某月某日 死に場所、見つけたり
暗くなりやすい人は避けた方がよい話ですみません。
なんてゴタイソウなタイトルだが、特に意味はなく。
ホトトギスが早朝よりどこかの山で血を吐きまくる中、ふと目覚める。
爽やかな朝には、もう1、2時間と言う頃。
何となくここ数日は死について濃く考えていた。
別に自身が弱っている、とかシニタイノラ~などと願っているわけではなく、
時々、何故かかなりしつこく、ニンゲンの死について考えてしまう時期がある。
昨夜は特に、少しショッキングなニュースを聞いたばかりだったので。
元・ご近所の奥さんが昨年亡くなっていた、と聞かされる。
元、というのにはまあオトナな事情がある。
彼女、二人の大きな連れ子と共に嫁に来て、すぐに女の子を出産したが、それから6年後くらいに子どもを3人とも引き連れ、実家に帰ってしまったのでした。
すごく明るくてサバサバしていて、大好きな人だったので、出て行っちゃった時には、かなり哀しかったなあ。
それでも、彼女の性格もあるのか元ダンナが案外のんびりしていた、というのか、舅たちが亡くなってからしばらくして、たまーに、遊びに来るようにはなっていた。
まあ、近所にはあまりおおっぴらではなかったので、たまたますれ違った時、せわしない中にも色々と積もる話をしてしまったのだが。
まだ65歳くらいだったらしい、死因も不明。
年老いた人びとがよく「畳の上で死にたいねえ」と言う。気持ちは解らないでもない。
しかし、実際に「畳の上で」というと、何だか臣下に刺された酒宴での主君、とか座敷牢とかが目に浮かぶよなあ。
だったら青空の下か? 月の光の中か? 病院の白いベッドに愛する人びとの顔がぽっかり、か?
自身の死に場所、死にざまを選べるのならばどんななんだろう、そればかりしつこく考えてしまう。
年齢的に、いたしかたないのかも(まあ、昔から周期的にきていたんだけどね)。
小学校に上がる前に自転車のことを考え、適齢期になると異性のことを想い、年末が近づくと年賀状のことを心配する、ごく普通の流れなのかもなあ。
彼女にも、何か覚悟とか人生ふり返りとか、あったのだろうか。今となっては問うこともできず。
教えてくれた年寄りに聞く。Aさん、何で亡くなっちゃったのかねえ。
すると年寄りはサバサバとこう答えた。
「心臓が止まっちまったからに、決まってるら~」
それって場所、関係ないや。何だか急にへそから力が抜けて、どうでもよくなったオイラでした。
ホトトギスが啼いてらあな。