海の底より来たりて
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……図書館に籠っていたのは、静かな場所が欲しかったからだ。
『ねえ。あなた、いつもここで勉強してるのね』
昔から興味だけはあった治癒の術式を記した本を開いている時だった。
その娘が、声を掛けてきたのは。
ぶっきらぼうに対応した自分に、いやに親し気に語り掛けてきた娘。
図書館だから静かにしろと言っても、彼女は聞く耳を持たなかった。
『ねえ。ねえったら』
そう呼び掛けて、相手に身を摺り寄せるのが、彼女の癖だった。
今でも、はっきり覚えている。
『私、字は読めるんだよ? 教えてあげるよ。わかんないところがあったら、今度はそっちが教えてよ』
こちらがどれだけ心に深く傷を負っていても。
深い嘆きの中にあって、他者を拒んでも。
彼女は執拗に語り掛けて来て、壁を乗り越えて来る。
死にたいほど辛いんだ。放っておいてくれ。と、そう言った時。
『うん。わかってる。私も寂しいんだ。だから、あなたとなら仲良くできると思うの』
と、そう返してきた。
彼女は昼間、いつも独りでいて、夜になるころ何処かに消える。鬱陶しくて甘えんぼで、いつも人恋しくしていて無防備で、危なっかしい娘。
事情はよく知らないし、身の上は聞かなかった。浮つきながら彷徨う娘の事情なんて、聞いたところで自分が悲しくなるだけだ。お互い孤独であることだけは、何となくわかった。
それで十分だった。
半年の間、ただ目的もなく図書館に通って共に本を読む間に、いつしか自分たちは親しくなった。
心に負った傷を、舐め合うように。
『ねえ……今夜、海岸に来てよ。私、あなたと一緒にいたいの』
そう囁かれたのは、夕日の差し込む図書館の暗がりで鼻先を擦り付けあっている最中。
彼女が夜に誘ってくるのは、初めてだった。何かの決意を感じて、自分は頷いたのだ。
心中でもしようと言われるのではないかと思った。それならそれでいい。応じよう、とも。
『約束だよ。私、先に行って待ってるから』
彼女はそう言って図書館を出て。
その後を追おうと街を歩いている時だった。
長く伸びた自分の影に、寄り添うように二つの影が重なったのは。
『ダフネ、ここにいたのか。探したよ』
顔を上げれば、婚姻の儀の為に隣町に行っていた二人の幼馴染が待っていた。
『辛い想いをしたのはわかってる。何も言わなくていい。でも、私たちも一緒にいさせて。隣で、哀しむから』
そう言われた時、自分の中で張り詰めていた何かが切れて、泣き崩れた。
彼らに手を引かれて、家でひたすらに泣いて。泣き疲れて、朝になって。
図書館の彼女との約束を破ったことを、思い出した。
それ以降、彼女とは会っていない。
彼女の名は……確か……。
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ダフネは、目を覚ました。
(「遠い過去を……夢に見たな。ここは……どこだ。今は何時だ」)
額を拭い、周囲を見回す。政庁の執務室の椅子の上だ。
窓を見れば、西日はほぼ沈んでいた。
疲れているのだろう。今になってこんなことを思い出すとは……。
ここしばらく、やることは山積していた。大陸中で起こる変事。各地に現れたという、強大な魔の手の者。それらを退治し、解決して回る若者。その若者こそ伝説の再来だとの噂が流れ、彼がこちらに向かったとの情報を掴んでから、怒涛の日々が始まった。
ケサーヌの襲撃事件に端を発し、この街でも戦士ギルドや魔術師たちを集めて、防備を固める必要に迫られた。
(「……エリカは工房から見ただろうか。海岸線に浮かぶ、あの船団を」)
高台にある政庁の窓からは、哨戒の船影がうっすらと見えている。極北海の魔物を警戒し、自治都市連合は各海岸線にもてる限りの哨戒船を投入して警戒しているのだった。
昔からこの辺りには、強力な魔物が現れることはあった。だが都市の中は静かな日々を送っていたものだ。
だが噂が真実ならば、今やこの地は魔王と呼ばれる伝説の魔物の領域に面する、魔と人との境界線となりつつある。その脅威が本気で力を振るった時、ここは人類の最前線と化すだろう。
(「だがあの子は、そんな闘争とは関係なく生きてきた……闘いがあってもなくても、あそこに閉じ込められ、皆の期待を背負わされて、身を削って呪を縫い付ける人生……」)
あの子の両親は、自分の前で泣き続けた。昔、自分が彼らに抱き留められた時のように。
己の子が食い物にされるのを見ていられず、だがそれを否定も出来ずに膝をつく彼らに……ダフネは言ったのだ。
『街を出ろ。南へ抜けて、新たな居を構えろ。街を平穏にし、ある程度の魔法の衣を確保し次第、エリカを死んだということにしてこの街から送り出してやる。それまで、そこで待て』
と。
彼らは信じたかったのだろう。自分のことを。だから、その言葉に乗ったのだ。
(「私も、彼らを欺くつもりなどなかった。少しずつ魔法の衣の貯蔵を増やし、あの子に持たせる金も貯めてきた。……だが」)
伝説は再来した。
今、勇者に【白竜の翼】を仕立て上げられるのは、エリカだけ。彼女を逃がして次の呪い子が生まれるのを待てば、この地はその間、無防備で魔物の脅威に晒され続けてしまう。そしてどちらにせよ、【白竜の翼】を仕立てた呪い子は死ぬのだ。
ならば考えるまでもなく、あの子にその使命を委ねるのが最も犠牲が少ない。
運命、という言葉を信じずにいられない。勇者と魔王を中心として回る、世界を巻き込むさだめ。
あの子を逃がさないという、強い意志さえ感じてしまう。
伝説の筋書きは少しずつ束ねられ、今ここに集約しつつあるのだ。
「町長、勇者どのがお見えです」
ため息を落とした時、ノックの音と共に、衛兵が言った。
「通してくれ、ミッコロ」
部屋の戸が開き、挨拶と共に厳しい顔をした青年が入ってくる。
「失礼します、町長」
「勇者どの……」
二月ほど前に会ったばかりだが、この青年は確かに何かを感じさせる。堀りの深い愁いを帯びた美顔に、逞しく日焼けした肌。精悍と繊細さを兼ね備えた、計算されたとしか思えぬ勇者の造形だった。
「先に謝罪いたします。約束を破ってすいませんが、警備を潜り抜けてエリカちゃんに会って来ました」
その言葉に、驚きは感じなかった。といって予想通り、と、言っていいのかどうか。
「何かおかしい。彼女はとても具合が悪そうで、でも【白竜の翼】にはすごく執着している。問いただしたら、指示を受けました。彼女の身に何が起こっているのか、この土地に掛けられた呪いとは何なのか。全てをあなたの口から聞いてこいと」
「そうか。エリカは勇者どのにそう伝えたのか……それで【白竜の翼】はどうした? もう間もなく完成であったはずだな。君はエリカにあれを渡されたのか?」
「いいえ。頼んでみましたが、エリカちゃんはあれを渡しませんでした。もうほぼ完成していたようでしたが、先にあなたから全てを聞き、その上で俺に決めて欲しいと」
ダフネは、うな垂れて頭を振った。
エリカは、迷っている。何をどうしたらよいのかわからず、他者に言われるままに仕事を完遂しかけている。
馬鹿なことを。全てを捨てて逃げだせば、生きていけるというのに。
(「いや……当たり前だ。彼女は十六、七の少女に過ぎない。そんな重い選択を自分が担うのは、嫌だ。というのがあの子の答えなのだ。あの子は、背負いきれない運命を突き付けられた、哀れな娘なのだ」)
そう。あの子の両親が、あの子と共に逃げることも、割り切ることも出来なかったように。
そして先日、自分もそれを行った。自分の立場なら、エリカから【白竜の翼】を奪い取って「後は任せろ。逃げ出せ」と命じることができたはずだ。だが自分は結局、彼女に選択肢だけを与えて目を背けた。
自分や両親と同じことを、あの子も繰り返している。
子は、親に似るものなのか。これが宿命だというのか。
「町長。全て話していただきます。場合によっては、この場で実力行使も辞しません」
「この世界を左右する決断を下すのは、勇者のさだめ……ということなのかな。いや、それもこれも全て、我らの弱さゆえの言い訳に過ぎないのか……」
「どういう意味です」
「なに、簡単な話だ。少し、この地の昔語りでも聞いていくといい」
ダフネは執務机に腰かけて、全てを白状した。この土地と、魔王の呪いの因縁のこと。すなわち【白竜の翼】を完成させれば、エリカは死んでしまうということを。
話し終えた時には、ロカの額に怒りが浮かんでいた。
「なんてことを……では彼女が【白竜の翼】を完成させる前に、止めなければ……!」
「君は……やはり勇者なのだな。魔王を倒し世界を救うという己の使命と天秤に掛けても、目の前で死に瀕する一人の子供を救うことを選ぶということか」
言いながら、ダフネはそっと机の下に手を伸ばす。指先に、冷たい刃の感触が走る。
「当たり前でしょう! 【白竜の翼】などなくても、別な方法を見付けて海を越えればいい! 俺が魔王を倒しに行くのは、彼女のような子が犠牲にならないようにするため。それが俺の使命です。では……!」
勇者が踵を返した時、ダフネの指が跳ねた。一迅の投げナイフが、若いころに劣らぬ精度で勇者の足を捉える。だが迸ったのは鮮血ではなく、刃の跳ね返る金属音。勇者が腰に佩いていた【炎の剣】が、偶然にも必中の一刀を弾いたのだ。
「……!」
勇者が振り向くと同時に、ダフネは吠えた。
「衛兵!」
途端に、部屋を固めていた四人ほどの兵隊が、執務室の中に雪崩れ込む。
「……どういうつもりです、町長」
「私はエリカに選択の機会を与えたよ。だが結局、あの子は決断を下せなかったようだ。きっとあの子は……流されるまま、あれを完成させてしまうだろう。ならばせめて私が、あの子の保護者として、町長として、決断を下さねばならない」
ダフネは、執務机の脇に置いておいた相棒を掴んだ。魔物退治をしていたころに身に帯びていた剣を。
「君は、何も知らなかった。だから君は悪くない。街の者たちも、エリカも悪くない。だが私は全てを知っている。そして私はこの務めを、放棄しない。エリカが【白竜の翼】を完成させるまで……この地を守る者として、時を稼がせてもらう! こいつは【白竜の翼】の完成を邪魔するつもりだ! 取り押さえろ!」
鉄のこすれる音と共に、白刃を解き放つ。刃は、まだ鋭さを保っている。勇者に剣を向けると、衛兵たちがその肩に槍を掛けた。
「私はエリカの父母に頼まれて、あの子を見守ってきた。失った我が子の代わりに、母親の真似事をしながら……都合よくあの子を食い物にしてきた。だからせめてあの子の二人目の母として、私の命を懸けよう」
「町長。あなたは……」
「あの子を救うなら、私を始末して駆け抜けてみるがいい。君が本当に勇者ならば、あの子を救えるかもしれない。ああ、わかったとも。これが私の使命だと。エリカや街の者たちに代わって業を背負い、勇者に選択を迫ることがな」
引っ立てろ。
ダフネが衛兵たちにそう命じた瞬間。
勇者の姿が消えた。
しゃがみ込んだ、ということを理解する間もなく、衛兵の一人が吹き飛ぶ。続けざまに打ち掛かった二人の足を蹴りすくい、彼らが地面に落ちるよりも先に、勇者の足と肘が彼らを壁に叩きつけた。
ほんの一瞬。目で捉えることさえ出来ぬ動き。
三人の衛兵は、一声発する間もなく、床に伸びた。
「申し訳ないが、あなた達では俺に敵わない」
一人残ったミッコロは、呆然としながら槍を取り落とす。戦意喪失した彼を突き飛ばし、ダフネは勇者に向けて応接椅子を蹴りつけた。勇者にぶつかる瞬間、椅子は火を噴いて真っ二つに裂ける。魔法の一種らしいが、何が起こったのかさえわからなかった。
「……見事な腕だ。先ほどの短刀を弾いたのも、偶然ではありませんな。老いた私では、相手にもならんのでしょう。しかし私は、エリカを見殺しにして君の使命に与するのにも、この地を裏切って犠牲が出るのを看過するのも、ごめんだ。己が身の可愛さの為に勇者に歯向かった小悪党になる方が、幾分かマシというものだ」
雄叫びと共に、ダフネは剣を振るった。勇者は軽く跳び退り、応接机を盾にする。昔は軽く振ることが出来た剣が、今は重い。その上、相手の強さは恐らく人知を超えている。勝利などあろうはずもない。
だが、構うものか。
「俺を足止めしても【白竜の翼】は完成しませんよ。エリカちゃんは、可愛い恋人に見張っておいてもらいましたから」
「ああ。あの子か。そうか……エリカは君に伝えたのか。ならば君を叩きのめしてあの子を人質に取り、エリカに【白竜の翼】を完成させるよう強要でもすればいいかな」
「悪党ぶるのはやめてください、町長。あなたは迷っている」
振るった切っ先を、勇者はすり抜けるように躱す。かすりもしない。四度、五度と打ち掛かっても、同じことだった。身のこなしだけで斬りかかって来る相手をいなすとは。
「……ッ!」
そしてダフネの渾身の突きを、鞘に収まった剣が引っかけた。勇者はそのまま引き込むようにして、自分を地面に押さえつける。振りほどこうとしても、こちらを取り押さえる勇者の手は、ぴくりとも動かない。
「……どうした! 殺さないのか、勇者どの。私から君に斬りかかったことは、そこのミッコロが見ている。執務机の中には、全ての罪をしたためてある。己が助かりたいあまり、呪いによってエリカが死ぬのを黙って見過ごすことにしたとな。誰も文句は言わないぞ。さあ、やれ……!」
「俺は、人を殺さない。皆に全てを、ご自分の口で話してもらいます。罪を背負って逝くことは、許さない」
勇者は軽々とこちらの剣をもぎ取り、硬直していたミッコロの前に投げ渡した。
「ひっ……あ、あの……」
「すいません。カッとなって町長と少し揉めてしまいました。衛兵の皆さんに暴力を振るったことをお許しいただきたい。伸びている人たちは一時間もしないうちに目覚めるはずです。この件が終わり次第、賠償をお支払いして牢で頭を冷やします」
ロカはこちらの拘束を解くと、腕を差し出した。
「さあ町長。まずは、俺と一緒にエリカちゃんとマイラちゃんのところへ行きましょう」
コイツは……全く、出来た小僧だ。小憎らしい。決死のつもりであったのに、軽くいなしやがった。もはや文句のつけようもない。
頭を振ってダフネは起き上がり……ふと、彼の言葉に違和を感じた。
「……待て。待ってくれ。今、エリカと、誰のところへ行くといった?」
「旅芸人の一座の女の子です。見習いだったかな。二人の関係は、ご存知なようでしたが」
「違う。その子の名前だ。何と言った?」
「マイラちゃんが何か? 赤い髪で小麦色の肌の、丸い目の女の子ですよ。確か一座では歌うたいをしていると言っていました。エリカちゃんと同い年くらいの……」
得体の知れない情報に、ダフネは目をしばたたいた。
「馬鹿な……そんな子はいない。あそこの一座にいる子は、髪は黒かったし肌は白かった。私は確認したぞ。間違えるはずがない」
ロカが、眉を寄せる。
「じゃあ、彼女は……誰なんです? ご存知じゃないんですか?」
「いや……違う。知っている。マイラは……全てを失った私に、図書館で声を掛けてきた。愛らして物寂しそうにしていた女の子だ。そのマイラは、私が30年前に出会った、私の恋人だ。今でもはっきり覚えている。そんな歳の姿でいるはずがない」
月夜の海岸への誘いに乗らなかったその時から、彼女は姿を消した。あの頃、自分が幼馴染たちに救われるまで生きていられたのは彼女が傍にいてくれたからだ。
そう気付いた時には、もう全てが遅かった。ダフネがどこを探しても彼女を見つけることはできなかった。
「ちょっと待ってください。30年前……? じゃあ、エリカちゃんは……誰と一緒にいるんだ?」
わかるわけがない。
生きていて欲しいと願い続け、きっと旅へ出たのだと思うことにしていた。別れを告げられなかったことを、ずっと後悔してきた。
だが。
「誰もいない海から人を誘う……独りぼっちの……」
ロカがぽつりと呟いた時、ミッコロが悲鳴に似た叫びをあげた。
「ち、町長! 勇者どの! あれを!」
その指の先は、すでに艶やかな濃紫に染まる海原。哨戒船が次々と警告の火を灯すのを押しのけながら、闇よりも黒いうねりが海岸線を目指して進んできていた。何処までも長く伸びる、巨大な蛇のように。
「な、何か来ます! その……海から! とてつもなく巨大なものが! あれが、まさか……!」
そしてダフネは、ロカと顔を見合わせる。
「勇者どの! 行ってください! エリカを、早く!」
叫ぶより早く、勇者は駆け出していた。窓より身を躍らせて壁を跳躍し、人とは思えぬ速さで夕闇の街の屋根を跳ねる。
「ミッコロ! 緊急招集だ! 鐘を鳴らせ! 隊伍を組織しろ!」
矢継ぎ早に指示を出しながら、ダフネの思考は何処か乖離していた。
運命。
その言葉が、胸の深いところで反響している。
自分も、エリカも、誰も彼も。皆、それに絡めとられた駒に過ぎない。
己に巻きつく糸が寄り紡がれるように、決められた結末へ加速していく力を感じる。
勇者と魔王が世界を争う物語の中、人間世界を旅立つ勇者のために用意された、最後の障害。
それがこの街であり、エリカであり、自分であり、そして謎の少女マイラなのだ。
恐らく運命は、残酷な決断と挫折を、勇者に与えようしている。
……嫌な予感がする。
ああ。愚かな我らを弄ぶなら、せめて教えてくれ。
故郷のために。娘のために。かつての恋人のために。
私が、何を願えばいいのかを……。
~つづく