某月某日 思い出し語り・「甲地街道」という一家
今で言う差別用語が含まれておりますが、悪意のあるものを意図しておりませんので御了承ください。どうしても気になる場合は別途お知らせください。
大正~昭和初期のこと。
静岡県中部、やや山間部、鄙びた街道筋に一軒のビンボウ子だくさんなおうちがありました。
少し前の先祖は紀伊の国から江戸に渡る途中、この地に住み着いた下級武士という噂でしたが、その当時には単なるしがない農民一家でした。
それでも、客商売が好きだった先代は駄菓子屋、豆腐屋などにも手を出して、ほどほどに賑わっていたと。
『コージカ゜ァェートー』(甲地街道、甲地とは昔の土地ランクで甲乙の甲だったというが不明)と地元の人々から屋号で呼ばれていたが、途中からは簡単に『豆腐屋』と呼ばれたり。
街道と言っても、東海道から外れて北上し、深い山の中を駿府の城下町へと山周りで抜けるというかなりマニアックな場所だったため、訪れる旅人は、その家の奥に数十ほど立ち並ぶ集落へ行商に出かける者か、よくよくのモノズキか。
それでも、そのN家は少し山が狭まった、次の集落への入り口という立地条件もあり、また、家の人たちが口調はぞんざいながらも『一宿一飯』の義に熱い人情家でもあったせいで、その家に寄って世話になる人間もかなりの数に上ったそうで。
時には招かれざる客も寄ったとのこと。
ボロボロのむしろをまとった『こんじき』『おこもさん』と呼ばれる、今で言うホームレスの方なども
「納屋でいいけん泊めてくりょーえ(納屋でいいから泊めてくれよ)」
と寄って、藁の褥で何泊もしたり。
たまたま博学の徒(しかし乞食)が泊まった時には、雨降りの中ずっと納屋で本を読んでいたのだと。
それから何故か頁をペラペラ音を立てながら本を読むと、その家では
「雨の日のコンジキじゃあるまいし」
と言われるようになったとか。
また、そういう人たちは食にも貪欲で、みそ汁と飯を出すと、まず飯を少し残して、
「メシん余ったで、汁ぉくりょーえ(おつゆを下さい)」
とお椀を出し、次に汁を残して、また同じ要領でご飯をねだるのだと。
「何杯喰うかわかりゃしないよぅ」
と、一家の長は笑っていたらしい。それでも、ある限りはご飯と汁を出し続けたと。
世間ではマイノリティーと呼ばれる人々もあちこち彷徨ううちに、その家に出入りするようになり、知的にのんびりした人もよく遊びに寄ったらしい。
「バカんハナぉ舐めるくらい簡単」というのもよくその家で使われる慣用句だった。
これを聞かされた時、ずっと
「道化が自分の鼻の頭を舐めるのが簡単、ということか?」
と思っていたオイラだったが実は、ハナとは鼻水のことだったらしく。まあ、それは簡単だろうな。
それでなくとも、昔は青バナ垂らしている子どもは多かったし。
その家の人々は、弱った人も痛い人も同じように迎え入れ、時には辛らつな言葉を浴びせながらもそれなりに「もてなし」ていたようです。
普通に生きるのも厳しい時代、マイノリティーだからと言って保護や思いやりと言うことは今以上に考えられなかったとは思うが、それでも「原始的なおおらかさ」というものも混在していた気がするなあ。
N家の人々じしんも結構なんだかな~みたいな事があって。
上り框に座っていた一家の若い母親が、夕餉の最中急にみんなに向かって
「あたしさ、でんぐり返しできるけん、見たい?」
そう言ったかと思うと急に後ろに一回転、ところが座敷ギリギリだったのでそのまま土間に転がり落ちたとか。
幼いきょうだいたちがみんなで脇の川に入って水遊びしていた所に、行商人が通りかかり眺めていたが、ふと、一番大きな男の子が、全身真っ赤にして息を荒げているのに気づき、急いで両親に
「あの小僧、もしかしてハシカじゃねえか?」
と伝えたら、両親は慌てず騒がず
「まあいいよ、うちにゃたんと(たくさん)子どもがいるで」
と答えたとか。
……ってそーゆーことじゃないと思う。と今更突っ込んでも遅い。
ちなみにその小僧さんはけっこう長生きしたけどね。
そう、これは我が母親の実家のお話でした。
今がいいのか、昔がいいのか、そんなことはさておいて。
こういう時代も、確かにあったんだなあ、と。




