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月満ちる夜の女神

作者: のり

 今夜は見事な満月だった。

 天井のない吹き抜けの中庭の空からは煌々と月の光が射し込んでいて、篝火の焚かれた神殿の中とさほど変わらない明るさで中庭を照らし出している。

「女神アルテミス様のご加護を……」

 隣で女が小さく呟く。私は手にした黄金の聖なる弓を引き絞った。弓につがえられているのは女神アルテミスに奉納された、満月鳥(まんげつどり)の羽根をあしらった美しい矢だ。

 中庭には月の光に白々と浮かぶ白木の的があった。私は的に狙いを定め、弓を解放する。

 ひゅん、と乾いた音を立て、矢が鋭く夜気を切り裂き飛び出したかと思うと、僅かの間の後にタンッ、と小気味良い音が響いた。矢は的の中心を見事に射抜いていた。

「そなたの心願、叶うとの啓示じゃ」

 美しい顔で、控えていた巫女が言い添える。

「ああルナ様、女神アルテミスに感謝を!」

 女は何度も頭を石の床に擦りつけるように下げて、嬉しそうに神殿を去って行った。その後ろ姿を見送り私はようやく肩の力を抜く。

「ルナ様。お疲れになられましたでしょう。これで今夜の神事はお終いです。湯殿にお湯を運ばせておりますから、ゆっくりおくつろぎになって下さいませ」

 巫女が微笑んで言う。

 黄金の弓を巫女に手渡すと、神殿の奥から愛らしい数人の少女達が現れる。彼女達は私の身の回りの世話をする巫女見習いだった。

「どうぞルナ様」

 一番年上の少女が火皿を手に先頭に立ち、私を湯殿へと案内してくれる。神殿の奥に設えられた湯殿には、湯気を立てたたっぷりのお湯が用意されていた。

 月の女神の神殿らしく、天井があるはずの頭上には夜空に煌々と輝く丸い月があるだけで四方を囲う壁もなく、目隠し用に背の低い葉の茂った木々が密に植えられていた。湯殿はアルテミス神殿の裏にある広大な森と隣り合っていて、外部と神殿を隔てている。

 私はここに身を置く度に、まるで自分が緑深い森の一角にいるような錯覚を覚えた。

 少女達に髪を解かれ、衣を脱がされて一糸纏わぬ姿になった私は、大理石でできた湯船に躊躇いもなく身体を沈めた。金の髪がぱっと湯船の湯に散り、お湯の温かさに溜息が出る。火皿を置いて少女達に下がるように目配せすると、そこはもう私だけの世界だった。

 私はようやく「女神アルテミス」から人間の娘「ルナ」へと戻る。

 神代の時代、月の女神アルテミスは満月の夜に女達が心に秘めた願いを、そっと黄金の矢で占ったという。そんな故事に則り、古代からこの国では貴族の娘が女神アルテミスの依代に選ばれ、満月の夜に黄金の弓を引く神事が行われている。

 三年前から大臣の娘である私がアルテミスを務めている。月の女神の依代であるからには、選ばれる娘は身分や容姿はもちろん、弓の腕にも長けていなければいけない決まりだ。

 何故なら月の女神アルテミスは、弓の上手で知られた女神でもあるのだから。

 私は夜気に晒された両肩に、満月の浮かんだ湯をそっとかける。贅沢な湯あみだった。湯船の淵に頭を持たせ掛け、月を見上げる。

 美しい月だ。世界で自分だけがこの月を独り占めしているような気になって、私はそっと両腕を空へと差し伸べた。湯の滴が腕を伝い落ちていく。むき出しの両肩と胸が、夜気にひんやりと熱を奪われる。差し伸べた両手の中に、大きな月が落ちてきそうだ。

 ――ガサガサッ……!

 目隠しの為の灌木が、突然揺れた。けれど森に住む野生の動物達が横切って行くだけで、何も怖い事などなかった。

 あの茂みの揺れの大きさからして、きっと鹿に違いない。しかも大人の大きな鹿だ。

「こちらへ来い。共に月を眺めよう」

 ただの戯言だった。女神アルテミスならそう口にするだろう言葉をただ真似てみただけ。

「――誰か、いるのか?」

 不意に低い声が、茂みの向こうから問う。不意を突かれた私は、何をどうする事もできずにただ声のした方向に視線を向けるのが精一杯だった。目が月明かりに揺れる茂みを捉える。そして茂みの奥に、人影――

 お互い声など出なかった。

 ただ、驚いて見開かれた目を、馬鹿みたいに自分も目を見開いて見返す事しかできない。

 人影は若い男だった。漆黒の髪と日焼けした肌。微かに開いたままの唇は、沈黙に凍りついて言葉を忘れてしまっている。男は精悍な若者だった。

 どうして男子禁制の女神アルテミスの神殿に人間の男がいるのか、という疑問は、私の頭の中から抜け落ちてしまっていた。私は自分の身体を隠す事さえ忘れ、目の前に突然現れた男に釘づけになっていた。

 けれどその男の視線が、やがて私の顔からその下へと移動するに至りようやく我に返る。

「曲者! ここが女神アルテミスの神殿と知っての狼藉か!」

 羞恥心よりも怒りの方が勝り、私は一言叫ぶなり湯船の近くにあった火皿を手に取ると男に向かって投げつけた。火の消えた火皿は、まっすぐに男の眉間目掛けて飛んでいく。

「すまない、覗くつもりはなかった!」

 男は投げ付けた火皿を顔を背けて避けると、背中を向けて言った。

「ルナ様! どうかなされましたか!?」

 神殿の奥から巫女の声がして、慌ただしい足音が幾つも近づいて来るのが聞こえる。

「悪いがここで捕まっては、後々都合が悪い。俺はターン家のアリオンだ。あらためて謝罪に来る。だから今は大目に見てくれ!」

 再びガサガサと枝葉を揺らし、男が森へと身を翻す。

「ま、待て!」

「ルナ様!」

 背後から巫女や少女達が湯殿になだれ込む。

「曲者じゃ! 曲者を捉えよ!」

 幾人かの少女達が布で裸のままの私の体を包む。残りの少女達は、巫女の号令にさっと森の奥へと散って行く。その手には弓や剣、松明が握られていた。この神殿に仕える巫女や少女達は、男子禁制のこの神殿の主である私を護る護衛でもあった。

「お怪我はございませんか?」

「あ、ああ。何ともない」

 半ば呆然としながら、私は男の消えた森の奥を見つめる。

 あの男は何と言ったか? 聞き違いではなければ、ターン家のアリオン、そう名乗った。

「曲者が名乗るなど、前代未聞だ……」

「ルナ様?」

「いや、何でもない……」

 首を傾げる巫女をよそに、私は少女達に促され湯殿から連れ出された。少女達は私の体に残った湯を丁寧に拭き取ると上質の衣を着せかける。その間、私は男の言葉をひたすら吟味していた。

 本当に謝罪に来るつもりなのだろうか。普通は逃げる言い訳だと考えるのが自然だ。けれど男は自分の身分を明かした。それは誠意がある証拠ではないか?

 黙って自分の思考の中に沈んでいた私は、巫女の声に現実に引き戻される。

「ルナ様、申し訳ありませぬ。曲者は取り逃がしたようです。この上は、上奏して神殿の警備を固めて頂くのがよろしいかと」

 満月とはいえ、深夜に広大な森の中を逃げる男を見つけ出すのは難しいだろう。深々と頭を下げる巫女に、私は手を振って言った。

「いや、それには及ばない。……すまないが、この件は内密に処理してくれ」

 巫女が驚いた顔をするのも無理はない。けれど私は冷静を装って、その顔を見つめた。

「――はい。ルナ様の仰せのままに」

 巫女はいつもの無表情に戻ると、静かにそう言った。


「やあルナ。昨日の満月の神事でも見事な弓の腕を披露したようだね」

「――リオス。そういう自分はどうなんだ」 

 翌朝。寝不足の腫れぼったい目で私は居間でくつろいでいるリオスを睨んだ。

「それを聞く? どうせ知ってるのに」

 ヘラリ、と笑ってリオスがソファの肘掛に身体を預ける。

「太陽神アポロンは、女神アルテミスに劣らず弓の名手だぞ。それなのにリオスがアポロンの依代になってから、随分とその名声を地に落としていると父上が嘆いていたぞ」

「父上ね。その父上は、僕に最近の月の女神は、誰のどんな願いも聞き届けてしまいすぎる、と愚痴をこぼしていたっけ」

 頬杖をつくように、私を見上げるリオス。金の巻き毛が太陽の光に輝く。リオスは私の双子の兄だ。どこか中性的な容姿をした彼は、女神アルテミスの双子の兄である太陽神アポロンの依代をつとめている。アポロン神殿でも満月の祭事と同じように、月に一度矢を射る神事が行われるのが習わしだ。

「――的の中心に当たるものはどうしようもない。わざと外せ、とでも言うのか?」

「あんまりど真ん中ばっかり射抜いてると、占いのありがたみが薄れるだろう?」

「そんな事を考えて弓を引いてるのか! それじゃ的に当たらない訳だこの罰当たり!」

 呆れて物も言えなかった。

「ルナ、それは失礼だよ。僕だって十回に五回は的には当ててる」

 しごく真面目な顔になってリオスが言う。

「残り五回は的にすら当たってないって事だろ! 私と変わらない弓の腕前のくせに!」

「それ位でいいんじゃないの? そんな誰も彼もの願いが叶うはずないんだからさー」

 私はへらへらと笑うリオスの脳天を、拳で殴りつけてやりたいのを何とか堪える。

「変に的の中心を射抜いて期待を持たせといて、はい、叶いませんでしたって方が残酷な気がするけどなー。それってルナのただの腕自慢でしかなくない?」

 私は一瞬言葉に詰まった。

「ま、それでも夢を見たいっていうのが女っていう生き物だろうし。そういう輩は月の女神の神殿へ行けばいいよ。そうじゃなければアポロン神殿に来ればいいだけ」

 な、何故か正論を吐かれているような気がする。私は心を落ち着かせようと、侍女の運んできた熱い茶を一口すする。

「ああ、それはそうと。昨夜アルテミス神殿に覗き魔が出たって?」

 ――ぶっ!

「うわっ、汚い!」

 思わず口に含んだ茶を吹き出した私に、リオスが顔を背けた。

「誰からその話を聞いた!?」

 巫女や少女達にはしっかりと口止めしたし、彼女達がそれを漏らす事は考えられない。

「えー? 覗き魔本人が出頭して来てるよ。今、応接間で父上が対応してる……」

「馬鹿リオス!!何でそれを言わない!」

 私は無責任にソファに転がる双子の兄を力いっぱいに睨み付けると、居間を飛び出した。

 馬鹿正直にも、本当に出向いて来たのか!

 私は絨毯の敷かれた廊下を足早に応接間へと急ぎながら、心の中で驚きの声を上げた。

「――父上はおいでか!」

 バーン、と扉を開け放ち応接間へと乗り込むと、毛足の深い絨毯の敷かれた広い部屋の中央、ソファが向かい合って並べられた先に父上の驚いた顔があった。その正面にはこちらに背を向けて座る人物が見える。

「ルナ! いきなり何だ!?」

「覗き魔の顔を拝みに参りました!」

 怒気を含んだ声に、父上の顔が引きつる。

「覗き……これっアリオン様に失礼だぞ!」

 この国の重鎮らしく、整えられた髭で覆われた父上の顔の中で、目だけが私と自分の真正面に座る人物の顔を何度も往復している。

 アリオン! やはり昨日の曲者は、ターン家のアリオンだったのか!

「構わない」

 こちらに背を向けて座っていた人物が、そう言うと同時に振り返る。太陽の光の下で見るその人物は、神々の姿を現した彫刻を思わせる、男らしく整った容貌の持ち主だった。新月の夜の黒髪、日焼けした肌に闇と光が混沌と宿ったようなグレイの瞳が映えている。

 けれどいくら見目が良かろうと覗き魔は覗き魔だ。それで罪が帳消しになる訳じゃない。

「男子禁制のアルテミス神殿に侵入するとは、いくらターン家の人間でも許されない罪だ」

 ターン家。それは王家と並ぶ名門貴族で、我が大臣家と比べても家格の差は歴然だ。

「その事に関しては、俺も異存はない」

 黒髪の青年、アリオンが真顔で言い切る。私はその潔さに意表を突かれた。ぐっと言葉に詰まる私を真っすぐに見つめると、アリオンは更に続けた。

「しかしいくら男子禁制のアルテミス神殿であっても、王の勅使は例外のはずだ」

「勅使!?確かにそういう例外はあるが、あなたは勅使ではないでしょう、アリオン様」

 この期に及んでつまらない言い逃れかと、私はがっかりするのと同時に腹が立つ。

「こ、これルナ! 口を慎みなさい」

 父上がアリオンの顔色を窺いながら、私の言動をたしなめる。

「いいえ父上。私は間違った事は言っていません。責められるべきは女神の神殿を覗いておいて、今更言い逃れをしようとする目の前のこの男です!」

 ビシッと指を突き付けて鼻息も荒く言い切る。父上が大きなため息と共にうなだれた。

「……誰か我が娘の自由すぎる口を閉じさせよ。このバカ娘めはたった今、自分の縁談を自分で破談にしよったわ」

「バカ娘とは聞き捨てなりませぬ。それに私には縁談など…………縁談?」

 思考が停止した。今、父上は縁談、と?

「聞きしに勝る女神アルテミスの依代だ。かの女神も森を荒す者と自分を侮辱する男には、烈火の如き制裁を加えたと言うぞ」

「お許し下さいアリオン様! 娘は何も知らないのです。あなたが本当に王の勅使であった事も、今回の縁談の事も……!」

 青ざめひたすら低頭する父上の様子に、ようやく私の頭の中にも、これは非常にマズイ展開なのではないか、という危機感が湧いた。

「父上、まさかとは思いますが……」

「まだ言うかこの愚か者! アリオン様は昨夜お前の縁談を知らせる為に神殿に遣わされた、正真正銘の王の勅使だ! ついでに言っておくが、お前の縁談の相手は、今目の前におられるアリオン様ご本人だ!」

 いつもは物静かな父上の怒声が応接間に響き渡った。私はただ茫然と父上とアリオンの顔を交互に見る事しかできなかった。


「あはははは! それは傑作だ!」

 居間にリオスの馬鹿笑いだけが虚しく響く。

「笑い事ではないぞリオス! わしは生きた心地がしなかったのだぞ!」

 父上がリオスを睨む。

「でも結局アリオン様は許して下さったんだろ? しかもルナとの縁談も破談にせずに」

 そうなのだ。アリオンは何故か覗き魔と罵倒した私を責める事もなく、事務的に用件のみを伝えると程なくして帰ってしまったのだ。

「私も一時はどうなるかと思ったが」

「胆を冷やさせた張本人のお前が言うな!」

 父上が再び怒鳴り私は大人しく口を閉じた。

「それにしてもルナ、お前はどうするのだ」

 怒鳴った事で少し冷静さが戻ったのか、父上が溜息をつきつつ尋ねる。

「どう、とは?」

「……貴族間の婚姻は、必ず占いの神事で吉凶を確かめるのが習わしだ。しかもその神事を行うのは、アルテミス神殿かアポロン神殿のどちらかと決まっている」

「あーあったね。あの八百長神事。僕はパス。どっちに転んでも誰かの恨みを買いそうだ」

 リオスが速攻で拒否する。

「ま、待てリオス! それじゃあ私が私自身の縁談の吉凶を占う事になるじゃないか!」

 慌てる私をよそに、リオスはその眩しいばかりの金髪の巻き毛を指で弄びながら言った。

「別にいいんじゃない? ねえ父上」

「そ、そんな不穏な話をわしに振るな!」

 本気で嫌そうに父上が頭を抱える。

「ここはリオスに神事を引受けてもらうのが、一番全てが丸く収まる解決策だと思うが」

 私もここぞとばかりにリオスに詰め寄る。

「えー? じゃあ僕が本気出して的の中心射抜いちゃっても、ルナは文句言わない?」

 何食わぬ顔で、リオスが恐ろしい事を言う。

「そっ、それは困る!」

 咄嗟に私の口からそんな言葉が出ていた。

「ルナ、お前に拒否権など無いのだぞ!」

 父上が厳しい顔で私を睨む。そんな事は私だって知っている。貴族間の婚姻に、血筋と出世以外何も考慮されないという事など。

「――わかっています、父上」

 口ではそう言いながらも、心の中は違った。

「……ほら、自分で占った方がよくない?」

 唇を噛んでうなだれる私の耳元に、リオスがそっと口を寄せて意味深に囁く。その言葉に含まれる言外の意味に、私ははっとしてリオスを見た。リオスが微笑む。

「決まりだね。父上、この神事は女神アルテミスの神殿で行われるのが相応しいよ」


「あの時はリオスの言葉に乗せられたが」

 深夜、自室で一人になった私は、僅かに欠けた月を見上げながら溜息をついていた。

 果たして神事でわざと的を外すなど、許される事なのだろうか。確かに今までの歴史上、貴族や王族の婚姻に関しての占い神事で的が外れた事はあったと聞くし、そうして的が大きく外れた婚姻は縁起が悪いという理由で破談にされる事もあったようだ。ただし、依代が的を外したのがわざとなのか、そうでないのかまでは今の私にはわからないが。

「ああっ、もうどうすればいいんだ!」

 私は髪を掻きむしると、寝台に倒れ込む。

「だいたい、何で相手がアリオンなんだ!」

 私は怒りにまかせて寝台に拳を叩きつけた。

 いくら王の勅使でも、湯殿を覗いていいなんて事はないはずだ! こっちは裸を見られたんだぞ!

「……裸……」

 ぼんっと顔から火が出た。今頃になってようやく自分が若い男に裸を見られたと気が付いた私は、広々とした寝台の上を、右に左にとゴロゴロ悶え回るしかなかった。

「ターン家のアリオン! 一度ならず二度までも……!!絶対に許さん!」

 悶え死ぬ寸前だった私は、フカフカの枕を両腕で絞め殺す勢いで握りしめると、呪詛の言葉を吐いた。

 そう、私とアリオンの間には、浅からぬ因縁があった。あれは私が十歳の頃の事だ。隣に住む某貴族の屋敷にターン家の人間がしばらく滞在した事があった。その時、十三歳になる長男のアリオンも同行していたのだ。

 そしてあの衝撃の瞬間を、私は未だ忘れてはいない。

 あの日は夏の初めで、とても日射しの強い日だった。暑さには叶わず、侍女に頼んで庭で水浴びをしていた私は、いつの間にか隣の屋敷との境を越えて我が屋敷の庭に侵入して来たアリオンに、素っ裸を見られてしまったのだった。

『庭から失礼するが、この衣装はこちらの屋敷の物か?』

 聞き慣れない声に振り向いた私は、そこに見知らぬ名門貴族の嫡男が私の着替えの衣を手にして立っている姿を見た。その時の私ときたら、水から上がったばかりで水浴び用の布すら身に着けておらず……まあ早い話が素っ裸だった訳だ。

『きゃああっ! ルナ様に早くお衣裳を!』

 侍女達が金切り声を上げて私の体をアリオンから必死に隠してくれたが、時すでに遅し。

しっかりとアリオンは私の裸を見た後だった。

「あの男! 視線が顔から爪先まで一往復したのを私は覚えているぞ!」

 アリオンが我が屋敷の庭に入り込んだのには、私の着替えが風で隣の屋敷に飛ばされたという立派な理由があったのだが、それにしても女しかいない水浴びの現場にのこのこと男一人で現れるとは、空気の読めない奴だ!

「しかも腹の立つ事に、あの男はすっかり七年前の事を忘れてしまっている!」

 ボスン!と枕を寝台に叩きつける。

「とにかく! あの男との婚姻だけは絶対に破談にしてやる!」

 私は心の中で闘志を燃やしたのだった。


「ルナ様、ご事情はお聞きしております」

 翌々日、神殿に顔を出した私に、巫女や少女達が妙に含み笑顔で声を掛けて来る。

「未来のご夫君との運命を自ら占うなど、ルナ様も余程この縁談に乗り気のご様子」

「何故そうなる!」

 ぎょっとして巫女を見る。そんな私を不思議そうに見て、巫女は言った。

「ルナ様のご神事の矢は、依代となられてから一度たりとも的を外れる事がありませんでしたでしょう? しかもご就任されて初めての神事以外は、その全てを的の真ん中を見事に射抜かれているではありませんか」

 うっ!

「そんないわば百発百中の腕前のルナ様が、まさかこの神事に限って的を外されるような事はありますまい」

 ううっ!

「だからこそ自ら縁談の吉凶を占いになられるのでしょう? ルナ様が弓を引かれるならば、もう当たったも同然ですわ!」

「そんな馬鹿なっ!」

 思わず叫んだ私に、巫女と少女達は「また照れ隠しを」とコロコロと笑うだけだった。

 まずい。これは非常にまずい展開だ。私は的を外すつもりで神事を引き受けたというのに、世間では全く逆の期待をされている!

「アリオン様もそこまでルナ様に愛されて、幸せなお方ですわ!」

 いや待て。あの男はただの痴漢だぞ、という声を辛うじて飲み込む。駄目だ、皆アリオンと私を買被り過ぎている!

「――頭痛がする。今日はもう帰る……」

 私は痛む頭を押さえると神殿を後にする。神殿の脇にある馬小屋には、先程乗って来た馬車が待っているはずだった。

「――ルナ殿?」

 馬小屋へ向かう途中に不意に声を掛けられて振り向くと、見覚えのある立ち姿があった。

「……アリオン、様」

 今一番会いたくない相手だった。

「今日も王の勅使で神殿へおいでですか」

 思いっきり嫌味な口調で尋ねるも、アリオンは涼しい顔で「まあそんなところだ」と受け流す。いけ好かない男だ。

「それよりもルナ殿。少し話がしたい」

「覗きを詫びる気になりましたか」

「……随分こだわるな。悪かったとは思っているが、あれは不可抗力だ」

 不可抗力。都合のいい言葉だ。

「そう露骨に軽蔑を顔に表すな」

「表されたくなければ、覗かない事です」

 アリオンが溜息をつく。

「ルナ殿。男子禁制のアルテミス神殿への勅使は、正面入口からではなくそれ専用の入口から訪れるという決まりを知っているか?」

「――初耳だ」

 その事実に私は思わず敬語を忘れて驚いた。「勅使の俺はその決まりを知っていた。だが、実に情けない事に勅使専用の入口がどこかわからず、……早い話が迷った訳だ」

 決まり悪げにアリオンが早口で言うその様子は、とても自己弁護の嘘には見えなかった。

「……で、迷った末にたどり着いた先が、運悪く女神の依代の湯殿だったという訳か。随分間抜けな話だな」

 いつもの癖でつい無礼な口をきいた私は、慌ててアリオンの顔色を窺うが、彼は全く意に介さない様子で言った。

「全く、我ながら間抜けな話だ」

 その砕けた態度に妙に親近感が湧く。お互い顔を見合わせると、自然と笑みが浮かんだ。思っていた程悪い男ではないのかもしれない。何故かそんな事を思う。ほんの少しだけ、この男を許してもいいのではないか、と私はアリオンを見上げた。なのに。

「しかし実に眼福だった。あの一瞬、女神アルテミスが湯あみをしているのかと俺は思った。人生で二度も同じ女神に魅入られるとはさすがに思わなかったが。思わず理性が飛びそうになる程、君の裸は美し――」

 意味不明な彼の言葉を皆まで聞かず、私は拳をアリオンの腹にめり込ませた。

「デリカシーのない男は嫌われるぞ!」

 誰が覗かれた裸を褒められて喜ぶ女がいるのものか。やっぱりこの男は覗き魔だ!


 アリオンと私の縁談の吉凶を占う神事は、ひと月後の満月の夜と決まった。所詮は他人事なのか、自分の縁談を自分で占うという妙な話に、別段誰も異を唱える者はいなかった。

 皮肉な事に、そこには就任以来的を外さない、私の弓の腕前が前提にあると言っても過言ではなかった。今になって、リオスの言う事をもう少し理解を持って聞いていれば、と悔やまれたけれど、もう後の祭りだった。

――そしてひと月後の満月の夜。

「どうしてアリオン本人がここに居る!?」

 満月の神事が今まさに行われようとしているアルテミス神殿に、アリオンの姿があった。

 勅使に相応しい正装で、弓を引く私と中庭に置かれた白木の的を視界に納める事の出来る特等席で、アリオンが静かに私を見ていた。普通、縁談の当人は神事に立ち会う事はない。

 心臓がどくんどくんと脈打っている。弓を引く事に緊張を覚えるなど初めてだった。アリオンが見ているからだろうか?

 巫女が満月鳥の羽根でできた聖なる矢を私に手渡す。頭の中がまるで高熱に浮かされている時のようにふわふわとして、まともに物が考えられない。矢を射なければならないのに、全く集中できない自分に焦りを覚える。

 集中しろ、いつものように引けばいい。

そう思うそばから、それでは駄目だ、それでは的の中心を射抜いてしまう!と切羽詰まった声が私の思考を混乱させる。

 わざと的を外すどころの話ではなかった。私はすっかり怖気づき、矢と弓を手にしたままどうする事もできず固まってしまっていた。

 いつもと様子の違う私に、ようやく巫女と少女達が気付き始めた。

「ルナ様、弓を」

 巫女が私を正気付かせようと小声で囁く。けれどそれは逆効果だった。私は焦るあまり、手にした弓を取り落してしまったのだった。あり得ない失態に、頭の中が真っ白になる。

 ざわざわと神事に立ち会っている者達のざわめきが、余計に私の焦りを煽る。今すぐここから逃げ出したかった。何が女神アルテミスの依代だ。大層な肩書があったって、所詮私はただ怯えているだけの小娘じゃないか!

 無意識に弓を拾おうとして伸ばした手が、自分でもわかる程に震えていた。きっと誰の目にもそれはわかっただろう。

 怖かった。私は初めて、人の運命というものを背負う怖さを知った。今まで自分が平気で人の願いを占ってこられた事が信じられなかった。

「――無理だ……私には出来ない」

 知らず弱音が漏れた。そんな自分が情けない。けれどそれは心の底からの本音だった。

 気付けば辺りはしんと静まり返っていた。皆私に失望したのだろう。情けない娘だと。

 私は俯いて唇を噛んだ。助けて欲しかった。誰でもいい、今すぐに私を助けて!

 頭の中に何故かアリオンの顔が浮かんだ。

 ふと、足音がした。それは神殿の石畳をゆっくりとこちらに近づいて来る。

「女神アルテミスに出来ぬというのなら、自分達の未来は自分達で決めるとしよう」

 すぐ傍でアリオンの声がした。思わず顔を上げた視線の先で、アリオンが私の落とした弓を拾うと私の左手にそれを握らせた。嫌だと抵抗しようとする私の手に、アリオンの手が重ねられる。そして同じように矢を持つ右手にもアリオンの右手が重ねられ――

「見届けよ。我らが未来の吉凶を」

 私の手ごとアリオンに引き絞られた黄金の弓は、朗々と響く彼の声と同時に解放された。

 極彩色の満月鳥の羽根が、軌跡を描き篝火の煌々と焚かれた中庭へと吸い込まれていく。

 あの夜と同じ大きくて丸い月の下で、私達は私達の未来を占う矢の行先を見つめた。

「俺の女神、とっくに俺は未来を君に捧げている。――七年前のあの時から」

 アリオンの熱っぽい囁きが、甘く私の耳をくすぐった。


「リオス、いつまでダラダラとしておる! 今日は新しい女神の依代の就任式だぞ!」

「父上、張り切り過ぎるとぎっくり腰になって、せっかくの孫の晴れ姿を見逃しますよ」

「年寄扱いするな! しかし早いものだな。孫娘がもう女神の依代を務める歳になったのだぞ。あのルナとアリオン様の娘がだ」

「また始まった。年寄りの昔話が」

「やかましい。わしは未だ忘れる事ができんのだ。あの神事の折、弓を射れなくなったルナをアリオン様が自らの手で支え、見事に的の中心を射抜いたあの時の事を――」



最後まで読んで頂き、ありがとうございました!


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