某月某日 あゔぇ ゔぇるむ こるぷす
先日の、カエル真っ二つからようやく復帰(というほど引きずるものではないが)。
うちのわんこ(柴系雑種、生後5ヶ月)を散歩に出した時、面倒くさくなってリードを放したら、ロケット弾のように駆け出して藪の中に消えた。
そのうちに何か、亀の子タワシみたいな小さな茶色の物体をしっかりくわえて帰ってきた。
何だろう? とむりやり奪い取ってみると、なんとイタチの首部分。
死後かなりたっているのか、すっかり干し首風になっている。尖った白い歯がずらりと無念の形相。
すごく惜しがっているわんこには申し訳ないが、もちろん廃棄処分でしたわ。
死はごく一般的なもので、それこそどこにでも転がっている。軽重を問わず、死は私たちにとって身近でありふれた感があるなあ。
死をありふれたものと捉えてしまうのには、どこかで抵抗がありながらもつい、苦しくなる人生の場面場面でそこを逃げ場にしている部分もあって。
少し前に身内が亡くなり、諸事情でお別れまで1週間も一緒に過ごす事になった。
安置してくれる施設があり、家族は四六時中仏様と顔を突き合わせる必要はなかったのだが、それでもほぼ毎日、葬儀の手続きの合間にそこを訪れてはいた。
一週間、ドライアイスを絶やさなかったおかげで、お通夜も無事に終了。それでも口もとは見せられずマスクをしていただいた。最後にお別れをする時にそっと額に触ると、こまかい霜が白くかぶっていた。何故か古い駄菓子屋に置かれたアイスクリームのケースを思い出してしまった。
そんな不謹慎な自分が嫌になるが、それでもそれが正直なところだから仕方がない。
哀しみとは別のところで動く感覚というのも、確かに存在するからね、単に残酷さという物差しでは測れない何か。
涙をこぼして悼む、それが簡単にできればこうして書きつづることもないのかなあ。