某月某日 子どもが気づく時っていつ? て話かな
他に載せようと思って書いたのですが、とりあえず置いてやって下さい。
理屈ぽくてすみません。
物ごころついて間もない頃の一番強烈な思い出は何か、と言われると。
なぜ、じっと息をこらえて10数える間に何かひとつでも音がしたらもうお終いだと思ってしまうのか、なぜあのうちのお婆さんは急にいなくなってしまったのか、なぜ、横断歩道の白い所しか踏んではいけないのか。
そんな雑多ながらくたみたいな思いが頭の中にも胸の中にも、お腹の中にも細かく溢れていて、その日の気分や天気やまわりの様子によって上になったり下になったり、急に姿が見えなくなったりまた出てきたりを繰り返している。その空間はまだまだ茫洋としていて、地平線の上には荒涼たるこれといった色のない大気が拡がっている。
子どもの頃には何になりたいか、よく訊かれたものだがそれに答えるにはいつも抵抗があった。
パンやさん、野球選手、花やさん、正義のヒーロー、動物園の人、子どもたちは無邪気にそれぞれの夢を語る。しかし、私にはそれができなかった……少なくとも心の内では。
多分、無難な答えは用意していたのだと思う。たまに昔の話になると「アンタ、先生になりたいって言ったよね小さい時」と叔母に急に言われたりしたし、特にそれでもめたという記憶もない。
しかし急に思い出したことが一つ。
時刻も天気も、どんな前後があったかも覚えていない、ただ
「まだ、5歳なのに」
そう強くおもったのだ。そして続けて思う。
「大人になったら何になりたいか、そんな事をなぜ大人は聞くのか。それに友達はどうしてそれにちゃんと答えることができるのだろう。なぜ、大人になることがみんな分るのだろうか、じぶんには明日の事だって分っていないのに、大人になれるのかなんて、いつの瞬間にも分らない、なるとも思えないし、なれるとも思えない」
自分が大人になれない、なぜなら自分にはそのなり方がさっぱり理解できないから。大人は言う、ご飯を食べないと大きくなれないよ、テレビばっかりみているとバカになるよ、頭からバケツをかぶると背が伸びない、嘘をつくと泥棒になる、いつか免許をとれば車が運転できるよ、大きくなったら結婚して子どもを、あれやこれや。
そんなに色んな事を次から次へと浴びせかけるオトナたちからは、かんじんのことは何一つ教えてもらえない。
物事の本質とは何か? どうしたらそれを求め、掴むことができるのか?
もちろん当時は伝える術もない、そして、もしたどたどしくも何とか伝えようとしても、誰もまともに聞いてくれないのだ。胸の中は憤りで一杯だった。
一般的なことはどうでもいい、この自分は、いったいどうしたら『生きて、そこに在り続けることができる』のか? 大人になるならない以前に。
もしかして、とはっ、と空を見る。どうしたらいいか気づいた瞬間に、何か至高の存在が自分を救ってくれるのだろうか? 周りで神様とかよく言っているのはそういうことなのか?
何かが心の奥底から湧きあがってくる、それだけは理解できた。
「そう考えてしまったということは、自分の何かが他とちがっているのだ。誰もそんなことを思い患うことがないから、『大人になったらお嫁さんになります』なんて簡単に言えるのだ。じぶんは他とはちがう、どうしたらいいか分らない、ということに気づいてしまったのだから。そしてその考えはもう捨て去ることができない」
とても哀しくも誇らしい気持ちだった。私はちょうど、家に入る手前の角を曲がろうとしていた、踏み出した左足が軽く、タンポポの枯れたような株を踏んだ、そして、そのなんとなく柔らかい、しかし乾いたような感触をズックの下に覚えた瞬間、不可逆的な思いは灰色の石のごとく固くはっきりと形をもって、私の混沌とした世界に存在を落とした。
一瞬のことで、胸がいっぱいになり私は多分足をとめた、しかしそこで立ち尽くしはしなかった。ただ
「このことは、生きている限りは決して忘れないだろう」
そう感じたことだけは確かだ。
その日から私の記憶には色がついている、鮮やかなばかりではなく、時には胸が痛むような淋しい、苦々しい色彩も混じってはいるものの、確かに私の記憶には色がつき始めたのだった。
そしてその時には気づかなかったことがひとつ。
ほんの少しだけ、自分は大人へと向かっていたのだと。




