街に生きて、恋に落ちて
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……一針、一針。刺繍の糸を通すたび。
喉の奥にちくりと針を刺されるように。奥へ、奥へ、一針ずつ。
躰に呪いが喰い込むのがわかる。
(「……」)
ダフネと話した日以降、工房には人が寄り付かなくなった。元々、街からの依頼が魔法の仕立て工房の主な仕事であり、それほど来客はなかったわけだが、彼女は伝えた通りに人払いをしているのだろう。
自分を【白竜の翼】に集中させるために。
「エーリーカ! 今日も来たよー」
ただ一人、マイラだけが例外だった。というより、人がいないことを幸いとばかりに、ほとんど毎日押しかけて来た。
ダフネに見つかればこっぴどく怒られそうだが、旅芸人一座の一員である彼女は恐らく、街の事情をよく知らないのだろう。
「勇者さまの注文、今日は快調? あ、私、お湯沸かすからさ。市場で薬湯の葉を貰って来たの。一緒に飲も。あ、窓掛け開けるね」
初日、彼女は昼過ぎに来るなりそうやって日の光を工房に入れると、歌いながら台所に行き、勝手に火焔石を温めてお茶を入れたり、ミルクを温めたりし始めた。まあ、いいかと作業を続け、ふと一区切りしたエリカが振り返ると、パンまで焼いてあって、昼食が出来ていたのだった。
(「え、あの……ありがとう」)
「いいって、気にしないでー。あ、私は食べてきたからね。えへへ、誰かの世話を焼くのって楽しいんだ。それにほら、勇者さまの道具を作るエリカをお世話するって、私も何か凄いことの役に立ててるみたいじゃない?」
(「お世話なんて別にいらないんだけど……そういうものかな」)
昼食を食べ終えると、二人は一緒にお茶を啜った。当然、エリカは一言も喋ることは出来ないが、マイラは勝手にべらべらと一人で話し続ける。
「……今日はここより西で見た、綺麗な魚の話をするね。凄いんだよ、縞々があってね。あ、地の色は蒼なんだけど、縞の色は黄色なのよ。で、縦長のヘンな顔してるの」
彼女はたまに、ねえ、聞いてる? と言いながら、覗き込んで来る。こちらは頷いたり、稀に喉をごろごろ鳴らして笑ったりするしか出来ないのに、よくもまあ話題が尽きないものだ。
だが、反応すると彼女はにっこりと微笑んで、わざわざ身を摺り寄せに来るのだった。
彼女が旅で見た色々なものの話をされるのは、楽しかった。考えてみれば自分は、街の外に出たことすらない。
(「さあ……続きを始めないと」)
「はーい。片付けは私がしておくからね。続き、頑張ってね」
一息ついてエリカが作業に戻ると、彼女はまた歌いながら世話を焼く。
歌い手なだけあって、彼女は様々な歌を知っていた。ハミングや母音だけで歌っていることも多かったから、彼女自身、適当に覚えているのだろうけれど、それを聞いていると何となく安心して作業が出来るのは、事実だった。
やがて数日の内に彼女は昼食やお茶の用意だけでなく、夕飯の作り置きまで作ったり、気付けば洗濯までするようになった。最初はびっくりしてしないでよいと首を振ったものだが、マイラは「まあまあ」と半ば強引に家事をやってしまう。
渾身を込めて打ち込まねばならない仕事である以上、家事をやってくれるのは確かにありがたいが。
(「押しかけ女房じゃないんだから……」)
とは思う。
だが同時に、それを断ろうと思うほど嫌ではない。
尤も。
「あ、今日の洗濯物はコレ? 私、裏井戸で洗っとくから、エリカは作業しといていいからねー」
月の触りでぐったりしながら指を動かしていたエリカは、何となくその言葉に頷いて……慌てて追いかけて、下着を回収する羽目になったりはした。
(「これは! 自分で! やるから!」)
「えー、気にしないでいいのに。エリカ重いんでしょ?」
(「気にするに決まってるでしょ……水だけ汲んできてよ」)
放っておけば彼女は本当に、にこにこ笑いながらそんなことまでする勢いだった。まあ、一座で旅をする人々とはそのような感覚なのかもしれない。
だが街人であるエリカにとってはたまったものではない。その件があってから痛む下腹を引きずってでも、下着だけは自分で洗おうと心に決めた。
(「あと料理の味が壊滅的なのも、どうかと思うんだけど……」)
最初に作ってくれた野菜とベーコンのスープは、喉を痛めるような塩気でむせ込んだ。お湯を足してようやく飲み込み、マイラに塩が濃すぎるという要望をどう伝えるか考えることが翌日の最初の仕事になった。
「えっと……しょっぱいってこと? そっか。このくらいかと思ったけどなあ」
幸いマイラは文字を読むことが出来るようだったので、字を掌に書き伝えたら理解してくれた。
が、次のスープを飲んだ時は、ほとんど味付けされていない薄味なものになっていた。
以来、要望を伝える度に味の乱高下を繰り返したので、エリカは伝えることを諦めた。
そもそも本人は夕暮れ時に帰ってしまうので、夕飯を共に食べるわけでもない。全て好意でやってくれているのだから、文句をつけるのも気が引けた。
(「多分、味見っていう概念を知らないのよね……字は知ってるのに。きっと、下拵えばかり任されてるんだろうな……まあ、飲む前に自分で味を調節すればいいか」)
やがて買い溜めておいた食料が底を尽きると、マイラはわざわざ市場から食材を調達してくるようになった。
「今日はパンの他にも、市場で色々と材料もらって来たよ。ほら。小麦粉に山羊乳でしょー。トマトにキャベツ、あとはー……あれ? お金なんか別にいいよ。大丈夫だって」
(「駄目よ。ちゃんと受け取って」)
いくらなんでも、ただで受け取るわけにはいかない。以降、エリカは買い物の支払いと、家事やお使いの駄賃を握り込ませることにした。
如何に若くとも自分は職人だ。身寄りのない娘に金を渡しすぎても危険だから額は考えるが、小間使いをしてくれた者に賃金を支払うべきであることくらいは、理解している。
「……じゃ、また明日来るね? 私はいつも通り、海岸で歌ってから帰るから。あの辺、誰も来ないし、月明かりが海に反射して帰り道も見えるから、心配しないでいいからね」
精一杯長居した後、日暮れに合わせて彼女は帰路に就く。
年頃の娘なのに危なっかしいといつも思うが、彼女は夜に歌うのが好きであるらしかった。
初めて会った時も、その歌声に誘われて外へ出たのだ。
時折、夜に耳を澄ますと、彼女の歌声が聞こえてくることがある。
そういう時は、急に胸が苦しいほどの寂しさに襲われて、工房を走り出て彼女に飛び付いて泣きじゃくりたくなった。
その衝動を堪えるのが、一番辛い。
だが突然、自分が泣き出したらマイラは驚いてしまうだろう。
(「あなたの薄っぺらい胸でいいから貸してよ……って話せたら、マイラはむくれるでしょうね」)
寂しさを紛らわそうとそんなことを考えて、エリカは喉の奥でごろごろと笑った。
誰かと話をしたいと思ったのは、久しぶりのことだ。
初めて会った時からぐいぐいと距離を詰めてくる型の人物ではあったが、どうしてマイラはここまでするのか。
来る頻度や態度を考えるに、ロカが一座に金を渡して話をつけて、こちらに来られるように取り計らったのかもしれない。だがマイラの好意自体に演技は見えないし、彼女自身も喜んでくれているならそれでいいと思うことにした。
(「詮索するのは、野暮よね。助かってるのは事実だし……それに……」)
出来上がった関係を掘り下げるのは、怖かった。
彼女は【白竜の翼】を仕立てることが、何を意味するのかを知らない。
自分の負った使命と呪いを突き付けて、驚いた彼女がここに来なくなったらと思うと、耐えられそうになかった。
孤独には慣れたと思っていたが、今は何かを独りで考える時間が、前よりずっと恐ろしい。
(「……そういえば私たちの勇者さまも、私の呪いを詳しくは知らない」)
彼に言えば、どうなるだろう。
亡国の血を引きながら、市井を渡り歩く英雄。
厳しい旅の中、数々の国と人々を救いながらこの地までやって来た、優しい目をした青年。
求める物の代償がエリカの死であると、彼が知ったら。
(「……きっと【白竜の翼】を諦めて、他の道を探すのでしょうね」)
それは直感だが、確信に近かった。彼のことはほとんど知らないはずだが、触れ合ったわずかな時間でも心を打つ何かを感じた。運命に選ばれた勇者であることを、説得力を持って信じられるのだ。
(「そうね。もし彼に懇願すれば……私は死ななくて済むか、も……っ」)
ぴきりと針が折れたのは、そんなことを考えながら糸を縫い付けていた時。
針山を手繰り寄せたが、残っている針はもう数本だった。
(「……本当に強い魔力の絹。私がこんなに針を折るなんて。本来なら針なんて一切通さないんでしょうね」)
外を見る。早朝の潮風は強いが、日は照っている。
今、市場に調達に出れば、ちょうどマイラが来る頃には帰ってこられるだろう。いや、そもそも市場で会えるかもしれない。
(「そうね……久しぶりに、散歩がてら街に出ようか」)
いつも外套に身をくるんでいるエリカは、出ると決めれば準備は早い。
改めて頭巾をかぶり直すと、バスケットを持って工房を出た。
それは【白竜の翼】を作り始めて、もうすぐひと月が経とうかという日の早朝だった。
●
冷たい風が頬を撫で、野菊たちが踊るように揺れている。
冴えた、気持ちの良い朝だった。
(「不思議ね……少し前までは、家に篭って縫い物をし続ける方がずっと楽だったのに、今は目の前の作品から逃げ出せたことでホッとしてる。それなのに……」)
何故かそれに執着してもいて、完成させねばならないという強い衝動も感じているのだ。胸中に言い表せない感情が渦を巻き、どうしても惹きつけられてしまう。自分以外は誰もあれを完成させられない、という事実がそうさせるのだろうか。
こんがらがることを、考えたくはなかった。マイラが工房に来ている間はそれを忘れていられるのだが、こうして散歩に出るのも良いのかもしれない。少なくとも、仕立て以外のことに集中していられる。
(「マイラ……いるかな。どこだろう」)
市場は、いつも通り活気付いていた。
大陸の北方は、各都市ごとに名産を持つ港湾都市を中心とした連合から成っている。野菜、果物、肉、魚、パン、宝飾品や武器、防具など、船貿易の盛んなこの地域には大陸の様々な品が集まり、積み下ろされたばかりの品を市場で露天商たちが捌くのだ。そこに訪れる旅人や船乗りを目当てに街中に散らばっている各店舗も出店を出すので、大概のものは市場で揃う。
「おや、エリカじゃないか。ひと月前に針を買ってったのに、もう減ったの? アンタにしちゃ、珍しいね。何を仕立ててるんだい?」
裁縫店の若女将はそんなことを聞いてきたが、エリカは黙って首を振った。それで女将は、こちらが話が出来ないことを思い出した。
「ああ、ごめん。んじゃ、完成したら見せておくれよ。最近は魔物が凶暴で、貿易船もキャラバンも減って、大変なんだ。気分の良くなるものを見たいからさ」
エリカはあいまいに笑って、彼女をやり過ごした。
こういう時は、この呪いがありがたいと思える。自分が何をしているか街の人々が知れば、彼女らは大喜びで囃し立てるだろう。
周囲から期待の目を向けられるのは、もうまっぴらだ。彼女らには何の悪意もない分、たちが悪い。
仕事道具を調達すると、エリカは食料品市場に足を運んだ。たまには自分からマイラに何か振る舞いたい。それにこちらに来れば、彼女を見つけられるかもしれない。
(「ご馳走できる機会も……いつまでもあるわけじゃないし……」)
そう考えてしまい、どきりと心臓が脈を打った。脇に寄せていた重圧と恐怖が、再び心の端に忍び寄る。
頭を振って、その考えを振り払った時だった。
エリカが、人混みの間に見覚えのある編み込みの赤毛を見たのは。
(「あれは……」)
大きな丸い瞳で、露店の果物を物色する小柄な影。見覚えのある上着は、自分が仕立てたものだ。
マイラだ。間違いない。
そう思い、走り寄ろうとした時だった。
彼女の腕がさっと紅い林檎に伸びて、誰にも見せぬままそれをバスケットに滑り込ませたのは。
(「……え?」)
彼女は慣れた手つきでひょいひょいとバスケットに果物を放り込むと、店主が他の客と話し込んでいるのをいいことに、露店を離れて人混みに入り込む。
(「まさか……そんな。いつも持ってきてくれてたのって……」)
どう考えたらよいのか。わからない。
とにかくエリカはその姿を追った。
だが露店街は人でごった返し、もみくちゃにされる内にマイラはどんどん遠ざかる。
(「どう、して? だって、お金はいつも渡してたじゃない。待って。待ってよ、マイラ……!」)
思わず呼び掛けようと口を開いても、掠れるような吐息が漏れるばかり。つい先ほどありがたいと思った呪いが、今は唐突に恨めしい。
全速で駆け出そうとした瞬間、エリカは唐突に肩を引かれるのを感じた。
「おいコラ! コソ泥はお前か!」
首が締まり、心臓が飛び上がった。むせる暇もなく、怒りの形相の男がエリカの外套の頭巾をはぎ取った。
「……ッ!」
狭く区切っていた視界がいきなり広がり、無数の人々の視線が鋭利な鏃のように己を突き刺す。ひっと息を呑む音が、喉から漏れた。
「お前、今日という今日は……! って、あれ? エリカじゃねえか……?」
それは、顔なじみのパン屋だった。
目を開き切って固まるエリカを見て、彼は慌てて手を離した。
喉につかえるようにむせ込みながら、エリカは自分の膝が折れるのを感じた。
「す、すまん! お前が盗みなんかするわけねえ……よな」
彼はちらりと自分のバスケットを覗き込み、パンの類が一つも入っていないことを確認する。
通行人たちが首を傾げながらこちらを見つめてくる。
エリカは震える手で必死に頭巾をかき寄せた。
「悪かった! ここんところ市場でスリが多発しててな。俺の店も、最近何度もパンを盗まれるんだが……いや、しばらくお前のこと見なかったもんだから、気付かなかった。すまん!」
(「だ、大丈夫……大丈夫。何も怖いことない。ただの勘違い。何、も……でも、でも……」)
……そういえばマイラは何度もパンを持ってきてくれていた。あれは、この店のパンだった。
マイラへの疑惑といきなりの衝撃とで、心をまとめていた糸が切れかけている。
ぜいぜいと息を整えつつ、エリカは必死に頷いた。
「いやホント、もう少しで常連のリストから外しちまうところだったぜ? お前どーせ、他のとこに浮気して回ってたんだろ! でもやっぱり、この街のパン屋の中じゃウチが一番だったってわけだ! お詫びを兼ねて、おまけするぜ。いつもので良いだろ?」
露店主のセイトンは初老の禿かかった男で、エリカの返事がなくても喋り続ける朗らかな男だった。ただ、相手の繊細な気持ちを汲み取るのは、とことん苦手でもある。
エリカがどうにか口元を引き攣らせると、彼は今しがたのことなどすっかり忘れ、笑顔でパンをバスケットに詰めはじめた。
「あ、そうそう。お前さんの縫ってくれた手袋、今日も調子良かったぜ。火焔石を握っても、全く熱くならねえし、かまどの中に突っ込んだってコゲひとつ出来やしねえんだから、大事に使わねえとな! もう家宝よ! ありがてえぜ!」
彼はいつも楽しそうにこう語ってくれる。普段なら、人々に必要とされ喜ばれる時は、僅かながら嬉しく思うものだ。
だが今は、聞きたくなかった。自分の中に抑え込んでいる混乱が、いつ溢れだすかわからない。エリカは話を終わらせようと急いで小銭入れを漁ると、彼の手の上に銀貨をおいた。
これでいい。それでとにかく、この場を離れる。でないと心がもたない。
マイラも、探さねば。さっきのあれがどういうことか、確かめないと……。
だが。
「そういや、噂に聞いたんだがよ! 魔王の島に向かうっつー、勇者さま! ついに来たんだってな! お前さんが仕立てるんだろ? 例のマント!」
心臓が、強く打った。彼は力強く笑って、頼んでもいないパンを更に詰めて、背を叩く。
「コイツは街のヒーローに、俺からのお礼だぜ! ダフネのオバさんに、高い税金払ってきたかいがあったってもんだ! 魔物が大人しくなりゃあよ! 兵士やってる俺の甥っ子も死なずに済む。マジ頼むぜ! なあ、みんな! 聞いてくれよ! このエリカがな、噂の勇者さまの……おい? どうした?」
エリカは身を振りほどくようにその場を離れると、人混みの中に飛び込むように駆け出した。
周囲の人々が自分を見るその視線が、痛かった。
(「胸、が……」)
息が、急速に荒くなっていく。走っているからではない。人混みが視界の中でギュッと詰まり、手や額から血の気が失せて、気色の悪い暑さを感じた。
【白竜の翼】の話は、広がりつつある。街の者は皆、伝説の道具の完成を期待するだろう。その期待が、両肩にのし掛かってくるのを感じる。
セイトンや通行人の向けてくる、煌めいた眼差し……だが彼らが期待しているのは呪いの代償たるこの力と、その極地を見ることなのだ。呪われた自分の方ではない。
眩暈を感じながら、感覚が薄れた手でエリカは壁を探る。
(「マイラ……マイラ、どこ……!」)
心が膨れ上がって破裂しそうだ。目の前に気色の悪い焼き付きがちらつく中、エリカは壁にもたれかかった。這いずるように路地の裏に入る。せめて、人混みから離れなければ。
(「お願い、お願い……泥棒でもなんでもいいから……ねえ……! 傍にいて……!」)
目の前がぐらついて、エリカは暗がりにかがみ込んだ。
吐き気がする。大地が揺れて、世界が回る。口を押えて小さくなり、そのまま意識が薄れて……。
「エリカ!」
抱き抱えられた衝撃で、エリカは我に返った。悲鳴を上げたと思ったが、口から漏れたのはいつもの掠れた息だけ。裏返りかかっていた目が、ぱちぱちと瞬きを繰り返して焦点を結ぶ。マイラの顔が、そこに在った。
(「マイ、ラ……」)
茫然として、考えが思い浮かばない。
彼女の手が額に触れると、いやにひんやり感じた。いや、自分の顔が熱いのか?
「姿が見えたから追っかけて来たの! どーしたの! なんでここに?」
マイラは、エリカと人々の雑踏を見比べた。路地向こうでは、また市場スリが出たと誰かが騒がしくしている。
路地裏の暗がりに目を留める者は誰もいない。
「ちょっと、凄い顔色だよ! しっかりして!」
マイラは膝を折った自分の襟首をつかんでがくがく振り回した。首が揺れて頭巾が脱げたが、もうエリカにはそれを直す気力もない。
マイラはもう一度、路地向こうを振り返って逡巡する。
叫んで誰かに助けを求めるべきか、迷うように。
「エリカ、息してる? ねえ!」
マイラが口元に耳を寄せ、その頬が顎に触れる。ひゅっ、ひゅっ、と音を立てる自分の呼吸が、彼女の顔に這うのを感じた。
エリカの思考は宙を漂っていたが、ようやく気付いた。
ここに人を呼べばマイラは市場の人々に捕まる。彼女のバスケットは盗品の山だ。言い逃れようはない。
(「マイラ、駄目……」)
エリカは、意を決して叫ぼうと口を開けたマイラの頬に、反射的に手を伸ばした。
驚いて振り返った彼女を引きずり込むように、首に腕を絡ませて……。
奪うように唇を重ねた。
「……! ……っ?」
マイラは丸い目を更に丸くして、ぱちぱちと瞬きした。まつ毛の感触が、頬をくすぐる。
何をしているのか自分でもよくわからないが、もう何が何でも構わない。何かの間違いかと身を放そうとした彼女に必死にしがみ付き、エリカは意志を伝えた。
いやだ。放すものか。あなたと一緒にいたい。一緒がいい。どこにもいかないで。
いつの間にか胸の中に膨らんでいた、その想いを。
「……」
やがて、身を振りほどこうとする力は鎮まった。マイラの細い腕がそっとこちらの背を抱いて、もう一方が優しく頭を撫でる。いつの間にか、涙が溢れていた。何に泣いているのか、わからない。とにかく濁った感情がとめどなく溢れて、止まらない。
彼女の冷えた手が頬に触れて。自分の呪われた唇が、命を感じて……今は、それでよかった。
永遠に感じた一瞬の後、唇はそっと離れた。マイラは顔を赤くしつつ、はあっと息を吐いた。
「……息が詰まって、死ぬかと思った」
(「ごめん……」)
唇を読んだマイラは、恥ずかしそうに頭を掻いた。そしてへたり込んで泣き崩れるエリカの顔を起こして、涙を拭う。
細い指が唇に触れて、いつものように頬を摺り寄せて……耳元で囁く声がした。
「謝んないでよ。私、嬉しかったから。何があったのかわかんないけど、辛かったんだね。さ、一緒に帰ろ……工房にさ。今日は、林檎とパンもらったから……ね?」
マイラは優しく微笑んで、バスケットを見せる。その中身が正当な取引で得た物でないことを知ったことが、哀しかった。
だがそれを指摘する気は、もう起きない。そっと頭巾を被り直させてくれた手の優しさを、失いたくなかった。
エリカは頷きを返し、初めて自分から彼女に頬を摺り寄せた。心地の良い冷たさが、エリカの籠った熱を癒してくれた。
(「ねえ……お願い」)
マイラは顔を放して、もう一度そっと唇を重ねる。
そしてエリカを抱き抱えられるようにして市場の喧騒に背を向けると、その手を引いて囁いた。
「うん。わかってる……わかってるから。ね。寂しいんだよね。大丈夫だよ。私の可愛いエリカを、離したりしないよ」
涙を落としながら、エリカは何度も頷く。
マイラに寄りかかりながら、おぼろげな意識で歩いた帰路で、エリカはふと予感を覚えた。
街の人々が自分の姿を見るのは、恐らくこの日が最後になる。
それは、悪夢の中にあって先を予見するような、妖しい予感だった……。
~つづく
2020年3月17日、ろこさまによる挿絵画像追加。掲載許可済み。
ろこさまツイッターアカウント⇒ https://twitter.com/roko_pallet