(1)
夜が明けるまで五時間。わざと行政機関に連絡を入れ、彼らを呼び寄せた。その中に先程の人間がいる可能性もあったが、それらしい人間はいなかった。
どちらかと言うと新入りだけで構成されていた。襲撃で死んでもいい人選なのだろうか。そんな穿った見方で考えてしまう。
ホテル側も別の部屋を用意してくれたが眠れる訳もない。朝までに再襲撃があると思ったが、それもなく敵は思った以上に慎重だった。
こちらを確実に殺せ、周囲にばれない機会を窺っているのだろうか。
夜が明けて従業員に部屋から退出を促され、ホテルのエントランスホールで待っていた。
「どうせ、眠れないのなら別の意味で眠れない方が良かったのに」
ヴァシリーサが冗談を口にするが、フロントから戻ってきたパトリツィアの目は笑ってない。
「そんなことよりも宿泊を拒否されたわ。金は全額返すから、泊まらないでくれって。
襲撃でビビってるみたい。次の宿泊先を探さないと――でも、アトラスにあるホテルはここしかないし、下手をすると、自分達は野宿になる。……ホテル側は今すぐ、チェックアウトして欲しいみたい」
パトリツィアがフロントの従業員を睨みながら告げる。
「ここにいても襲われるだけだから移動する頃合いだった」
「それより、荷物と証拠は?」
ヒューロは昨日の一件を聞いていないのを思い出した。
「確保してる。証拠に関して調べたけど、金属トカゲと言うより金属生命体だった。連続殺人の方は錬金術で作られたキメラの犯行じゃない。何か、別の技術で作られた生き物」
ヴァシリーサが小声で話す。ここの人間に聞かれるのは拙い。
「移動しましょう。話すだけなら広場でもできる」
パトリツィアは自分の荷物を持つ。ヒューロは持っていた旅行カバンを持ち、ヴァシリーサも自分の荷物を抱えて、ロビーから出た。
外に出た瞬間、ホテル前の広場に見知った顔の人物が佇んでいた。待ち構えていたとしか考えられない。
「カタリーネ・グリゼルディス。どうして……ここに?」
陰鬱な喪服を矜持を持って着こなしているように見える女性が笑った。ちっとも楽しそうにも愉快そうにも見えないが――
「わたくしはこのホテルに用があっただけです。正確には皆様に、ですが」
「こっちには用はない」
ヴァシリーサは警戒の意志を隠さなかった。
「わたくしは皆様の存じ上げない事情を知っている。それを聞いてから判断するのは如何でしょうか? ここでは人目もありますので、わたくしの家にご招待致します」
カタリーネはそれを微笑みながら恭しく頭を下げた。言われた言葉を完全に受け流している。
閉鎖空間で忌まれながら生きたのだから、タフな精神を持っていなければ、耐えられなかったのだろう。
それがこの女性の背負う悲哀を一層引き立てているようにも感じる。
「信用できないわ。あんたのその腕の傷は?」
ヴァシリーサの言葉にカタリーネは躊躇いなく袖を巻くし上げ、包帯を解いた。
二人が息を飲むのがハッキリと分かった。古傷――恐らく、リストカットの痕だった。自殺を謀った結果、死にきれなかったのだろう。
ヒューロは無意識で自分の手首を隠すように直立不動の体勢で両手首を隠す。
「これで満足ですか?」
優しげで落ち着いた声であったにも関わらず、全てを凍りつかせるような怒りと激しい情念を秘めているように感じた。
「一度しか言いませんのでちゃんと聞いて下さい。わたくしが時雨桜に状況報告した者です。勿論、都市群やそれに所属する他のギルドにも」
カタリーネは厳かに告げた。そのことを想定していなかったので思考が止まる。
「それで貴方はどうしたいの?」
「この海上都市を解放して下さい。わたくしの依頼です。報酬は即金でお支払いしますので」
パトリツィアの質問にまたもや抽象的な答えが返ってきた。
「それはどういう意味で、だ?」
頭を振って、ヒューロは正気に戻り、意味を問う。
「言葉のとおりです」
カタリーネはまたも曖昧な答えを返した。ヒューロの左右で空気が急激に澱む。さすがにホテル前で怒鳴るようなことをしなかったが時間の問題だった。
「ここでは何ですから場所を移しましょう」
カタリーネがこちらの返答を待たずに歩き出す。人の話を聞く気がないのか。
ヒューロが視線を動かすと、二人が頷いて意志を表明する。意思確認は済んだ。ヒューロは最初の選択どおり、火中に飛び込むことを選択した。
路面電車を乗り継ぎ、アトラスの北側にあるカタリーネの家に着いた。一人で住むには広すぎる印象を受けた。
リビングに通され、テーブルに着くように促される。
カタリーネはテキパキと動いて紅茶を出した。ヒューロに紅茶のことは分からないがそれなりに良品らしい。やっぱり、彼女は富裕層の出らしい。
「自らはあんたを信じた訳ではない。もう少し、詳しく話してもらえる? それと、これに毒は入ってないでしょうね」
眉毛を顰めたまま、ヴァシリーサが睨む。
「仕草を見ていた限り、入れる隙はなかったわ」
パトリツィアがその意見を否定せず、カタリーネから視線を外そうとはしない。
「カタリーネさん、貴方が本当の密告者だと証明を。そして、それが真実なら……グレゴリオが貴方を生かしている理由が分からない。追い出すことも殺すことも拘束して牢屋に入れることもできた筈」
先程から気にしていた疑問を口にする。
「グレゴリオに対して行動を鈍らせるような事実をわたくしが握っているからです。それと司教様が貴方達を追い出せなかったのは体裁を繕う為に利用しているのでしょう。都市群を抑える為に……それだと腑に落ちない事柄が幾つかあります」
自嘲のような笑みをカタリーネが浮かべる。
「消えた人達のことね」
パトリツィアはカタリーネから視線を外さない。
「ええ。彼らのことは失踪としか発表していません。今までの対応を見ると予想外のことが起きたのでしょうね。司教様ですらも把握できなかった……いえ、掌握しきれなかった《何か》が」
彼女の説明を注意深く聞いていると、グレゴリオに対して嘲りの念が込められているのが分かる。
「ならば、尚更、司教は貴方を殺さないのですか。貴方さえ謀殺してしまえば、査察団失踪の件はともかく……ギルドの人間を招き入れる必要はなかった筈。情報が漏れることも」
パトリツィアは核心に迫る。
「わたくしが――テオの恋人だったからでしょう。グレゴリオの右腕だった人物です。思い当たる節はそれくらいでしょうか」
カタリーネの頬がほんの少しだけ赤くなった。恋人を本当に愛していたのだろう。その名前を出した瞬間だけ、彼女を覆っていた黒い空気が少しだけ和らいだように見えた。まるで厚い黒い雲の間から差し込んだ太陽光のようにほんの僅かな一瞬だけ。
彼女の着ている喪服は彼を悼む為なのだろう。
だが、そんな理由で危険因子を殺さない訳がない。恐らく別の理由があるのだろう。パトリツィアもヴァシリーサもそのことに気付いているのか、苦い顔をしている。
「わたくしにはそうとしか思えません。司教様は何らかの負い目を感じているのではないでしょうか。
わたくしのことよりも依頼を……今回起きた査察団失踪と化け物の犯行は裏で繋がっているのです。先に話した掌握できなかった《何か》と外部の人間を招き入れる。その二つが密接に絡み合っているのです。今の時点で証明できませんが」
その声は必死に訴えていた。しかし、ヒューロはカタリーネの真意を量りかねる。
「テオという方はグレゴリオに意見の言える重要人物だったのですか?」
その問いに彼女は頷いて答えた。テオに関して、何も喋りたくないらしい。或いはその辺りの具体的な事情を知らないのかもしれない。
「他に……このアトラスで起きてる連続集団失踪や殺人、以外に変化があったことは?」
「それ以外の変化。……変化ですか。オギュスティーヌ氏の様子がおかしいこと以外には特になかったと思います。公務を欠席すると言う範囲ですが……以前はどんなに忙しくても公務を休むことはなかった筈ですが……わたくしの知る限りですが」
カタリーネの視線が虚空を漂う。
「ありがとう。大体は分かった」
ヴァシリーサの中で何かを導き出したのか席を立とうとする。
「お待ち下さい。わたくしの家でよければ、自由にお使い下さい。依頼人として無償で宿泊先を提供致しますので」
喪服の女の申し出は渡りに船だったことは間違いなかった。