プロローグ
「止まれ!」
ユキコ・ヘンダーソンは鋭く引き絞った瞳を、照星を通してその背中に向けていた。
真直ぐに伸ばした右腕の先に握られているのは、SIG P229。黒い瞳と黒い長髪。ブラックスーツに包んだ体をピンと伸ばす姿は黒い銃身と一体化しているようにも見えた。
「止まれ!」
ユキコはもう一度叫んだ。
オフィスビルの廊下、ロックタイルの冷たく硬い線の先で、その人物が立ち止まった。
地上250階の超高層ビルの窓から、人工日光が差し込み二人を照らしている。
深いグリーンのフードつきコート。不思議な色合いのそのコートには巻きつくような龍の絵が描かれていた。
ロングコートのフードを頭からすっぽりと被っているために、その人物が何者なのかを知ることはできなかった。特別背が高いわけでも、低いわけでもない。
その人物はユキコに背を向けたまま、ゆっくりと両手を挙げた。
「両手を挙げたまま、ゆっくりとこちらを向きなさい」
ユキコは声を抑えて、その人物に告げた。シグの狙いはピッタリと背中を捉えたまま離さない。彼女はただ立っているだけのその人物が、只者ではないことを感じ取って、一瞬たりとも油断ができないことを理解していた。
「驚いたな」
ユキコはシグを落としてしまうかと危惧するほど、その声は心臓を強く鷲掴みにした。そうならなかったのは幼い頃からの訓練の賜物だろう。
その人物、その声は若い男の声質だ。
だが、彼女を驚かせたのはその人物が男だったからでは勿論ない。
男は振り返り、ゆっくりと被っているフードを脱いだ。
窓から刺す強い陽の光が、幻のように男の顔を浮かび上がらせる。
「……リュウジ」
ユキコは思わず、その男の名を呼んでいた。
この再会の意味を知るには、彼女達が生まれる前まで戻らなければならないが、彼女達がそれを語るつもりは、今のところない。
これは、ある少年についての物語である。だからこの再会はその小さな一片にすぎない。たとえ歴史にとっては重大な意味を持っていたとしても。
時は独立戦争から間もない、世界大戦までの一時の安息の時代。
場所はブリタニア王国の都市、コロニー7。
もう一度言う。
これはある少年の物語である。
自立と、青春と、初恋についてのありふれた物語である。