけしか見えない。
『最後に必要なのは、海を彷徨う【人魚の涙】なんでしょう?』
息を切らして笑いながら、影は振り返る。胸を押さえながら、エリカは薄暗闇に目を凝らした。
長く揺れる赤い髪を解いたマイラが、柔らかな肩の線を晒していた。細く筋肉質な腕がなだらかな腰のあたりで外套をかき抱いている……何度も思い出した、彼女の体つき。だが視線を落としていくと、その影の終わりは二本の足ではなかった。腰から下の輪郭は横に広がり、長く長く、尾のように伸びている。
『この姿で人の声を出すのは、少し大変なの。コツがいるから』
その声は、確かにマイラのものだが、どうしてか濁って聞こえる。夢うつつで聞いた彼女の歌声と同じく、水の中で音を聞くように。
(「これが……マイラ……?」)
月光が、その姿を照らし出す。
薄く笑ったマイラのへその下には、人間ならばあるべき滑らかな下腹部はなく、鱗が煌めく生々しい蛇腹があった。太く長い魚か蛇のような尾を伸ばして、とぐろを巻きながら艶やかに光っている。
そして彼女は、そっと手を伸ばす。
『ねえ、エリカ。私と一緒に行こうよ』
ぱしゃり、ぱしゃりと、水色に透き通った巨大な尾のひれで、波を弄びながら。
『魂に穿たれた呪いは、あなたを逃さない。それは魔王が絶望を願い、人々が総意で歪めたおぞましい呪い。呪い自体をどうにかしてあげることは私にはとても出来ないけれど……人魚の呪いでそれを塗りつぶしてしまうことなら、出来る』
そして彼女は、掌で己の尾びれを指した。星空を映したように、煌めく鱗を。
『私は、人間だよ? で、これが……私の受けた呪い。人魚にはね、自然な身の滅びを跳ね除ける力があるの。だから、老いることも、病を患うこともない。死の呪いがいくら魂に食い込んでも、死ぬことはない……もちろん、もう陸をその二本の足で踏むことは出来ないけれど』
自嘲するように、愛でるように、彼女はそれを撫でながら語った。救いと呪いの言葉を。
『水底の世界でなら……あなたは生きていける。私と一緒に……いつまでも』
足元を、波がさらう。痛いほどに冷たい感触で、それに気付いた。
いつ、自分は海まで歩を進めたのか。それともいつの間にか、潮が満ち始めているのか。
マイラは俯いて、長く長く息を吐いた。
『私、嘘はついていないよ。昔……捨てられた私を拾ってくれたのは、旅芸人の一座だった。そこでもずっと独りぼっちだった私は、月の綺麗な夜に、浜辺で人魚の歌を聞いたのよ。独りぼっちの子にだけ届く、誰かと一緒にいたいと願う歌。あなたはいつも私の声で、聞いていたでしょ?』
そして彼女は、空へ向けて口を開いた。竪琴のように深く低く、そして透き通るほど高い調べが、歌声となった海辺を駆け巡る。
ここで初めて会った時のように。
『……でもね、歌声にあんまり深く誘われた者は、波にさらわれ溺れてしまうの。馬鹿な私が我を取り戻したのは、暗い海の中だった。溺れる私を尾びれで捕らえて、人魚は語ったわ。私と一緒に海のものとなって、共に生きて。って』
マイラは歌うのをやめてこちらに話しているのに、何故か彼女の歌声はその背後から反響するように響き続けている。幾重にも折り重なり、波紋のように広がって、頭の中に響いてくる。耳を離せない。歌声は辺り一面に反響し、脛を撫でる波の感触が薄れていく。
『でも私……決められなかった。人魚の姿は美しくも恐ろしくて……全てが変わってしまうのが、余りにも怖かったから。そしたら人魚は、悲しみに顔を歪めて私を呪ったの。人魚は自分独りでは死ななくても、自分の全てを打ち明けて誘った人に拒まれてしまうと、泡になって滅びてしまうんだよ』
まるでこの世界そのものが水中にあるかのように、全てが重い。
胸に沁みてくる歌声にかき消されて感じてもいなかったが、腕の産毛にはらはらと水滴が滴っている。
『 私は泡と消えていく彼女に呪われながら、暗い水底に引きずり込まれて……気付いた時、どこかの浜に打ち上げられていた。最初は夢だったのかと思ったけれど』
暗雲に呑まれ、星空が照明を落とすように消えていく。波間に浮かぶ白蛇のような泡立ちが、マイラの背後に踊っている。
『日の落ちる度、私は酷い渇きに襲われるようになった。水を求めて苦しみ悶えて、やがていくら水を飲んでも耐えられなくなって、海に飛び込んだら……この姿になってたの』
星空の下に、霧雨が降る。涙のように。彼女の想いのように。
それが彼女の纏う【白竜の翼】に滴り、妖しい光を放っていた。
『それ以来……ずっと彷徨い続けてきた。宵闇と共に暗い水底に戻って、日の光で体を温めて人の形に戻る……潮の満ち引きのように、陸と海の狭間を彷徨い続けるさだめを引きずって……酷いよね。境界に取り残された者は、存在が希薄になるみたいで、陸の人には気付いてももらえないのよ……歌が聞こえる人を見つけるまで、私、ずっと独りぼっち……』
半生を細かく語られる必要は、もうなかった。
独りきりで陸を彷徨い、誘われるまま海に呑まれた娘の歌が。鳴り響く悲し気な響きが。その全てを伝えてくる。
『でも陸の者を誘い、同じ人魚として海に帰ることが出来れば、この呪いは成就する。私は、ようやく海で誰かと一緒になれるの。かわりにその人に拒まれたら、泡になって消えてしまう。私が、やったように……』
その瞳が、持ち上がる。縦に割いたような瞳孔を、紅く輝かせて。
はらりと涙を落とした怪物の瞳に、エリカは息を詰まらせた。
『ほんの少しでも陸に繋がりのある人は、きっと私と来てくれない。だから私、寂しくても我慢して、ずっと、ずうっと、探していたの。一緒に来てくれる人を』
恐らくこの行き場のない情念こそ、引き込もうとした相手を呪う力の源……。
今ならわかる。この呪いが【白竜の翼】の完成に必要な最後のピース。すなわち、全てを拒む嵐の中をすり抜ける力なのだ。次の者へ、その次の者へ。共に入水する者を見つけられるまで連なる孤独な者たちの怨嗟こそが……たった一人、勇者だけを魔王の島へ受け入れるのだ。
『……あなたなら、と思った。だってあなたは私の歌声を聞くことが出来る。街の人たちは、誰も彼もあなたのことなんて考えていない。けど、私ならあなたと一緒にいられるもの。海を彷徨う魂として、ずっと一緒に……』
針が刺すように冷たい波の感触の中、足を引く強い力を感じた。ハッと目を落とすと、膝下の波間に黒い手のような影が踊り、足にまとわりついている。
(「……っ!」)
呆然としていたエリカの背筋に、初めて恐怖と悪寒が這った。
いつ潮が満ちたのかと思っていたが、これは違う。
呼んでいるのだ。彼女が。そして彼女に連なる、海の者が。
(「まさか……マイラの後ろから聞こえて来る、この歌声……この蛇のような黒い手の群れ……これが、まさか」)
『……私は、全てを話してしまった。だからあなたが拒むのなら、私は泡と消えて滅び去る。もうどっちにしろ、私の呪いはあなたに移るよ……あなたが生き続けられるとしても、海と陸の狭間をずっと独りで彷徨うさだめを背負うだけ。無理矢理でごめんね。でもここで言わないと、あなたは死んでしまうんだから、仕方ないじゃない?』
濡れて蒼ざめた手が、鎌首をもたげる蛇のように招いている。色の失せた唇を弓なりに歪めて、マイラは微かに震える声を絞り出す。
『あなたが私と一緒に行くなら、私たちは完全な人魚になれる。呪いの連鎖は断ち切られて、もう陸に戻らなくていいんだよ。ねえ、エリカ。人を救う勇者の使命のために利用されて、運命に翻弄されて、たった独りで死ぬなんて、嫌でしょ?』
雨に打たれる彼女の髪が、薄い乳房に血管のように張り付いている。その肌は水死体のように血の気が引いて、だがその眼だけは血のように紅く光っていた。獲物を睨む、獰猛な怪魚の如く。
暗い海の中に蠢く無数の黒い手が、マイラの周囲にうねりながら集まってくる。揺れる海藻のように、海を引き連れながら、手招いている。その中央で青白く煌めく裸体を晒すマイラは、すでに美しくもおぞましい水妖そのものだった。
『だから私はあなたを連れて、私の場所へ帰りたい。勇者たちには、贈り物を遺しておけばいい。あなたの使命は果たされて、私とずっと一緒にいられる……ね? 全部、手に入るでしょう?』
足が動かない。いや、動いたとして、意味などないだろう。紅く光るマイラの双眸の後ろで、海そのものが自分を睨んでいる。捧げられた獲物を一呑みにする機を、待っている。
『さあ……私の手を取って。一緒に海に沈もうよ』
闇よりも暗い影は、遥か海の向こうまで伸びていた。海の魔物と、囚われた人魚は、表裏一体なのだ。これは彼女であり、彼女の同胞たちであり、そして彼女を縛る呪いのあるじでもある。
それがロカの語った、海総べる大海蛇の正体。マイラはさながら、大海蛇が人を海に引きずり込むための、生きた疑似餌。
『私は全て曝け出した。さあ、次はあなたが答えを出す番だよ』
差し出されたままの腕。静かに睨む、紅い瞳。その唇はもう、笑ってはいなかった。
歌はいつの間にかやみ、水の中をうねる無数の腕の影が、優しく足に絡みつく。黒雲は星空にとぐろを巻いていき、雨は嵐となりつつある。思い暗闇の中で、彼女の肌と鱗だけが妖しく光っている。
何を伝えればいい。恐怖で逃げ出すのか、それともあの手を取るのか……? 何がどうなるんだ?
唇が、足が震える。だがこの状況で、答えを先延ばしにはできない。マイラ自身が、言ったじゃないか。
私は決められなかった。人魚の姿は美しくも恐ろしくて……全てが変わってしまうのが、余りにも怖かった、と。
そしてマイラはああなった。沈黙は今回、最悪の選択肢として自分の背後にぽっかりと口を開けている。
(「でも、私は……何も選べない……選べないよ。こんな……酷いよ、マイラ」)
いや。本当にそうか?
マイラに指摘された通り、自分は何もされなければ流されるまま死んでいたのだ。彼女にしてみれば、確かに機会は今しかない。ダフネだってそうだった。彼女は自分なりの選択の機会を与えた。それを無視してふいにしたのは……。
そう。答えを出せないまま、誰かに言われるまま、都合の良い助けを待つまま、ずるずるとここまで来たのは……。
その時だった。背後から聞き覚えのある声が響いたのは。
「行っちゃ駄目だ、エリカちゃん! 彼女はもう、海の魔物なんだ!」
瞬間、マイラの瞳に憎悪の火が燃え上がった。
『私は、人間だよ!』
マイラの眉間に激怒のしわが寄って、海水が爆発したように吹き上がる。波を纏った黒い腕が、凄まじい暴風と高波となって、エリカの頬を駆け抜けた。
振り返った瞬間、波が勇者ロカの胸倉を打ち付けて、まるで大砲の弾でも当てたかのようにその躰を吹っ飛ばした。
『誰も好きでこうなったわけじゃない……! 私の前の人魚だって、同じだよ! みんなに拒まれて独りぼっちになった人の絶望が呪いになって残って、私たちを苦しめてきただけ! 私を呪ったのは、前の人魚じゃない……この土地の人たちだよ! 私は、エリカと同じ人間だよ! 酷いこと、言わないでよ!』
海は意志を持った大蛇のように陸を登り、勇者を巻き込んで渦を巻く。彼はそれを切り払うが、水はすぐに元の形に戻って彼を押し戻す。
「クソッ……!」
『どうしてこんなに早く戻ってきたのよ! 私は言われた通りエリカと一緒にいて、呪いから救ってあげようとしてるだけじゃない! どうして、邪魔が入るの! どうしてよ! その子を陸に引き留めないでよ!』
ロカは跳躍して纏わりついてくる水を掃うと、海岸の木に跳び付いて身を支え、手を伸ばした。
こちらへ向けて。
「エリカちゃん……そっちに行っても、君も海に呪われるだけだ。大丈夫……俺は別の方法で海を渡ることにするよ。【白竜の翼】は諦める。あれを引き裂けば、君の呪いは元に戻るかもしれない。だから、戻って来るんだ。君がそこにいると、俺は剣を振るえない」
その言葉は優しさに溢れ、目の前で起こる悲劇を拒む。
無論、何の代案も思い浮かんではないはずだ。そして今から【白竜の翼】を引き裂いたところで、自分の呪いが解けるとも思えない。だって、あれはすでに一度、完成してしまったのだから。
それでも彼は本気で【白竜の翼】を諦めるだろう。己の使命の為に誰かを犠牲にすることなど、決して許さない。
それこそが……。
「そうだ。俺は勇者だ。そうなって、見せる。海が君を呪おうと、必ず守り抜くよ」
『ほら……勇者さままで無視するんだ。私のこと。ずっとずっと、独りぼっちで彷徨って来たのに。助けられる奴と、助けられない奴って。間に勝手に線を引いて、切り捨てるんだ! 勇者さまだって、私の歌が聞こえたくせにッ!』
マイラは泣きながら頭を引きむしって、縋るようにこちらを見る。
『もう無駄だよ、エリカ! あなたの望み通り、【白竜の翼】は完成したもの! 放っておけば、あなたは死ぬわ! だから一緒に、来てよ。もう独りは、嫌だ。でも独りで死ぬのも怖い。エリカだって、そうでしょ!』
エリカはどちらともなく後ろへ下がり、己を挟み込む二人を見比べた。
ロカは決意を込めてこちらを見据える。応じれば、彼は自分を守るべく海とさえ闘う。
マイラは嘆きに満ちた瞳で希う。応じれば、彼女はすぐに自分を海に引きずり込む。
これが独り、流されるままに生きてしまって、辿り着いた大舞台。
結局、自分は何一つ選べなかった。選ぶ機会は、あったのに。
そして、運命は答えを突き付ける。
役割は終わった。お前はもう、物語に必要ない。と。
残ったのは、ただ流された己に相応しい、最も残酷で優しい選択肢。
ここで下す決断は、もう世界にとって何の意味も持たない。
手を差し伸べてくれている二人のどちらを取っても、選べるのは身の破滅の形だけ。
そう。今回だけは、ただ自分自身の為だけに、自分自身で決めるのだ。
余計なものは何もない。悩む時間もない。
大団円に繋がるどんでん返しは、どこにもない。
自分はただ、世界が大団円に至るために必要な、生贄に過ぎなかった。
そしてそれも全て、自分で招いたこと……。
震えは止まっていた。妙な高揚さえ感じる。
自分は何を選ぶ? 何を望む? 好きに選べと放り出された、最後の時に。
口元に、引き攣った自嘲が漏れた。
そしてエリカは……その手を掴む。
~つづく