(3)
少女は警備兵に運ばれてアトラス政府が運営する政府直属の病院へと運ばれた。見たところ、命に関わるような外傷はなかったが素人が見るよりも医者に診せるべきだ。
病院の内装はこの世界とは思えないほど整っているが研究病棟のような異質な印象を受ける。
病気を治す為と言うよりは別の目的で作られたとしか思えない。
受付の近くではパトリツィアが警備兵達に事情を説明していた。
当然、身柄を拘束されるようなことはないが事情は聞かれる羽目にはなるだろう。
それにアトラスの調査機関が先に調べるとなると目ぼしい物証は向こうに確保されてしまうだろう。
「自らは人体は専門外だから。馬鹿パトに頼むしかない。しかし、いけ好かない医術所ね。人を治すと言うよりは材料にしてる空気しか感じない」
隣にいたヴァシリーサが感想を述べる。治癒式を自在に操る魔女騎士のパトが見て、異常がなかったのだから、命には別状はないだろう――が、この世界でも医療の方が確実だった。
治癒式とは自然治癒を促進させたり、大気中の生命エネルギー……こっちではプラーナと呼んでる粒子から体力を回復させたりできる奇跡。
まるでプラーナが蛍のように集まってくる幻想的な様子でこの術が使える者は重宝される。初めて見た時はヒューロも驚きを隠せなかった。
そして、騎士の中でそれを使える者のみが魔女騎士と呼称される。この治癒式を使える人間は前史時代で能力を開発された人たちの末裔とか言われているらしいが定かではない。
「総合病院だな。でも、研究機関みたいな感じがするな。まあ、それが悪いとは言わないが」
ロビーにあった長椅子に腰を下ろす。
「確認の為に聞くけど、貴方の世界ではあんな生物は存在した?」
ヴァシリーサは視線をパトリツィアと警備兵達に向けたまま、隣に座る。
「自然には絶対にいない。あんな風な姿をした化け物は神話や伝承の中にはあったが実際にそんな生物を創ったら世界中から袋叩きだな。もっとも表の世界では……の話だけど」
「非合法の世界ではあるのね?」
ヴァシリーサがヒューロの目を上目遣いで覗き込む。興味のある話になるとすぐこれだ。
「いや、確認できてたら大騒ぎになってる。この世界と違って情報の伝達速度が驚異的に速いから……隠し通すなんて無理だ」
「だとしたら、自らが見たのは……人間をベースに無理やり改造した欠陥品。それでも、個人で動いている錬金術師で踏み込める領域を大きく逸脱してる」
その言葉を聞き、ヴァシリーサは姿勢を正してすぐに思考の世界へと埋没していく。横から見ると、喋る偉人の石像と言った印象を受ける。
「人体系は得意じゃないんだろう?」
ヴァシリーサの独り言を妨げるように聞く。
「研究と実技は別。理論構造の組み立てくらいは考えることができれば、誰にでも可能よ。知識として。でも、理屈で説明できても実際には――でヒューロ。貴方の邪魔の成果は?」
「……いつものことだが効果がないのは認めるよ。私は理系……科学が得意だった訳じゃないんだ。高校も途中だし、難しい話は止めてくれ」
ヒューロは頭を押さえるが、相手は嘆願を聞くつもりはないらしい。記憶はなくても知識だけは出てくる己の脳を怨む。
「この分野を喋りだしたら一般人は引く。引かない点で貴重だし、頭痛を覚えながらもこの手の話に付き合える人物は自らが知ってる限りでヒューロ……貴方しかいない」
再び、こちらの目を覗きこみながら真面目な顔で言った。十六歳の少女が口にする話題だとは思えない。
雪のように真っ白できめ細やかな肌とアイオライトのような菫色の瞳。薄着のせいで女性らしい体の曲線がくっきり見える。
こちらが男だと言うことくらいは自覚して欲しい。
「今はともかく気の合う錬金術師の仲間が一人くらいはいるだろう」
「自らみたいなタイプは一匹狼だし、同じ年代ではヒューロ以上に面白い人はいない」
面白がって、ヴァシリーサは顔を近付ける。独特の薬品の匂いが臭覚を刺激する。
目と鼻の先に彼女の顔が迫った瞬間、横から手がヒューロの口を覆う。何度も似たような経験があるのででパトリツィアの手だと分かった。
剣術に長けているとは思えないほど細くか弱い手からは珍しく皮手袋の匂いがしなかった。女として気にしているのだろうか。思春期の少女なら気にしてもおかしくはない。同い年のヒューロが自分のことを棚に上げて言うのも変な話だが。
「錬金銃士殿、何をやってるの?」
手を掴んで顔を上げるとパトリツィアがヴァシリーサを睨んでいた。
「ああ、馬鹿パトさん、貴方のことを忘れてたわ。今回の事件における学術的見解を深めていたのよ。とても有意義な話し合いだったわ」
ヴァシリーサはさらりと言ってのけた。だが、パトリツィアの近くにいたアーネストを見て、怒りを引っ込めた。
ターミナルで会った腰巾着だ。相変わらず、仰々しい格好をしている。可能ならば、二度と視線を合わせたくない。
「それでこちらの事情は話したが情報を」
「貴様達には関係ない」
アーネストの態度は取りつく島さえも与えなかった。当然だが、ヒューロは勿論、ヴァシリーサも――パトリツィアでさえも不快感な表情を隠さなかった。
「残念だが、そうはいかない。司教様は事情を話すと言っている」
入り口から現れた男が口を挟んだ。いかにも何でも屋と言うか、傭兵。いや、裏家業の人間と言った印象だった。年は三十過ぎくらいだろうか。
それを示すように灰色の髪、顔にある大きな傷が特徴的でそのインパクトを消す為なのか、貴族のような身繕いをしていたが逆にその雰囲気を強調していた。こっちは野獣が服を着ているように錯覚する。
「あいつ、人を殺してる匂いがする」
パトリツィアが静かに呟く。その声は彼女にしては珍しく敵意を露にしていた。
やっぱり、あの手の人間が生理的に受け付けないのだろうか。
「レオーネ。貴様が口を挟むようなことではない。その命令が正式な物であるかを確かめねば」
「必要ないぜ。俺様が手を回しておいた」
アーネストにレオーネと言う男は書簡らしい物を投げて寄越した。
それを受け取った執行官長の顔色が露骨に変わる。見た感じでは真っ赤になって怒り狂っているように思えた。
「確かにグレゴリオ様のサインだ。……勝手に連れてゆくがいい」
執行官長が不機嫌そうに書簡を投げ返した。
レオーネはこちらに恭しく頭を下げる。その瞳が獲物を見つけた狼のように輝く。
「では御三方。事情は役所でお話致しますので」
ヒューロはそんな態度に寒気を覚えた。慇懃な態度で取り繕っているがこの男は自分達と争いたがっている。それも命の遣り取りを――この男はそういうことにしか悦楽を得られないのだろうか。
この街に到着して一日も経過してないのに悪意のオンパレードだ。近代的な見た目とは違い、魔界に足を踏み入れてしまった気分だ。
無事にこのアトラスを出られるだろうか? そんな虫の知らせに近い胸騒ぎを感じた。これが魔都と呼ばれる都市なのだろうか。
幸いにも司教がいる役所に着いたのは日が変わる前だった。
この中世レベルの技術基盤が一般的なこの世界で……恐らく、鉄筋コンクリートの五階建て行政施設とは――いや、さすがにこの都市の技術水準に驚くべきなのか。
パトリツィアはひたすら驚いていたが、ヴァシリーサは街中で耐性がついたのか、平然としていた。もっともこういう時はポーカーフェースなのかもしれないが――
五階の政務室に通されたヒューロ達はソファーに座り、グレゴリオ司教と対峙した。
位置関係はクラウチと依頼の話をした時と同じだった。右にパトリツィア。左にヴァシリーサが定位置になったようだ。彼の後ろには執行官が護衛として二人立っている。
「こんな深夜に呼び立てて申し訳ない。話しておいた方が貴方達に気持ちよくお仕事を遂行していただけると考えました」
グレゴリオは穏やかな笑みを浮かべていたが何かが引っかかった。
「倒れていた少女はこのアトラスを支える重要な仕事を任される《姫》と呼ばれる役職候補なのです」
「オギュスティーヌと同じ役職?」
その言葉にパトリツィアが反応した。ヒューロは沈黙して続きを待つ。
「ええ。彼女はその候補です。かの役職には負担がかかりますので常に育成を必要とするのです。このような閉鎖的空間では常に新しいカリスマが必要なのです。それに因るストレス……心的負担が大きくて彼女は夢遊病にかかったのだと医師に診断されております。
拙僧の部下が目を離した隙に見失って大慌てしていたのですよ。当方の失態を曝け出すようで真に恥ずかしい限りなのですが……貴方達のご活躍で助かりました。そのような要職に就こうとする者の失態はできうる限り広めたくないのです。どうか、この件は口外しないでいただきたい」
話の筋は通るのだが納得がいかない。ヴァシリーサは白けた雰囲気だった。
「事情はよく分かりました。ですが詳細を話していただけますか? こちらとしても納得がいきませんので……今回の件に関わっていないと言う確証が欲しいのです」
パトリツィアが食い下がった。正直、こんな作り話を聞いても時間の無駄だが騙せてと思い込ませることはできるので黙っていることにした。
「最近、彼女は夢遊病状態が酷くよく徘徊しているのです。拙僧たちも治療に奔走しているのですが有効な手がないのが事実で……困ったことです。倒れている最中に襲われるなんて……隠さねばならない事態。しかも、得体のしれない化け物まで現れる始末。このアトラスこそが被害を受けているというのに」
グレゴリオの憂慮も分からなくもない。しかし、都市群が彼の主張を受け入れるとは思えない。確実に失踪の件で不利になる筈。もっとも口実に使われる可能性が高いが――
司教が主張するような化け物が自決するだろうか。勿論、あの魚人間達が自害したことは報告する気はない。
「とにかく、事情は把握しました。私共は口外しないことを誓いましょう。神の名において」
ヒューロは手を挙げて誓う。口外する気はないが時雨桜の報告書には確実に載っているだろうが――
その意図を汲み取ったのか、確認の為にヴァシリーサが司教に悟られないようにこっちを見た。
信仰心なんてないくせに。彼女の視線が雄弁に語っていた。
身じろぎして視線を逸らすついでにパトリツィアと視線が合う。妙に感心したような顔付きだった。
信じるなよ。建前なんだから。
「ヒューロさんが私達の神を信じているとは思いませんでした。てっきり、異教の方だと思っていたので」
いつの間にか政務室に現れたオギュスティーヌに驚く。
パトリツィアとヴァシリーサも腰を浮かせて、一瞬で攻撃体勢に移っていた。その二人がお互いを一瞬見てアイコンタクトを交わす。
恐らく、「気配に気付いたか?」と言う趣旨の確認だろう。二人とも声がするまで察することができなかったと考える方が自然だろう。
ヒューロはグレゴリオの後ろに立つ少女に視線を移す。昼間出合った時と服装も含めて何一つ変化はない。別人だとは思えないし、まして、訓練を受けたような感じには見えない。
だとすれば、気配がない人間。……ありえない。
常識的に考えれば、奥のドアから入ってきたのだろうが――立体映像?
「ヒューロさん、余りジロジロ見ないでいただけますか」
オギュスティーヌが胸の前で両手を組み、はにかむように体を捩る。
左右の二人に誤解されそうな態度だ。
「ああ、これはご無礼を。申し訳ない。……ただ、幽霊のように出てこられたので驚いただけです」
その言葉にグレゴリオの眉が微かに吊り上がり、一瞬、視線が鋭くなった。
「こちらこそ申し訳ない。オギュスティーヌ殿、来客時にはノックをしなさいと言っている筈」
「……司教様や貴方達を驚かそうとして」
オギュスティーヌが深々と頭を下げる。顔を上げた時の視線はヒューロを探るような視線で凝視していた。
彼女に悟られそうなのでそろそろ退却させてもらおうとした時、この部屋に向かってくる足音が響いた。
パトリツィアが剣の柄に、ヴァシリーサが懐のリボルバーに手を伸ばす。
ノックもなしに政務室の木製のドアが開くと同時に若い男が息を切らして部屋に入ってきた。
白い制服を着用していることから行政機関の人間なのだろう。
「来客中だ。それを分かっていて入ってくるとは何事か?」
「大変です。高級住宅街で殺人が」
その言葉に部屋の空気が凍りついた。だが、ヒューロにはオギュスティーヌだけ一瞬、驚きの反応が遅れた気がした。
「場所はどこですか? 案内して下さい」
パトリツィアが立ち上がり、反論を考える暇も与えずに言い切った。今から現場に向かうつもりらしい。対照的にヴァシリーサが嫌そうに大きな溜め息を吐いた。
現場に到着した時には日付が変わっていた。場所は繁華街から外れた水路に架けられた橋の下のスペース。
死んでいたのはアトラスに住む若者らしい。人数は三人。
既に現場検証を終えたのか、執行官達は土手から引き上げる最中だった。
入れ替わりにヒューロは階段を使い、土手へと降りていく。海上都市と言う特異な環境のせいか、夜風は肌寒い。
「明らかに士気が低いわね。普通、閉鎖空間でのコミュニティーならもう少し気合が入ってる筈なのに」
ヴァシリーサが値踏みを終えたかのように冷たい感想を述べる。
「或いは調べたくないか」
ヒューロは返してもらった上着を押さえて夜風に耐える。
「また、貴様等か。まったく、誰が貴様等みたいな都市群連中の手を借りる事を進言したのか」
こちらの姿を見つけて、執行官長アーネストがすれ違いざまに吐き捨て去っていく。
「時雨桜の方ですね? こちらです」
大型のライトを持ち、警備に従事していた衛士の一人がこちらを見つけて、封鎖されている殺人現場へと招き入れる。
赤い染料をぶちまけたようにまだ乾ききっていない世界がそこにあった。鼻には血の匂いと金属が擦れたような焦げた匂いが微かに漂う。
運び出された後だったのか、遺体はなかった。ただ、微かに人の肉片らしき物が所々に付着している。
「橋桁まで血が飛んでる。首を掻っ切られたのね」
パトリツィアが上を見る。そこには血が重力に引かれて垂れ、コンクリートらしき物で作られた堤の上に落ちる。血溜りが作られていた。
「何も残ってないわね。当然だけど。ヒューロ。変だと思わない? 失踪事件が頻発しているのにわざわざ人通りの少ない水路にやってきた」
ヴァシリーサが不敵な笑みを浮かべる。
「囮捜査か? 誘導したつもりだった? それとも、この殺人が都市群の連中とは関係ないか。或いは」
パトリツィアが口を挟んできたことにヴァシリーサが苦い表情になった。ここで答えを出すことを望んでいないからだ。
「とにかく、ここで推論を重ねても何の意味もない。その辺りは後から資料を回してもらわんと話にならんよ」
ヒューロは周囲の衛士達に聞こえるように諭す。
「ヒューロ。夜中なんだから迷惑だよ」
パトリツィアの返答に押し黙る。彼女はここで手の内を見せることが危険なのを自覚していない。戦闘能力だけなら時雨桜内でトップクラスなのに権謀術数の面では子供よりも危機認識が鈍いのではないかと心配になる。
対照的にヴァシリーサは最初の言葉以上に口を開くつもりがないらしい。ペンライトで現場を照らしている。さすがにLEDライトに比べれば劣るがそれでも充分に役に立つ。
確か、初めて会った時に駄賃として取られたペンライトだ。それを分解してその部品を流用して作り直したらしい。その手先の器用さは錬金術師と言うよりは職人に近い。
「あれは……」
何かを見つけたのか、ヴァシリーサは橋の反対側の堤防に向かって走り出す。ヒューロの目にも人影に見えた。
人影は一つ。野次馬にしては不審すぎる。ヒューロも後を追う。
走りながら銃を構えるヴァシリーサに人影は動く気配もなかった。弁慶みたいに立ったまま、死んでいるのだろうか。
右手で銃を。左手でペンライトを持ち、人影の顔らしき部分を照らす。
「錬金術師と言うのは便利ですね。この都市でもそんな物は見たことがありません」
さすがに眩しかったのか、その人物は顔を右手で遮る。声は女。聞き覚えはあった。
それに応じて、ヴァシリーサは銃を下ろす。
「カタリーネさん、女性が夜に出歩くなんては危険ですよ」
一番後ろから警戒しながらやってきたパトリツィアが咎める。
「構いません。わたくしに襲う価値はありませんから」
当人は気にした様子もなく答えた。それよりも周りの衛士達が気になって、後ろを振り向く。彼らは遠巻きにこちらを見ているだけで決して近付こうとはしない。
まるで厄災の女神がここに光臨しているように。
「価値って自分を卑下するような」
パトリツィアが諭そうとしたが照らし出されたカタリーネは無表情だった。
「お嬢さんは優しいのですね。お礼にその意味を御説明致しましょう。ほら、見て下さい。わたくしは生殖能力を失ってしまったので。ここでは忌むべきことですから」
カタリーネが上着を捲り上げて、腹部を微かに見せた。ヴァシリーサのライトが外れていた為に良くは見えなかったが暗闇の中、浮かび上がる白い肌には切腹でも敢行したのか、酷く醜い傷がその腹部に刻み込まれている。
ヒューロは顔を背けた。拷問の痕だろうか。
「申し訳ありません。事情も知らずに」
パトリツィアが素直に頭を下げた。騎士団にいた以上、その手の話も聞いたこともあるだろうし、実際にそういう目に遭った人間を見たこともあったのだろうか。声が僅かに震えていた。
「この都市では階級で権利が決まっておりますから、もっともわたくしが放棄したことですが……自らの意志でだから、気にしないで下さいな。
わたくしは皆様を責めるつもりはありません。むしろ、わたくしと同じような目に遭う者を救って欲しいのです」
その言葉にヴァシリーサの肩が微かに揺れた。何かを感じ取ったのだろうか。
カタリーネは必要以上に見せるつもりもないのだろう。テキパキと上着を元に戻し、着衣を整える。
「失礼ですが何か目撃してませんか」
「残念ながら何も見てはおりません。……ただ、声が聞こえました。美しくもおぞましい声を。そうまるで寓話に出てくる子供をさらう悪魔の笛のような」
ヒューロの問いに虚空を見上げた後、詩的表現を交えた返答を述べる。
「そうですか。ありがとうございました」
ヴァシリーサが頭を下げた。これ以上、聞いても話にならないと思ったのだろうか。だが、その表情には鋭さが残っていた。
「最後にもう一つ。この街の行政機関を信用しない方がいいですよ。あの男は」
真意の読めない笑みを浮かべるカタリーネは背を向けて現場を去っていく。
その背を見つめ続ける訳にもいかなかったのでヒューロは反転し、橋の下へと戻り始める。
橋の下から一人の衛士がこちらに駆け寄ってきた。
それを見て、ヒューロは足を止める。
「今回の資料は明日のうちに滞在先へ届ける予定です。……差し出がましいのですが……あの女には関わらない方が宜しいかと」
衛士は報告と同時に忠告に近い言葉を使う。
「問題のある人なのですか?」
パトリツィアの対応に衛士は周囲を見渡し、人目を気にするように口を開いた。
「十年前から体制を非難するようになったようです。それ以来、流言を吹聴するようになったので都市の人間からも相手にされていません」
「貴方達の意見として、覚えておくから」
ヴァシリーサが無表情に答え、話を打ち切った。彼女は現場の近くにあった階段から上へと昇っていく。
慌てて、それをパトリツィアが追う。
ヒューロもこの場の人間に一礼して後に続いた。ここに留まる必要はなくなった。早く滞在先に戻りたかった。
戻って、熱いお茶を飲む。冷たい飲み物しか飲まないヒューロにしては珍しい思考だった。