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わだつみの蛇

挿絵(By みてみん)

 海の深みに誘われるように。

 だが胸の奥に、冷たい意志を持って。

 エリカは、マイラの冷たい手を掴んだ。


「駄目だ!」


 悲鳴にも似た勇者の叫びを背後に、マイラは呆然と口をあけてエリカを見つめる。

 己自身で誘いながら、その答えを信じられぬという顔で。


(「どうして、そんな顔するの……私、来たよ。あなたの方に」)


 マイラは、違う。皆のためにという名目に目が眩んで、心のどこかでそれに浮かれて、愚かにも運命に流されてここまで来てしまった自分とは。

 呪いに侵されながらも、恐らく彼女は考え抜いた。如何にして、目的を成就するか。己と共に来てくれる誰かを探し出すために、彼女は策を練り、相手を見極め続けた。

 勇者が駆け付けてこなければ、そもそも自分に選択肢などなかった。誘われるまま彼女の手を取る以外には、単なる死しかないのだから。そしてダフネに会いに街の中心に向かった勇者が、この短時間でここまで戻ってこられるはずはない。彼女の策は、完璧だった。


 それでもなお、勇者はやってくる。人知を超えた力で、物理的距離を踏破する。知恵を振り絞ったマイラもまた、運命からは逃れられなかった。

 彼が来た時にマイラが見せた怒りと絶望。それを見た時、エリカは気付いた。


 運命が、自分をどこに誘おうとしているのか。

 助けを求めて勇者の手に縋りつけば、どうなるのかに。


 そうは、いくか。


『あ……あり、がとう……来てくれて』


(「一緒に、逝こ」)


 唇が、音にならぬ声を紡いだ。

 マイラの手が、水に濡れたひんやりと滑らかな感触が、エリカの顔を撫でる。彼女の震える指が、そっと頬を包み込む。

 ぬるりとした感触が、脚を撫でる。とぐろを巻いていたマイラの魚体が、エリカを包み込むように巻き付き始めた。


『やった……やった! うん! 一緒に行こうね……! 海の底へ!』


 咆哮と共に、勇者が剣を抜き放つ。だが彼が走り込もうとした瞬間、海が濁流となって地を走り抜け、勇者の身を吹き飛ばした。まるで、爆発するように。


「……ッ! エリカちゃん……!」


 海はそのまま、重力に逆らって逆巻きながら盛り上がった。自分とマイラの前で、無数の黒い腕が跳ね飛ぶように海水を引き連れて絡み合い、伸び上がっていく。吹き荒れる暴風がマイラの纏っていた【白竜の翼】を空にさらい、巨大な塔のように伸びた水柱がそれを一飲みにする。


『みんな! 私、やったよ! 私たちの呪いの連鎖は、これでおしまい! 後はもう、みんなに全部あげる! 好きにしてよ! みんなを呪った、何もかもを!』


 エリカを抱きしめて、マイラはけたたましく笑う。

 マイラの声が聞こえたように、立ち上った海の先端に、紅い目が煌めいた。海は聳える大蛇のごとく口を開き、凄まじい咆哮が……幾重にも折り重なった歌声のような響きが、大気を打ちのめす。


 これが、海を纏う大海蛇。

 魔王が撒いた呪いの種が、この地で絡んで結びあがった集大成。

 呪いに蝕まれた自分もまた、ある意味ではこれの一部……。


 勇者を前に解き放たれた怪物は、大木が倒れるようにゆっくりと頭を下げ、勇者へ向けて鎌首をもたげた。


「どうしてなんだ! 身を滅ぼすような真似を、どうして……!」


 大瀑布のごとく勇者に迫る、巨大な水柱。勇者が掲げた剣の紅玉が輝いた瞬間、噴火の如く火柱が立ち上った。どんな大砲よりも重く、溶岩よりも熱い爆炎が、大海蛇の頭と激突する。灼熱は、大海蛇の纏った海水を瞬く間に水蒸気に変え、その爆発して弾け飛んだ。


(「どうして……って?」)


 エリカは縮こまるように、マイラの胸に身を預ける。人に化けていた時とは異なる、冷え切った肌。鼻をつく、磯と潮の匂い。身に纏わりついてくる、滑ついた魚体。その全てが、熱を求めて縋るように、自分にしがみ付いてくる。


「行っちゃいけない! 絶望に呑まれちゃ、いけないんだ!」


 勇者は叫びながら、走り寄る。

 だがその眼前に、再び滝のごとき水流が立ちふさがった。舌打ちと共に勇者が振り返ると、海水が開いた額を晒しながら

大海蛇が振り向いている。その胴体が行く手を阻み、傷ついた頭もみるみるうちに海水を纏って再生していく。


『勇者さまなんかに……渡すもんか……私はエリカと……一緒に行くんだ……』


 その隙にマイラは自分を抱きとめたまま、海へと這いずり始めた。


(「可哀そうね、二人とも……自分と同じように、負わされた宿命に振り回されて。必死になってぼろ布みたいな私を奪い合って……私にはもう何の価値もないのに」)


 呪いに蝕まれた遠い意識の中で、エリカはぼうっと世界の終りの如き闘争を眺めている。

 もう、自分はするべきことを全て終えた。あとはただ、結末を見届けるだけ。


(「でも、そうね……普通、誰も選ばないわよね。助けにきた勇者と、心中を誘う魔物に挟まれて……彼女と一緒に海に沈んで魔に堕ちるなんて。きっと、誰にだってわかる。そっちを、選んじゃいけないって」)


 勇者の火焔が胴体を裂いても、大海蛇の歌声は止まらない。大気は震え、空は逆巻いて雨が強まっていく。暴風を巻き上げながら、大海蛇は稲妻を呼び落とした。


「邪魔を、するな!」


 だが勇者は、左手をかざしてそれを受け止める。常人ならば一撃で黒焦げになる衝撃を、勇者はその身に迸った紫電で受け止める。雷撃は跳ねる閃光と化し、逆に海蛇を貫く。


(「私は……ただ人に求められるまま、運命の望むまま流されて、暗い世界に一筋の希望を遺した……」)


 冷酷な魔物になりたかった人。人でありたいと望んだ魔物。それを打ち倒すさだめを負わされた勇者。

 英傑の伝説はどこまでも残酷に、そして優しく、登場人物ではないどこかの誰かを救う。

 自分もまたその伝説の中で打ち捨てられる登場人物の一人に過ぎなかった。

 幼いころ、望んだ通りに。


(「そう。私が【白竜の翼】を仕立てたことでみんなが救われる。……私の、このちっぽけな指に」)


 それが、運命と名付けられた、皆の望む物語。

 翻弄されていると知っていても、誰も彼も抜け出せない。抜け出さない。

 与えられた役割に酔って、自分のために誰かのためにとくるくる踊って……そして気付けば、後戻りできないところに追いつめられる。


(「でもそれを誇りに思ってしまったことも、事実だわ。だからもうそのことを、後悔はしない」)


 凄まじい爆音が轟く激闘の最中、マイラと己の隣で、海原が盛り上がっていく。大海蛇が、海を引き連れて陸へと登っていく。呪いの連鎖から解き放たれた過去の人魚の怨霊たちが、引きずり込む魂を求めて進んでいく。

 マイラに引きずられながら、エリカの足は波に揺られて、砂から離れた。痺れるような冷たさが、胸から首へと身を包み込んでいく。


「待ってろ! 俺は必ず、君を助けてみせる! 必ずだ!」


 勇者の額の羽冠が輝いた。彼は天を指し示し、その指を海蛇へと振るう。瞬間、弾丸のような隕石が大海蛇を撃ち抜いた。その胴体を無数の弾雨で貫かれ、海を統べる怪物は重なり合ったビブラートをあげて身をよじる。

 勇者は身に纏った紫電を水面に這わすと、海上で立ち上がった。そのまま水面を駆け抜ける。


 なるほど……【炎の剣】、【雷鳴の鎧】、【天の冠】。魔王を討たんと志すその力は、凄まじい。


 それだけの力を以てなお、彼は掌から小さな命が零れ落ちることを許せず、足掻き続ける。彼は運命に選ばれた本物の勇者なのだ。 希望を捨てず、如何なる絶望を前にしてもそれに抗う。闇の中で、人々を導く綺羅星たる者。


 彼は恐らく、海を総べる大海蛇を破る。やがて【白竜の翼】を纏い、世界を呑み込む絶望さえも討ち払うだろう。

 この伝説の最終章は、きっと大団円で終わりを告げる……自分たちではない誰かにとっての。


(「でもね。きっと、あなたもそうよ……勇者さま。助けようと躍起になってる馬鹿な娘と同じ轍の上にいるんだと、いつか気付くのよ。幕を閉じた伝説の外側で、役目を終えた者として運命に捨てられた時に。それとも、あなただけは違うのかな……」)


 しがみついてくるマイラの指が、摺り寄せてくる頬が、首の熱を奪う。

 もう、躰に力が入らない。ゆっくりと沈みながら、ゆらゆらと水面を漂う自分の腕を感じる。耳が水につかり、やがて口が沈み、鼻が塞がり、視界は暗い濁りに呑み込まれた。水面を掴むのは、もはや力の抜けた指先だけ。


 その時。


「この手を……取るんだ! エリカちゃん! もう一度……!」


 【炎の剣】を振りかざした勇者の突進が、立ち塞がる大蛇の胴を貫いた。海が断ち割れ、暗い水底へ沈んでいくエリカとマイラの姿が、ほんの一瞬、露わになった。


『やだ……ッ! 来ないでよ!』


 マイラの腕が怯えるようにエリカをぎゅっと抱き留める。

 勇者の伸ばした腕が、エリカの指先に……触れる。

 その時。


『……駄目よ、勇者さま。勇者の役目は、海の魔物を倒すことでしょ』


 エリカは、嗤った。

 喉から出たものではない、歌声に似た声音で、大気を揺らして。


『私、救うだけなんて、いや』


 エリカの指が、勇者の足を指している。その意志に従うように、大海蛇の体内から影のように伸びた腕が、そこをはっしと掴んでいた。


「……!」


 貫かれた大海蛇の躰から、無数に伸びる死者の腕。マイラの前の、そのまた前の、泡と消えた誰かの怨念たちが。勇者の突進を、引き戻す。


『決めたの。私は運命を受け入れて、みんなを救う。代わりに今度は、私が呪う。勇者と魔王の伝説を。私を生贄にした運命の全てを……』


 勇者の手は、エリカの指先を掠めて、すり抜けた。

 瞳を閉ざすように、海が、暗闇が、閉じていく。

 勇者の咆哮が水の向こうへ遠くなる。

 全身を突き刺してくるような冷気の中、マイラが重ねた唇から、死の味が染みわたる。

 肺腑の空気が啜り取られて息が詰まり、灼けるように冷えた水が躰の中へと流れ込む。


『これで……闇に瞬く希望も、染みのように滲む絶望も……』


 苦痛は灼熱となって胸を焼き、だがそれさえすぐに凍てついて。遠くなって。


『全部……私、の……』


 臓腑の奥から指の先まで、冷えた死と、新たな呪いが満ちて……満ちて……。

 救済と復讐の全てを胸に抱き、エリカの意識は闇の向こうへ堕ちていった。




 足を掴んだ黒腕が、勇者を投げ飛ばした。

 ロカの肢体は水面を二度跳ね飛び、海岸の木に激突してそれをへし折る。


 裂けた腹から無数の触手のように黒い腕を伸ばしながら、大海蛇は鎌首をもたげて荒れ狂う。目指す先は、丘の上の街。海岸で鳴り響く爆音に気付いたか、街からは非常時の鐘が激しく鳴り響き、すでに無数の灯りがともっている。


(「まだだ、エリカちゃん……! 俺は、君を……必ず!」)


 ロカは剣を杖に、体を引き起こす。身にまとった雷鳴の鎧が衝撃を受け止めなければ、投げられた時点で死んでいたろう。だがこの身は、只人に非ず。再び海を走り抜け、魔の気配を追って海を断ち割ることは、不可能ではない。きっとまだ、助けられる。


 しかし。


(『君は……やはり勇者なのだな。魔王を倒し世界を救うという己の使命と天秤に掛けても、目の前で死に瀕する一人の子供を救うことを選ぶということか』)


 そう突き付けられた問いが、何故か脳裏にこだまする。


(『ほら……勇者さままで無視するんだ。私のこと。ずっとずっと、独りぼっちで彷徨って来たのに。助けられる奴と、助けられない奴って。間に勝手に線を引いて、切り捨てるんだ! 勇者さまだって、私の歌が聞こえたくせにッ!』)


 己が斬るべき魔物は、そう叫んだ。そして。


(『私、救うだけなんて、いや……決めたの。私は運命を受け入れて、みんなを救う。代わりに今度は、私が呪う。勇者と魔王の伝説を。私を生贄にした運命の全てを……』)


 少女は呪われた声でそう歌い、救いを拒んだ。


 望むと望まざるとにかかわらず、誰かに何かを押し付けていった結果、生じていく歪み。

 それは延々と受け継がれ、当たり前のこととなりながら鬱積して。呪いと化して。

 勇者と魔王という、歪みの極点がぶつかる道の途上で、成就していく。

 そう。主役がいる物語とは、それ以外の誰かをその物語のために消費される脇役や悪役に堕としていくことで成り立つのだ。


(「俺は……違う。そんな役目を望んだわけじゃ、ないんだ」)


 それを清算する者がいなければ、歪みは降り積もるばかりだったはず。

 誰かが勇者にならねばならぬと言うのなら、自分がなってやる。その意志で、ここまで歩いてきた。

 それもまた、運命という名の物語の内だというのか……いや、そうだとしても、諦めてたまるものか。


 ロカが足に力を込めたその時だった。

 足元に白い魔法の陣が煌いたのは。

 打ち据えた身から、瞬く間に痛みが引いていく。


(「癒しの術式? これは……!」)


 坂の上を振り返る。

 町長ダフネが片手で術式を描きながら、剣を掲げていた。その後ろに、兵士たちを引き連れて。


「……水の内側に覗く、黒い腕が恐らく奴の本体だ! 魔術を使える者は、奴の纏う海水をこじ開けろ! 射手は黒い腕を狙え!」


 百人前後の兵士たちは弩を構えながら、蒼ざめた顔で大海蛇を見上げている。

 ダフネ一人だけが自分と視線を合わせ、悲痛な目で水面に沈んだ少女の安否を問うていた。

 それが却って、ロカに現実を思い出させる。走り出そうとした足を、踏みとどまらせる。


(「駄目だ……エリカちゃんを助けに行けば……」)


 カンテラの灯りに浮かび上がる、山のごとき黒い巨影。

 大海蛇は世界を呪う歌を歌いながら、海を引き連れて進軍する。

 兵士たちは必死の形相で矢を放って怪物に抗うが、その程度であれが止まろうはずもない。

 その後ろでは街の灯が蠢いていた。迫る魔物と海から離れようと、人々が逃げ惑っているのが一目で伝わって来る。


 今、自分が海へ潜れば、大海蛇を押し留められる者は誰もいない。水底で共にいる誰かを求め続ける怪物は、容易く街を呑み込んで人々を海へと引きずり込むだろう。彼らは、誰も助からない。


 ダフネの引き連れた幾人かの魔術師が、火焔の魔法を撃ち放った。数発の爆発が大海蛇の巨体を穿ったが、瞬く間に逆巻く濁流に呑まれてかき消えるのみ。

 大海蛇は怒りを露わに、咆哮を上げて水を放つ。散弾のごとき水圧が兵士たちを撃ち抜いて、数人が悲鳴を上げて倒れこんだ。


(「すまない……すまない! 俺は、救える者を、救う……!」)


 ロカは、目を閉じる。それは一瞬の逡巡か、瞑目か。

 惑いを振り払い、彼は剣を掲げた。


「街の人々を、避難させろ! 俺が必ず、こいつを止めて見せる!」


 【炎の剣】が、再び爆炎を吹き上げる。水弾が蒸発し、大海蛇の身を断ち割って……勇者は、再生していく巨体を駆け上った。海水の切れ目から、大海蛇の核である人魚の怨霊たちが黒い腕を伸ばして、追いすがってくる。


「……勇者どのを援護しろ! 射て!」


 ダフネの叫びに合わせて、無数の矢が放たれる。それに貫かれた黒い腕が痙攣しながら消失していく。勇者は怪物の頭上を取ると、再び天から星嵐を呼んだ。

 隕石に引き千切られ、黒腕は悶える蛇のように次々と消えていくが、その腹からは更なる新手が現れる。

 繰り返される、果てのない削り合い。狂乱する大海蛇は海を逆巻かせて丘を登り、洪水は街路へ溢れかえっていく。

 兵士たちは射撃を繰り返しながら、逃げ遅れている人々を抱えて後退して。


「おじさん、早く! 避難するんだよ!」


「ま、待て! 腰が、腰が抜けちまって……!」


 ミッコロと呼ばれた兵士が、身内を背負いあげて丘への道を駆けていく。

 そのすぐ後ろで、大海蛇は家々を破砕しながら街へなだれ込んだ。


「みんな、逃げろ! 逃げろー!」


「あれが、伝説の……!」


「大海蛇!」


 市場の屋台が押し流され、家々は瀑布に押しつぶされて、街の人々は悲鳴をあげながら丘へ向けて走っていく。


「四番通りはこれで全員だ! 三番は大丈夫か……!」


「海が来るぞ……! これ以上、どこへ逃げればいい!」


「……見て、誰かあれを押し留めてくれてる!」


「勇者さまが闘ってるぞ!」


 混乱と恐慌の中、人々は荒れ狂う魔物と勇者の闘いを見た。

 海の怪物はここに至るまでに、幾度となくその身を星と稲妻に貫かれ、臓腑である怨霊たちを火焔に焼かれてきた。その身を維持するのも難しくなり、形を崩しかかっている。だが、豪雨のように海水を滴らせながらも、大海蛇は政庁の壁を駆け登る勇者を追って、塔に巻き付いていく。


(「奴の本体を露わにするんだ。もう高い場所まで、海を引き連れて登る魔力は残っていないはず……!」)


 その肉体に迸る紫電が幾度も火花を散らし、集中と共に力を強めながら、勇者は駆け抜ける。

 大海蛇から海水が剥げ落ちていき、蠢く蛇の群れのような中身を晒しながら追いすがってくるのを、睨みながら。

 そして勇者は屋上まで駆け上ると、そこから天に向けて跳躍した。

 逃げ場を失った彼に向けて、縋りつくように無数の黒腕が水柱を突き破って伸びあがる……。


「さらばだ……極北の海の主」


 瞬間、勇者の身は、落雷と化した。

 勇者の渾身が伸びてくる黒群を貫通し、大海蛇の頭が四散する。蓄積した最後の呪いを貫かれ、遂に不死身は砕け散った。

 長く伸びる断末魔をあげながら大海蛇の胴体はゆっくりと反り返り、溶けるようにただの海水へと戻っていく。

 その内側より飛び出したロカは、政庁のバルコニーへと着地した。


「……そして、安らかに眠れ。呪いに囚われた人々の魂よ」


 降り注ぐ雨の中、はらりと一枚の衣が舞い落ちる。ロカはそれを、振り向きもせずに受け取めた。


 その背後で、めちゃくちゃになった町長執務室のドアが、蹴破られる。

 ダフネが、息を切らして膝をついた。


「勇者どの! あの子は! エリカは……!」


 ロカは静かに首を振って、落ちてきた外套を身に纏う。

 雪のように白く、散りばめられた紅のビーズは血のように紅い……悲劇を背負った伝説の【白竜の翼】を。


「申し訳ない……俺は、彼女を助けられませんでした」


 その一言で、何があったかを理解したように。

 ダフネは唇を噛んで、膝を折った。

 その拳で濡れた床を叩きつけ、愛する者たちに置き去りにされた女は泣き崩れる。


「あの時、私を……連れていけばよかったじゃないか……何故だ、マイラ……どうして、こんな……」


 女のすすり泣きだけが響く、虚しい沈黙。

 俯いていたロカはふと、政庁前の広場に多くの人々の気配を感じて、顔を上げた。

 ダフネが、顔をぬぐって声を絞り出す。


「……広場に、街の者が集っております。どうか安心させてやってください……勇者どの」


「ええ……」


 そして、街を破壊されて茫然自失としている人々の前に、勇者は立った。

 白い外套を纏い、剣を掲げるその姿は、街中の人間に伝説の再来を知らしめた。

 沈黙の中にぱらぱらと始まった拍手は、やがて勇者を称える歓声となり、そして熱狂となって伝播していく。

 勇者ロカ、勇者ロカ。そう叫ぶ、止まらない連呼となって。


「……皆さん! 俺の名前よりも、皆さんには語り継がなきゃいけないことがある。この街の裏側で何が起こっていたのか! その全てを、皆さんに知って欲しい!」


 ロカの一喝が、熱狂を押し留めた。よろめきながら起き上がったダフネを振り返り、彼は手を差し伸べる。


「さあ……俺と一緒に伝えましょう。もう二度と、こんな悲劇の起きないように」


「……例えそれが無駄なこととわかっていてもですか。街の者たちは、あなたの華やかな勝利と、都合の良く消費できる悲劇以外、何一つ伝えはしまい。エリカは聖女として歪められ、伝説は都合の良いところだけを語られ続けるのです」


「ええ。そうだとしても、せめてそれぞれ抗いましょう。運命という奴に。エリカちゃんも……形は違えど、そうしました」


 ダフネは涙を拭い、静かに頷いた。

 そして二人は、肩を貸し合って人々の前に立つ。

 後の世に伝わる、新たな伝説を語るために……。




 …………。


 ……音も絶えた、水底で。


 艶かしくぬらつく一対の魚体が、互いを喰らう蛇のように絡み合っている。


 白んだ指を組み合わせて、冷たくなった頬をすり合わせて。

 その間に、僅かでも熱を生じさせようとするかのように。


 名前が、あった気がする。でも今はもう、必要のない記号。ここにあるのは『あなた』と『わたし』だけだから。

 言葉が、あった気がする。でも今はもう、意味を持たぬ音。ここに響くのは、鈍く重いため息と、呪いを紡ぐ歌だけだから。


 あなたがいて。わたしがいる。わたしがあなたを、あなたがわたしを。貪るように求め続けて、互いを確認し続ける。

 今はもう、その反復以外の全てがなくなった。


 二尾の人魚は、お互いが融け合って朽ちるまで、ただひたすらに慰め合う。


 ……そして新たな呪いは、紡がれる。


 独りぼっちの誰かを呼び寄せていた極北の海に、今は時を掛けて『あなた』と『わたし』が重なり積もる。

 融け合って、混ざって、でも、また次の『あなた』がいて。その次の『わたし』がいて。

 一緒、一緒、ずっと一緒。一つになるまで、二人きり。


 二人ぼっちの暗闇の中、絡み合って歌い続ける彼女たちには、もう何もわからない。


 確かなことは、一つだけ。

 長く、長く、幾星霜もの時の果てに。

 勇者の外套の伝説と、二人の乙女の悲劇が語り継がれるあの土地で。

 新たなる絶望に立ち向かう者が海を渡らんとした時。

 彼女たちは帰って来る。


 水底より立ち上る、双頭の大海蛇……海総べる、魔物として。

 勇者の前に、運命を突き付けるために……。




 ……巡り、巡った、時の果てで。


 掠れた悲鳴を上げて、娘は飛び起きた。


「……っ!」


 唇が震え、汗で下着が肌に張り付いている。


(「今は、いつ……? こ、こは何処? わた、しは誰……?」)


 息を切らしながら、必死に記憶を手繰り寄せる。思い出すのに掛かる時間が、無限に感じられる。

 現実を疑うように、娘は窓の外を見た。

 空は渦巻く灰色だ。冷たい風が窓を揺らす、暗い明け方。

 現実感が、悪寒を伴って身を包んでいる。


(「夢、を……見た気が」)


 凄まじい夢だった。それは覚えている。酷く恐ろしく悲しい夢であったようにも、蕩けるほどに永い夢であったようにも思える。夢の中で、自分は誰かで、何処か深いところで、ずっとずっと……何か……わからない。内容は思い出せないし、思い出したくもない。


 跳ね上がる心臓を押さえつけながら、娘はベッドを降りた。

 もう今日は眠れそうもない。

 ひゅーひゅーとなる喉を押さえて、服の裾で汗をぬぐう。

 痛むほどに鼓動を刻む胸を落ち着かせ、カップに注いだ水を飲み、服を着替えていつもの外套を羽織る。


(「大丈夫。いつも通り。誰か、仕立てを依頼に来て、それをこなして、それでずっと……それだけ……」)


 戸を叩く音がして、娘は振り返った。

 それは見知らぬ青年の声で、彼女を誘う。


「ごめんください」


 よそ者だ。でもなぜだろう。聞いた覚えのない声のはずなのに、聞いたことがあるような、そんな気がするのは。


 娘は外套の頭巾を目深に被ると、玄関へ向かって歩き出した。


 北の大地に住まう、魔法の仕立て屋の物語を始め、そして、終わらせる為に。


 今度は、己の決断が出来るように。




 これは、世界を救う勇者の伝説の端に絡みついた、小さなさだめの物語。

 巨大な伝説の傍らで、少女の運命が今、再び、動き出す。

 その輪廻に、今度こそ終わりを見つけるために……。




~おわり


挿絵(By みてみん)

大海蛇シーサーペント人魚セイレーン

 大陸に伝わる勇者と魔王の伝説の中で、勇者の前に立ちはだかることをさだめられた将魔ボスモンスターの一体。

 人魚は大海蛇に囚われた存在として伝わっているけれども、本質的には同じものです。


 人魚は抱えきれない孤独に呪われた人物が、強い未練(呪い)を遺して海に入水することで生まれました。そして一緒にいてくれる誰かをその歌声で呼び続けます。

 しかし呼ばれるのは同じように孤独を抱えた人ばかり。誰かと繋がり合いたいと同時に、繋がり自体を恐れている人でもあるため、一緒にいたいという呪いの歌は常にその寸前で成就しません。

 拒まれてしまった人魚はその身を保持できずに呪いを遺して泡と消え、その呪いを拒んだ者に移し替える、という連鎖をずっと繰り返します。


 その『遺された呪いと怨念の集合体』が、誰かとの繋がりを求めて縋りつく無数の腕……すなわち、海の将魔『大海蛇シーサーペント』です。

 大海蛇は最強の魔物の一角ですが、最終局面まで旅を進めてきた勇者ロカにとっては、てこずるものの倒せない相手ではない、という程度の強さです(RPG後半の、物語的に重要だけど大して強くはないボス、という位置づけです)。ただ、その力が全開放されると人々を次々に海に引きずり込みながら街を沈める大災害となります。


 人魚は人から魔物(大海蛇)へ移行する中間のような存在で、『誰かと一緒になること』に強く執着するようになり、人であった頃の記憶や想いはおぼろになります。何世代も失敗を重ねてきて、物語開始時点の人魚がマイラとなっています。



●マイラとエリカのさだめ

 マイラは歴代人魚たちの中でも頭が切れる慎重派で、数十年の長きに渡り辛抱強く存在してきました。結構な数の人魚がわけもわからぬうちに次の人を誘って失敗しており、早い者は数か月と持たず代替わりしています(マイラの先代人魚がそれで、まだ仲を深めてもいないマイラをいきなり誘って大失敗したことが彼女の反面教師になっています)。


 マイラは少なくとも半年から一年ほどの期間を掛けて獲物を誑し、ダフネやエリカ以外にも多くの人と深い仲になってきました。ダフネには自分以外に縋りつける人間がいると察して姿を消したように、僅かでも失敗する可能性があると見れば諦めて、周到に獲物を吟味しています。


 エリカに賭けたのは、状況が状況なのでアイツは絶対に自分に転ぶしかないはずだと判断したからです。

 それでもロカの予想外の乱入もあって、マイラの計画は崩壊寸前でした(マイラは勇者の人外の身体能力を読み切れず、短時間で彼が海岸まで到達するのは不可能と判断していました。勇者が助けにきた段階で、彼女は自分が泡と消えるさだめに追いつかれたことを覚悟したのです)。

 『伝説が再現する』ということが皆に信じられているこの大陸では、人々の願いの力で運命が過去をなぞろうとするため、マイラがどんなに布石を打っても繰り返される連鎖を覆すのは難しいのです。


 それに変化を加えたのがエリカの意志で、彼女は立場的に『運命には逆らえないけれど、影響は与えられる』状態で、【白竜の翼】が完成する流れの中でなら、ある程度まで意志を運命に反映させられる状況にありました。

 本来、最終局面でエリカがロカの手を取るのが予定されていたことであり、彼女はあの場でロカに看取られながら呪いに死ぬさだめでした。

 マイラは彼女を呪いながら泡と消え、ロカは皆の幸せのために命を投げ捨てたエリカの死を哀しみ、街は彼女を聖女に列して勇者の伝説は継続するはずでした。


 一方、死んだエリカの体は大海蛇と勇者の乱闘の中で波に浚われた後『人魚の呪い』が発動し、どこかに流れ着いた上で人魚として蘇って、呪いを継続する『次の初代人魚』として目覚めるのが、本来の運命でした。

 プロローグの古代勇者と古代仕立て屋はこちらのルートを辿っています。つまり、ロカとエリカの前に現れた大海蛇は、古代仕立て屋さん(+その時点までの人魚たち)の成れの果てです。


 エリカはマイラの説明を受けたことでその運命をある程度まで予測出来たので、マイラと共に呪いに身を投じる道を選ぶことで運命の大筋を変化させないまま細部を変質させる道を選びました。

 独りぼっちの誰かが呪いを連鎖させる海の将魔『大海蛇シーサーペント』は、悲恋の中で入水した二人が呪いを連鎖させる『双頭の大海蛇ヒュドラ』へ進化しました。


 このまま少しずつ運命が歪んでいけば、魔は強くなり、いつか世界を縛る運命を終わらせられるかもしれない。

 孤独な自分たちが抱いた暗い希望が、自分たちを押しつぶしてくる人々の能天気な絶望を打ち負かす時が来るかもしれない。


 人々の幸せのために運命をさだめられたと言うならそれをきっちり果たした上で、次代の勇者がこの地を訪れた時、大海蛇より強い魔物として勇者(運命)に自ら復讐戦を挑む……というのが、エリカの決断でした。

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