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古代勇者の闘い

挿絵(By みてみん)

 寒々しい風の吹く、月夜の海岸で。

 娘は力なく横たわり、青年の腕の中に抱き留められていた。

 胸が苦しい。息が出来ない。いや、心臓が脈打つたび、その鼓動が弱まっていくのがわかる。

 視界が縮む。世界が狭い。波の音が、遥か遠い。

 もう自分は、助からない。

 絶望の確信だけが、澱のように胸の底にたまっていく。


「大丈夫だ……! 今すぐ、俺があの衣を取り返す。それまで、持ち堪えるんだ」


 青年は力強く手を握る。暖かい感触。いや、自分の手が冷え切っているのだ。

 これが、死にゆく者と生きる者を分かつ境界。それがはっきりとわかることが、無性に哀しかった。

 彼はまだ生きる。そして私は……死ぬのだ、と。


 その時、凄まじい咆哮が轟いた。人間世界の常識を超越した、魔物の叫び声が。

 青年が、紅い石のはめ込まれた剣を引き抜いた。

 倒れながら、娘はその服の裾を、必死に引く。


(「お願い……【白竜の翼】を……あれを、お願い」)


 声は、出ない。死に瀕しているからではなく、元々、出ないのだ。それでも、彼が唇の動きを読んでくれることを願うしかなかった。

 何を願っているのかは、自分にもよくわからない。確かにあれは、世界を救うために必要なひと欠片。自分が仕立て上げたもの。だがそれで世界が救われたとして……何になるのだ。

 自分はもう、助からないのに。

 青年は苦しそうに顔を歪めたものの、返答はしないままに海へ向き直る。

 いや、そこから伸び上がる巨大な黒い影を、見上げたのだった。


 逆巻く波を貫いて、巨大な塔の如く聳える黒い影。

 それは、夜の海を引き連れながら丘へと迫る、大海蛇。


「お前が魔王の島を護る、海統べる魔物か。極北の海を閉ざし、何者をも寄せ付けぬ嵐を呼ぶ、わだつみの蛇……」


 大海蛇の呼び声に応えて、雨が降り注ぐ。それは瞬く間に嵐となり、稲妻を呼び寄せて海岸の木々を焼き払う。甲高い叫びが轟けば、波飛沫は水の弾丸と化して、海岸の木々をへし折った。

 目の前に蠢くちっぽけな青年を威嚇するように、大海蛇は鎌首をもたげる。


 それはまさに、この世の終わりを告げるかのような魔物。城をも押し倒そうかという巨体だけでも、一人の人間の力では何をしようもない。その上、海を従えるその力は人知を超える。抗う術などあるはずもない。

 だがその怪物を前に、青年は一人で立ちはだかる。

 例え相手の力がどれだけ巨大であろうとも、一切の勝ち目がなかったとしても、彼の目的にとっては関係ない。


「魔に脅かされる人々を一人でも多く救い、世の絶望を祓うことが俺の存在する理由……!」


 剣を振り上げ、青年は飛び掛かる。瞬間、その体は一瞬のうちに投げ飛ばされていた。何が起こったのかもわからぬうちに、青年の肢体は水面を跳ね飛び、木に激突して倒れ伏す。

 一瞬の攻防……と、言えるものであったかどうかすらわからない。

 青年の着ていた革鎧は一撃で弾け、倒れた体の上に、折れた木が伸し掛かった。


 娘は、狭窄する視界の中で、その光景を見つめている。

 己の運命に絶望しながら、しかし、青年を見る視線に心配の色はない。

 常人ならばこの一撃で絶命している。木にぶつかった時点でその躰は丸ごと千切れ、ばらばらの肉片になって砂を汚す紅い染みになるのが当たり前。人の形を保っているだけで奇跡。

 だが、彼は只人ではないのだから。

 伸し掛かる木がゆらりと蠢き、剣を握りしめたまま、青年はゆっくりと身を起こす。


「俺は勇者だ。そう、なってみせる……!」


 大海蛇は、彼がまだ生きていることに腹を立てたように、首を上げて吠え猛った。

 海は激しく波打ち、倒れたままの娘の体に触れる。

 冷え切った身に氷のように冷たい海水が打ち付け、痺れるような痛みを呼び起こした。


(「ああ……寒い……冷たい……」)


 死にたくない。

 心の中で、言葉がそう続いたような気がする。いや……。

 死にたい。

 と、思ったのか。

 どちらだろう。

 ただ、はっきりと感じられるのは、一つだけだ。


(「独りは、もういやだ……」)


 とてつもない怪物に挑みかかる青年に、こちらを顧みるゆとりはない。いや、あったとしても、それが何になるというのか。どちらにせよ自分は独りで死に、彼は生きていく。

 彼はひたすら、絶望の中に沈んでいく人々を一人でも救おうと闘っている。あの闘いは人々全てを想ってのことで、自分を想ってのことではない。自分たちには、互いの心を通い合わせるような時間は、なかった。


 彼は勇者だ。世界にただ、独りきり。


 だからこそ、自分は彼に協力した。自分と同じように運命に呪われた、彼の境遇を想って。この想いを、育みたかった。そしたら何か、全てが、違っていたような気がする。

 それとも、これは全て錯覚なのだろうか。どちらにせよ己のさだめは、最初からここに行き着くように出来ていたのか。


 豪雨の中、青年は飛んでくる水弾を避けて走り抜ける。その剣が赤熱し、炎が斬撃となって吹き荒れた。火焔の魔法が、打ち付ける水弾を蒸発させて、大海蛇の胸を裂く。

 大海蛇が、絶叫を上げて身をくねらせた、その時。

 青年の頭上を、無数の矢が飛びぬけた。


「……!」


「勇者どのを援護しろ! 射つんだ!」


 海岸から街へと続く坂に、兵士たちが弩を構えて列を成していた。

 大海蛇が目指すは、丘の上の街。耳をすませば、街には非常を報せる鐘が激しく鳴り響き、すでに無数の灯りがともっている。灯が蠢くのは、人々が避難を始めているからか。

 青年は剣を振り上げながら、決死の表情で踏みとどまる兵士たちの前へ跳躍した。


「俺が奴を切り裂く! そうしたら、追い討ちを掛けろ!」


 それは、迫る絶望と押し返す希望の闘い。

 この嵐のように激しさを増し、魔と人のいくさは熱を深めていく。


 その傍らに置き去りにされ、倒れたままの娘の半身を、波が打ち続ける。

 ねえ。ねえ……。こっちへ、おいでよ。

 そう、海へ誘うように。


 娘は、自分が仕立て上げた外套をかき寄せて、雨に打たれながら震えた。


(「いやだ……いやだ。みんなのために、勇者が魔王の島へ渡れるように、あの外套を仕立てたのに。誰も私を見やしない。誰も私を気に留めない」)


 人は、いつもそうだ。

 みんなのためにという名目で、誰かに何かを押し付けて。そして少数の犠牲は致し方ないという理屈で、切り捨てる。

 そのくせ、自分たちが誰かを犠牲にうまい汁を啜っているとは、考えない。

 誰も彼もが、自分だけは善良で、誰にも害をなしていないと、思い込む。


 雫が、頬を伝う。泣いているのか、それとも単に、嵐の水滴なのか。

 息を切らしながら、娘は手を伸ばした。何に対して、どこに向けてなのか、もうわからない。視界はぼやけ、見開いた目は暗く濁っている。


(「みんな私が死ぬことに、気付きもしない……。勇者があの怪物を討伐して、全てが終わって……それから、忘れてたことを思い出すんだ。あの子、死んじゃって可哀そうだったね、って顔をして。都合のいいことだけ後に伝えて、私が生きていたことを思い出す人なんて、いなくなる……」)


 心臓の鼓動が弱々しくなるほど、一回、一回と、細くなっていく命の糸を実感する。息をしているのに、視界がどんどん暗くなる。

 勇者たちの闘いは、どうなっているんだ?

 暗くて、何も見えない。遥か彼方の遠雷のように、音も遠い。それもどんどん、離れていく。


 暗い。怖い。苦しい。寂しい……。もう、独りはいやだ。独りで死ぬのは、いやだ……。


 指先に微かに感じる鈍い感覚だけが、自分と生者の世界を繋いでいる。

 誘う波の冷たさにさえ、今は縋りつきたかった。

 ごぷっと音がして、息が詰まった。肺の中に、海水が入ったのだった。しかし、強くせき込むだけの力は、もう躰に残ってはいなかった。まるで力のない無機物の入れ物のように、肺の中を水が出入りする。躰は内から急速に冷え、それが心の臓腑にとどめを刺した。


(「あ……や、だ……」)


 きゅっと絞められたように、全てが止まった感覚がした。動かない。指先も、瞳も、吐息も、何もかもが。魂が抜けるように躰から力が抜けていき、開いたままの瞳が拡散していくのがわかる。駄目だ。止められない。

 何か、考えようとした。走馬灯でも、なんでもいい。せめて何か、浮かび上がるものはないかと。

 だが、何もなかった。それなのに意識だけがわずかに、留まっている。いや、認識だけが、というべきか。言葉にならぬ暗く濁った感覚の中で、それを感じる自分だけが、暗闇の中に取り残されていた。

 独りぼっちで。


「……! ……っ!」


 生き延びている僅かな神経が、振動を感知する。揺れる感覚。鈍い音。でも、それが何かは、わからない。


 すでに心は、途切れてしまった。勇者が自分の名を叫んでいるのだと娘が理解することは、なかった。


「……目を覚ませ! 駄目だ! 逝っちゃだめだ!」


 半身を海に沈ませて揺れていた娘の躰を抱き上げて、勇者は必死にその肢体をゆする。

 だが曇ったままの瞳はここではない遠くを永遠に見据えたまま。だらりと力なく下がった顔に水が滴り、口からは力なく海水が流れ出る。いつもかき寄せていた外套が腰まで浸かる波に揺れ、頭巾は脱げていた。柔らかな栗色の髪は顔に張り付いたまま、冷たくなった娘はぴくりともしない。


 勇者は急いで娘の躰を陸に引き上げようとして。

 水弾に撃ち抜かれて倒れていく兵士たちの悲鳴に、振り返った。


「勇者どの……! どこですか! 勇者どのォ!」


 縋りつくように叫びながら、彼らは後退する。

 その向こうでは、街の灯が慌ただしく動きながら、丘の上を目指して進んでいく。

 大海蛇は、大陸全土に轟くような咆哮で大地を揺らしながら、坂を上り始めた。その背後に、逆巻く海を引き連れて。


「畜生! 畜生……ッ!」


 選ばねばならない。残酷な決断を、誰かがせねばならない。娘を引き上げて水を吐かせ、その心臓を押し込んで動かす努力をするのか。それとも彼女をここに捨て、敗走寸前の兵士たちを助けて、街を救うのか。

 どちらを選ぶべきかは、わかっている。誰しもが、後者を選択すべきと、知っている。

 この娘の蘇生を試みたところで、救えるかどうかもわからない。仮に救えたとしても、一人だけ。それをしている内に、何人の人間があの魔物に殺されるか。それを考えたら、選ぶべきなのは……。


 決断の苦しみを、捨てられるわけではない。だがそれでも、苦悩は勇者の胸を焼いた。


「許してくれ……許してくれ! 俺は……俺は、救える者を、救う……!」


 勇者は娘と額を合わせて、そう叫んだ。

 遠く遠く、認識さえも薄れていく孤独な果てで、娘がほの暖かな振動と衝撃を感じたことを、彼が知ることはなかった。暗闇の果てに堕ちていく感覚の中、最後に感じた温もりを目指して、その意識が閉じたことも。


 勇者は娘の目を閉じ、その躰をそっと海へ流す。

 遺体を抱えて闘うことは、出来ないから。

 一瞬の名目の後、その姿は水しぶきを噴き上げて消え去った。人体の限界を超える跳躍で、勇者は走り逃げていく兵士たちの後ろへと姿を現す。

 幾人かの、まだ踏みとどまっていた兵士たちが、息を詰まらせてその姿を見つめた。


「街の人々を避難させろ! こいつは俺が……必ず倒す!」


 全てを拒むような嵐の中、勇者は最後の反撃に臨む。


 そして娘の躰と魂は、伝説として語り継がれる激闘を背景に、ゆっくりと夜の海へと沈んでいった。

 どこまでも暗く、誰もいない、静寂の底の底へ……。




~つづく~

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