某月某日 停まってたら死んじゃう鮪みたいな車と人
かつての母の友人に、けっこうイケメンなおっさんがおりまして。いや、少し老けたお兄さんくらいかな。
若くして結婚、仕事もバリバリこなしていたある日、自ら運転していた車で交通事故に遭い下半身不随の身に。
長い長いリハビリの末にようやく娑婆に戻ってこられた彼、しかし車椅子からは降りられぬ人となってしまいました。
一つの足かせが取りついたら今度は別の軛が外れ、という訳でもないが妻にも去られ、しかし何となく「身軽になったかなー」って感じで実家前の平屋離れを譲り受け、悠々自適の独り暮らしと相成りました。
車も新しく買ったりして。3ナンバーの黒のセダンタイプ。もちろん改造もして手だけで全ての操作が可能。
生まれ変わった彼は、今まで仕事漬けそしてリハビリ責めで失われた自由時間を取り戻すかのように日々、趣味の車でドライブを愉しむように。
その頃知り合ったうちの両親とは年代は違うものの妙に気が合ったらしく、よく彼から電話がかかってきては遠出のドライブに誘われるようになっておりました。
そしてたまにはオイラもちゃっかりと座席の重り代わりに。富士山周辺、信州、琵琶湖近隣、日本海沿岸など色んな所に連れていって頂きました、もちろん旅先での荷物持ちは喜んで。
そんな折り、彼の運転を目にしてふと感じたこと。
「この運転じゃあ、ジコるわなー」
高速道路はもとより、一般道でもアクセル踏みまくり、ブレーキは案外ギリギリ、カーブでは対向車が見えない限りはショートカットを繰り返し、とにかく前へ前へと走り行くのです。しかし本人はそれほど運転に集中し切っている様子はなく隣や後ろに乗る母ら友人と気楽におしゃべりしておりまして。
さんざんぶっ飛ばして無事帰ってきた時には「あー、楽しかったねー。また行こう」と心からの笑顔。
だんだんと調子にのった母などは「こんどは○○へ行きたいなあ」などと結構カンタンにリクエストして、それをまた彼は「いいねー、行こう行こう」と受け、暇があればどこかにドライブ、というのがしばらくの日課となっておりました。
すっかり便利なアッシー君のように思っていたのか、母はある日のこと、東京から高速バスで帰ってこようとしたオイラに「バス停まで××さんに迎えに行って貰えば」と提案。彼も別に嫌がることなく、バス到着時間頃に道路下のバス停付近で待っていてくれることに。
高速バスをよく利用していたオイラ、いつもならばJR駅でバスを降りてそこから電車で帰っていたのだが、確かにバス停下に車で待っていて貰えればかなり便利、とばかりにその提案に飛びついた。
ところがそんな時に限って、高速がメチャ、渋滞。そのバス停に到着するまでにバスは1時間近くも遅れてしまった。
まだ携帯なんてなかった頃でんがな。やきもきしながらバスに揺られ、ようやく目的地で降りて、走って下の道路に向かうオイラ。
黒いセダンはぽつりと停まって待っていてくれたのでした。
さんざん詫びたオイラにも嫌な顔ひとつせず「大変だったね」とねぎらってくれた彼、それでもおそるおそる「どれくらい待たせちゃいました?」と聞くと、さらっと「2時間まではいかなかった」と。
それから間もなくして、彼は体調を崩し、車の運転もできなくなってきました。
病院だけは嫌だ、と家で床に伏せっていた彼は、それでも車だけは手放すことなく時おり旅先で撮った写真など眺めていたと。
彼から「会いたい」と急に呼ばれて様子を見に行った父が、偶然お医者さまといっしょに最期をみ取ることに。
帰ってきた父親が言うには「最後はもう何も喰いたくないって言ってたらしい、覚悟の上だろうな」
しばらくしてから、家族によって車は処分されました。
今でも似たような車を見るたびに、胸が痛むのですが、
あんなにも動くのが好きだったあの人、あの車を2時間も無駄にひとつ場所に留めてしまった、というあの日があったからなのかも知れません。
それでも、もっと生きること自体に執着してほしかったと若い時の自分は思ったりもしましたが、今となってはどちらがより正しいのか、全然判断がつかないのです。
彼を見た目のモデルとして、自作『弥勒の決死圏』のサンライズというおっさんを描きました。
生きるため、生かすためににあくせくと動き回る、という新しい人格を纏って。
つまらぬ地上に2時間も留めてしまったせめてものお詫びというのでしょうか。




