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そして、森の中の小屋で過ごし始めいくばくか経ったある日、珍しく魔法使いの悪い噂に混じって、隣国の王子がこの王国を訪れたことを知らせる鳥たちの噂があった。王国から追放される前に、姫と結ばれる相手をこの機会に一目みたいと思い、擦れてボロボロになった愛用のローブに身を包み、魔法使いは数日振りに小屋をでた。
千里眼を用いればよっぽど手間が省けるとも考えたが、魔法を唱えることはしなかった。魔法使いには、いくつも暮らしていく上で自らに課した禁がたくさんあった。生活は不便になるが、それでも普通の人として生きたかったからだ。
思えば、王からこの国の未来を視ろと命令されたときも、自らにはそうした能力はないと嘘をつき、禁を破ることから逃れた。が、こうしたことの積み重ねが王に疑心の気持ちを抱かせてしまったのだろう。
魔法使いの偉大なる力を持ってすれば未来を変えることすら可能であるはずであり、そのことは王だけでなく民のみなも確信していることである。
それだのに、できないと魔法使いが言えば、一体なにを考えているのか不安に思うのも無理はない。そうして厄介なことに、王や民はそうした疑念を持つ心すら魔法使いには見抜かれているのではないかと恐怖することになる。
魔法使いはそうした能力を使うことは決してしない。それが人の世界のルールだと知っているからである。しかし、心を見透かされ続けていると思った相手は、素直に心を開くことなどできぬものである。
魔法使いはそのことも知っていた。だから魔法使いは恐怖を抱かれたことで王にも民にも怒りを覚えたことはない。正確には怒ったとしても仕方がないと諦められるようになっていた。魔法使いにとっては人々に恐れられるのが普通の反応なのであった。
しかし、みなが恐怖するなかで姫は違った。実は一度だけ魔法使いは自らの禁を破ったことがあった。それが姫に魔法をご覧入れたときである。姫が誉めてくださった顔が到底嘘には思えず、ついその本心を知りたいと思い、心を読んだ。その心は澄み渡り、純粋に喜ぶ無垢の感情がそこにはあった。
彼は不意に零れ落ちそうになる涙を堪え、一言だけ礼を言い、立ち去った。何度も機会を伺ったのに、自ら魔法を見せにきたのに、たくさんの言葉を交わす予定だったのに、それにも関わらず彼はすぐにその場を去った。そのような心が存在していたことを初めて知った無上の喜びと、姫の心を卑しくも覗いてしまった罪悪感との狭間で激しく揺れ動き、早くこの場を離れなければとの思いに支配され立ち去ってしまった。
あのとき姫はどんな顔をして突然立ち去った後ろ姿をみていたのだろうか。魔法使いにはそのときの後悔が今もにじんでいる。
さて、森をでて城下町にでるとなにやらすでに道が賑わっている。街の者も王子の姿を一目みたいと仕事を放り投げ、今か今かとその登場を待っていた。なかにはすでに通り過ぎてしまったのではないかと言い合う姿とかもうすでにやってきていると思い込み列を掻き分ける者の姿もあった。民衆はみなやってくる王子の登場に夢中であり、魔法使いの存在に気づくものはいなかった。
魔法使いがそのことに安心していると突如ファンファーレが鳴り響いた。国中にこだましているのではないかと思われるほどの大合奏は、待ちわびた民衆の期待をさらに高めあげた。王子を乗せた馬車と護衛する兵士の大群が行列をなしてやってきた。
王子が馬車の上から手を振るとそれに応え手を振る者、騒ぐ者、深々と礼をする者、反応は様々であったが皆が王子の存在を受け入れていた。王子の浮かべる笑顔は民を安心させる力があった。魔法使いがその姿を見たのはほんの十数秒であったが、王子の凛々しい姿とそれに応える民衆の姿を見て、早々に微笑を浮かべて立ち去った。
小屋に戻り、鳥たちに話を聞くと、どうやら王子がやってきた理由は姫との婚姻を正式に結ぶためらしい。魔法使いはその話を聞き、目を瞑り姫のことを想った。その後再び王子に対して浮かべたのと同様の微笑を浮かべ、この国を立ち去ろうと決意した。
夜になると、王国では婚姻のための式典の準備が滞りなく終わり、今にも挙式があげられるところであった。王子は婚姻の手続きを完了させるだけの心づもりでやってきたのであり、正式な式はまた別の日にちに行うつもりだった。
だが、王たっての希望で手続きの完了を今夜にも盛大な式で祝うことになったのである。式は三日三晩開催される予定であり、そのための食料や酒、華やかに着飾った踊り子たちが十分に用意されていたところをみると、王は最初からこのつもりで準備をさせてきたに違いない。
もちろん、王子にはこれを反対する理由はないし、姫もまた同様である。お互いは何度も見知ったという仲ではないが、それは王族の許婚という関係では特別ではないし、それが普通だとも思っていた。評判は互いの耳に届いていて、生まれた時よりずっと、周りからそのようにするのが当然とも言われ続けてきた。
しかし、二人ともただ王族の伝統というものに流されたわけでもない。社交界で知り合い会話を交わしながら、互いが国をなによりも大事に考えていることに共感しあった。結婚すればそれぞれが想う両国の発展に結びつくだろうと考え、なによりもこの人となら幸せな結婚ができるであろうと考えたのだ。その想いを信じればこそ、結婚してからでもお互いを知ればよいと考えていた。そしてそれは互いが口にださなくとも通じ合っていた。
式が終わると姫はこの国からいなくなり、隣国へ移住することは必至である。そのことを改めて国民はみな残念に思った。その声が姫に届いたのか、姫は王と夫になる王子に、式の最後の晩には王族貴族だけでなく、城下町の民が加わることも願った。
王ははじめ難色を示したが、王子もその説得に加わり、折れて許可のお触れをだすことになった。王子はこの姫がたいそう優しい心根をもっていることにいたく感激し、その姫が居なくなった後の国民の気持ちを慮ったのである。隣国に帰った後もこの姫のために盛大な式をあげ、国民みなに彼女の素晴らしさをわかってもらおうとも考えた。
さて、三日目の夜のことである。最後の夜の式は城のなかではなく城下町で開かれた。それぞれが競って家や店を飾りつけ、一番の上等な酒や肉を持ち寄り盛大に姫の婚姻と門出を祝っていた。子どもはみな泣き姫を引き止め、それを相手にする姫もつられて頬に雫をたらしていた。母親たちは涙を浮かべながら子どもたちを留め、普段は厳しい目つきで恐れられている職人たちもそれを見て鼻を啜った。王子は国民と姫とのやりとりを目の当たりし、この式の間に何度も、この姫と結婚できることを誇りに思った。
子どもたちが泣きつかれて眠ってしまいはじめると式の終わりが差し迫っていることをみなに悟らせた。王が姫に、もう城に戻るようにと声をかけた。姫もそれに従い、城に戻ろうとするとふとあることに気づいた。
「ねえ、お父様。あの魔導師様はどうしたのかしら。この三日間、いいえ、しばらくお顔を拝見していないわ。式には参列してくださらないおつもりなのかしら。」
王はすこし苦い顔を浮かべ、
「ああ、奴たっての希望で休暇をだしていてな。しばらく戻ってこられないとのことだ。ううむ、お前の式と重なってしまったとは何とも間の悪い、いや運の悪い奴だ。」と言った。
「そうなのですか……それは残念です。向こうに行ってしまう前に一度ちゃんと別れの挨拶をしたかったわ。」姫は寂しそうな顔で下を向いた。
「これも仕方のないことだ。なに、休暇が終わればすぐにおまえのとこに一度顔を出させる。心配するな。おっと、婿どの失礼した。いや、なに専属の王宮魔導師の1人が、不幸にも娘の結婚式に顔をだせなかっただけのこと。なにも心配ない。さあ愛しい私の宝物、風邪をひく前にはやく城に戻りなさい。明日はもう婿殿と一緒に行かなければならないのだから。出発の日に寝坊したとなっては格好がつかない。明日はしっかりと別れの挨拶をさせておくれ。」
王はそういうとゆっくりとした足取りで城に戻っていった。
それを見送ると王子が姫に近づき、そっと手の甲に口付けした。
「今日は思うところもあるでしょう。今夜はお部屋でゆっくりとおやすみください。」
そう微笑むと王子は兵士に姫を自室の前まで送り届けるように命令した。
真夜中、姫は自室のバルコニーで明日のことを考える。父との別れ、国との別れ、そして新たに始まるあの人との生活、ふいに涙が零れる。どれだけ泣いてもこの涙が枯れることはない。どうか、父に、国に幸多からんことを。姫は指を組み、月に祈った。
そして、それと同時に、今までに聞いたことのない激しい爆発音が城下町のほうから鳴り響いた。