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右ニ剣、左ニ銃ヲ  作者: 明日今日
第二幕 胎動
6/19

(2)

 昨日の昼食と同じようにレストランで朝食を済ませた後、今日の予定はターミナルでの出入記録の照合と現場での捜索。

 それだけで一日が潰れた。既に西の空は黒く染まり、星が輝き始めていた。それに抗することができたのはこのアトラスには珍しいランプ式の街路灯だった。

 記録を照合した結果、時雨桜以外のギルドの人間でこの海上都市から忽然と消えた人物が何人もいた。入った記録があっても出た記録がない。数にして二十人近くも行方不明になっている。

 それに加えて、アトラスの中にいて時雨桜に情報を漏らした人物は不明。同時期に怪物の目撃情報が急に増え始めた。

 この間、このアトラスから抜け出た人間はいない。まだ仮説の段階だが――この都市自体の人口が変化していないのだとしたら――

「これほど、酷いとは思わなかったわよ! 怠慢管理職、騙してやらせたわね」

 そんな予測をヴァシリーサも考えているのか、怒りで顔が真っ赤になっていた。ただでさえ、海上で逃げ場もなければ、味方も皆無いや、ゼロだ。想定していた以上に状況は拙い。

 クラウチは知らなかったのか、前金を使い込んだのか、実績を上げたくて黙っていたのか……どんな理由であったにしても最悪の状況に違いない。

 今日一日でアトラスに住む人々の視線は余所者に対するそれよりも苛烈感じた。まるで古い土着信仰を守る農村に放り込まれたかのように錯覚さえ覚えた。

 ここはどんなに近代的な装飾を施されようと余所者を受け入れるつもりはないのだ。華やかな街並みを誇っていてもこのアトラスの中身は閉鎖的なのだ。

 どんなに栄えようとその繁栄はこのアトラスに住まう人々にのみ恩恵を与えなければならないのだ。そんな意志を都市全体から突きつけられた気がする。

「余計に首を突っ込まなければならなくなった」

 パトリツィアは背を向けたまま、決心を口にする。いつものことだが分かっているのか、分かっていないのか――

「裏がある仕事だとは思ったが賃金上げてもらわないとやってられないな。もっとも金だけで済ませないけど」

 ヒューロは愚痴りながら、歩く。やはり海の上のせいか、夜になると風が寒い。

「微かに剣を弾く音が聞こえた。近い」

 パトリツィアが口走る。その横顔は既に固い決意に満ちている。言われて、ヒューロが耳を澄ませる。

「そう言われれば、金属音のように聞こえないこともないが……」

 確かに金属音が響くような音が聞こえなくはないが、この辺りは地図上では工場と書かれていた。――だが目の前に見えるのは建物は工場と言うよりは製薬会社のような研究棟のように見えた。

「血の匂い?」

 ヴァシリーサも立ち止まった。だが、匂いなど感じ取れない。

「パト! 音が聞こえたのはどっち?」

 パトリツィアが少し考えた後、西を指す。

「血の匂いがする場所と同じね」

 パトリツィアはヴァシリーサが言い終わるのを待たずに駆け出していた。

「待って!」

 声をかけてもパトリツィアは次の路地を西に曲がり、姿を消す。

「ヒューロ! 先に追って。自らも弾丸の準備ができたら追うから」

 ヴァシリーサに促されて、ヒューロはパトリツィアの後を追う。錬金銃士として銃に関するメンテナンスを怠っているとは思えなかったが、言われたとおり先行する。

 全力で走っているのにも関わらず、魔女騎士の足は速かった。向こうは鎧を着けて走っているのにヒューロの足ではこれ以上離されないようにするのがやっとだ。

 パトリツィアが金属音のする方へと確実に導いていく。同時に血の匂いが徐々に鼻を麻痺させる。

 彼女の後を追って角を曲がった瞬間、広場に出た。執行官の制服を身に纏った女性が化け物に胸部を抉られ、絶命した瞬間だった。


 魚人間と思われたそれは月の光に照らし出される。

 よく見れば、昨日の化け物とは違う……黒い光を放つ爬虫類らしき頭部を有し、人間のような二足歩行。大きさも色も魚人間とは明らかに体格が一回り違う。

 その上、胸の膨らみが女性をベースにして創られていることを示していた。

 驚くこともなく素早く剣を抜いたパトリツィアが斬りかかる。

 だが必殺として放たれた筈の一撃は甲高い金属と擦りあうような音を響かせ、その体を切り裂くこともなく、黒く光る肌の表面で受け止められていた。

 巨大爬虫類はお返しとばかりに反撃を試み見る。

 しかし、パトリツィアは鎧など着ていないかの如く、軽やかにバックステップで回避し、距離を置いて、敵と対峙する。

「パト」

「こないで! こいつ、魔物とも昨日のヤツとも全然違う。明らかに手強い」

 近寄ろうとするが余裕のない声に思い留まる。悔しいが駆け寄ったところで邪魔にしかならない。

 先程の状況を見る限り、この爬虫類の肌は金属か、それに類する物質で構成されているらしい。さしずめ、金属トカゲと呼ぶべきだろうか。

 普通に剣が通じる相手とは思えない。

 金属トカゲはそれが分かっているのか、ゆっくりとパトリツィアとの距離を詰める。動物並みの知能はあるのか。

 ヒューロは辺りを見渡して使える物を探す。丁度、街路灯が間にあった。この世界では恐らく、油を使ってる筈。

 何か、あの街路灯を割る石を……そこで手袋のタリスマンを使うことを考える。

 上手くいくか……試したことはないが圧縮空気の塊をぶつければ、壊せるかもしれない。

 前方左から足音が聞こえた。慌てて視線を向けると準備を整えたヴァシリーサがリボルバーを構えて撃つチャンスを窺っている。

 金属トカゲの気を逸らす為にヒューロはタリスマンに込められた呪力を使い、わざと生み出した空気の塊を壁にぶつけ、大きな音を出す。

 一緒にパトリツィアまで驚いて化け物から離れる。彼女らしくない。

 逆にそれを狙って、金属トカゲが動こうとした瞬間、ヴァシリーサが引き金を引いたのか、金色の光を纏った弾丸が金属トカゲの右肩を貫いた。

 それと同時に黒く光っていた身体が捩れ、石畳の上に膝をつき、痙攣している。

「駄目! 近付かないで!」

 パトリツィアがその隙を狙って動こうとした瞬間、ヴァシリーサが叫ぶ。それで理解した。

 彼女が自分を先行させたのは今の一撃を、弾丸に電気を込める必要があったから、時間稼ぎにパトリツィア一人では危険と判断しただろうか。役に立ったとは思えないが。

 その一撃が堪えたのか、帯電した状態で金属トカゲはこちらを睨み様子を窺っている。

 また、アーネストが口を挟みに現れた。

「そこまでだ。ここからは我々に任せてもらおう」

 ヒューロ達や金属トカゲを囲むように部下を引き連れ、その手は剣の柄に触れている。

 注意が逸れた一瞬の隙を衝いて金属トカゲは一瞬で高い壁を飛び越え、工場の敷地内へと逃げ込む。

「悪いが貴様等に手伝ってもらう必要はない。仲間がやられた以上、我等の管轄だ」

 言うや否や一方的に捲くし立てたアーネスト達はヒューロ達を無視して金属トカゲの追撃を始める。

 負けずに追跡するのかと思って二人の顔色を窺う。だが彼女達はそんなつもりはないようだった。

 ただ黙って、金属トカゲを追跡する執行官達を見送る。

「邪魔者。……ところで二人とも大丈夫?」

 ヴァシリーサがリボルバーをホルスターにしまいながら合流した。

「一応。ただの斬撃じゃ駄目ね。急所を狙わないと」

 パトリツィアは悔しそうに剣を鞘に収めた。

「平気だ。それより、あの脳みそ筋肉の執行官長殿を黙らせんと駄目だな。彼の勇猛さのお陰で金属トカゲを取り逃がした、……朝一番にグレゴリオのところへ向かうか」

 ヒューロは司教があからさまな捜査妨害を命令しないことを祈った。



 翌日、政務室で面会が叶ったのは十時過ぎだった。この間と同じ状況で司教と対面する。

「昨日のキメラを見る限り、犯人は錬金術師と思って間違いなさそうですな。いやはや、貴方達にご足労させるまでもありませんでしたな。申し訳ない。これで穏便にことが運ぶ。貴方達の雇い主である都市群も納得するでしょう」

 グレゴリオは上機嫌で語る。だがその様子はどこか違和感を感じた。

「グレゴリオ司教、貴方は錬金術を過大評価しすぎです。今の錬金術であんな金属トカゲが製造できるとは思いません」

 ヴァシリーサが怒りを露にして反発する。錬金術に関わる者として、いい加減な推察で決めつけられたくはないのだろう。

「それは個人の技量に因るのではないのかな? 錬金銃士殿」

 錬金術師として研究に関する技量だけを鑑みれば、ヴァシリーサはそっちの分野には明るくない筈。

 その皮肉に怒っているのは彼女の方を見なくても分かった。

「大規模なラボでもない限り無理です。ここは貴方の治める都市。既にアジトの当りをつけていらっしゃるのですか? それにわざわざ警備の厳重な査察団と言うVIPを狙うなんてどうかしてる。昨日の金属トカゲがキメラで錬金術師の犯行と言うのなら違います。犯人はただのテロリストです」

 ヴァシリーサの声色は抑え目だったが普段使用しない丁重な言葉が逆に怒っていることを示していた。

「……異常者か。個人的な復讐か。もしくは貴方の言うようなテロでしょうな。テロなら、我々、アトラスと都市群の間に緊張関係を生み出せば、武器が売れる」

「テロリストの居場所が判明しているのならば、自分達も手伝います」

 パトリツィアがそれを聞いて口を挟む。グレゴリオは視線こそこちらを見ていたがその目にはヒューロ達が映っていない気がした。

「それには及ばない。それは拙僧等の手で行ないますので」

 やはり追い返しにかかっている。

「これだけは言っておきます。ド田舎でもない限り、そんな研究、すぐにばれます。誰か、強力な力を持った者が援助しない限りは」

 ヴァシリーサの食い下がりにパトリツィアとグレゴリオが表情を変える。前者は意外性に。後者はその意味が読み取れなかった。

「錬金銃士殿、憶測を口にされては困りますな。そのような噂が流れれば、アトラスの民が困惑いたします。同じ職業の人間を庇いたい気持ちも分かりますが」

 その言葉にヴァシリーサ側の体感温度が上がったような気がする。彼女は確実に怒っていた。

「帰れと言われて、帰ったのでは仕事になりません。最後まで見届けさせていただきます」

 見かねたパトリツィアが口を挟む。こっちは感情剥き出しに怒っていた。

「おお、こんな時間だ。申し訳ないが拙僧にも予定がある。このまま、話を続けたかったが……実に名残惜しい。では失礼する」

 グレゴリオがソファーから立ち上がった瞬間に問う。

「最後に一つだけ宜しいですか?」

 余裕で彼は先を促す。今更、何を問うのかねと言いたげだったが――

「グレゴリオ司教は間近で見てもいない物をどうしてキメラと呼称するのですか?」

「……部下が写真を撮っていましたのでそれを拝見いたしました」

 グレゴリオは一瞬だけ表情を変えるがベルを鳴らして執行官を呼ぶ。制服を着込んだ二人組が奥の扉から現れ、主を隠すように立ち塞がる。

「あんなに金属トカゲはあんな速く動いていたのによくブレずに撮れましたね。いえ、判別できましたね」とヒューロは言った。

「……一つだけお答えするお約束ですぞ。ではこれで」

 奥の部屋からきた執行官に連れられて、グレゴリオは奥の扉から政務室を出た。

 それを見届けた後、部屋に残っていた執行官に促されてヒューロは立ち上がる。

 そして、彼らと一言も言葉を交わすことなく黙って、政務室を後にした。


 一階フロアに降りてきたところでヒューロは後ろを振り返る。パトリツィアはやる気満々だったが、ヴァシリーサがむくれていた。

「大丈夫か?」

 幾ら、並の人間とは比較できないほど強くても言え、十六の少女がハラスメントを受ければ、堪えるだろう。ヒューロはフォローの為に声をかける。

「あれほどの侮辱を受けたのは初めて。お陰で怒りを抑えるのに苦労した」

 ヴァシリーサがホッとしたように肩を下ろす。思ってたよりも気にしてなかったようだ。

「脱落エリートのパトリツィアに鍛えられた成果」

「……ちょっと待て。それは聞き捨てならないな。落ちこぼれ」

 パトリツィアの額にできた筋がピクピクと動く。同時にヴァシリーサも眉毛を顰める。

「頼むから、気晴らしに喧嘩するのは止めてくれ。事態が解決する訳じゃないし」

 ヒューロが慌てて止めようとすると途端に二人が吹き出した。

 唖然としていると、パトリツィアが出口を示す。

「幾らなんでも分かってる。それにただの発散」

「発散にしては言葉がきつかったけどね」

 パトリツィアの発言にヴァシリーサの声は冷たかった。

 見渡せば、職員が何かを言いたげにこっちを見ていた。二人が迷惑をかけているのは考えなくても分かる。

「……外に出ないか。ここで騒ぐ訳にもいかないし」

 提案に二人は黙ってドアを押して外に出た。それを見届けた後、職員達に会釈して建物の外へと移動した。

 急いで距離を詰め、二人の後ろを歩く。

「それよりも、あれはキメラなの? そんな風には見ないけど」

 先を歩きながら、パトリツィアが隣を歩くヴァシリーサに問う。勿論、小声で。

「恐らく、違うと思う。亀の甲羅ならともかく皮膚を硬質化させるだけならともかく金属化させた上、尚且つ、生命として機能しているなんて……考え難い」

 ヴァシリーサが右手で尖った顎を撫ぜながら呟く。

「つまり、錬金術ではない」

「自らの知る限りでは」

 ヴァシリーサが前を向いたまま笑う。少し頬に赤みがかかったように見えた。やはり好きな話をしている時は機嫌がいい。

「八方塞がり?」

「少なくとも、彼らが何かを隠してることだけは分かった。それは確実だな」

 ヒューロは振り返って、このアトラスを治める建物を向く。

 元の世界で見慣れた筈の……ただの行政施設は何故か異質な建造物に見えた。それが何かの墓のように。



 しばらく、歩いていると視線を感じる。両脇を挟むように歩く二人は気付いているのか、そのことに関して何も言わない。

 記憶違いでなければ、このまま、歩くと市場に着く。

「でも仮に犯人だとして動機が分からない。司教が殺人なんてしないと思うけど……普通の殺人は……普通の方法だと勘繰られない? 適当な容疑で拘束した方が効率的だと思う。

 パトリツィアは知らないでしょう。錬金術もキメラなんて、適当に動物混ぜればいいと思ってない? 小さいのでも、それなりの施設が必要になるわ。それこそ、貴族の屋敷くらいの広さは……創っても小さいし」

「一応、人間には不可能で通るでしょう。権力持ってる人達は隠れ家とか持ってるし。それに暗殺で一番重要なのは暗殺されたと思わせないことだから」

 珍しく、ヴァシリーサとパトリツィアが理論的な会話を続けている。

「そう言えば、暗殺って……騎士なのに、やけに裏事情に詳しいわね」

「騎士だからよ。要人の暗殺対策に。逆に暗殺する側の話も嫌でも聞いたわ。

 ついでに言っておくけど、クビになったのは不条理を許せなくて、貴族の馬鹿子息を殴ったのであって、他意はないから」

 パトリツィアの顔がいつもと違い、暗くなった。ヴァシリーサもその話には関心を示さなかった。

「……元々、失踪……身柄の拘束や殺人が目的じゃなかったら、筋が通らないか。原因と結果が逆と言うパターン」

 ヒューロが口にした可能性に二人の空気が変わったのを感じた。左右からの視線が若干冷たい。

「まさか、悪魔召喚とか言い出さないよね」

「……人体や死体の方が重要だったと言いたいの?」

 パトリツィア、ヴァシリーサの順でツッコミが入る。疑われている。挽回しなければ――

「あ……言い忘れてたが初日に襲ってきた魚人間が『これがアトラスに踏み込んだ者の末路』とか『誰も信じるな』とか」

 二人の表情が変わった。

「早く言って。自らの倒した魚人間は情報を伝えなかったわ」

「やっぱ、人の言葉を喋ってたんだ。斬った感触が似てたし……行方不明になった先発隊の人じゃないよね?」

 ヴァシリーサは抗議し、パトリツィアは自分の手を見ている。

「聞こえなかった?」

「発音器官が変わってるから、少しでも離れたら聞き難いのよ。ヒューロは危機の時には強いのに普段が抜けてるわね」

 呆れられてしまったようだ。すっかり、忘れていたから、自業自得なのだが。

「それでも、頼りにはなるけど。だとするなら、ますます、錬金術師犯行説はカバーストーリーね。都市群が納得すると思っている?」

 ヴァシリーサがメモ帳を取り出し、考え事をし始めた。こういう時に話しかけると必ず、にらまれるので、沈黙しているパトリツィアに声をかける。

「パト。気にしてるのか?」

「新人騎士じゃないんだから、人を斬ったのは初めてじゃないよ。……倒すことしか考えてなかったから……戸惑っただけ。騎士時代の癖で目の前のことしか見てないのかなって」

 歩きながら、パトリツィアは両手を前に組んで腕を伸ばす。

「……励まし……ありがとう。でも、慰め方が下手」

 ヒューロは肩を竦める。乙女心など理解できるなら今頃、苦労していないだろう。いや、多分、記憶を失う前も――

「尾行は全員、同じ奴か」

 話題を変える為に状況を問う。

「違うわ。複数で先回りしながら動いてる。手練ね」

 パトリツィアが前を向いたまま答える。

 突如、市場に踏み込んだ瞬間、子供がヒューロ達の前に立ち塞がった。ヴァシリーサは前を向いていないので、咄嗟にその左腕の二の腕を掴む。

 ヴァシリーサは分かってたのか、触れた瞬間には歩みを止めていた。

 子供の年は五歳程度。閉鎖的な環境で暮らしている為か、システムへの依存心が強烈なのか、視線は鋭い。

「お前達、余所者がきてからおかしくなったんだ。早く出ていけ!」

 まるで異教徒を睨むような目でこっちを見つめる。周囲にいた住民達も同じ意見なのか、誰も止める気もなければ、咎めようともしない。

 左右の少女も子供の対応に困っていた。

 変な受け答えをすれば、足元を救われるのはこっちだ。睨み合いが続くかと――

「お止めなさい。彼らが調査にくる前から査察団の失踪や殺人は起きています」

 ヴァシリーサから手を離してどう対処しようと思案している最中に群集を割くようにその声の主は現れた。いや、彼女に気付いた人々が避けた言うのが正しいか。

 こちらに向ける視線よりも尚、鋭い眼光で彼女を射抜いていた。だが当人は住民の視線が存在しないように一瞥もせず、こちらに微笑みかける。

「確か、カタリーネさん」

 ヒューロが話しかけると同時にボロを出すのを期待していたのか、子供は忌々しそうに舌打ちして市場の奥へと消えた。

 住民達は終わったのを見届けるとすぐに自分達の営みに戻った。多分、あの子供はこの中にいる誰かにけしかけられたのだろう。

 よくある手だがヴァシリーサもパトリツィアも相手をしなかったのは幸いだ。

「そう、カタリーネ・グリゼルディスです。わたくしはこの都市の忌み人と言うべき存在です。だって、わたくしは司教様が今回の首謀者だと思っていますから」

 視線を喪服の女性に戻すと、彼女は周囲の人々に聞こえるのも憚らずに告げる。

 パトリツィアがカタリーネの手を掴み、港の方へと走り出した。

 ヴァシリーサと視線が合う。勿論、選択すべき行動は追いかけることなのは間違いない。


 しばらくして市場から少し離れた路上でパトリツィアが止まる。彼女は勿論、カタリーネも息が乱れた様子がなかった。

 パトリツィアがこっちを見て、ヒューロとヴァシリーサが追いついたのを確認してから、引っ張ってきた女性の顔を見据える。

「貴方、正気じゃないでしょう? ここではあの司教が全てを取り仕切っているのでしょう? だとしたら自殺行為じゃないの! 正義と無謀は違う」

 パトリツィア自身にも当てはまりそうな言葉だが、確かにカタリーネの行動は不用意に己を危険に晒している。

「御心配して下さるのはありがたいですが彼が主犯である以上、わたくしに対して簡単には手を出せませんよ」

「あんた自身が尾行されてることくらいは分かるんでしょう。事件を解決したのなら不用意に人を危険に巻き込まないで」

 ヴァシリーサが堪りかねて口を挟んだ。その瞬間、カタリーネの表情が憂いを帯びた。

「別に今に始まったことではありません。平気です」

 空虚な強がりに見えた。失う物がないからではない。それを失った時に彼女も同時に壊れたことを示しているように思えた。そのせいか、会話が噛み合っていない。

 ここにいるのはカタリーネ・グリゼルディスだった女性の破片、灰、残滓であって既に精神的には彼女は死者なのかもしれない。

 ヒューロにはカタリーネのそんな姿が元の世界から消失し、記憶を失った自分にダブって見えた。

 普段は意識していないが――自分は元の世界に戻りたいのだろうか。だから、彼女に同情するのだろうか。

 頭部に剣山で殴られたような鋭い痛みが走る。

「あんた、何が目的? あいつに対する攻撃材料として自ら達を使いたいの?」

 ヴァシリーサの問いにカタリーネは否定しなかった。

「皆様に神のご加護があらんことを」

 それだけ告げて、彼女は去った。パトリツィアが襲いかかりそうなヴァシリーサを抑えながらその背中を凝視していた。

「どうした」

「昨日、逃げられた爬虫類……ヒューロが命名した金属トカゲさんと同じ位置に包帯を巻いてた」

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